あべけいこ

東北の小さな町に息子2人猫二匹と暮らしてます。日々感じたことをぽつぽつと書いてみたいと…

あべけいこ

東北の小さな町に息子2人猫二匹と暮らしてます。日々感じたことをぽつぽつと書いてみたいと思います。

最近の記事

避難所のごはん事情、物資事情、私の場合

東日本大震災が起こったとき、本当にいろんなことがあった。 ここでは被災直後のご飯と物資の事情に限定して書いてみたいと思う。 震災翌日津波の水は引いており、私と長男は濡れずに済んだ毛布と最低限の貴重品を持って小学校に向かった。 小学校にはすでに大勢の人が避難していた。赤十字が配っていた2人で1枚の毛布とペットボトルに入った水を一本ずつ受け取り、なんとか入れそうな教室を見つけて座り込んだ。 毛布が足りないと文句を言っていた人が多かったのには呆れてしまったけど。 あとで雑誌の記事を

    • 震災から12年、息子が語ってくれたこと

      震災から12年経ったある日、突然長男があの日おじいちゃんが夢の中で語ったことを教えてくれた。息子がこの話ができるようになるまでこんなにもかかるとは私も想像できなかった。 震災当時、私たち家族は元旦那、元旦那の両親、祖母、私と息子ふたりの7人で暮らしていた。いわゆる大家族だ。当日うちにいたのは私と長男、義父と義祖母の4人。義母は義父の薬をもらいに病院へ、元旦那は仕事先、次男は中学校にいた。海から3キロは離れていた自宅は2メートル近くの津波に襲われた。私と長男、義祖母はかろうじ

      • 実家が微妙なお化け屋敷だった話

         私の実家は畑だった土地を購入した両親が建てた家で、お墓だったとか怖い事件があったなんて言う謂れは全くないはずの場所だった。 お金がなくて平家を建てた数年後、二階部分を二部屋増築した。私と姉は自分のやっと部屋が持てると喜んだものだった。今にして思えば実家の雰囲気が変わったのはその頃からだったかもしれない。  部屋が二つあるのだから、私と姉は当然ひとり一部屋ずつあてがってもらえると思っていたが、母親は西側の一部屋を姉妹で使うように言った。  しかしうちの姉妹は5歳違い。子供

        • 息子の卒業式

          2011年3月、長男は高校2年生、次男は中学生2年生だった。長男の高校は校舎が津波で使えなくなり、内陸の高校を間借りして授業を行うことになった。本当は電車通学させたかったが、当時は金銭的な問題もあり(簡単に言えば貧乏だった)頑張って自転車で通ってもらった。今調べてみたらほぼ片道10km、毎日となるとなかなかの距離だ。ちなみに自転車もカナダからいただいた。あの時は世界中に助けてもらったと本当にありがたく思う。 間借りした校舎での三者面談、息子の担任はちょっとだけ怒っていた。息

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          やがて悲しき読書感想文

          小学生が嫌う宿題トップ10というものがあったならおそらく上位にランキングするであろう読書感想文。私も毎年あらすじと感想を適当に織り交ぜながらのやっつけ仕事でなんとか乗り切っていた記憶がある。 ところがそんな適当やっつけ作文になぜか目をつけた先生がいた。これはその時の話だ。確か5年生の時だったと思う。担任から急に呼びとめられた。この担任(女性)元々は中学校の英語教師だったせいかやたらと厳しく、私はほぼ叱られた記憶しかない。おしゃべりで喧嘩っ早く忘れ物が多い問題児童だったから仕

          やがて悲しき読書感想文

          真っ赤なゴルフの話

          手がかかる子ほど可愛いなんてよく聞く話だけど、車も同じでやたら故障した車の思い出は今でも鮮明だ。当時は散々だった出来事も遠くなってしまえば笑える思い出話になったりするものなのだ。 我が家では30年ほど前、たった一度だけ外車を所有したことがある。持ち主は母親だった。母は44歳の時に運転免許を取得した。かなり遅いほうだと思う。当時、我が家には父親のリベルタビラ(それにしてもマイナー車だ)一台しかなかった。父は昔から頑固でしかも出不精だった。行ったことのない場所に行く、高速道路を

          真っ赤なゴルフの話

          ぴーちゃんの思い出

           これを読んでくれた方、ぴーちゃんって何?小鳥?って思ったかな?実は宮城県北部では曽祖父をおっぴいさん、曽祖母をおっぴいばぁさんと呼ぶのです。それが一段階くだけた表現になるとぴーちゃんになる。さらにくだけるとピッピ、もはやポケモンです。  私にはぴーちゃんと呼べる人が二人いました。ひとりは母方の曽祖母、もうひとりは元旦那の祖母、今回のお話はこちらのぴーちゃんが主役です。  あちらの家族は知らないと思いますが、実はぴーちゃんがいなかったら私は結婚していなかったというほどの重

          ぴーちゃんの思い出

          私が海岸を歩くまでの物語・その1

          日付が2月24日に変わった頃、私は一通のツイートを前に考え込んでいた。それは田中泰延さんが2月25日から27日にかけて、岩手県を訪ねるというものだった。  今まで首都圏や大阪で開催されたイベントを指をくわえて眺める事しかできなかった私に訪れた、貴重なチャンスだと思った。でも即決はできなかった。  実は私事で恐縮なのだが、21日にすでに有給を使って休んだばかりだったのだ。それもよりによってポケモンGOのコミュニティデイの為に。あぁ、サイドンなんかのために休むんじゃなかった

          私が海岸を歩くまでの物語・その1

          トラウマと音楽

           先週の早朝、私は三陸道を走っていた、ある人に会うために。宮城県仙台市から岩手県宮古市までをつなげるこの自動車道は気仙沼の辺りで途切れ途切れになっていて、小泉海岸で一度国道に下りることになる。  国道から海が見えた瞬間、カーステレオからミスチルの「かぞえうた」が流れてきた。繋いだiPhoneの設定はランダムなのに「もしかして意思がある?」と思うようなタイミングで曲をかける時がある。今もそんな感じだった。  海と「かぞえうた」、一気に思い出す9年近く前のこと。音楽と思い出は

          トラウマと音楽