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だから私は自分の人生を生きなきゃいけない

こんにちは。ド底辺を生きる女、こぶたですどうも。

朝から11ヶ月の次男がダシダの袋を握りしめてご機嫌に歩き回り、
車椅子の夫の行く手を阻む阻む。

足に乗っては抱っこと手を伸ばし、
トイレに入れば追いかけてドアを開け、
行く手に朝ごはんのホットケーキの破片バラバラをばら撒いて、
ゴミ出しに行こうとすると外用車椅子への乗り移りを阻止する。

長男が赤ちゃんだった頃、
私は夫が自由に動けるよう、夫の足にまとわりつく長男を抱き上げて
トイレに入ろうとすれば追いかけて抱き上げて
夫の行く手に何かをばら撒かれれば、長男を抱き上げてそれを拾っていました。

夫が自由でいられるよう、
長男を制してきたのでした。

そんな長男と夫の関係は遠いままなかなか近づかず、
夫は育児より仕事やバスケに飛び立ってしまい
長男は長男で、「パパじゃない!ママ」とパパ見知り。

そんな関係は5歳頃まで続き、本当に悩みました。


一方、今は赤ちゃんの次男だけに気を取られているわけにはいかず
次男がやらかしてようが家の事、長男のこともしなくてはなりません。

私の手が届かないのをいいことに
次男は、自由に父の元へ行き
自由に動き回り、自由に振る舞い、
夫も「無理だー!」といいながら次男を抱き上げ、制し、守ります。

きっと父が自分を守り、満たしてくれると知ってる次男は
「ママじゃなきゃダメ!」
とは思わないでしょう。


最近よく思うのです。
人のため、家族のためになんて生きようとするから
みんながしんどくなるんだなということ。

私の考える『みんなのために』が、一般感覚の『みんなのため』と同じかはわからないし
たとえそうだとしても、それが私の家族のためになるかはわからない。
何をしても、どう考えても、独りよがりにしかならないのなら
それはもう優しさの押し売りでしかなく、
必要とされてるつもりになってるだけ。

私が考える家族のためなんて、所詮私の理想のためでしか無かったのかもしれません。

○○してあげたいのに、誰々が××してくれないから
○○できない!

なんて怒っても、周りからしたら迷惑なだけ。


子どもにとってもそうなのかも知れません。
毎日楽しく学校で過ごせるように、
なりたいものに寄り近い夢を追えるように、
あれこれしなさい!あれはいついつした方がいい!○○はやったの?

つい、お膳立てしようとしてしまうけれど

そうすることで自分が苦しいなら
相手も苦しいのかもしれない。

私は家族が円滑に過ごせるよう、フリーでいつも動けるよう待機してなければならない。

そう思っていたけれど、
私が「必要とされてる」つもりになりたいから
そうしなくちゃと思い込んでるだけで
自分の人生に向き合わない言い訳をしたいだけなのかもしれない。

気づかないだけで。
私だけが気づかないだけで。

私が誰かのためにと自分を虐げ、閉じ込めるほどに
家族も窒息していたのでしょうか?

人の足元ばかりを見ていないで、私は私の足元を見て生きなければならなくて
私は誰かのバリアフリーであり続ける必要はないのかもしれないなと、ふと思ったのでした。

私は、私の人生を
生きなければならないのかもしれません。

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