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【新刊先読み】句点「。」で言い切る言葉の是非を問う本『句点。に気をつけろ』

2024年2月21日発売の新刊『句点。に気をつけろ 自分の言葉を見失ったあなたへ』(尹 雄大著)より、本文の一部を抜粋してお届けします。

誰もがテキストのような  
言葉を話し出している


  
 僕は長らくインタビュアーとして活動してきたので、近頃はそうした経験を踏まえて、「聞くこと、話すこと」と題した講座を開催している。あるとき参加者の数人に受講の動機を尋ねてみたら、こういう答えが返ってきた。
  
「普段からうまく話せなくてですね…。いまもそんな感じですけど…なんかすいません。…だから仕事でも迷惑かけてると思ったりしてます。でも、できないって意識すると余計に話せなくなります」

「順序立てて話すことができないから、そういうのやっぱり恥ずかしいなって思うんです…。いつまで経っても変わらないし…、ダメだなって思ってます。」

「もう少し感覚的にではなく論理的に話せと周囲に言われてて…。でも、どうしたら論理的に話せるのかわからない。コンプレックスですね。」
  
 僕は彼や彼女たちの話す内容ではなく、「…」が時折織り込まれる語り口がとても気になった。というのは、「…」といった間を空けたり、口ごもったりしていて、それを指して「うまく話せない」と言いはする。けれども自分を否定することにかけては、

「迷惑かけてると思ったりしてます。」
「ダメだなって思ってます。」
「コンプレックスですね。」

と、ちゃんと律儀に「。」と句点を打って断定している
わけで、そういう意味では自己否定を滑らかに生真面目に行っているからだ。
 そこで「うまく話せないと言われてますよね。だけど自分を否定することに関しては淀みがないんですけど、それについてはどう思います?」と聞いてみる。すると、そういえばそうだなといった感じで、「あれ? なんでだろ」という表情をする人が多い。
  
 コミュニケーション能力という語を耳にする機会は、職場や学校でも増えているし、メディアでも見かける機会は多い。いまやコミュニケーション能力は、円滑な人間関係に欠かせない重要な位置にある。人間関係を円滑にするものという期待があるから、実際の言葉のやり取りがギクシャクしたものとしてはまったく想像されていなくて、立板に水ほどではなくても、理路整然とした口調が「あるべきコミュニケーション」として思い描かれていると言っていいんじゃないか。
 たとえば大勢の前でのプレゼンテーションにおける、流暢で、しかも人の共感を呼ぶような話し方であるとか。もしくは芸人のようにスラスラとストーリーを話す中に笑いも潜ませるといったものだとか。それらを一手に引き受け、かなえてくれるのが「コミュニケーション能力」だという考えを抱いている人が多いのではないかと感じている。講座に参加した人の話からもその傾向が窺える。
  
 とりあえず、これを話し言葉の「テキスト化」と呼びたい。テキスト、つまり書き言葉のような整然とした言葉を話すことがいいとされる現象として捉えてみる。確かにテキストには「…」みたいなつっかえや淀みの時間帯がない。それを話す際にも持ち込んで、「私は~だ」という、いわば「AはBである。」式の因果関係のはっきりした言葉を話さなくてはいけないといった強迫的な思いが空気みたいに横たわっている。そういう言葉づかいをしなくてはいけないという考えが広まり、手際よくまとめて話せない人の言うことは「聞かなくていい」という感性を当たり前に感じられるようになっている。
 テキストめいた言葉で話せるといった、理想的な能力の発揮された姿に比べて、自分の話し方ときたら途切れ途切れだし、言いたいことがうまく言葉にならない。なんとか言葉にしてはみたものの、話している途中から「そういうことが言いたいわけじゃないのに」という感覚がやって来て、結局相手にうまく伝わっていないという失望しか手に入らない。そこで「自分はダメだ。」と結論づける。こうしたテキストの締めに断定として用いられる「。」が曲者だと思う。
  
