【小説】ミヤマ 2


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 太陽の光が瞼の向こうを照らすとともに、少年は目を覚ます。なんのてらいもない、穏やかな浮上だ。内側から寝袋のファスナーを下ろし、体を起こすと、今日一日、これから起こるであろう未来が少年の脳内を駆け巡った。予想通りの定式化された未来。しばしベンチの上でたたずむ。

 同じく園内に寝泊まりしていた人々も一日のはじまりを迎えつつあった。ブルーシートのテントから顔を出す老人。もぞもぞと身動きする段ボールの塊。ひとの気配は少ない。時折、朝のランニングで公園を訪れた人間がミヤマのそばを通りすぎる。じろじろと少年とスクールバッグを見る者もいれば、努めて目をそらす人間もいる。少年は気にも留めない。

 寝袋をたたみ、干していたタオルとともにナップザックのなかへ仕舞う。ゴム底の草鞋を履き、顔を洗ってから頭上を見上げた。雲ひとつない、ただ青いだけの空がハンガーのようにぶら下がっている。ベンチに戻って前日にもらった弁当を食べた。三つもらったうちの最後のひとつだ。これ以上残しておくとだめになってしまう。少年はそれを経験から学んでいた。肉野菜炒めからは古きもの特有のすっぱい味がした。ほかにもりんごやキウイなどが袋のなかに残っていた。今日明日は乗り切れそうなほどの食料だった。ミヤマは空になった弁当箱を近くのごみ箱に投げ入れ、またつかうために割り箸を水で洗った。ベンチに座り、しばらくは本を読んで時間を潰した。『ガラスの靴』のつづきだ。物語では意地悪な義理の母が、あらゆる手をつかってシンデレラを痛めつけている。自らの感情を受け入れぬ世界に怒りをぶつけている。主人公は呻き、耐えながらも、未来につづく抜け道を見つける。ページをめくりながらミヤマは思う。ファンタジーであろうと、SFであろうと、時代劇であろうと、創作と現実の間にそれほどの差はないものだ。やがて公園の時計の針が九時を指す頃、ミヤマは静かに荷物をまとめた。

 公園の端にある駐輪場に、彼の自転車が停めてあった。フレームもチェーンも赤く錆びたママチャリ。知りあいのホームレスに譲ってもらったものだ。少年はスクールバッグとナップザックを荷台にゴムひもでくくりつけた。スタンドを払ってまたがると、金属と金属が擦れあう、甲高い悲鳴のような音がした。


 新宿の街はとうに目覚めていた。甲州街道は車の列で流れが滞り、駅は人型の洪水で氾濫気味になる。スーツを着た男女の群れ。学生服を着た若者たち。オフィスを目指し足早に歩く者もいれば、目的地に行くためにこの街を通過するだけの者もいる。立ちはだかるビル群の窓ガラスが太陽の光を反射し、地上をあたためている。

 混雑した西口付近を走り抜け、高島屋の下を潜って通りすぎた。街の片隅まで行くと駐輪場に自転車を停め、荷物はそのままにして美術館のなかへ入った。『黄昏の』という名を冠しながら、太陽が空高くのぼっていることに妙な異物感をおぼえる。受付の女性はミヤマの姿を見るとそっけなく頷き、短く言った。

「今日はまだだれもきていませんよ」

 照明に白く照らされた通路を進む。月面のようにひと気がない。少年の足音だけが周囲に響いた。飾られているほかの作品には見向きもしない。やがて経路も半ばにさしかかると、目的の絵画が少年の目の前に現れた。

 女は、初めて出会ったときと変わらず、絵のなかで荘厳にたたずんでいた。静かな眼差しで額縁の外を見つめている。少年は絵の前に置いてある椅子に腰かけた。毛羽だったやわらかいクッションがついている。毎日のように訪れる少年のため、あの老人が用意してくれたものだった。

 そのまま、しばらく女を見つめていた。この時間。女と一対一で切りとられた空間に漂うこの間だけは、外の世界のありとあらゆる事象が停止する。あるいは停止するのはミヤマと女を囲む小さな宇宙だけなのかもしれない。純白に波打つワンピースが彼らを包み、外の世界との境界をなしている。少年の魂が熱を帯び振動すれば、女の魂も同じように激しく共振する。彼らは二人きりで切り離され、永遠のなかに隔離されている。だれにも邪魔をすることはできない。二人のうちどちらかが、それを望まぬ限りは。

