【小説】ミヤマ 8

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 美術の授業。ミヤマとライとユズの三人は同じ机につくのが習慣になっていた。もともとはひとりでいたのに、どうしてこうなったのかと、ミヤマは時々不思議に思う。ここは彼の場所だった。ほかの二人は部外者だった人間だ。遠く隔たった大陸から船に乗ってこの島へやってきた。その理由を、ミヤマはよく知らない。

 けれども終わりが近づいている。胸に空いた空虚さは埋まらない。

「よかったらきみのペンを貸してよ。エメラルド色のペンって、わたし持ってないんだ」

 ミヤマは無言で隣のユズにペンを手渡した。

「ありがとう」

 少年は自分の絵に向きなおった。課題は点描画。手元には無数の点で描かれた、できかけのカップ焼きそばの絵がある。蓋の隙間からは湯気が漏れ、容器の脇にはソースと青のりの入った袋が転がっている。

 ミヤマはペンのキャップを開け、いまだ点を打ちつけてない蓋の表面を見た。『麺にからむソース!』の文字を描きながら、先ほど教師の鞍無が言ったことを思い出していた。

「点描画はいわば錯覚なんです。ただの点の集まりでしかないものを、人間の脳は無意識に錯覚して勝手に像を結びつけてしまう。点と点の距離が近ければ、それらをつなげて線にしてしまうんです。我々が認識している世界は、脳がつくりだした虚構でしかないんですよ」


「しかし単純に色をあわせればいいわけではないのは難しいところだな」向かいでライがつぶやいた。「ただ黒いだけの影では立体感がない。案外おれたちの影も細かい部分まで分解してみるといろんな色があるのかもな」

 ミヤマのカップ焼きそばの影はエメラルドとえんじ色の集合だった。彼はその影を見つめ、ペンを手にとり、さらにそこへ山吹色を付け加えた。

「ライくんはいったいなにを描いてるの?」とユズが尋ねた。

 ライは無言で画用紙を差し出した。そこには渦を巻いたカラフルな立体が描かれている。

「なあに、これ?」ふたたびユズが尋ねる。

「さあ、おれにもわからん。このあいだ、娘がおれにくれたんだ。粘土でできていたんだが、なかなかの完成度だったよ。あの子は将来、足の爪を足の爪で切るような、そんな芸術家になるかもしれんな」

「相変わらず家族仲がいいんだね。うらやましいよ」

「ああ、当然だ。うちは喧嘩なんかしたことない。いつだって仲よしなんだ。これまでもずっとそうだったんだし、これからもずっとそうなんだよ」

 ミヤマは耳を塞ぎたくなる衝動をおぼえた。

「しかし慣れた手つきだな。点描画をやったことあるのかい?」今度はライがユズに尋ねた。

「うん。実はそうなの。家でもちょくちょくやってるんだ」ユズは作業をつづけながらこたえる。

「ふーん?」

「わたしが最近はまっているので、『世界の名画を点描画で描こう』っていう雑誌があるの」ユズは手首を小刻みに動かし、画用紙に点を打っていく。「わたしみたいな素人でも、シャガールとか、葛飾北斎とか、上村松園とかの絵を、指示通りにやれば精巧に描くことができるんだよ。無数の点を使うことでね。途中は自分がなにをつくっているのか、どこに向かっているのかもわからないんだけど、ある程度時間が経つとちゃんとした形になってるの。それってすごいことだと思わない? ひとの技術をこんなふうに教えてもらえるなんて」

 ミヤマは動かしていた手を止め、自分の手元を見つめた。ペン先が空中で息を止めている。指先に力をこめ、強く握る。少ししてから力を抜くと、反動でペンが揺れた。

「すでに完成して、評価されている作品を模倣するということ?」ミヤマは静かに尋ねた。

「そう。そういう言い方もできるかもね」ユズがペンを振りまわす。「わたしはただの凡人だから、天才たちの作品を借りて自分に憑依させると、自分が天才になった気がしてくるの。もちろんそんなのただの錯覚でしかないんだけど、そこから学べることもたくさんあるから、やめられないんだよね。天才たちの思考の足跡をたどることができるっていうか」

