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子どもだってマイノリティ?!

こんにちは。車椅子ユーザーの旦那と5歳の息子と暮らす主婦、こぶたです。リンゴが好きな息子と旦那のためにリンゴを買ってきました。そしたら「剥いて切って欲しいの」のコールが鳴りやみません。

ASDで感覚過敏のある私にとって、手が濡れる行為は精神的ハードルが高いんです。自分が好きでもないリンゴを剥いて切る…。うーん…。

私が頑張らないと、息子はリンゴにありつけないわけです。(彼は丸かじりが苦手です。)


これは困った。彼が好きな時に自由にリンゴを食べれればいいのにね。ですが残念なことに5歳の子が包丁とピーラーを使ってリンゴを切るというのはあまり現実的ではないように思います。




「子どもだから」「子どもってそういうもの」…なの?

子どもらしく外で遊んでらっしゃい。
子どもは公園好きでしょ?
子どもってライダー好きだよね。
子どもは絶対アンパンマン通るよね。
子どもに説明してもわかるわけないわよ。
夕方はもちろんEテレよね?見せないなんて無理よね?
子どもなんだから無理よ。
子どもにわかるわけないのよ。


だって、子どもってそういうものでしょ?

子どもって、本当にそういうものなの?


育児をするようになって
そういうことをよく感じるようになりました。


✓子どもが一生懸命に話しているのに
それを差し置いて、後から話し始めた大人の会話を優先する大人たち。

✓子どものやり方を「バカだなぁ。こうやるんだよ」と訂正する大人たち。

✓説明もせずに「言ってもわかんないよ、子どもなんだから」と説明を得られない。

✓子どもの前でその子のお話をして、子どもが聞いていないと思ってる大人たち。



でもそれって、自分たちの思ってる"子どもってこうでしょ"を満たそうとして、自分たちの知ってる”こどもにはこう言っとけばいいんでしょ”を吐いているだけでは無いでしょうか?

自分たちの知ってる『親像』を自分たちが、なぞるために。


そう感じたのはわが子が所謂、定型の発達とは違う道を歩んで行ったからなのかもしれませんが。


外で遊ぶことを好まず、公園は気が向かないと誘っても拒否。
ライダーものやヒーローものを「戦いはこわい」といい、
アンパンマンにも興味を示さず、
じっくり説明しさえすれば、理解を示す。

夕方のEテレは見始めると終わることができず、癇癪の原因になるため見せれず、
子どもなんだからは通用しない。

うちの子だけがそうなのか?

そう思ったこともありましたが、子どもたちと対等に話そうとする大人がどれほどいるのかな?とふと思い、当時2歳児クラスだった息子のお友だちに、語りかけてみたことがありました。

次々とわらわら群がり、我先にと膝に乗ってくる子どもたち。結果、わかる形で伝えればその子なりに理解してくれるような気がしました。

ただ、向き合うにはあまりにも時間と忍耐とパワーがお互いに必要だけれども。



できるのにできない

子どもを見ていて思ったのは、障害のある人達の世界と子どもの世界が凄く似ているなということでした。

自分でやりたいのに、道具や設備や時間や方法に縛られ、人の手を借りるしかない状況に追い込まれ、自立を妨げられやすいという点で。


大人用を無理して使うことを強要される

トイレトレーニングが進みだした頃のことでした。

保育園では「見守れば自分でトイレできますよ!」と先生に言われていた息子でしたが
自宅ではトイレにすら中々座ることを拒んで進みませんでした。

どうして出来ないのだろう?と頭を悩ませる日々でしたが、ある時、高速道路のパーキングエリアに『子どもトイレ』が設けられていてその理由が分かりました。

「子ども用だって!こっちいってみようか?」そう言って入った子どもトイレの子ども用の小さな、使い慣れた様式の便器(小判型便器)に嬉しそうに腰かけ、なんなく一人で用を足すことができたのでした。

大人用の体に合わないサイズのトイレは、彼らにとっては使い辛く落ちそうで怖いのかもしれません。無理もないでしょう。もし落ちでもしたら、どこに流されていくのか皆目見当もつかないのですから。

