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【小説】オールトの海でまた ☀️1

☀️

1

 いまよりずいぶん前のことになるけれど、体を壊して病院で寝泊まりしなければならなくなったことが一度だけある。当時わたしは十七歳で、小田原市内の高校に通う三年生だった。倒れたのは昼休みが明けた授業でのことだった。体育の授業は男女に分かれ、二クラス合同でおこなわれた。わたしたちは校庭のどまん中に膝を抱えて座り、教師が甲高い声でリレーのバトンの受け渡しについて説明しているのを聞いていた。そのときだって、自分の体に異変が起きてるとか、いつもと調子が違うとかは感じなかった。ただ強いて言うならば、体操着の襟の部分が妙にきつく感じられた。多分、わたしはその授業の間、ほとんど無意識のまま何度か喉をさすっていたのだろう。入院してからも、わたしはたびたびそれを繰りかえした。

 授業の後半で試合をおこなう、それまで四、五人でグループをつくって練習するようにと言って、教師は説明を締めくくった。わたしに異変が起きたのはその練習中でのことだった。わたしと同じグループに、いつも体育の授業で除け者扱いされている女の子がいた。その子はカボチャみたいに大きいおっぱいを揺らしながら、百メートルを走るのに二十五秒はかかる子だった。いつも一人で行動をして、しゃべるときは絶えずひとのうかがいをたてた。
「ねえ、わたしの前のひとは右手でバトンを持って走ってくるから、わたしは左手で受けとればいいんだよね?」「わたし、足が遅いから、ほかの人よりもはやめにリードをはじめたほうがいいんだよね?」「ごめんね、バトン落としちゃったから、水で洗ってきてもいい?」

 彼女が顔も上げず、バトンを振りまわしながらこちらに走ってきたとき、わたしは彼女が追いつけるタイミングでうまく走り出さなければならなかったのだけれど、それができなかった。突如、喉がひっくりかえるような、猛烈な吐き気に襲われたのだ。その場から動けなかった。動いたらお昼に食べたものを校庭にぶちまけることになるのがわかった。わたしの目前に迫る女の子はまっすぐつむじをこちらに向けていたし、わたしはその場に根を張っていた。彼女は頭からわたしの脇腹のあたりに激突し、わたしの体は二メートルばかしふっとんだ。結局、そのときに胃のなかのものをすべて嘔吐した。なんとか耐えようとしたのだけど。

 あとから聞いた話、その瞬間を見ていたひとたちは、わたしがすぐに立ち上がるものと思ったらしい。わたしに衝突した子がつまずいたかなにかしたのだと。でもわたしは吐いた。うずくまったまま、胃のなかが、からっぽになっても吐いた。教師や数人のクラスメイトが無事をたしかめに寄ってきたけれど、彼女らの声は耳障りな雑音にしか聞こえなかったし、わたしは言葉を発することもできなかった。まもなく保健の先生が校舎から小走りにやってきた。彼女の判断ですぐに救急車が呼ばれた。サイレンの音が競輪場のほうから近づいてくるのがわかる頃には、意識もはっきりしてきてなんとか体を起こせた。すぐそばでわたしに向かって謝りつづける声があったけれども、どう考えてもあなたのせいではない、というようなことをこたえて安心させようとした。明らかに彼女は避けきれなかった自分を攻めるだろうから、それを申し訳なく思った。やがて到着した救急車から二人の隊員がストレッチャーを引きずってきた。わたしは自力でそれに体を横たえ、とまどう同級生に見送られながら病院へと運ばれていった。


 医者は樹皮みたいにひび割れた声をした女のひとだった。付き添いでついてきた保健の先生に見守られながら、わたしは医者の質問にこたえた。普段は何時に寝て何時に起きてるのかとか、フルーツや野菜は食べるのかとか、そのようなことを訊かれた。家族構成や所属する部活なんかも訊かれた。両親ともに健在で妹がひとりいてテニス部です、とわたしはこたえた。その女性医師はわたしが話した内容を、ほとんど残さずパソコンに入力していった。革のベッドに寝かされて、お腹のあたりを触診されたあと、その医者はディスプレイをにら睨みつけながらフーンと唸った。そしてわたしに最後の質問をした。

「いまからわたしが尋ねることをよーく考えてみてほしいんですけどね。過去の出来事でなにか、いまでも心に引っかかっていることはありませんか? 何年も経っているのに、ふとした瞬間に思い出してしまったり、夢に出てきてしまったりするもの。怒りとか悲しみとか、あるいは自分の感情はよくわからないけどもやもやしていて、どこかにつっかえているみたいに思考回路から離れないもの。些細なことでもいいんです。学校であったことか、あるいは家庭内であったことかもしれませんが、なにか思いあたることはありませんか?」

 それを聞いたとき、まるで内科の診察ではなく、精神科のカウンセリングを受けているみたいだ、とわたしは思った。

「多分、いくつかはあると思います」わたしはあまり考えずに言った。まだ吐き気が喉のあたりをうろついていた。「べつにあたしじゃなくても、だれにだってあるものだと思いますけど。それが今回のことと関係あるんですか」

「現時点ではなんとも」医者のその返答に、わたしは露骨にいらついた顔をしてみせた。

 やがてわたしの母が到着し、医者と話しあった結果、その日は病院に泊まることになった。結局、入院は長引くのだけれど、そのときのわたしに、そんなことはわかるはずもなかった。母さんは保健の先生にしきりに頭を下げていた。「うちの子は体だけは丈夫なんですよ。風邪だって一度もひいたことありませんし、昨日だってお腹いっぱい晩ご飯を食べたあと、もらいもののマンゴーを切ってあげたんですけどね。ちゃぁんと残さず食べきりました。ほんと、体だけは丈夫なはずなんですけどねぇ。学校にはご迷惑をおかけしました。先生がたにもなんとお礼をいっていいやら・・・・」そのようなことをしばし並べ立てたあと、ふたたびなんども謝った。保健の先生はお大事にとわたしに言って、学校へと帰っていった。

 看護師の案内で病室のある四階へ向かった。エレベーターに乗っている時間は短かったけれども、何時間も船に揺られていたみたいに気分が悪くなった。降りた階の床は診察室のリノリウムと違って、綺麗に磨かれた木の床材だった。足音が廊下にコツコツと虚ろに響いた。部屋の前に着き、先に入るよう促されたときになって初めて、わたしはその看護師の顔を見た。からすの濡れ羽色とでも言えばいいのだろうか。篠突く雨みたいな黒髪が肩のあたりでざっくりと切りそろえられていて、最後に外側へぴょんと跳ねている。それが包むように彼女の顔を縁取っていた。歳はわたしの母と同じくらいだろう。なんだか疲れた表情をしているひとだな、とぼんやり思った。目があうと優しく微笑みかけてくれた。

