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ニーチェの奴隷道徳】すべての争いは平和のために行われる

あらゆる社会的な動物は争いを繰り返し、ヒエラルキーを構築する。ごく少数の権力者がルールを作り、他の優秀な才能が飛び出してこないよう平和の概念を創り出した。しかし、それは単なるフィクションに過ぎない。人間がいかに成熟したところで反逆の闘争心は何も変わらない。自らの地位を確立しようと権力闘争が繰り返され、それを持つ者と望む者は争い続ける。小さな子供を幼稚園に入れたとしても教室で同じことが起きるでしょうし、ビジネスを始めれば横社会なんてないのに気付く。

今回はドイツの哲学者、ニーチェから着想を経て絶対的に良いこととされている平和が構造上の悪になりうる危険性をお話しします。みんなにとって、一番いいことは何か?と問われれば多くは平和だと答えるでしょう。彼がそれあえて否定する理由と、そもそも平和の概念がどこから生まれ、それにはどんな価値があるのか?一緒に考えてみましょう。

ヒエラルキーの起源はキリストとユダヤの関係にまで遡る。エジプトにははっきりとした奴隷制度があり、主人と奴隷の関係は長く続いた。その理由はふたつある。ひとつに戦争で負けた人種は重要な労働力であり、主人にとって自由に暮らすために必要な存在だった。ふたつ目に自然の摂理として劣った人間は不当な攻撃や迫害を受ける運命にあると考えられていた。そんな中、奴隷たちの間では生き延びるためにとある道徳的な教えが広がっていく。

さて、もしも自分が奴隷になってしまったら、どうやって生き延びますか?また自分に子供がいる場合、その子に生き延びてもらえるよう、どのような生存戦略を教育するでしょう?

最も重要で最初の教訓は、自分自身を殺さねばならない。ということです。

仮に主人から殴られたとしたら、当然の感情として殴り返してやろうと復讐心が湧くものですが、その欲求は抑えねばならない。おかしな風習に違和感を覚え不自然すぎると考えたとしても主人に反抗的な態度は許されません。やりたくないことをするように指示を受けたら、他にやりたいことがあったとしても黙って従わなければいけない。奴隷が死に至らないためには人間としての自然な欲求は押し殺し、謙虚で忍耐強く従順なパーソナリティーを内面化せねばならない。そうした美徳が生存戦略としてうまく機能するので主人からではなく一緒に働く仲間たちから平和こそが大事であると教わるのです。

いずれ奴隷たちの中でも、その価値観は文化となって従順で謙虚で忍耐強く寛容な精神こそが善とされる。皮肉にも平和は穏やかで耳障りのいい言葉に聞こえるので、ほとんどの奴隷はその教訓を疑わなくなり、権力について気にしない人たちがあふれてくる。中には終身奴隷を望む人だって出てくるんです。

ここからがかなり興味深い話なのですが、普通過酷な環境に虐げられ続ければ、希望を抱くために明るい話をしたがるのが人の常というものです。しかし、奴隷の中に紛れた反逆者は奇妙なことを言い始める。

私たちは徹底的に無力で不甲斐なく劣った存在だ。とすればそれに支えられている主人はもっと劣った人間なのではないか?

確かに言われてみるとその通りです。主人は一見すると優秀で自由なようにも見えますが、その実態は何も出来ず、労働や生産は奴隷に頼りきり。つまり主人は奴隷に依存しています。主人は優れていて奴隷が劣っているのではなく、奴隷が優れていて主人は劣っているのだと。言い出すのです。

実は反逆者の行ったこの反抗的な態度・対立・緊張・闘争こそが健全なヒエラルキーを保っていくためにとても重要なことなんです。ずっと平和なままでは力関係が固定、淀み、抑圧的に停滞してしまう恐れがある。本来、人間という生き物は多様性に富むべきであり、きれいに区別することはできず、男っぽい女性の人もいれば、女性っぽい男の人もいる。みんなで1種類に偏り続ければ、その種はいずれ必ず絶滅します。

争いによって権力がひっくり返りさえすれば法律も善悪も常識も覆るので、良いとされていたものが悪いものへ、悪いとされていたものが良いものに逆転する。この価値観の逆転に欠かせないのが反逆者の存在なのです。そんなとんでもないことをするヒーローならさぞかし崇高な精神をお持ちなのだろうと想像しますが、ダークヒーローになれるのは内なる葛藤を抱えた人だけです。

彼らは現状の仕組みに憤りを感じながら、生き残るために本心とは矛盾する自分を演じなければならず、必然的に主人を強く恨んでいますが、それと同時にそれに屈してしまっている自分のことも嫌いになる。なぜなら自分の首を絞めている不当な仕組みに本当は加担したくないのに、その役割を自分が果たしてしまっている。

情けなく、悔しく、後ろめたく、やましい自分。これらすべての負い目が持ち主である本人を長い間、攻め続け敵意や残忍さ、復讐心など平和とは程遠いものを育て上げる。反逆者はその無力さゆえに社会で生きるという重圧の中で、表向きの目的と真の目的を使い分けるようになり、いずれ社会的な指導者、つまりは奴隷を指揮する立場になる。みんなには謙虚さや寛容さ、連帯の重要性も訴えるのですが、それと同時に最も強く主張するのは新たに発展させた“平和2.0”。主人の頭の悪さ、非道な仕組み、解釈の矛盾をみんなに説明し非難する。物理的に抗う力は与えられていないので、代わりに発展させた言論を武器するのです。これまで奴隷は安全と安定、欲しさに自由を放棄し続けてきた。これからは平等な権利のため、平和2.0のために戦おう。それが生きる意味となり、苦しみを乗り越えさせ、本当の幸せをもたらしてくれる。このような価値観の逆転が歴史上、重要な部分のほとんどで起きており、多くの学問はこの瞬間に生まれ、現代社会にまで影響を及ぼしている。

既存の仕組みは誰かが何かのために作ったもので、それを変えるためには必ず知性が必要です。もし論理的に考えることができなければ、状況を正しく判断することもできず、情報をもとにどのように行動していいかも分からないので、仕組みを変えることができません。つまり知性がなければ、真の自由も、真の幸福も、権力の存在にすら気づくことができないということです。

平和は弱い者が厳しい世界で生き残れるようにしてくれる優しい仕組みのようにも思えますが、それは既得権益を野放しにし大半の奴隷の思考を止めて自由を奪う。一方、その虐げられた過程の中でのみ反逆者が誕生し、強くなり最終的には権力者を失墜させ、新たな平和がやってくる。

さて、平和の意味は本当にみんなが仲良くやっていくためのものなのでしょうか?それとも権力者の武器であり、生存戦略の一環であり、下克上を成し遂げるための争いの種なのでしょうか。いずれにせよ、決まり切った人生の中で生きていくしかないのだ。と諦めるのは早過ぎるのかもしれない。だってその運命は誰かが何かの目的でつくった、ただの標識に過ぎないのだから。

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