大人用でも慣れればできるかもしれません。でもそこには努力や勇気が必要なのですね。


大人が見守りきれないからやらせてもらえない

こんな場面もありませよね。自分で牛乳を注ぎたいのに、「こぼすから」と取り上げられてしまう。他にもこういうことはたくさんあると思います。

包丁のように、大人の使っている道具を使わせてもらえないことも同じです。


時間の縛りに間に合わないから手伝われてしまう

「保育園の時間だから早くして!もうお母さんやっちゃうよ」と時間さえかければできるのにお着替えや歯磨きを手伝われることも多くなりがちですよね。


自分でできるはずなのに、保護が必要な存在だからさせてもらえないことや、時間の縛りに阻まれてさせてもらえないこと、道具が自分と合わないために難しいこと。


子ども達はこうした日常の中に身を置いているのではないでしょうか。


知りたいのに教えてもらえない

それってこういうこと?どういう話?と会話に加わろうとしたり、知ろうとしても「子どもには関係ないから!」「子どもはいいから!」と言って教えてもらえないことも多いのかもしれません。

だけど本当に子どもはわからないのでしょうか?

大人が子どもにわかる伝え方をすることを面倒くさがったり、難しく思い、諦めてしまっているだけではないでしょうか?


なぜ子どもはその不当性に声をあげないのか


実は子どもは声を上げてニーズや不満を叫んでいるのではないでしょうか?


ですがそれは駄々っ子や、わがままと言われているのではないでしょうか?

ある時こんなニュースを見ました。公園で遊ぶことができなくなった小学生たちが、公園で子どもが遊べるようにして欲しいと行政に呼びかけるというニュース。子どもたちにもニーズはあるんです。

こうしてほしいという希望はあるけれど、それがニーズとして取り入れられることも少なければ、子どもたちに、どういう手続きを踏んでどこに支援を呼びかければいいかを、誰も教えてくれない。

結果、「社会とはこういうもの」「こうしなければならない」を受け取ることに精一杯で、そこに不満や疑問を抱くのは大人になってからということが多いのかもしれませんね。


世の中は大人の都合に合わせられる

自分はここで友達と過ごしたい、離れたくないと言っても認められない。

今日はお出かけしたくないのに、大人が買い物に行くというし1人で留守番もさせれないというから出なくてはならない。

今日はなんだかだるくて一日寝ていたいのに、パパもママも仕事に行くというし、熱はないから保育園に行かざるを得ない。

保護されているということは安全と安心があることでもあるが、自由と選択肢がないことでもある。

子どもなんてそんなもんでしょう?と今のこの社会ではそれが当たり前になっています。

では、まだ発達段階にある子どもには選び取る力、考える力はないのかと言えばそうでもないのではないでしょうか。


誰かに保護される必要があるということは、誰かに従うしかないということなのかもしれません。

ですが親だって常に要望を聞き叶え、できるだけ子どもを優先してもいることでしょう。それでも子どもを保護するため養育するために頑張り続けねばなりません。

子どもだって大人の社会の中では常に社会的弱者として、能力と環境の齟齬に困難さを感じている存在なのではないだろうか?

そして親もまた同時に育児に困難さを抱えているのです。


必要なのは選択肢

子どもの言うがままをすべて受け入れるとどうなるのか、私にはわかりませんが、少なくとも大人が子どもにいくつかの選択肢を用意してやることはできるかもしれません。

心と時間に余裕があれば…ですが。


冒頭のリンゴの話に戻るとしましょう。

介護も育児も予期せず手が取られることが保護者の負担になりやすい。そんな気がします。なら道具を使って「一人でできる」「一人で欲求を満たせる」ようになれば、WINーWINなのでは?

などと思い、リンゴ好きの息子がリンゴを食べれるよう、今日私はリンゴカッターを買ったのでした。指の力の弱い彼が使えるかはわからないけれど、彼が使えなかったとしても、私にとってもリンゴカッターは負担の軽減になりそうです。便利な道具を買って、選択肢を増やしてみたのです。


まとめ


https://www.unicef.or.jp/about_unicef/about_rig.html

もうすぐ40代に足を突っ込もうという私が小学生の頃、子どもの権利条約が出来ました。

子どもは大人と同様に人権を有する


そう習ってから30年以上の月日が流れましたが
世の中は「子どもってそういうものだから」の渦から抜けることはなく
子どもに与えられる選択権は十分ではなさそうです。

大人は自分が子どもだった時代の周りの大人たちをロールモデルにして生きていることが多いようです。子どもは「こういうものだから」と大人から強いられれば、子どもには他に選択肢はありません。

庇護されていると支配を受けやすい

これは他の社会的弱者にも共通している点です。


全ての子どもには、選択肢と合理的配慮が必要なのではないでしょうか?子どもは大人のミニチュアじゃないからこそ手厚いサポートと配慮を必要としているんじゃないかな?と思うのでした。

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