【小説】ミヤマ 5

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 それからしばらくの間、ミヤマはバイトをつづけた。お金ほしさからではなく、単にそうすることが正しいと思えたからだった。回数を重ねていくにつれ、腰まわりの筋肉が肥大していくのを少年は意識していた。若い肉体はすぐに労働へと適応し、最適な形に変化した。

 学校が休みの日には、決まってユズが働く店でランチをとった。ミヤマがいやだと首を振ればそのような習慣は生み出されてなかっただろうが、少年にそんなことはできるはずもなかった。彼は秩序を壊すことを極度に恐れていたからだ。小さなカフェのカウンターで、三人は額を寄せて語りあった。ミヤマは聞き役にまわることが多かったけれども。

「妻のところのじいさんが、これまた厄介なやつなんだよ」

 カウンターに肘をつきながらライが言う。

「物事を自分の思い通りに運ばせることで、ようやく心の健康を保てているような年寄りだ。おれたちが言うことを聞かなければ発狂して、八つ当たりして、わがままを言いはじめる。だいたいいまの時代、どこに恥じらいもせず〝グレート・ギャツビー〟を〝グレート・ガツビー〟なんて発音するやつがいるよ? 〝ティファニーで朝食を〟なんて、あいつに言わせれば〝テファニーで朝食を〟になっちまう。そんなやつをどう思う?」

 ミヤマとユズは顔を見あわせる。洗いたての皿を拭きながらユズは言う。

「むかしのひとの発音ってちょっと特殊だよね、わたしたちからすると。わたしはそこまで気にならないかなぁ」

「そりゃ、おまえはあのじいさんを知らんからな」ライが自嘲気味に言う。「おれはきらいだね。〝グレート・ギャツビー〟を〝グレート・ガツビー〟なんて発音するやつにろくなやつはいない。自転車のサドルだけ盗むやつにろくなやつがいないのといっしょだ。しゃもじ程度の知能しか持ってない」

「ホリーみたいな人生ってあこがれるなぁ」とユズが言う。「わたしってそういうところがあるの。他人の人生を追体験しちゃうというか。わたしもティファニーのメダルをだれかにもらえたらなって思うんだ。そうしたらわたしは、雷が鳴り響く空のうえでだって生きていけそうな気がするの」

「ホリーってたしか、ハッピーな結末を迎えられたとは言えない道を歩んだキャラクターだろう?」ライが尋ねる。「あんなのがいいのかい? あんな稼働中の洗濯機のなかみたいな人生が」

「さあ、どうなんだろうね?」ユズがミヤマを見てほほえんでみせる。「でも退屈な人生を五十年歩んでいくより、濃密で燃えるような三日間を過ごすほうが素敵な気はするなぁ。たとえそのあとすぐに死んじゃうとしてもね」

 こんな日々が青空を横切る飛行機雲のようにつづいた。こうして少しずつ、この少年の胸のうちになにかが芽生えはじめた。

 仕事が休みの日でも、よくライに呼び出され、彼に付きあうことが少なくなかった。ある日などは夕方から彼の軽トラに同乗し、江の島の海岸までドライブすることになった。

「困ったことがあって、仕事にまったく集中できん」

 第三京浜を狂乱した鹿のような猛スピードで走りながら、ライは静かな声で告げた。

 ミヤマは過ぎ去っていく景色から目をそらし、隣を見た。手元には先ほどもらった缶のコーンスープがある。涼しい季節だった。山々では紅葉がはじまり、作務衣では夜を越すのが厳しくなってきたほどだ。ミヤマはいぶかしげに尋ねた。

「困ったこと?」

 ライは視線を前方に向けたまま頷いた。

「最近の話なんだがうちの娘がな、なんだか少しおかしいんだよ。食事時に食べ物をこぼしたりフォークをうまく扱えなかったりすると癇癪を起こす。着替えなんか、わざとシャツとズボンを上下逆に着ようとして、服が破れるくらいに無理をしようとするんだ」

「前はそんなことなかったよね?」

 ライは頷いた。「いったいあの子になにが起きてるのかわからん。もうすぐ三歳になるんだが、あの年頃の子供はみんなそうなんだろうか。赤の他人に対して過剰なほどの怯えを見せるし、そうかと思えばおれたち家族には時々乱暴になる。このままじゃ、将来学校に通いはじめたときにいじめられるんじゃないかって、心配なんだ」

「親なら心配だよね、子供のことは」

「ああ。妻とも相談しているんだが、一度、専門家の人間に診てもらうのがいいのかもしれない。あるいは年齢を重ねていく過程で自然と治るものなのかもしれないがな」

「ぼくも知りあいに尋ねてみるよ。そういうのに詳しそうなひとがいるからさ」

「そうか、ありがとう」そう言ってライは表情を和らげた。


 江の島につく頃には陽が沈んでいた。二人は波が打ち寄せる海岸沿いを並んで歩いた。月明かりに照らされた砂浜。吹きつける潮風。他愛もない会話を繰り広げながら、濡れた砂の上に足跡を残していく。ミヤマはこのような時間を過ごすのは生まれて初めてのことだった。時が経つにつれ、手の平からなにかが零れ落ちていく感覚。そのなにかは少年にとってかけがえのないもので、もしもそれの形を崩さずに守りたいのなら、ひとは孤独を選ぶしかない。だが実際にそのような選択をできる人間がどれだけいるだろう? 少年は立ち止まり、穏やかで冷たい風を全身に受けながら、月明かりに手を伸ばした。彼女のことを想う。少年を優しく包みこんでくれる彼女。新宿の街をさすらう彼女。少年を照らし、導いてくれる……。

 あれ? 彼女の名は? 彼女の顔は?

 前を進んでいたライが立ち止まり、振りかえった。ミヤマは掲げていた腕を力なくおろす。二つの小さな人影が月明かりに根を張っていた。波の砕け散る音が遠くから聞こえる。

「ユズはおまえのことをもっと深く知りたがってる」

 その言葉を聞いてもミヤマは驚かなかった。崩れていく砂の上で二人は向かいあい、見つめあう。

「あの娘は本気なんだと思う」とライは言う。「おまえとのことを真剣に悩んでいる。よく相談を受けるんだ。彼女が送ってくるメッセージは苦渋と思いやりに満ちている。そろそろ向きあうべきだと思うんだ。距離を縮めるにしろ、突き放すにしろ」

 ミヤマはなにも言わずに海を眺めた。潮風が作務衣の隙間から侵入し、柔い肌をチクチクと刺した。

「今度、おまえと二人きりで出かけたいんだそうだ」ライはつづけた。「おまえは携帯電話を持ってないから、おれに連絡がきた。断るのも受け入れるのもおまえの自由だとおれは思う。けれどどちらかの答えは出してやってほしい。あいつはもう充分すぎるほど苦しんでるだろうから」

 それは黄昏を熱望した少年の終わりだった。彼は夢から目覚め、夜明けに向かって歩きはじめた。

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