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好き嫌いの日

今日、二回ほど「嫌いと思われるのが嫌い」という主旨の記事をどっかで見た。


『好きの反対は嫌いではなく無関心』とタイトルは忘れたけれど、漫画か何かで認識してからけっこう経つ。世間的に好きの反対は無関心だと言われ始めてどのくらい経ったのかは知らないけれど、当方は個人的に全くその通りだと思う。

他者に「貴方が嫌いだ」と面と向かって言われた経験は記憶に有る限り無い。なんの証拠も無い予想なのだけれど恐らく、面と向かって言われたor言った経験の有る人は結構な少数派なのではなかろうか。因みに、当方は面と向かって本気で「私は貴方が嫌いです。」と言った事が有る。

他者を嫌うのは苛烈な部類だと感じる。そこには憎悪や怒り等といった抗戦的な感情が絡むから、他者を嫌うには自分が相手を認識しなくてはならない。そして、その認識は自分に何らかの害や悪感情を被っていたりして、決して良い指向性を持たず、ある意味で敵を視ていなくてはならない。嫌うという感情は、重くなればなるほど闘いだ。

そこまでの重い感情では無く、テレビを観ていたりして「アイツ嫌いなんだよねー」っていう感じの、会話の流れ的な軽い好き嫌いでも相手を知らなければ嫌いになる事すら出来ない筈。その程度の場合は反発や嫌悪感、欠点が目に付く、単純にウマが合わない等といった感じだろう。

この辺りは好きという感情も同じだと思う。そういう意味では好きと嫌いは反対語と言うよりも、表裏一体と言うべきなのかな、と。


字面の上では「○んだ方がイイよ。」とか「生きてる価値無い。」とかの方が厳しいけど、そういった言葉は〝嫌い〟と言う感情では無いと思う。何故なら、そういう言葉を投げつけてくる側は言われたら側を下等だと認識して、単純に罵倒しているに過ぎないからだ。上下関係の中での残酷さは有れど、〝嫌い〟という感情にすら至っていない時点で「貴方が嫌いだ」と面と向かって言うよりは多用する難易度が低い気がする。

先の罵倒は謂わば、虫類や下等動物に向かっている気分だと想像すれば解り易い。例えが最悪だけど。つまりは自分よりも下等に認識しているから、何処か無思考な部分が有ると思われる。

(そういう流れで言えば、〝無視する〟という行動も実のところは確りと無視する側が無視される側を認知していなければ出来ない行動な筈だ。)

それを踏まえて、初めの方で『好きの反対は嫌いではなく無関心』と書いたが、好きも嫌いも自分が認知していないと成立しないのは同じなので、『好き嫌いという感情の反対は無関心』となるのが正確だろう。

一方的な一目惚れとかが解り易い。自分からは好きで惚れているが、相手からは認識されていなくて何の感情も持たれていなかった(つまりは無関心だった)、とかね。


ここで文頭に戻る。「嫌いと思われるのが嫌い」

自分を嫌われている、という事はその嫌われている他者に自分が何かをしたと言う事だろう。自分が相手に何かをした記憶が無いのならば、その理由を探るしか無い。もしくは、聞き出すかどうかして改善する努力が必要かも知れない。

仮に、理由も無く嫌われているのだとしたならば、その相手の嫌いだという感情は軽い。無視して良い。最善は金輪際、関わらなければ良い。

他者の軽い感情を一々気にしていたら自分が暮らしていけない。一個人ですら軽い感情なんて満ち満ちてありふれているのだから。

勿論、そう簡単にはいかないから大抵は皆が悩むのだろうけど。


あとは、自分を好きな人を増やす。

そうしていけば、自分を嫌いな人は少数派であり、自分が嫌われているとは言えないのでは無いだろうか。間違えてはならないのは、八方美人になれと言っている訳ではなく、他者に嫌われる行動を把握して嫌われる行動をしない努力をするのが大事で、もし嫌われる様な行動をしてしまったのなら改善する行動を起こせば良いという意味。その点は絶対に間違えてはならない。

もしくは自分を好きな人を増やさなくても、自分をずっと好きでいてくれる人を持てれば良いのかも知れない。

その辺り、残念ながら当方の完全なる妄想でしか無いので考察すら出来ないという……。他者に好きだと思ってもらう事に当方は失敗しているので。


嫌いだと思われるのは大抵は軽いので平気だし、重いなら関係を切ってしまえば良い。その他はどうせ、お互いに無関心なのだから気にも止まらない。あとは他人、そもそもが枠の外だ。

因みに、人に嫌われているのに慣れているとか、当方が強くて耐性が有るとかでは無い。多分。

つまり、ここまで長々として何が言いたいのか?というと、「嫌いと思われるのが嫌い」が当方には理解が出来なかった、と言う……。

皆さんはどうでしょうか?


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