見出し画像

避難所のごはん事情、物資事情、私の場合

東日本大震災が起こったとき、本当にいろんなことがあった。
ここでは被災直後のご飯と物資の事情に限定して書いてみたいと思う。
震災翌日津波の水は引いており、私と長男は濡れずに済んだ毛布と最低限の貴重品を持って小学校に向かった。
小学校にはすでに大勢の人が避難していた。赤十字が配っていた2人で1枚の毛布とペットボトルに入った水を一本ずつ受け取り、なんとか入れそうな教室を見つけて座り込んだ。
毛布が足りないと文句を言っていた人が多かったのには呆れてしまったけど。
あとで雑誌の記事を読んでわかった事だが、この水はたまたま無事だった井戸水を汲んだものだったそうだ。
どおりでラベルがなかったわけだ。
前の日から飲まず食わずだったが不思議と空腹感はなかった。
私はその水を持って一度家に帰り、残してきた猫に水をやった。ペットを同伴した人たち専用の部屋も用意されていたのだが犬がたくさんいて、うちの猫が同じ部屋で過ごせるとは到底思えなかったからだ。
その後遺体の第一発見者になってしまい、手続きを終わらせ避難所に着いた頃にはすっかり日は暮れていた。同じ部屋にいたご婦人が「息子さん、梅干しが入ってるからいらないって言うので」と言って私におにぎりをくれた。その時は息子もまだわがままを言う余裕があったのだと今になって思う。その日食べたのはその誰が作ったのかわからないおにぎりだけだった。
次の日、やっと中学校に足止めされていた次男を迎えに行った。避難所に戻ると長い行列ができていた。炊き出しを配っていたのだ。炊き出しのカレーは近くのお弁当屋さんが提供してくれたものだった。ところがカレーは偶然私の目の前でなくなった。さすがにちょっと泣きそうになった。「その代わりエビフライがあります」と言われ味付けのないエビフライとちょっとのご飯をありがたくもらった。
翌日運悪く生理が来てしまったが、生理用ナプキンやトイレットペーパーはかなりの量があってありがたく使うことができた。近くの薬局が提供してくれたのだと思う。歯ブラシは歯医者さんが皆に配っていた。
飲食店、農家さんが材料や米を持ってきてみんなで炊き出しをした。とりあえずあるものを突っ込んだごった煮の謎の汁物を町内会の人たちと頑張って作った。避難している人に対して米はあまりにも少なく小さな小さなおにぎりをたくさん作った。私は不器用すぎてすぐにお役御免になってしまったけど。
トイレはプールの水をバケツリレーで運んだ。もうトイレが使えなくなるぎりぎりのタイミングで仮設トイレが到着した。
そして提供してもらった食料がなくなるという時ようやく救援物資が届き始めた。

災害が起こって数日は救援物資は届かないものと思ったほうがいい。うちの場合は平屋で津波を被ったせいで食料はダメになってしまったが、今でも何日分かの食料は備蓄しておくように心がけている。
あっ水は用意してなかった。買ってこなくちゃだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?