ラジオドラマ原稿『僕の左に座った彼女』(オトナの恋愛ラジオドラマ・イシダカクテル_2023年6月6日オンエア分)

女「マンションには広いベランダがあること。猫が飼えること。そして近くに素敵なバーがあること」

それが、この街に住む彼女の条件だった。

それを満たすマンションを見つけたけれど、
一緒に住む前に、彼女はこの街から去っていった。

ひとり残った僕は、
この街の狭いベランダのペット不可のマンションに住んでいる。

そしてこの素敵なバーだけは、
僕のいきつけになった。

女「あ、すみません」

その声に思わず驚いて声の主を見たが、彼女ではなかった。

男「こちらこそすみません」

そう言って、左利きの僕はカクテルグラスを右手に持ち替えた。
その女性は右隣に座った恋人らしき男性と楽しそうに会話を続けた。
二人は同じデニムジャケットを着ていた。

右利きの彼女がカウンターの僕の左手に座ると、
僕の左肘と彼女の右肘とがよくぶつかった。

男「僕が左側に座ろうか」

というと、

女「そしたら他の人とぶつかって迷惑かけちゃうでしょ。それに私、あなたの左側が好きなの、だってほら、象さん」

と言って彼女は笑った。

僕の左手の甲にはホクロが二つ、3センチほど離れて並んであった。
左に座った彼女は、そのホクロのちょうど間を親指と人差し指で摘んで、

女「象さん」

と言ってよく笑った。

女「コンビニは、マンションから少し遠くてもいいの。夜にカップ焼きそばが食べたくなっても、二人で散歩しながら行くの。そのときはペアのTシャツを着てね」
男「ペアはキツいよ。それだけは勘弁しておくれ」

そういうと彼女は本気で悲しがっていた。
いつも悲しませていたのだから、そんな些細な願いくらいは受け入れてあげればよかった。

女「こんな素敵なバーがある街に住みたいなあ」

その女性の言葉は同じデニムジャケット着た男性にかけられた。
隣の彼は「そうだね、広いベランダがあって、犬が飼えるといいな」と返した。

男「ここから歩いてすぐの青いマンションがぴったりだ。角の部屋はもう埋まってる可能性があるけど、南向きで窓も広くてオートロックだし…」

と言い掛けたが、いきなり知らない男がそんな提案をしても気持ち悪がられるだけだ。もちろん我慢して僕はカクテルグラスで口を塞いだ。

女「ねえ、ちょっとお腹空いてきたかも、ホテルのコンビニでカップ焼きそば買おうかな」

それに対して男はせっかくの旅行でカップ焼きそばはないんじゃないか、と返した。
そしてまだ空いてる屋台があるんじゃないかな、と言ってスマホを取り出して探し始めた。
ここから少し西に歩けば屋台があって、焼きラーメンの美味しいところがある。
それくらいのお節介は、隣に座った地元民としてやってもいいかなと思ったそのとき。

女「象さん」

スマホを持った彼の右手の甲をつまんで、その女性はそう言った。
僕は苦笑いを隠すように、またカクテルグラスを右手で傾けた。

おしまい

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