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車椅子親の子である息子が、初めて自分以外の車椅子親をもつ子どもに出会った日に言ったコト

はじめまして。
車椅子ユーザーの旦那と、5歳の息子がいる普通の主婦をしています。
こぶたと申します。

突然ですが、あなたはCodaという言葉を
聞いたことがありますか?

Wikipediaには次のように書かれています。

Coda,Children of Deaf Adults)とは、ろう者の親を持つ聴者のことである。

Codaはその手話と口話と日本語との
独特の世界で育っていくことから
社会学的な研究対象となっています。

では車椅子の親を持つ、歩ける子どもは
一体なんというのでしょう?

車椅子の親を持つ子どもにも
彼ら特有の世界があるように感じています。

良くも悪くも、彼らには垣根を感じない。
車椅子を遊び道具として育ち、
かっこいい乗り物だと知っている彼らと
それを知らない社会との隔壁は高い。

そんな風に思うのです。

また車椅子の親を持つ子どもは
似たような環境の子どもが周りにほとんどいません。
いつもなぜか自分だけが、自分の親だけが
少し特別に扱われることが当たり前の中に育ちます。

親はそうは望んでいなくとも
周りの大人たちから幼い頃からこんな言葉を投げかけられます。

「パパやママを助けるのよ」
「お手伝いするんだよ」
「大きくなったらパパやママの面倒みなくちゃね」

彼らは一体どんなアイデンティティを
形成していくのでしょうね。

(親はほとんどの場合、子どもを介助要因にするつもりも
そうなって欲しいとも思っていません。
全力で自分らしく自由に生きて欲しい。それだけです。)

彼らにも
自分と同じような環境に生まれ育った子どもたちとの
交流が必要なのではないか?


根拠もなくそう思っています。

いつもどこに行くにも
車椅子の親の膝にのり、
良くも悪くも
ジロジロ見られることが当たり前の彼ら。

幼い頃から
時にはラッキーなことも、
時には親が酷い扱いを受けることも体験します。

車椅子に乗った親達ですら
自分と似たような境遇の誰かを探すのです。

そして共感しあい、救われ、安堵するのです。

まだそんなことすら分からないであろう小さな彼らにも
自分と似たような境遇の誰かの存在に
救われ安堵する経験があってもいいじゃないか!

そんなことからある時、
車椅子ユーザーさんとのオフ会に息子を連れていきました。

子どもたちが打ち解け合うのは一瞬です。

ですが明らかに違うのは
目をキラキラさせて、
「○○ちゃん○○くんのパパ(ママ)も車椅子なの?!」
と驚くのです。

それは息子だけではありませんでした。

普段、小さな彼らは
ジロジロ見られながら車椅子の膝に座り
彼らなりに色んな世界を見ているのかも知れません。

初めて自分以外の車椅子の親をもつ子に会い
自分以外の車椅子の膝に乗ってる子どもを見た日、
たくさん遊んでたくさん食べて、
ニコニコしていた当時4歳の息子。

運転しながら、息子にこういいました。
「今から帰るけどお家まで遠いよ。楽しかったね。
もう夜遅いから寝ちゃっていいからね」

そしたら彼は眠い目を擦りながら笑顔でいいました。

「楽しかったね。ねえママ?
ママが車椅子の人もいるんだね。知らなかった。
あのさじゃあさ、もしかしてこんな人もいるのかな?
パパもママも車椅子って人もいるのかなぁ?
ママ、ぼく会ってみたい。
パパもママも車椅子の人にも会ってみたいなぁ~!
ほかの人たちにも会ってみたいなぁ

それを聞いて、心から良かったと思いました。
自分以外の車椅子親をもつ子に
息子を会わせて良かったと。

4歳の子どもが目をキラキラさせながら、
他の車椅子の親を持つ子どもたちに
ハッキリと会いたいと言ったのです。

車椅子親を持つ子どもたちは
当たり前のこととして親の障害を受け入れていきます。

ですが彼らの理解と社会の理解の間には
大きな差があります。
その齟齬に、小さな彼らも少なからず傷ついたり
疑問を抱いたりしているのかもしれません。

子どもだからわからないとか
子どもだから説明しても意味が無いとか
そんなことは決してない。

彼らは自分の世界しか知らないだけで
世界を教えてさえやれば
自分で選びとることが出来るのかもしれません。

私自身は車椅子の親に育てられたことはありません。

だから全てをわかることは出来ないけれど
想像力を働かせることはできます。

いつか大きくなった時、
親には言えないこともきっと出てくるでしょう。


そんな時、まだ名前のない彼らにも
車椅子の親を持つもの同士のコミュニティがあれば
救われることがあるかもしれない。

ふと、そんなことを思わされた瞬間でした。

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