 病室は個室だった。看護師が母親に一日のスケジュールやトイレの位置を説明している間、わたしはこれから過ごすことになる部屋を観察した。

 部屋はわたしが想像していた病室よりも広かった。ティラノサウルスでも寝られるであろう巨大なベッド、窓枠の下に置かれた三人掛けのソファー。ベッド脇には学校の教室に並んでいそうな幅の狭い机があり、その上には取っ手のついた電気ケトルや読書灯が備えてある。反対の脇には簡素な洗面器が壁に取りつけられている。床頭台しょうとうだいというものがあって、液晶テレビと冷蔵庫といくつかの引き出しが、縦に並んでくっついていた。木の床材はガラスのように滑らかで、立っているわたしの腰くらいの高さまで壁を覆っていた。そのおかげで新築のアパートのような雰囲気が漂っていた。入口の横の引き戸を開ければ、清掃の行き届いたトイレとユニットバスまでついていた。向かって正面の中央には、患者に圧迫感を与えないためにつくられたかのような大きな窓があって、白いレースと苔みたいな色の地味なカーテンが左右で留められていた。

 話しこんでいるふたりをそのままに、わたしはベッドをまわりこんでその窓に近づいた。もう夕暮れが迫っていて、木々に囲まれた病院の中庭はひともまばらだった。どこかから車のエンジンをかける音がかすかに聞こえた。これから自分たちの家へと帰ってゆくのだろう。駐車場の出口には二、三台の車が列をつくっていた。目線を上げると、小田原城の天守が、庭を囲う木々の向こうに見えた。では、この病院は城址公園とは目と鼻の先にあるのか、とわたしはそのとき気づいた。あの藤棚も尊徳像もぼろぼろの図書館も、手を伸ばせば届くような位置に存在しているのだ。

 不意にやりきれない気持ちになって、わたしは眺めていた光景に背を向けた。ふたりはまだ熱心に話しこんでいた。というより、わたしの母親が一方的になにかまくしたてていた。こうして窓際から振り向いてみると、部屋の入口からは陰になって見えない場所、ベッドからもっとも離れた壁際の角に、一脚のパイプ椅子が広げてあるのがわかった。黒い革張りで、留め具はわずかに錆びかけている。わたしは思わず首を傾げそうになった。ほかのもの——ベッドや机の上のケトルや白塗りの壁や天井などは、この部屋と深く結びついて馴染んでいる気がするのだけど、わたしが見つけたこのパイプ椅子だけは、部屋の空気とちぐはぐで、あっていないように思えたのだ。準備されたというよりは、そこにあることをだれからも忘れられ、仕舞われずにいる。そんな気がした。

 わたしは足を引きずるようにして、その椅子にゆっくりと歩み寄った。傍らに立ち、冷えた背もたれに手を置いて部屋を見渡してみると、先ほど抱いた印象がますます強く感じられた。窓の外の小田原城は視界から消え、灰色の空といくつかの電線がのぞくばかりだった。そこは部屋のなかのすべてのものから距離があった。まっすぐ座ればベッドで体を起こしている人間と正面から顔をあわせる位置にあるけれど、言葉を交わすには少し不自然なほど離れていた。

 気怠さをおぼえて、わたしはその椅子に腰かけた。体重をかけると金属が軋む音が聞こえた。そのまま両手に顔をうずめて、めまいが引いていくのを待った。こうして壁に囲まれ、あらゆるものの気配や視線をシャットダウンすると、気分が落ち着いた。

 どのくらいそうしていたかわからない。頭の上で母親の声が、そんなところに座ってないでベッドで休みなさい、わたしはあなたの着替えをとってくるから、と言った。わたしは看護師の手を借りてのろのろとベッドに向かい、布団にくるまって横になった。背後で母親が心配そうになにか言っていた。看護師のゆったりとした静かな声がそれにこたえた。しばらくなにか言いたげな視線を背中に感じたあと、二人は部屋を出ていき、わたしはひとりになった。

2

 めまいや吐き気をおもに、わたしの症状は数日ではおさまらなかった。医者はわたしに多くの習慣を課した。朝は六時に起床し、食事は必ず決まった時間に摂る。薬の摂取。朝食後は晴れていれば、日の当たる場所で少なくとも三十分は日光を体に浴びる。下を向いたり横を向いたりして長時間を過ごさない。座るときは足を組まない。血流を良くするため、操り人形のように無様な体操を毎日やる。夜はテレビやタブレットを見ない。晩ご飯を食べたあとに一定量のフルーツを食べ、夜の九時にはベッドで横になる。

 入院生活はひどく退屈なものだった。妹に頼んで漫画やDⅤDを持ってきてもらいはするのだけれど、なぜだか日中はそれらに手を触れる気にならなかった。わたしは日がな一日をベッドに横になったり、窓からほかの患者や、庭に並ぶ葉桜や、そそり立つ天守閣を眺めて過ごした。特になにかを考えるわけでもなく、こみあげてくる吐き気と戦うだけで時間が過ぎた。

 わたしは医者の言いつけを忠実に守った。診察も毎日の検温も、おとなしくされるがままに従った。午前と午後に一度ずつ、決まった時間に体温を計らなければいけなかった。わたしの部屋にくる看護師はだいたい同じひとで、まだそれほど歳をとっていない女性だった。ぱさぱさで水分のなさそうな黒髪を三つ編みにして、顎の細い逆三角形の顔はカマキリによく似ていた。そのひとはわたしに会うと、決まって天気の話をした。わたしが差し出された体温計を腋に挟んでいる間、今日は晴れていて陽気のいい日だから、午後も内にこもっているのはもったいないとか、これから気温は上がっていくだろうから、警備員や工事現場で働く人間は大変だとか、そんなことを言っていた。そして体温計を返すと「今日も異常なし。大丈夫ですよ、りよう涼か華さん。先生の言うとおりに過ごしていれば必ず治りますから。だから心配しないで、ファイトですよ」そう言ってわたしの肩を、前足の鎌で獲物を引っかけるようにきちっとなで、わたしがなにも返事をしないのを気にするふうもなく、急ぎ足で部屋をあとにした。

 父親と妹は仕事や学校が忙しかったから、たまにしか見舞いにはこなかったけれど、母はそれを義務だと感じているのか、わたしの部屋をほとんど毎日訪れた。ベッド横の机の、丈が低い椅子に腰かけ、持参したりんごやキウイを切り分けながら暢気にしゃべりつづけた。そして沈黙が長くつづくと必ず天気の話をした。

 わたしの体は消耗していて、全体の三分の一が機能を停止してしまったかと思うほど役立たずだった。医者はわたしの現状を疲労が蓄積した結果だと言った。あまりにもためこみすぎてしまったのだと。当然、わたしはそれに対して異を唱えた。疲れなんて身におぼえがまったくないと言った。疲労は眠れば次の朝には回復しているものだし、積み重ねれば積み重ねただけ、自分の能力へと加算されてゆくものだ。そんなものが、わたしの体をどうこうできてたまるか。

「こういったことは本人の自覚なしに進行していることもあるんですよ」医者はデスクに片肘をつき、パソコンのディスプレイを見ながら言った。「とにかく、わたしが言った約束事を守ってください。でないと治るものも治りません。意図していなかった入院生活が長引いてしまうかもしれませんよ」

「嘘つき野郎」とわたしはつぶやいた。相手に聞こえていたかどうかわからない。医者はわたしの言葉に反応を示さなかった。でも多分、聞こえていただろう。聞こえるように言ってやったから。

 大人たちへのわたしの態度が硬化するのに、さほど時間は必要なかった。もちろん、わたしの精神状態が悪化していたのも理由のひとつだろう。いつ終わるか知れない体の不調は、わたしを猜疑心と退屈で満たした。ベッドから立ち上がり、流しの上の鏡を見つめると、自分のものではないような目が見かえしてくる。瞼の筋肉はしかん弛緩し、重く垂れ下がっている。外部からの光は眼窩の奥に吸いこまれ、二度とは返ってこない。見知らぬ人間の目。

