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完璧なあなた、不完全なわたし

どうもこんにちは。
こぶたです。

未明からの雨で湿気を含んだ空気が重く体にのしかかる朝、
揃って寝坊し、ギリギリでみんなを各所へ送り出し
さて次男と今日はどこか遊び場へでも行こうか?と支度していると
豆イスに突っ伏したまま、眠ってしまった彼。

そんな日もあるよと、言ってあげれるのは今だけだから
家事を何となく片して、しばしの1人時間にnoteを書くことにしました。

完璧なあなた


私の夫は車椅子ユーザーです。
彼は人生の途中である日突然、車椅子ユーザーとなりました。

私たちが出会った時、彼はすでに事故から何年もの時が過ぎ、
車椅子での生活にも慣れた様子でした。

キャスターをあげて段差を降り、手動装置を操り車を運転する腕はとても逞しく、
そうやって持ちうるものを使い生きていることが
とても魅力的に思えました。

私は歩かない彼を好きになったのだから
それこそが私にとっての完璧な彼の状態です。

そこに、何一つ不足はありません。

そのままの姿がパーフェクトで、完成系。
可哀想でも、残念でも、不自由でもありませんでした。


だって、歩く彼を知らないのですから。
それが私にとっての彼の姿そのものだったのですから。
私は彼の何も、失っていないのですから。

不完全なあなた

ですが彼にとってはどうでしょう?家族や友人知人にとってはどうでしょう?

彼にとって、彼のボディイメージは、
完璧な姿からの喪失です。
歩けなくなった自分を生きています。

それは私や子ども達以外の彼の家族にとっても同じこと。

私と子ども達だけが、
彼の何をも失っていないのでした。

その喪失を知らないことは幸せなことでもあり、
同時にずっと今も尚、私の首を真綿で締めつけ続けているのも事実です。

不完全なわたし

私は発達障害です。
発達障害は生まれつきの脳の偏りと言われています。
つまり、私は生まれたときからずっとこうでした。

確かに、毎日飽きもせず庭でアリやダンゴムシを観察し
あまりの質問の多さに園長室送りになり、
毎日飽きもせず国語辞典から医学用語を拾い上げる作業をし、
家庭の医学や山田かまちやブラックジャックを読み漁る小学生で
「考査は勉強なしで挑まないと実力なんてわからないわよ?」と
訳の分からない理論で、テスト勉強をしたことが無く、
「カエルの解剖がしたいです」と先生に直談判しに行き
「ウシガエルを捕まえてきたら付き合ってやる」と言われて
ウシガエルがいなくて落胆するような中学生でした。
仕事をはじめて「観察ではなく、コミュニケーションをとってください」と言われ、
それがわからず、昼休みに社会学と心理学の本を読んでいるところ声をかけられ
「いや、コミュニケーションがわからないのでまず人間の社会性と心理についてしっかり学ぶ必要があるかと…」
と答えて、先輩をドン引きさせました。

ですが私は20代半ばまで、健常者として生きてきました。

生まれた時からその日まで、
私は変わることなんてなかったのに
ある時から障害者と呼ばれるようになりました。

私は生まれた時から、
何1つ変わらないというのに。

ですがそれは同時に、もう自分を隠さなくてもいいのかと
ほっとした瞬間でもありました。

完璧なわたし

ある時私の不安定だった10代後半を
ずっと見守ってくれていた、先天性筋疾患の友人に
「そういうば、私も障害者になったんだよ」
というと、彼はこういいました。

「こぶたはこぶたのまま、今も昔も変わらないんだよね?
それでいいじゃないか。
障害だとか障害じゃないとか、そんなのは後付けで、
こぶたが痛い思いや不自由な思いを付け足されたわけじゃないなら、
それが生まれたままの完璧な君で、十分素敵じゃん。」

ある時から大人の発達障害が取り沙汰されるようになりました。
実は発達障害だったとわかった人が激増しました。

随分経ってから、ある発達障害の研究者の方とお話してる際に、
私たちの世代は「見捨てられた昭和後期世代」と呼ばれ、
何の支援も受け皿もなく育った唯一の世代で
成人してはじめて諸々の問題が顕になり、
不適応を起こしているのだと知りました。

変わったのは私ではなく、私たちのような変わり者を
受け入れる許容をなくした社会だったのかもしれません。
適応しきれなくなったひとは
障害者として生きる道を示されるようになったのでした。

視点によって変わる完全さ

五体満足を完成形だと信じる人には
五体不満足は完成形ではないのかもしれないけれど、
完全さは人それぞれの価値観によるものです。

ある、結合性双生児の女性が
インタビューでこう答えていたのを思い出します。

「どうして人々は私たちに、“なぜ分離手術を受けないの?”と聞くのでしょう?私たちにそれは必要ありません。なぜなら私たちはこれで完璧なのですから。」

もしかしたら人と同じような体を持ち、
人と同じような考え方や生活の仕方を持っているに越したことはないのかもしれません。
不便がない方が、低コストで幸せなことは確かでしょう。
ですが、そこに当てはまらなければ不幸せだと
外側から一方的に決めつけてしまうことは危険だなと感じます。

五体満足だろうが、五体不満足だろうが
欠けがあろうがなかろうが、
人は存在するだけで誰かに影響与え、
そして愛される生き物です。

同じひとつのもの、ひとりの人を見ても
見る視点が違えば、見る人が違えば
完全か不完全かも変わります。

そしてひとりの人にも、種々の臓器があるように
数多の細胞があるように、無数の側面があります。
その全てを否定することは、不可能です。

私たちは常に不完全であり、同時に完全でもあり
醜くもあり、素晴らしく美しくもあるのです。

だって、価値観も見る位置も見られる位置も
様々で、一定では無いのですから。

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