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【日々想】自分に対するポジティブワードは健康の秘訣なのかも 

日常の中での気づきや考えたことを、「日々想にちにちそう」と題して書くことにしました。

カバー写真は我が家の日々草です。


先日、親戚の集まりがあった。90手前になる祖父の妹さん、つまり私の大叔母さんに会った。大叔母さんは既に夫を亡くしていて、一人暮らしをしているが、背中も曲がっておらず、頭もはっきりしている。さすが100歳を超える長寿だった曾祖母の娘なだけある。

私が大叔母さんと会うのはおよそ10年ぶりで、これが2回目だった。しかも前回はほとんど話していないので、初対面のようなものである。今回はいくらかお話しする時間があって、大叔母さんの話を聞いていた。

……やっぱり、曾祖母に似てるなぁと思った。そうだった、こういう話し方をするんだったよなぁって。そして、きっとこういう話し方やマインドだから、2人は歳をとっても元気なんじゃないかと思い始めた。

2人は絶対に自分のことを悪く言わない。

「私はね、運がいいの」そういう言い方をする。2人ともたくさん苦労をしてきたと思うけれど、それを悲観したり武勇伝のように語ったりはしない。「大変なこともあったけれど、運良くここまで来た」「たまたま恵まれた」という話し方をする。少し微笑みながら。

一方で私自身はいつの間にか謙遜を美徳とする文化にどっぷりつかっていて、「私なんて…」という言い方をよくしてしまう。

たとえば職場の飲み会で、日々の食事はほとんど自炊なのにもかかわらず、
「料理は全然できないんですよ、簡単な料理だけです。」
という言い方をよくしていた。自分では本気でそう思っていたけれど、いざ周囲を見渡したら、同じ部署で私ほどマメに自炊している人はいなかった。どうやら自己評価が厳しすぎたらしい。

思い返せば、自分はまだまだなんだって、厳しい言葉をいっぱいかけてきてしまった。自分よりすごい人なんかいっぱいいるんだって。この程度で満足していたらいけないんだって。

だけれども、曾祖母や大叔母を見ていると、そういう厳しい言葉を自分にかけ続けることに意味があるのか分からなくなってきた。

厳しい言葉をかけたその先にある自分像はなんだろう?スキルアップして人格も優れた大人になって、充実した良い人生を送りたい?

でも、自分の良いところを素直に認めないで、厳しい言葉をかけ続けるのは、果たして健康に良いのだろうか?曾祖母たちを見たらそうは思えない。健康に良くないのだとしたら、本末転倒ではないか。

もっと言えば、いつまでも自分に厳しい人が、心の余裕を持てるとも思えない(少なくとも私はそうだ)。自分の余裕もなしに、ほんとうに他人に優しくなれるのだろうか?

視点を変えて考えてみよう。
自分が誰かに話を振ったときに、相手からいつも自虐的なことを言われるとする。そのときは、「そんなことないですよ」としか言えないし、気を遣う。いっそ盛大に自慢してくれた方が、相槌が打ちやすいまである。

そして、自虐的な人は、こちらがその人の良いところを褒めても、その言葉を素直に受けとってくれないこともある。私は基本的におべっかが苦手な人間なので、嘘はついていないつもりだ。それなのに自分の言葉を信じてもらえないと、どうしても悲しくなってしまうときがある。

あぁ自分で付き合いづらいなと思ってしまう自虐的な人に、自分もなってしまっていたかもしれない。

これからは、もっとポジティブワードを自分にかけてあげようと思った。なんやかんや私は運がいいよねって。
思い描いていた未来を手に入れられなくても。しかもそんなに贅沢な願いだと思っていたわけでもなく、あのまま行っていれば、当然手に入るものだと思っていた未来が消え果ててしまったとしても。
でもその割に現状が悪すぎることもないし、いいところもいっぱいあるよねって。

そんなふうに考えだすと、本気で「少なくとも全然悪くないよ、私の人生」って言いたくなってくる。段々調子づいてきて、積極的に自分の人生を肯定したくなってくる。

自慢しいだと思われたり、要らぬ嫉妬を買ったりするのは嫌だから、人前では口に出さないにしても。たまには自分で自分にやさしい言葉をかけてあげよう。
そうしたら、周りの人にももっとやさしくなれる気がする。年をとってボケちゃったとしても「イマドキの若者は~~」と若者を厳しくせっついたり、怒ったりしないですみそうだし、大らかになれそう。


自分にとって都合が悪いことや耳が痛いことを無視するんじゃなくて、不必要に厳しく急き立てるのはやめよう。自分をやさしくポジティブな言葉でケアしよう。そんな気づきがあった。