 大人は嫌いだ。大人は結論を先延ばしにできないし、お金を神かなにかのように崇める。


 入院生活がはじまって二週間ほど経っても、体調に回復の兆しはまったく見えなかった。わたしは段々と医者の言いつけを無視するようになった。夜は遅くまで起きて、消灯時間が過ぎてもテレビをつけっぱなしにし、イヤホンもせずに大音量を漏らしながら、タブレットで動画を流した。毎日の体操は怠るようになったし、病院食には大声でケチをつけた。母親に暴言を吐いて、ひとりにしてくれるよう言った。彼女は泣きながら部屋を出ていったけれど、特に良心が痛むこともなかった。

 入院生活が二十日ほどつづいたある日。わたしは午後の散歩を終えて、病室のベッドに腰かけていた。なにをやる気分でもなく、足を浮かせて履いているスリッパの模様を数えたりしていた。もうすぐ二度目の検温の時間だった。そこでわたしは退屈しのぎにあることを閃いた。いつもの看護師の声が、隣の部屋の入口でなにか言っているのをドア越しに聞くと、わたしは急いでベッド下の隙間に体を潜りこませた。掃除は頻繁にしているのだけれど、そこはいくらか埃がたまっていた。まもなくノックの音と、入りますよ、と言いながら引き戸を開ける音が聞こえた。わたしは息を潜めて、足音が近づいてくるのを待った。やがてあの看護師がいつも履いている、目も覆いたくなるほど薄汚い、縫い目のほつれた白いスニーカーがわたしの視界に入ってきた。彼女は空のベッドを見て立ち止まり、あたりを見まわしたようだ。しばらくうろついたあと、スニーカーはトイレの方向へ消えていき、そちらでわたしの名前を何度か呼んだ。沈黙がおりたのち、看護師はわたしの部屋を出ていった。

 わたしは目論見もくろみが成功して笑いをこらえることができなかった。狭い空間の中央で、馬鹿な大人を笑った。わたしはその後も同じ場所で仰向けのままとどまり、ふたたび様子を見にきた看護師をやり過ごした。三度目の見まわりで、ようやく彼女もなにかおかしいと思いはじめたようだ。ドアの向こうで別の看護師と何事か相談したのち、わたしの捜索に乗り出したみたいだった。構うものか。気の済むまで捜すがいい。その結果、どんな面倒なことになろうがどうでもよかった。この思いつきで、少しは鬱憤を晴らせたような気分だ。それに背中にあたるフローリングがひんやり冷たくて気持ちいい。わたしは手足を広げ、くつろいだ状態でその場にとどまった。

 どうやら眠ってしまっていたらしい。目を覚ますと陽は沈みかけ、最後の陽光が窓から差しこみ、床をあけ朱に染めていた。硬いところに寝ていたせいで腰のあたりに鈍い痛みがあった。強張った首を巡らせると、目の前に、床に手足をついてこちらをのぞいている律子りつこさんの顔があった。

 わたしたちはしばらくの間、無言で見つめあった。やがて律子さんが静かに手を差し出し、わたしはそれをつかんでその場から引っぱり上げられた。立ち上がると、埃のついた背中を律子さんははたいてくれた。細かい塵が傾いた陽光のなかで舞うのが見えた。わたしはほんの少しの後ろめたさをおぼえて、彼女の顔色をうかがった。

 初めて出会った日、わたしたちをこの病室に案内してくれたときと同じように、律子さんはどこか疲れたような表情を浮かべていた。薄化粧で特に頬のしわが目立った。きびきびと歩くのだけれど、それがかえって過ぎた年月を表しているようにも見えた。でも髪の毛だけはつやつやと光を反射し、彼女の若かりし面影を、かつての美貌を容易に思い起こさせてくれた。

「いま手の空いているひとは、みんなあなたのことを捜しているのよ」と律子さんは言った。「どうしてそんなところに隠れていたの?」

 その口調が咎めるふうでもなく、ただ純粋に疑問を抱いているというような尋ねかただったので、わたしはこたえた。

「だってあの女は嫌いなんだもの。いつもおんなじ話ばかりして、あたしを退屈させるの」

「あの女って田中さん?」その名前に聞きおぼえはなかったけれど、きっとあの看護師の名だろうと思ってわたしは頷いた。「あのひとはとても真面目でいいひとよ。あなたのこと、いつも心配しているし」

「あの女は嫌い」わたしは言った。「千年くらい土に埋められてた十円玉みたいなにおいがするから」

 律子さんはそれにはなにもこたえず、考え深げにわたしの目を見つめた。わたしはまっすぐ視線をあわせられなくて顔を赤らめた。大人の女性に——本物の大人の女性にそんなふうに見られたら、きっとだれであっても緊張してしまう。

 それからわたしはおとなしくベッドに腰かけ、律子さんに渡された体温計を腋に挟んだ。「空気がよど澱んでいるわ。しばらく換気していないでしょう」律子さんは窓辺に近づいて、引き戸を力いっぱいに開いた。初夏の黄昏時の青くさく、湿った空気が部屋のなかを一気に駆け抜けていった。それが律子さんの美しい髪を荒々しく、同時に繊細に揺らしていく。彼女の纏うタンポポの綿毛のような厭世観えんせいかんは、いつもわたしの奥深くを巧みにくすぐる。このひとと話すときだけは、自分がとんでもない馬鹿になった気がしない。

「やっぱり、こっちの病棟のほうがわたしは好き」律子さんは窓枠に頬杖をつき、外の景色を眺めながら言った。「あっちの病棟からはお城が見えないの。建物自体が陰になっていてね。この時間は空を覆うほどの鴉の群れと、帰宅途中の車の行列が見れるだけ。気が滅入っちゃうでしょ? それなのに一日あたりの入院費はこっちよりも高いのよ。部屋の設備がちょっといいっていう理由だけでね」

「看護師のひとたちも、お仕事に好き嫌いがあったりするの?」とわたしは尋ねた。

「当たり前でしょう。わたしたちだって人間なんだから、好き嫌いくらいあるわ。みんないい大人だから、だれも口にはださないけどね」律子さんはこっちを振り向いて、少し声をひそめた。「わたしはお年寄りのひとが苦手なの。部屋のなかにいる間、ずっとじろじろ見られてるような気がして」

 わたしは当時よくやっていたように、足を交互に上下させ、またスリッパの模様を眺めはじめた。たしかなにかの花柄だったように記憶しているけれど、いまとなってはよくおぼえていない。

「それじゃあ、あたしはみんなから嫌われているね」わたしは履いているスリッパで床をぱたぱた叩いた。「わがまま放題、騒ぎ放題。だれだって、あたしの世話なんかしたくない」