 僕は、誰かが話しているときに「。」を重視しない。実際、講座でもそうで、それこそテキストめいた言葉を話せるようなコミュニケーション能力を得られるノウハウを説いてはいない。
 むしろ「うまくなろうとする」ことをまずは気にしないでいいということを繰り返し話している。別に慰めで言っているわけでもない。
 世の中には、「あのー、なんて言っていいかわからないんですけど…、なんかそんな感じがするんですよ」みたいな話し方をする人はけっこういる。そういう人は誰かと話をするたびに傷ついていたりする。というのも、これまでこんな指摘をたくさんされてきたからだ。

「言いたいことを明確にして、それを相手に適切に伝えなきゃ」
「根拠を明らかにしないと単なる感情論、主観の話で終わってしまうよ」

  
 これらのメッセージはすべて「あなたの言っていることは受け取らない」だ。それは傷つくと思う。確かに拙いかもしれない。でも、拙いなりに伝えようとしていることがあるんだという気持ちを無視され続けるのは、けっこうきつい。
 僕も昔はそうだった。僕の場合は言葉が途切れ途切れでうまく言えないといったレベルではなく、モゴモゴと口ごもるだけ。相手からすると、「なんか言いたいみたいだけど、さっきからなんにもしゃべらないし、なんだか力んでいるし」といった不穏な状態に見えただろう。いまではそれを場面緘黙症とか吃音症の難発に近かったんじゃないかなと思う。
 そういう経験があるので、講座では相手が伝えようとしていることをとにかく受け取る。なので、「そんな感じ」とはどういう感じなのかをとにかく話し切ってもらうようにしている。「なんて言っていいかわからない」ことをわからないままに話し切るのは大事だし、最後まで話すことができたらすごいことだと思っている。なぜかと言えば、その人はその人の言葉を貫いたから。
 こういう試みは世間のニーズとは一見すると合っていないかもしれないけれど、コミュニケーションの深まりは体験できるのではないかと思っている。
  
 いわゆる「だらだら」した話し方をする人も、あるべき正しいコミュニケーションを身につけるという教育を受けて、「私はこう考えています。なぜなら――」というテキストのような論理的な話し方ができるようになれば、コミュニケーション能力が向上したと評価されるのだろう。それができれば社会を生きる上では役立つだろう。でも、その人の中の何かが無視され、損なわれてしまった気がするので、そんなに喜ぶべきことだろうかとちょっと思ってしまう。
 努力した分だけ以前と比べたら話しぶりは滑らかになるかもしれない。その滑りの良さ、ツルツルさ加減は、触っても引っかかりのないコーティングを施されてしまったとも言えるわけなのに、あまりそこは注目されない。
  
「コミュニケーション能力が向上しますよ」というフレーズの「向上」が気になってしまうのは、それより前に注目すべきことがあるはずだから。たとえば「料理ができない」と思っている人がいて、「料理がうまくできるようになりたい」と望むのは、当たり前なことではあるけれど、その素朴な向上へのこだわりがある限り、うまくなるのは実は難しくなっているんじゃないか。
 というのも「料理ができない」のであれば、差し当たり目指すべきは「うまくなる」ことではなくて、単純に「料理をする」といった体験を積み重ねていくことだから。
 大事なのは、たとえ味がイマイチだろうが、見栄えが悪かろうが、ともかくそれが現状の自分にできることと理解して、それを拠り所にするしかないということ。そこを地歩として固め、さまざまな料理体験を重ねていく中で「もうちょっと塩を入れた方がいいのかも」「このタイミングで火加減を弱めた方がいいんだな」といろいろと気づくことが出てくる。そちらに舵を切ってみる。そうしたらそれなりの結果が生じて、「できない」と「できるようになった」の境目が見えてくる。結果として「うまくなる」はついてくるんだと思う。
 物事がうまくなるには、感覚的な把握が欠かせない。それには自分で実際に手を動かす必要があって、「できる」という体験がもたらす感覚から「こうすればいいんじゃないか」の按配がつかめるようになるはず。料理がうまくなりたいなら、他人の料理の腕前に見惚れていてもしょうがないわけだ。
 なので、どれだけ下手で鈍臭くても、そこから出発するのが大事。それをすっ飛ばしてしまうのが、うまくなろうとして表面的なテクニックや知識を身につけようという努力の仕方なんだと思う。料理に限らずコミュニケーション能力と呼ばれるものについても同様だ。
  