「技術を盗むってやつだな」ライが頷いた。「結局、仕事でもなんでも教わらなきゃできないやつは置いていかれる。真似する力は大切だ」

「絵を描けるようになれたらと思うの」ユズは言った。「べつにプロでなくてもいいから、趣味程度にね。人物画とか風景画とか描けるようになったら、家に飾れるじゃない? ずっと絵の飾ってあるおうちに住みたいと思ってたの」

「それで、そのシャガールとか、上村なんたらの絵を真似して家に飾るのか?」とライが尋ねた。

「それも悪くないかもね」ユズはほほえんでみせた。

 時間が経つにつれ、ミヤマのカップ焼きそばは完成に近づいた。そして完成に近づくにつれ、少年は点を打つことにためらいをおぼえるようになった。この作業が終わるころには、ひとつの夢が終わりを迎えるかもしれない。そうなったら、きっとミヤマを破壊が蝕む。いったいどうやって耐えたらいいのだろう?

 しかしミヤマは思い出した。かつて自身が口にした言葉を。彼はそもそものはじめから、夢から夢へ渡り歩く旅人なのだ。

「この授業が終わったらラーメンでも食いに行かないか?」ライがミヤマに尋ねた。「最近寒くなってきたし、あたたかいものでも食べようや」

「今日はまた鞍無に呼ばれてるんだ」ミヤマは静かに言った。「だからまた今度ね」

「ねえ、このあいだ連れていってくれた子供食堂に、またついていってもいいかな?」ユズが尋ねた。「今度あの女性のボランティアをわたしも手伝うことになってね。今後は密に連絡をとろうと思うの。できたらきみともね」

 ミヤマは尖ったペン先を画用紙にぐりぐりと押しつけた。

「ねえ、どうかな?」

「気が向いたらね」とミヤマはこたえた。

「どうしたの? あまり元気がないみたいだけど」

「なんでもない。いつもどおりだよ」


 絵の具の染みや彫刻刀の傷で埋め尽くされた机を挟んで、ミヤマは鞍無の向かいに腰かけた。鞍無は無表情にミヤマを見つめる。

「どうですか、最近の調子は」と彼はいつもどおりの問いを投げかけた。

「ええ、まあ。ぼちぼちです」とミヤマはこたえた。

「なにか生活に変化はありませんか? 懸念や心配事などは?」

 ミヤマはしばらくなにもいわなかった。目を閉じて思考の沼に沈んだ。やがて目を見開き、落ち着かない空気を隠しもせずに話しはじめた。

「現実に生きる人間ってのは、どうしてこうもぼくを放っておいてくれないのだろうと、時々不思議に思うことがあります。ぼくはただ静かに、平凡に死にたいだけなのに、ただぼくがぼくとしてそこにいるだけで、まわりの人間はそれを許してはくれない。なんですか。愛していると一度でも口にしたパートナーに裏切られるというのは。彼は己の肉体と精神を相手に捧げたというのに、女のほうはそれを受けとれて当然、自分はそれに値するとでも考えているのでしょうか。相手を盲目的に信じた彼も彼です。もともと人間という生き物は、大半が猿とそれほど変わらぬ知性なんです。それに気づかなかった愚かさはもはや呆れてしまいます。実際、ぼくらはそれほどまでに生まれ育った環境によって左右される生き物なんです。仮に赤ん坊のころから獣たちの群れのなかで育てば、その人間は言葉を口にしないでしょう。未来を予測する力も育たなければ、アルゴリズム的論理を組む力も弱かったはずだ。まともな教育を受けられず、学習する意欲も持たない人間は、もはや人間にすらなれない。そしてこの世界にはそういった生き物が溢れかえっています。彼らを人間とは、ぼくは呼ばない。そのへんの猿や鹿と変わらない。ただ本能のおもむくままに理性を食いつぶす、けだものたちだ。