 しばらくはじっと過ごしていた。ミヤマは何時間だってこの場所で過ごすことができた。状況さえ許せば何時間だって。やがて昼になってほかの客が現れはじめた頃、ミヤマは静かに立ち上がり、美術館をあとにした。

 自転車をこぎ、窓ガラスが照りかえす蜃気楼に包まれた街中で、人々の表情のない顔の合間に、彼女の面影を探した。少年には、彼女がまだこの街にいるような気がしてならなかった。というより、彼女の存在がたしかならば、この街以外の場所ではその存在が許されないような気がした。新宿の街にはそのような力が宿っている。ミヤマのような存在すら許容する力が。だからこそ少年は新宿の街をさまよいつづける。人混みのなかに彼女の姿を探す。それ以外の、現実に立って歩くひとの形をした容れ物は、ミヤマにとってただの幻でしかなかった。彼女以外の現実は、すべてがなんの価値もないゴミクズでしかなかった。


 都庁前のベンチに座って休んでいた。このあたりは清掃も行き届いていて、歩道は白く、清潔だ。車の通りも少なく、ツアー客を待つ大型バスが一台、ミヤマの視界の端でエンジンを唸らせている。

 昼食はりんごとキウイ。袋から取り出し、ペットボトルに汲んだ水道水をかけて洗う。どちらも皮ごと食べる。ナイフなどこの街で持ち歩く度胸はないし、一度でも皮にわずかなりとも甘さがあることに気づけば、それはおいしく感じられた。

 手首を伝う果汁をあわてて口元ですすっているときに、ミヤマの正面でクラクションの音が響いた。顔を上げると、つかい古された一台の軽トラの運転席から、グレーの作業着を着た結城ゆうきライがこちらに身を乗り出していた。

 開いた窓から彼は大声でしゃべる。「和服を着ているから、一瞬だれだかわからなかったよ」

 ミヤマはりんごを持っていないほうの手を掲げ、羽のように軽い挨拶をした。二人は学校では同じクラスで、あまり言葉を交わしたことはなかったけれども、お互いに顔は知っていた。

 結城ライはミヤマよりも二歳年上だった。車をおりてこちらへ歩いてくるライを見ながら、ミヤマは彼のことを考えていた。彼のことは同じ学校に通っていれば、知らない人間はひとりもいなかった。

 彼の母親は日本人ではなかった。フィリピンだかどこだかの東南アジア系のひとで、日本のパブで働いていたころに、ライの父親と出会った。ライを産んだ当時、彼女はまだ十九歳で、父親は四十五歳を迎えるところだった。父親は半導体の新事業と山わさび畑への投資でひと山あて、金は持っていたという話だから、彼女はそれを目当てに結婚したんだろうとか、国籍を取得するのが目的だったんだろうとか、愛なんてなかったんだろうとか、一時期、好き勝手に噂されていたらしい。事実、母親はライを産んだ直後に、ホームシックに苛まれたのかは知らないが、夫と子供を捨てて祖国に帰ってしまった。残されたのは歳の離れた親子と、高齢になった祖父母たち。やがてライが中学生だった頃に、彼の父親は、子供を置いて遊びにいった宮古島で、ボートの転覆事故に巻きこまれ、死んでしまった。高校一年生になるまで、ライは祖父母に育てられた。

 母親の性質を色濃く受け継いでいたのか、ライは高校一年生のときに子供をもうけた。彼はまだ十六歳だった。相手は三歳年上の看護学生で、二人は交際すらしていなかったという。妊娠が発覚したときの彼の反応は推して知るべしだが、とにかく、彼の人生は一変した。相手方の祖父には殴られ、鼻筋は永久に少し傾くことになったし、家族を養うために働かなければならなかった。相手方の家族はライに責任を求めたし、すでに父親の遺産はつかいこまれていたから、彼の祖父母にすべてを解決するような財力はなかった。通常の青春を謳歌できなくなったと、彼が人前で嘆いたことがないというのはたしかだろう。ミヤマはそんな話を聞いたことがない。それに、ライが積極的にほかの学生と関わる機会も少ない。周囲は彼のことを縦横に飛びまわるスズメバチのように、少なからず恐れていた。クラスメイトや年上、年下だけではなく、教師連中も彼からは距離を置くようにしていた。それはライが二年も留年して、生活費を稼ぎながら、時折、学業にも接していたからか、その若さで子持ちという事実がそうさせたのか、登校する日は愛車の軽トラを校門まで乗りつけて校舎に登場したからか。加えて忘れてはいけないのは、彼には前科があるということだった。詳しいことをミヤマは知らなかったけれども、中学のときに、彼に喧嘩を売った教師を救急車で病院送りにしたらしい。正当防衛で経歴にさほどの傷がついたわけではなかったが、彼の行く先に、常に噂がまとわりつくには充分だったようだ。