「それがわかってるなら、どうしておとなしくしていられないの?」

「別にみんなから好かれたいわけじゃないの」わたしは本心からそう言った。「嫌われたいわけでもないけどね。単にどうしようもないだけなの。だって、ただでさえ退屈な入院生活なんだよ。移動といえば部屋と中庭の往復だけ。狭い空間のなかでしか呼吸することが許されないの。そして毎日同じものを視界にいれ、毎日似たようなものを食べて、あとはお風呂入ってわけのわからない体操をして寝る。そのうえでくだらない天気の話をされたり、学校の同級生の近況を聞かされたら参っちゃうよ。あたしはあたしのことで精いっぱいなんだもの。だれにも、できるだけ迷惑をかけないで済むようにするので精いっぱいなんだよ」一気にまくしたてたあと、わたしはため息をついた。「きっと退屈って、どうにかすればひとを殺せるんだ」

 やがて味気ない電子音が、わたしの体に表立った異常がないことを告げた。律子さんはわたしから体温計を受けとると、液晶に映された数値を見て、それを手の平サイズのメモ帳に書きこんだ。わたしはずいぶん久しぶりに言葉を発したような気がして疲れを感じ、ぼんやりしながら彼女の動作を見守った。

「なんにせよ」律子さんはメモ帳とペンを白いズボンのポケットにしまいながら言った。「今日みたいなことは二度としてはだめよ。別に涼ちゃんが感情を吐き出すのをやめさせたいわけじゃなくてね。でも自分の体はもっと大事になさい。具合の悪いひとが冷たい床の上で何時間も寝ちゃうなんて、まるで治らなくてもいいと思ってるみたい」

「いいよ、別に治らなくったって。どっちでもいい。なにもかもどうだっていい」わたしはふてくされて、彼女が視界の隅にも映らないほうへ顔を背けた。

「治らなくてもいいはずがないでしょう」律子さんはそう言いながら、乱雑にベッドの縁に折り重ねられたわたしの布団のしわを綺麗にのばし、丁寧に畳んだ。「退院したら、また好きなことをやれるようになれるのよ。好きなものを食べれるし、好きな時間に好きなことをできる。そこには果てのない自由があるのよ。この狭い空間から飛び出して、どこか遠くへ行ったっていい。まだ見ぬ景色を求めて。ついさっき、退屈で仕方ないって言っていたばかりじゃない。きっと楽しいことが待っているはずよ」

「ほんとうにそう? 外の世界って、そんなに未知のものであふれてるのかな?」わたしは言った。「この病室にきてからね、ずっと拭えない感覚があるの。既視感っていえばいいのかな。記憶がつづいていく限り、見慣れないものって、時間を経るごとにどんどん減っていくでしょう? 少なくとも、いまのあたしにはそう思える。それでね、ほかにすることもないから、過去のことをよく考えるの。それらは精巧な宝石の面みたいに、どれもが同じ方向を向いていないの。目を凝らしてよく見ると、その破片のひとつひとつに、細長い蔓みたいなのがくっついていて、ありとあらゆる方向に伸びてるのがわかるんだ。それを辿っていけば、未来まで行けちゃうんだよ。なにもかも繋がってるの。そういう見かたをしちゃうと、未知のものって、この世にひとつもないんじゃないかって思えてきちゃう。ただただ定められたパターンがつづいてゆくだけ。あたし、そんな未来いらないよ。おんなじことの繰りかえしになるだけなら、いっそ一生このままでもいいんじゃないかな。ずっとここに閉じこもっていたい。そしてなるべくはやく死んじゃいたい」

 太陽は沈み、部屋はすでに暗くなっていた。けれども、わたしはわざわざ明かりをつけようとはしなかった。開け放しの窓から夜の冷気が忍びこみ、あたりの気温を下げていた。律子さんをちらっと見やると、両手をポケットに突っこんで、宙をめつけていた。彼女はつぶやいた。

「どうして若いひとたちって、そんなものの言いかたばかりするのかしら」

 それはわたしに言い聞かせるというより、ひとり言のようだった。ここではないどこかへ向けて言っているようでもあった。律子さんはわたしに背を向けて窓辺に近寄り、大きな窓を音もなく静かに閉めた。わたしは足を振り上げてベッドの上にのせ、先ほど律子さんが畳んだばかりの布団をつかんで引っぱり上げ、なるべく顔が見られぬように首元まで覆った。布団はすぐにまたしわくちゃになった。

 律子さんがカーテンを閉めると、薄明のなかで彼女の立ち姿が影絵のように浮かびあがった。表情はよくわからなかったけれど、ポケットに両手を突っこんで、こちらを見ているのはわかった。わたしも黙って布団の隙間から見つめかえした。

 やがて音もなく律子さんは部屋をあとにした。彼女の歩いた動線は、暗闇のなかでわたしの目に焼きついた。わたしは布団の下で膝を抱えて、律子さんの言葉や目線、動作のひとつひとつを脳裏で反芻し、なんどもなんども舌先でなぞった。暗がりで、ふたたび退屈がわたしの内側に噴き出してくるまで、それを繰りかえした。

3

 翌日から、日々の検温や食事の提供には、律子さんが訪れてくれるようになった。彼女以外の日は相変わらずあの看護師がきたけれど、特にわたしへの態度が変わったということもなかった。律子さんとは時に一週間つづけて顔をあわせることもあって、いったいこのひとはいつ休んでいるのだろう、とわたしは疑問に思った。

 休憩時間などを費やして、律子さんはわたしの部屋に可能な限りとどまってくれた。わたしが体温を計っている間や食事をしている間、病院内の噂話や、彼女が若かった頃によく行っていた海外旅行の話をしてくれた。

「一度、香港の 尖沙咀チムシャーツイというところで、ひとが倒れているのを見たの」

 律子さんはよくベッドの縁に腰かけて、横目にわたしへ話しかけた。布団越しに、わたしの足が彼女の腰のあたりに触れていたのをおぼえている。

「蒸し暑い日で、わたしはお昼ご飯を食べたあと、シャワーを浴びるためにホテルへ急いでた。その途中で、ドラッグストアの前の壁に寄りかかって、手足を投げ出してうなだれているお年寄りを見つけたのよ。通行人のだれもが素通りしていくのを不思議に思ったのだけど、わたしはそのひとに近づいていったわ。この国に住んでいれば、物乞いのひとに見慣れている、なんてことはなかなかないものね」

 わたしは少し冷めた肉じゃがを頬ばりながら先をうながした。

「そばに寄ってから気づいたのだけど、着ている服があちこち解れてて、染みだらけだった。それから右膝から先がなかったわ」

 わたしは持っていた箸を静かに置いた。口のなかのじゃがいもが、唾液の味しかしなくなった。

 律子さんは窓の外に目を向けながら言葉をつづけた。「よく見ると左腕も肘から先が奇妙にねじ曲がっていて、か細い左手のそばに、新聞紙を折ってつくった箱みたいなものが置かれてた。そのなかにはほんの二、三枚の硬貨が入っていたの。わたしはもっとよく見ようと思って近づいた。そしたら、もうそのひと、亡くなっていたのよ」

「どうしてそのひとが死んじゃってるってわかったの?」わたしは不思議に思って訊いた。

「ズボンの股が濡れていたのよ。多分、なにかの発作を起こしたのね。失禁していたの。でもそのひとがすでに亡くなっていると、ひと目で気づいた理由は色ね。肌の色が抜け落ちていて、からからに乾いた土みたいだった。生きてる人間の色じゃないって、すぐにわかったわ。わたしはなにも見なかった振りをして、すぐにその場から立ち去った。それでね、なんだかすごく、冷めた気分になっちゃったのよ」