 現実の人間なんてそんなもんなんです。彼女らはぼくにぼく以外のなにかしか見出さない。ほんとうのぼくを見てくれるひとなど、いまだかつていたことはありません。ぼくはすごい人間でも優しい人間でもない。気に食わないことがあれば一瞬で相手に幻滅してしまうような男です。できた縁など、平気で引き裂けますよ。実際、いまさっき人間関係を台無しにしてきたところです。彼女がそのことに気づいているかはわかりませんが。さらなる昇華を望まぬ模倣などぼくは認めない。城壁をぶち破るのが芸術の真の価値だろうに。ほんの少しでも彼らに心を開いたぼくがばかだった。この世界の人間はだめです。やはりぼくはあの島で、ひとりぼっちでいるべきだったんだ。結局こうなることはわかっていたんです。それでも求めてしまったから、その報いを受けた。ぼくは帰ります。ぼくのもといた場所へ。もう二度と、この夢を見ることはないでしょう」

 鞍無はしずかにミヤマを見つめた。老人の胸に、少年に対する憐れみと、慈しみの念があふれた。老人は少年に手を差し伸べたかった。少年を宙に浮かんだ高密度の雲から引っぱり出し、地上に湧き出る水は決してうまくはないが、それでも四肢の渇きをいやしてくれるものなのだということを教えてあげたかった。この世には時折、神秘の聖性をもって生まれ落ちた巨人が現れて、人類は彼らの肩に乗ってこの宇宙を眺めているのだということを教えてあげたかった。そしてなにより、我々のだれひとりとして、遥かな頂には登りつめてはいないのだということを教えてあげたかった。

「また、戻ってしまうのですか? あなたがもといた場所へ?」

 ミヤマは無言で老人を見つめた。鞍無の目は悲しげだった。少年は立ち上がり、背後にはどうにもならない空虚だけを残し、静かに、たしかな足取りで冷たい床の上を横切り、教室をあとにした。


 朝日が目に沁みる。管理棟の陰で体を起こすと、ミヤマは額に手を掲げ、陽光を遮った。冬の寒さは凍てつくようだったが、寝袋に包まっているあいだはなんとか耐えることができた。結露によって背中側が濡れている。ミヤマはぼーっとする頭であたりを見渡した。この季節のこの時間、公園にひと気は少なかった。少年はひとりだった。立ち上がり、寝袋についた水気を軽く払い、荷物をまとめて準備をはじめた。

 朝の新宿を、自転車で走り抜けるのは久しぶりだった。ここのところ、ほとんど毎日ライの仕事を手伝っていた。もう何度も通り、何度も触れた光景を、ミヤマは生まれ変わったような気持ちで眺めた。やはりこれが自分の住むべき領域だ。人々は足早にアスファルトのうえを歩き、目的の場所へ急いでいる。その空虚な目には真の意味での明日すら映っていない。この街でミヤマの存在はあいまいだった。現を通り越し、夢から夢へと渡り歩けるのが新宿という街だ。少年は、いまではもうすべてが自分の思いどおりになる気がしていた。この街ではひとの身で神になれる。その手法を知っていて、なおかつ愛を知ってさえいれば。

『黄昏の美術館』は開館したばかりだった。ミヤマは飾り気のない灰色の建物を見上げ、その不動になつかしさをおぼえた。きっとなかに入れば無愛想な受付がそっけないあいさつをし、ミヤマの存在などはじめからなかったかのように、自己の生活へ戻っていく。館長の老人は戻ってきたミヤマを悲しい目で見るだろう。まったく。老人というのはいつの時代も度し難い生き物だ。

 口元に笑みを浮かべ、少年は足を踏み出す。ふたたびあの女性に出会うために。視界は霧が晴れたようにクリアで、空には雲ひとつない。足取りはたしか。

 その足ははるか遠くの未来に向かっている。   

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