 彼はミヤマの前で立ち止まり、口を開いた。

「ひとりかい? こんなところでなにを食べてる?」それから彼はミヤマの手元を見おろし、目を栗のように見開いた。「やっぱりおまえは変わったやつだなあ」

 ミヤマが荷物を退かしてスペースをあけると、彼は大儀そうに隣に座りこんだ。ため息をつきながら、午前からずっと働きどおしなんだ、と彼は言った。

「仕事は終わったの?」ミヤマが尋ね、袋のなかからキウイをつかんで差し出すと、ライは礼を言って受けとった。

「いや」彼は首を振る。「配達の途中なんだ。歌舞伎町まで荷物を届けにいくところでね。でも熱々のユッケジャンみたいに疲れたし、途中でおまえを見かけたから、ちょっと休憩」

 ミヤマは軽く笑い声をあげた。

「どうして笑う?」とライが怪訝そうに尋ねた。

「熱々のユッケジャン」そうつぶやいてミヤマはまた笑った。

 ライはポケットから折りたたみナイフを取り出し、刃を伸ばしてキウイの皮を器用に切りはじめた。ミヤマはだれかのことをクールだなんて思ったことは一度もなかったけれど、ライの動作には目を奪われるものがあった。しばらく彼の様子を黙って見つめていた。ライの手つきは無駄なく流れるようで、それはミヤマが欠片も持ちあわせていないものだった。

「どうしてこんな場所に?」ライは手に持つ部分だけ皮を残し、切ったものは近くの茂みに投げ入れた。「ここからは都庁が丸見えだ。これじゃあ、あそこを出入りする人間にジロジロ見られてもしょうがない。ひげも伸びてるし、その和服もむかしのホームレスみたいだよ。江戸時代くらいには、いまのおまえみたいな物乞いがあちこちにいたんだろうな」

「たしかにぼくは物乞いみたいなもんだよ。自分の家も畑も持ってない」

「冗談だ、本気で言ったわけじゃない」と彼は言った。「どうしてこんなところに?」

 ミヤマは上空までそびえる都庁の威容をちらっと見上げた。「ここがこの街では比較的静かだからってだけだよ。ひとも車も少ないからね。腰を休めるにはぴったりなんだ。それに」最後に付け加えた。「ひげはお互い様だよ」

「にしてもなあ」ライはキウイの頭にかぶりつき、あごに果汁を滴らせながら言った。「どうしてこんなところをうろついている? おれがたまに学校へ顔を出しても、教室でおまえを見かけたことがない。決まった曜日の決まった時間にしか遭遇しない。教室のおまえの席は女子のたまり場だ。汚らしいケツを机にのせて、やかましい声でキンキンわめいてる。そのうちあいつらはおまえの席にうんぴょこをひりだすようになるぞ。あまりにも汚くなりすぎて、便所との区別もつかなくなるんだ」

 ミヤマはふたたび喉の奥から笑った。今度はライもいっしょに笑った。

「ぼくは暇なんだ」笑いが収まってからミヤマは言った。「暇で暇で仕方ないから、こうやって時間を潰してるだけだよ」

「ふーん」

 しばらくは二人とも黙って果実をかじりつづけた。少し離れたところで、集まったツアー客がガイドの女性の案内で大型バスに飲まれていく。やがて最後にガイドが乗りこむと、バスはブーンという低いうなりをあげて、いずこかへと消えていった。

「なるほど。たしかにここは静かだ」訪れた静寂のなか、ライはつぶやいた。「新宿のほかの場所とは違う」

 ミヤマは頷いた。

「この街にいるとな、不思議と自分が自分じゃなくなっていく感覚がある」ライはキウイを食べ終え、手元に残った皮を茂みに投げ入れた。「自分の体が波打ち際に溶けていくような感覚だ。だが同時に、おれの魂が街から遊離して、暗くて寂しいところをさまよい歩いている感覚もある。ひとりで土砂降りの雨にでも打たれてるみたいな。そこでは自我が集団を包みこんでいるんだ。この二つの感覚はいっけん、矛盾しているようで共存できる。おれの言いたいこと、わかるか?」