 ネットで「コミュニケーション能力 ノウハウ」で調べたら、「結論や目的を明確にする」「共通の話題を話す」「相手の使った言葉を話す」といった方法をたくさん知ることができる。共感を高めるには「同じものを同じタイミングで飲む」とか、周知の事実もけっこう多い。
 かと言って聞き飽きたくらいのノウハウであっても、いざそれらを踏まえてコミュニケーションをとろうとしてもうまくいかないものだ。うまくいかないのは当たり前で、いまの自分は「うまくない」からだ。
 現状の「できる」に根ざしていないから、うまくいかない。だけど、下手でもいいので現状の自分ができることをやったら、「できた」という結果は得られる。「いまの自分のままやってみる」という単純なプロセスを踏まえたら「うまくできる」は無視できる。このあたりの理解を阻むのは、ノウハウのような書かれたテキスト通りのことを生真面目にやろうとする姿勢にあるはずだ。肩の力を抜いて楽に、楽しんでやればいい。
  
 ノウハウの難しいところは、誰かの成功体験をもとに作られているのは確かだから、有用なはずだけれど、誰もがそれさえ行えばうまくいくわけでもないところだ。そこがややこしい。
 先述したような「相手の使った言葉を話す」を実行すれば、淀みのない会話はできるかもしれない。現象だけを見れば、滑らかなコミュニケーションが行われるかもしれない。でも、あくまで表面的なやり取りだから互いの言葉の深まり、理解には行き着かない。なにが有用性を失わせているのだろうと言えば、句点「。」の存在ではないかと思う。
  
「結論や目的を明確にする。」
「共通の話題を話す。」
「相手の使った言葉を話す。」
  
 テキストの語尾の句点は、ノウハウを確定した事実のように誤解させる。必要なのは誤解ではなく理解だ。
 さっき「誰かの成功体験をもとに作られているのは確かだから、有用なはずだけれど、誰もがそれさえ行えばうまくいくわけでもない」と書いた。ノウハウは決まって「こうすればこうなる。」という形で書かれている。
 そうした誰かの成功体験は僕の体験しなかったことだ。僕とは違う人の成功体験なのだから、そのまま実践してもそれを活かすことはできない。サイズの違う服は身体に合わないのと一緒だ。
 ノウハウは、その通りに実践しないと意味がないのに、それが自分に合うとは限らない。いわば「ノウハウ通りにやらないといけないが、ノウハウ通りにやってはいけない」わけで、頭は「わけがわからない!」とお手上げになる。そうなると「何をやっていいかわからない」と壁にぶち当たって進めない感覚になるだろう。
 必要なのは頭を介在させないで体験すること。それが料理をやってみることだし、そのままの自分で話すことだ。とにかく、そのままの自分で楽にリラックスして行ってみるとき、「結論や目的を明確にする。」の句点は、「結論や目的を明確にする、」と読点に替えられて、終わっていたはずのテキストの続きが始まる。
 つまり「結論や目的を明確にする、とはどういうこと?」といったように。あるいは「結論や目的を明確にする、と言われてもそれ私の経験じゃないし。まだわかんない」と確定しているように見える事実を自分の言葉でつなげていくことによって、事実を揺さぶっていく。大事なのはこうした問いかけを、自分なりにやってみるしかないということだ。
 言われた通りのことをやるというのは利口な振る舞いだと思う。でも、本当はそういうことに窮屈さを感じているんじゃないだろうか。
 書かれたノウハウのテキストの枠に自分を押し込めることに真面目に取り組むのではなくて、いまの自分のままでやってみる。僕は口ごもって話せない歴が長くて、それこそ40歳まで人前でしゃべるなんて想像もしなかった。それがいまでは講座とか講演で話したりしている。吃ったりつっかえたりしたまんまで。それで何の問題もない。だから試してみるというのは悪いことじゃないなと思う。それがその人独自の持ち味を作り出すんじゃないか。