「冷めた気分って?」

「当時、わたしはもう看護師の資格を取っていたのだけれど、それがまだだったら、わたしがここで涼ちゃんのお世話をすることもなかったでしょうね。向上心って言えばいいのかな。お金を稼いで贅沢な暮らしをしたいとか、周りの人間に認められたいっていう欲求がなくなっちゃったから、それっきり勉強なんてしなくなったものね。結局、行きつく先はあの物乞いのひとといっしょなのよ。それは明日のことかもしれないし、数秒後のことかもしれない。そこにひとの意志や誓いの言葉が介在する余地はないの。旅は好きだったから、それからもつづけたけど、わたしの生活は一変してしまったわ」

 わたしは箸を手に取って食事を再開した。お米も汁物もすでに硬く冷たくなっていた。律子さんは座ったまま両手をポケットに突っこんでいた。ばねのようにしなやかな足を器用に組み、痩せた背中はほんの少しだけ曲がっていた。

「そのしばらく前に、親戚同士の集まりがあってね。とあるおじさんに言われたのよ。『律子ちゃんの人生はもう安泰だな。美人で看護師なんていう立派な職につけて、もう一生食いっぱぐれることもねえよ』って。ねえ、涼ちゃん。わたしがなにを言いたいかわかる?」

 わたしは首を振った。

「天狗になっていたのよ、わたしは。その程度の女なの。褒められてちやほやされて、それを受け入れていたの。あのときから、自分が進歩したとも思えない。『律子ちゃんの人生はもう安泰だな』だって。笑っちゃう。おかげさまで、こんなおめでたい人生になったわ。食いっぱぐれることも路頭に迷うこともなかったわよ。いまからあのおじさんの阿保面を尿瓶でどつきまわしたい。使い古されたシーツを口いっぱい詰めこんでやりたい。それでも結局、わたしはここにこうしている。変わらずここにいる」


 消灯時間になっても目が冴えていて、眠れない夜がよくあった。そんなときは諦めて体を起こし、ケトルに水をそそいでスイッチを入れ、お湯が沸くまでそれをじっと見守った。唸りをあげて沸騰した合図を耳にすると、記憶にないほど以前から、我が家でつかっていた湯飲みにインスタントの粉を降りそそぎ、そのときの気分次第で紅茶やミルクティーを淹れた。湯気を立てた熱い湯飲みを、中身をこぼさないように急いで窓枠の上に置き、月明かりや星明かり、車のヘッドライトに手を伸ばしながら、時間をかけてちびちびと中身をすすった。それは嫌いな時間ではなかった。

 少しずつではあるけれど、わたしはなにもしないということに慣れていった。駆られるような焦燥感は薄くなっていき、現実世界に想いを馳せることも減った。わたしに残ったのは幾分鈍さを増した気怠い退屈と、しつこくつきまとう肉体の症状だけだった。そのふたつだけがわたしを中心に周囲を絶えず旋回し、わたしの生活もそれらを中心にぐるぐると巡っていた。

 症状が耐えきれないときは医者に処方された頓服薬を飲んだ。副作用で恐ろしく眠たくなるけれど、症状はいくらか落ち着いた。そういうとき、わたしはベッドでは休まず、部屋の隅に置かれたあのパイプ椅子に、縋るようにしがみついた。わたしは世界から切り離され、取り残されたような気分を味わう。同じ病室のなかだというのに、そこだけは異空間だった。そこだけはわたしに敵意を向けなかった。

 普段のように律子さんが部屋を訪ねてきたとき、わたしはその椅子に座って壁に頭をもたせかけ、遠ざかる吐き気と近づいてくる眠気に抗っていた。薬を飲んだばかりで視界の一部がぼやけていた。ノックをした律子さんへの返事も、自分の声だというのに線路を隔てた踏切の向こうから響いてくるみたいだった。スニーカーのゴム底が滑らかな床と擦れあう音が聞こえ、律子さんの華奢な人影が目の前に現れた。いつもと同じ格好。同じ髪型。

「ごめんね。すぐにそっちに戻るから、少し待って」なぜだか少し後ろめたい場面を見られたような気持ちになって、わたしは言った。

 律子さんはわたしを見て首を振った。「いいのよ、待つから。ゆっくり休みなさい」

 わたしはそれにはこたえず、集めていた意識を散らした。律子さんも外の風景も、壁の染み程度のものでしかなくなった。

 わたしは律子さんの動向をぼんやりと眺めていた。彼女はわたしに背を向けて、無言のまま、しばらく空のベッドを見下ろしていた。がらんどうの背中。そしておもむろに窓側とは反対のベッドの縁に——いつも座るのとは逆側に腰をおろした。それが初めてのことだったので、わたしの注意を惹いた。加えて、律子さんは無表情にわたしから目を逸らさなかった。顔の筋肉はこれっぽっちも動かないのに、目の奥ではなにかが蠢いていた。なぜだろう。このひとはいまにも朝露のように、どこかへいなくなってしまうのではないか、とわたしは思った。

「どうしてそんなふうに、こっちを見るの?」ささやくように、そう訊いた。

「前から知りたかったのよ。ここから涼ちゃんがいま座っている場所は、どんなふうに映るのかなって」と彼女は言った。

 わたしは椅子の骨枠をしっかりとつかんだ。手の平が汗ばんでいて、それを通じて金属部分から精気が流れこんでくるみたいだった。

「笑わないで聞いてくれる?」わたしは言った。「ここに座るとね、そっちに座っているのとは違うの。ずっとここにいてもいいんだって気分になるの。このまま、おばあちゃんになってもいいんだって」

 律子さんは笑わなかった。

「ごめんね」わたしはまた謝った。「薬を飲んだばかりなの。頭がぼーっとしてて、うまく説明できないや」

「わかるわよ。涼ちゃんの言いたいことは。わたしも時々、同じことをしていたから」

 わたしはふっと力を抜いて天井を仰ぎ見た。でも、すぐに気分が悪くなって視線を戻した。

「ずっとベッドの上にいると、お尻の下が柔らかすぎて、体がふわふわと浮いてくるの」わたしは言った。「それぞれのパーツが勝手な動きをしそうだから、怖くなってくるんだ。あばらの一本一本まで、ふわふわゆらゆら、風に吹かれたシャボン玉みたいに、ばらばらに飛んでいっちゃいそうな気がして。だから硬いとこに座ると安心するんだ。ねえ、律子さん。この椅子、だれかがいつのまにか仕舞ったりしないよね?」

 律子さんは首を振った。「その椅子は備品じゃないの。病院のものじゃないの。ただみんなから忘れられているだけ。わたしがなにもしなければ、だれからも見向きもされないと思う。だから涼ちゃんが心配するようなことにはならないわ」

「病院のじゃないなら、だれのものなの?」

「それはここに通っていた男の子のものなの。驚いたわ。ある日、前触れもなく両腕に抱えてきたんだもの。いつも乗ってくるバイクの荷台に括りつけて、危なっかしいったらありゃしない。『どうして遠いところからわざわざ持ってきたのよ。病室にある椅子をつかえばいいじゃない』そうわたしが言ったら、『病院のは使ったあとに毎回かたさないといけないだろう。これは隅っこに置くだけだし、ぼくのだから、そのままにしても文句は言わせないさ』だって。おかしかったわ。ホームセンターで買って、ここまで持ってくる手間のほうは全然気にしてないんだもの」そこで律子さんは口をつぐみ、困ったような、とまどったような目でわたしを見た。しゃべりすぎたと思ったのか、わたしが驚きの表情を浮かべていたからなのかわからない。だれかのことをこんなふうに話す彼女は初めて見た。