 少し考えてからミヤマは言った。「多分ね」

「そうか、わかるか」ライは静かに上を見上げた。ビル群に縁取られた空が歪んだ形で浮かんでいる。ミヤマもつられて空を見上げた。しばらく二人並んでそうしていた。

「さて」やがてライは立ち上がる。「そろそろおれは行くよ。大便したばかりのケツみたいな仕事が、まだまだ残ってる」

 ミヤマは彼を見て頷いた。こうして見ると、ライの背はまわりに並び立つビルのように高く感じられた。実際、彼の背はミヤマより低いはずなのだが。

「一仕事終えたら昼飯を食おうと思ってるんだ」彼はミヤマを見おろす。「おまえもいっしょに食うか?」

 ミヤマは少し考えたあと、首を振った。

「ぼくはもうお腹いっぱいだからいいよ。それに、外食するお金なんてないし」

「この果物は買ったものじゃないのか?」

「もらったものなんだ。この国には食べ物が溢れかえってるから」

「ふーん」ミヤマの言葉が、彼にはあまりよくわからないようだった。「金がないならおれがおごるよ。それならくるか?」

「やめておくよ。お腹がいっぱいなんだ」

「わかった。キウイごちそうさん」ライは頷き、背中を向けた。何歩か歩いたあと振りかえり、唐突に言った。「おれはな、仕事はひとりでするべきもんだと思ってるんだ」

 ミヤマは彼の顔を見上げた。

「だれかがいることでお互いに気をつかったり、非をあげつらったりするなんてくだらん。だからおれは今年からひとりで仕事をはじめたんだ。だれにも迷惑をかけないように。だれからもほっといてもらえるように」

「うん」

「ただ最近になって、ひとりじゃ限界があることもわかってきた。もちろん、仕事をセーブすればいいんだが、そういうことじゃなくてな」ここでライはためらうように、迷うように口をつぐんだ。彼の身に着けていた灰色の作業着が、陽光に照らされて映えていた。

「ひとりが大変なときもあるよね」ミヤマは穏やかに口を開いた。「ひとり言を話してると変なひとだと思われるし、集団からは見下されて干渉されるし、肩からおろした荷物をだれかに預けることもできないから」

「ああ、そうだな」ライは言った。「金がないなら、おれのとこでバイトでもするか?」

「バイト?」

「そんなに複雑な仕事じゃない。おれにくっついて、作業を手伝ってくれればいいんだ」

「ぼくに言ってるの?」ミヤマは驚いて尋ねた。

「おまえ以外にだれがいるんだ」ライは言った。「どうだ、やってみるか?」

 ミヤマはかじりかけのりんごをゆっくりおろして返事を考えた。「どうして? どうしてぼくなの?」

「さあ、なんでだろうな」とライは肩をすくめてみせた。それからミヤマがまとっている襤褸のような作務衣、錆びた自転車、荷台に積まれたテントを順番に眺めた。やがて彼は言った。「おれはただ、おまえならいいと思ったんだよ。おまえと話していると、死んだ親父と話しているみたいだ。なんだかほっとするんだよ」

 ミヤマは歩道の敷石を眺め、想像にふけった。ライと二人で働く。軽トラに並んで座り、目的地を目指す。他愛もない会話。そして労働の対価として受け取る金銭。ミヤマには自身がそれらを望んでいるのかどうかわからなかった。だからこたえを出すのは簡単だったかもしれない。

「ぼくはやめておくよ」ミヤマは静かに言った。「ぼくはいまの生活に不満はないんだ。お金がなくても、世界の一部じゃなくても、生きていくだけなら問題ないよ」

「そうか」そう言ったライの表情からはなにも読みとれなかった。「もし気が変わったら学校で会ったときに言ってくれ。またな」

 車へと戻るライに手を振りかえし、彼の姿が小さくなっていくのを見送った。ミヤマは人差し指を唇にあてて考えた。新宿という街では時折、こういうことが起こる。この街ではランダムな事象と普遍が奇妙に入り混じっていて、いつ何時、なにが起ころうとも不思議ではないのだ。ライとの出会いは、彼にその事実を思い出させた。

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