「ごめんね」今度は律子さんが謝った。「涼ちゃんの知らないひとの話をしてもしょうがないのに」

「平気だよ」とわたしはこたえた。「律子さんが仲良くしていたひとなの?」

「ええ、そうよ。この部屋に入院してた女の子に会いにきていたの。決まって毎週火曜日と土曜日にね」

「決まって? どうして決まってなの?」

「わたしにもよくわからないわ。でもその男の子が勝手に自分に課していたみたい。彼女がここにいた数か月の間、一度も欠かしたり、曜日がずれたりすることはなかったわ」

「一度も」とわたしはつぶやいた。それはとても奇妙な話のような気がした。もちろん、入院していた女性を想っての行為なのだろう。だが、なぜだろう。なにかがおかしい。

「そのひとたちはどんな関係だったの?」とわたしは訊いた。

 律子さんはわたしから視線を外した。質問に対するこたえを探しているみたいに見えた。けれどもやがて首を振って、諦めたような微笑を口元に浮かべた。

「わたしにもわからないわ。何度も何度も思い出を掘りかえしてみたところで、あの二人の関係を言い表す言葉が見つからないの。ただの男女とはとても言えない。男の子は初めてこの病室を訪れたときから、いま涼ちゃんの座っているとこが定位置だったわ。そして最後まで二人の距離が縮まることはなかった」

「ここからじゃ、ベッドが遠すぎるよ」とわたしは言った。

「ええ。ここからでは遠すぎるわ」と律子さんは言った。

 不意にわたしは疲れをおぼえた。会話をするのに不自然な距離が、神経をすり減らしたのかもしれない。律子さんはすでに立ち上がって、自分が座った場所にできたしわを、指先で丁寧に伸ばしていた。

「用件を済ませてしまいましょう。もう行かないといけないわ」律子さんは言った。

 わたしはおとなしくベッドに戻り、彼女が部屋をあとにするやいなや、夜までごぼう牛蒡のように眠った。

4

 次の日は朝から分厚く重たい雲が低い空を覆っていた。中庭を出歩いていた患者や見舞客は時折もどかしげに空を見上げ、いつになったら雨は降りだすのだろう、と連れに尋ね、首を捻った。わたしは彼らの間を縫うように歩き、部屋に向かいながら、降るならばさっさと降ればいいのに、と思った。ずっとむかしから、雨の日が嫌いではなかった。

 病室は暗かった。わたしは窓に近づき、レースのカーテンを開けた。空を見やると、雲は先ほどから幾センチも動いておらず、偉そうに居座っていた。窓を叩く雨音もなければ、隙間から忍びこもうとする風の音もない。天気予報では昼頃から徐々に降りだす、と言っていた。別の予報によれば、すでに降りはじめていてもいいはずだった。最後に雨のなかを走りまわったのはいつだったっけ。そんなに前であるはずがないのに、思い出せなかった。

 律子さんは昼にやってきた。彼女も天気が気になるみたいで、窓から外を眺めていた。わたしは食事をしながら、傘の貸し出しはどこでやっているか、と彼女に訊いた。

「患者さん用の出入口にあるのを勝手につかっていいわよ」

 彼女はどこか心ここにあらず、という様子だった。ポケットのなかで、無意識に手をもぞもぞと動かしていた。いつもより髪に膨らみがない。わたしもつられて外を見た。

「雨、降らないね」

「そうね」と律子さんはこたえた。「できれば、はやく降ってほしいのだけど」

 わたしは箸を置いて、食後のフルーツにとりかかった。この日はカットされたメロン一切れだった。フォークを刺した時点で、あまり熟れていないのがわかった。それを頬ばり、しゃりしゃりと音を立てながら食べた。

「そうだね。わたしもはやく降ってほしい」咀嚼しながら、わたしも言った。

 律子さんは振りかえって、わずかに微笑んだ。「どうして涼ちゃんが、はやく降ってほしいって思うの?」

「傘をさしたい気分なの。ズボンの縁を濡らしながら、体中で雨のにおいを嗅ぎたいんだ」

「長靴を履いていかないとだめよ。それとレインコートもね」律子さんは視線を空に戻した。

「律子さんはどうしてはやく降ってほしいの?」

「明日は用事があるのよ。いまのうちに降ってもらって、空からいっさいの水分を取っぱらってほしいわ」

 会話が途切れた。わたしはいつのまにかメロンを食べ終えていた。おしぼりで口を拭いて綺麗に畳み、お盆の上の元あった位置に戻した。

「昨日話してくれたひと」しばらくしてわたしは口を開いた。

「なあに?」律子さんはこっちを向いた。

「昨日話してくれたひとは、こんな天気の日でも欠かさずここへきたんだね。たとえ土砂降りの日でも、カンカン照りの日でも」

 律子さんは眉根を寄せて微妙な表情を浮かべた。

「そうね。一度、台風が直撃した日にもきたわ。二五〇ccのバイクに乗って、ここにくるまでに何度か死にかけたらしいの。だからわたし、叱ってやった。女の子はくすくす笑うだけで注意しないし、ほかにはだれもいなかったから。吐く息で真っ白に曇ったフルフェイスを見たときは、吹き出しそうになっちゃったけどね」

 わたしは笑った。「頑ななひとだったんだね」

「ええ、ほんとうに。二人の大きな野獣を相手にしているみたいだった」

「きっとそんなひとがそばにいてくれたのなら、入院生活も退屈なものじゃなくなるよ。その女性がちょっと羨ましいかも」

 律子さんは表情を曇らせ、首を振った。「羨ましがることなんてなにひとつないのよ。あんなひと、涼ちゃんには似あわないわ」

「ねえ、律子さん」わたしは言葉をつづけた。「よかったらその二人のこと、もっと詳しく聞かせてよ。昨日、話してくれたときから、気になって仕方ないんだ。あたしと同じ部屋で、どんな過ごしかたをしてたのかなって」

 律子さんは困ったようにわたしを見た。「話をしてと言われても、どうしたらいいかわからないわ。わたしがあの二人について知ってることなんて、そんなに多くはないもの」

「長い間、お世話していたんでしょう? 親しい間柄じゃなかったの?」

「ずっと見守っていたわ。いっしょにご飯を食べたり、三人でおしゃべりしてると、あっというまに時間が過ぎるの」彼女は遠くを見るように言った。「桜の季節は公園まで歩いていってお花見もした。男の子にそんな甲斐性はないから、お弁当から飲みものやブルーシートまで、全部わたしが用意したのよ。二人とも、わたしの料理をおいしいと言いながら食べてくれたわ。秋には三人で栗拾いもした。わたしが持って帰って調理してあげるって言ったんだけど、小夜さよは採ったやつ全部を手元に置きたがった。数日は枕元に山盛りの栗が飾られてたんだけど、そのうち、実のなかから芋虫たちが這いだしてね。あの子の寝がえりでパジャマもベッドシーツも、潰れた芋虫でできた染みだらけになっちゃったの」

 律子さんは言葉を切った。彼女が思い出を手繰っているうちは、その顔にも若さが蘇るのだけど、口を閉じると、それまでは気にならなかった頬や口元のしわが、より深く、際立つように見えた。わたしは少し待ってから、当たり障りのないことを訊いた。

「歳はいくつだったの?」

「たしか二人とも、涼ちゃんよりも七つか八つくらい上だったわね」

「この街のひとだった?」

「いいえ。女の子は違う街からきたし、男の子がどこからきたのかは知らないの。訊いたところで、『おぼえてない』ってこたえが返ってくるだけ」

「ふうん。自分が生まれ育った街をおぼえてないなんて変なの。あたしは小田原生まれ、小田原育ちだよ」

 律子さんは疲れたように微笑んだ。「そうね。わたしと涼ちゃんはいっしょだものね。ここから出かけて、またここに帰ってくる」

「なんだか話を聞いても、そのひとたちのイメージがうまく頭に湧いてこないな」わたしは言った。「あの椅子もそう。ものに持ち主の魂が宿るっていう迷信はほんとうなのかもね」

 律子さんはわたしの視線を追って、ため息をついた。部屋の隅に置き去りにされた、一脚の錆びかけたパイプ椅子。律子さんは脚を引きずるようにして椅子に近寄り、千キロも歩いたひとがそうするみたいに腰を下ろした。膝小僧と太腿の関節部分に肘をつき、両手に顔をうずめた。黒髪がわずかに波打ったけれど、そこにいつもの脈動感はなかった。疲れた中年の女性が、肩を縮めてうずくまっているだけだった。

「親しいつもりだった。想いや時間を共有しているつもりだった」指の隙間から聞こえる彼女の声には、深いところにさざ波のような震えが感じられた。「それでも、いまのわたしには、どうしてあの二人がいなくなったのかさえわからない」

 わたしはなんとこたえていいかわからず、彼女の次の言葉を待った。でも彼女はなにも言わなかった。布団のなかで、自分の腋と手の平が、汗でじんわり濡れているのに気づいた。わたしは口を開いた。

「つらい思い出だったのなら、ごめんなさい。あたし、そんなつもりじゃなかったの」

 一瞬の妙な間のあと、律子さんは言った。「涼ちゃんはどうして、あの二人のことが気になったの?」

「あたしはただ、律子さんが心を開いていたのがどんなひとたちだったのか、知りたかっただけ。好きなひとが好きなひとなら、あたしも好きになれるような気がしたの」

 そう言いながらも自分でわかっていた。わたしは単に、退屈を紛らわせてくれるものに餓えていただけなのだ。

「もしもほんとうに」律子さんは唇を舌で濡らし、ゆっくりと言葉を紡いだ。「もしもほんとうに涼ちゃんが知りたいというなら、きっとわたしに断る権利はないわ」

 わたしは目をしばたたいた。どうして、という質問が喉元から出かかった。律子さんにないというのなら、いったいほかのだれが、その権利を所持しているというのだろう。どこに存在しているというのだろう。

 律子さんは顔を上げて、わたしを見ていた。手で抑えていた箇所に血流が戻って、彼女の顔にはあけが滲んでいた。それなのに、表情は虚ろだった。瞳には色の抜けた空洞が生じ、そこでなにかが息をしている。わたしはいつものように微笑みかけてほしかったけれど、彼女はそうしてはくれなかった。しばらくして、律子さんはわたしの返事を待っているのだと気づいた。

「律子さんはいやじゃないの? つらいなら、大変なら、あたしのしゃべったことは忘れてよ」

「わたしはべつに構わないのよ。大変なのは、わたしじゃないから」

 わたしは悩んだ。なにもかも知りたかったのは言うまでもない。でもその結果、わたしはなにを失ってしまうのだろう。引きかえに、なにを手に入れるのだろう。

 わたしは律子さんの目をまっすぐ見すえ、ためらいながらも言った。

「それじゃあ、聞かせてくれる? 律子さんたちのお話を」

5

 その日は結局、夜まで雨は降らなかった。灰色の重たい雲が、朝から変わらず空に鎮座していた。靄がかかった街灯の明かりの下を、仕事帰りのサラリーマンが足早に通り過ぎる。|《こうもり》蝙蝠が数匹、寝静まった病院の庭を飛びまわっていた。時折、邪悪な叫び声をあげ、もつれあうように闇の奥へと消えてゆく。月は見えず、小田原城の威容は単なる黒い陰でしかない。雨のにおいはするのに雨は降らず、湿った空気が地表を漂っている。風は吹かない。

 九時になって消灯時間が過ぎた。天井の明かりは自動で消され、朝になるまでつくことはない。わたしはいつものように起きていて、窓から外を眺めながら、ガムシロップをたっぷりいれた紅茶をすすっていた。舌が甘いものをどうしようもなく欲していた。

 昼間のことを思い出すと落ち着かなかった。あの後、律子さんはわたしの頼みに「どうしたらいいか、考えておくわ」とこたえた。わたしはなにも言葉をかけれず、部屋をあとにする彼女の暗い背中を見送った。正直に言って、ひとりになれてほっとした。律子さんはわたしを見てはいなかったし、わたしの声の届かないところにいるみたいだった。これからどうなるんだろう。この病院でできた唯一の縁が、わたしの軽率なひと言で永遠に断たれてしまったのだろうか。

 考えを巡らせていると、入口のほうから扉をノックする音が聞こえた。反応が遅れた。わたしは自分の世界に入っていたし、消灯後の時間をだれかと共有した経験がなかった。「どうぞ」とわたしは大きすぎない声で返事をした。多分、病院の関係者なのだろうと思った。そうでなかったら怖い。

 扉の隙間から控えめに顔をのぞかせたのは律子さんだった。彼女は自分の体がぎりぎり通れる分しか扉を開けず、遠慮がちに部屋のなかへ忍びこんできた。蜥蜴とかげのような動きだった。周囲が暗くてよくは見えなかったけれど、いつもの白衣ではなく私服を着ているのはわかった。右肩から紐の長い鞄をぶら下げていた。漆黒の髪は闇に溶けていた。彼女が足音もなく近づいてくるのを、わたしは呆けたように見つめていた。

 律子さんはわたしから離れたところで立ち止まった。そこは外の街明かりが届かず、陰になっていた。彼女の表情は見えないはずなのだけど、なぜだか口の端をわずかに吊り上げて、薄く笑っているような気がした。彼女は陽気と言えなくもないような声で言った。

「ついさっき、仕事が終わったの。今日は夜勤もないから、これから帰るところなのよ」

 わたしはなにか言わなければ、と思って口を開いたけど、言葉の代わりに出てきたのは小さくて短い呻きのようなものだけだった。

 そんなわたしには構わず律子さんはつづけた。「涼ちゃんが起きていてよかったわ。もしかしたらもう寝ているかもって思ったんだけれど、どうしても今日のうちに会っておきたくてね」

「そうなの」わたしはどうにか喉から空気を絞り出した。「どうしても、この時刻にはまだ眠くならないの。だからこうして、お茶を飲んでゆっくりしてるんだ。律子さんも、紅茶飲む?」

 律子さんが首を振るのを、わずかな陰影と空気の流れで感じた。

「わたしはただ立ち寄っただけなのよ」彼女は言った。「用が済んだらすぐに行くわ。こんな時間に患者さんのお邪魔をするなんて、ほんとうはいけないことだもの」

「そうなの」わたしはどうしていいかわからず、手元にあった湯飲みをつかんだ。口に含んだ紅茶は、もうあまり熱くなかった。わたしは立ったままの律子さんの人影を横目に見た。今日のような天気は嫌いではない。それなのに今夜ばかりは、月があの顔をのぞかせてくれたらいいのに、と思った。

 律子さんの人影はもぞもぞと動いて、ポケットからなにかを取り出した。すぐにタブレットの薄いライトが、律子さんの顔を下から照らした。もういっぽうの手で画面を操作すると、それにつれてライトも揺れ、律子さんの顔も揺れた。彼女が作業を終え、タブレットを仕舞うと明かりが消えた。わたしの視界の隅に律子さんの残影が残った。

 一瞬のタイムラグのあと、机の上の充電器に繋がれたわたしのタブレットが、着信の唸り声をあげた。わたしは問いかけるように律子さんを見た。彼女のほうからわたしの表情が見えていたかわからないけれど、その問いに彼女はこたえた。

「昼間交わした約束をおぼえているでしょう? それを果たしにきたのよ」

 おぼえている限り、二人の間に交わされた約束などなかったけれど、彼女がなんの話をしているかはわかった。わたしはとまどった。わざわざそのためにこんな時間に訪ねてきたのか。それなのに用が済んだら帰るとはどういう意味だろう。わたしはその場から動くことができなかった。予想もしていなかった方向へ事態が進んでいるようで、正体のわからない不安をおぼえた。

 そんなわたしを見て、律子さんは口を開いた。「わたしにできるのはここまでなの。わたしはあの二人について、だれかに語れるほど知ってはいないから。この物語には、わたしは含まれないのよ」彼女は口を閉ざした。そして、まっすぐこちらを向いた。「開けてみて」

 わたしは麻痺した体を引きずって窓際から離れ、ベッド脇の机へと近づいた。タブレットに触れると、着信を知らせる画面が灯った。それは当然、律子さんからのものだった。わたしは震える指で、『メッセージ』と書かれたタブをタップした。画面がすぐに切り替わり、見慣れたアプリケーションが開かれた。新たに着信したメッセージは、画面の一番下に表示されていた。それは意味のある言葉などではなく、いくつかのアルファベットのランダムな羅列だった。

「これはなに?」わたしは画面を見つめたまま、ささやくようにそう訊いた。「なにかのファイル?」

 律子さんはなにもこたえなかった。

 わたしは躊躇した。ほかの選択などありえなかったけど、前に進むのを躊躇わせるようななにかが、彼女の送ってくれたものにはあった。しばらく逡巡したあと、わたしは仕方なく、意味を成していないその文字列をタップした。

 はじめに聞こえたのは、消え入りそうなほどかすかな、幾千もの鈴が鳴るような音。それは思わず聞き惚れてしまいそうなほど高く、透き通るような音だった。夜の力が増していく気配。つづいて、深く落ち着いた、成熟した男性の声。

 わたしはタップして画面を閉じた。

「これは、音声データ?」

「ええ、そうよ」まるで律子さんではなく、暗闇がしゃべっているみたいだった。「それは小夜がいなくなってからしばらくして、男の子が送ってきてくれたの。彼のタブレットは粉々の状態で発見されたから、きっとわたしの持っているデータがこの世で唯一のもの。いまこのときまではね」

「どうしてこれをあたしに? このなかには、いったいなにが入っているの?」

「そこには涼ちゃんが求めたものが入っているのよ。昼間、わたしに頼んだばかりでしょう?」

 わたしはごくりと唾を飲みこんだ。喉がからからに渇いていた。わずかに吐き気がせりあがってきた。

「ここにはなにが入っているの?」わたしはもう一度尋ねた。

「剝き出しの胚珠」律子さんはささやいた。

 わたしはめまいを感じてベッドに腰を下ろした。そうすると半分は律子さんに背中を向ける形になった。そうして気分を落ち着けた。

「そこには涼ちゃんの求めたものが入っている」律子さんは言った。「でも、ひとつだけ約束して。もうこれ以上は聞いていたくないって思ったら、すぐに音を切って、引きかえしてきて。一度捕まったら、もう戻ってはこれないかもしれないから」

 わたしは背中を向けたまま頷いた。その実、彼女がなにを言っているのかさっぱりわからなかった。自分がなにを求めているのかわからなかった。

「律子さんは、あたしにこれを聞いてほしいの?」わたしは訊いた。

「涼ちゃんの好きにしていいのよ」彼女は言った。「どうでもいいの、いまのわたしには」

 律子さんの気配が、背後に遠ざかってゆくのを感じた。足音もなく、扉を引きずる音もなく出ていった。わたしは大きく息を吐いて、肩の力を抜いた。今日の律子さんはいったいなんだったのだろう。わたしはどんな場所に足を踏み入れたというのか。

 わたしはしばらくの間、そこから外を眺めた。夜の気配は増しつづけ、空気は変わりつつあるみたいだった。窓枠に紅茶の残った湯飲みが置きっぱなしにされていた。それが先ほどの律子さんのように、闇に浮かびあがっている。呆けたように焦点をぼやけさせていると、肩越しから不意に気配を感じて、振りかえった。視線の先、部屋の隅に、持ち主を失ったパイプ椅子がひとりで佇んでいた。目指す場所も、帰る安息地もなく、小さな宇宙に漂っている。本来の目的でつかわれることは、もう二度とないであろうもの。わたしはしばらくそれを見つめた。何度かまばたきをするうちに、先ほど感じた気配は消え去った。わたしはまたひとりになった。

 わたしは重たい腰を上げ、水道からケトルに水をそそいだ。窓に近づいて湯飲みを手にとり、残っていた紅茶を飲み干した。トイレに行って用を足し、お湯が沸くとインスタントの粉で再び紅茶をつくった。ガムシロップは控えめな量しか入れなかった。甘ったるいものを飲むような気分ではなかった。

 わたしは机の上のタブレットとイヤホンを手にとり、ベッドに上がって布団を腰元まで引き上げた。タブレットに触れると、先ほど音声を中断した状態の画面が開いた。ふと顔を上げると、外では雨が降りはじめていた。小さな水滴が、窓を弱々しく叩いていた。雲は厚みを増し、灰から黒に色を変えていた。長い夜になりそうな気がした。

 わたしはイヤホンを耳に突っこんだ。そのままぎゅっと目をつむり、気づかぬうちに乱れていた呼吸を整えた。荒れていた動悸がおさまってから目を開け、瞼の裏の迷宮から抜け出すと、辺りの闇がより濃く、景色はより鮮明に見えるようだった。窓にへばりついた水滴が、街明かりを受けてわずかにきらめいている。わたしは手元に視線を戻し、律子さんからもらった音声データをタップした。

 すぐに音が耳に流れこんできた。最初は細く軽やかに。少しずつ支流が交わるように、わたしの意識を満たしてゆく。

 雨音は、もう聞こえない。外ではたしかに雨が降りつづいている。わたしはイヤホンからあふれる調べに身を委ねた。

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