【小説】ミヤマ 4

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 彼女は夏の桜に似ていた。青々とした葉を揺らし、風にうららかな歌を乗せる。花びらは裏に表にひるがえり、ひとつ前の季節に散ってしまったけれど、季節が巡ればまた咲く。

 ミヤマは彼女の足元で休んでいた。広がった白いワンピースの裾に包まれ、揺り籠に揺られるように。風が草原を吹き抜ける。草花はこすれあい、弦を弾いて悠久の記憶を奏でる。そこには少年と彼女の二人しかいない。鳥も獣も、雲の影さえ存在しない。

 ミヤマは語りかけた。鏡のような水面をなでるように。彼女は踊っている。水面の向こうで。少年の声が届いているかどうかはわからない。彼女は踊りつづけ、葉を揺らしつづける。その足元で少年は足を伸ばし、彼女に背中を預け、さやかな風にまどろむ。ここには少年と彼女の二人しかいない。

 ゆっくりと少年は目を覚ました。熱をためた寝袋が体を包んでいる。いつもの公園。いつもの空。いつもと変わらぬ朝。そして夢。

 けれどもこの日は予定があった。


「正直、驚いたよ。てっきり断られたもんだと思ってた」

「お金が必要になっちゃったから」ミヤマは窓の外を通りすぎる都会の景色を眺めながらこたえた。「自転車が壊れちゃってね。修理しないといけないんだ」

「そっか」ライは運転に意識を向けながらも頷く。「でも助かるよ。男手がほしかったところなんだ。取引先が増えたもんだからさ」

 ミヤマたちの乗る軽トラは朝の渋滞に捕まっていた。今朝、公園で目を覚ましたときよりも都会の熱気がこもっている。目の届く限りつづく車の列。マフラーから立ちのぼる排気ガス。合間を縫って走るスクーターを、少年は釣られるように目で追った。

「今日ぼくはなにをすればいいの?」と彼は尋ねた。

「ああ。おれにくっついて、勘のいいニシローランドゴリラみたいに真似をしてくれたらそれでいい」ライは焦る様子もなく、背もたれに体を預け、ハンドルを片手で操っていた。「そんなに難しい作業じゃないんだ。馴染みの店に酒を届けて、空になった空きびんをケースごと回収するだけ。簡単だろ?」

「それだけ?」

「今日はそれだけだ。急ぎでもないし、だべりながらのんびりやればいい。昼飯はもちろんおれのおごりだ。給料から差っ引いたりしないから安心してくれよ」

 渋滞を抜けてしばらくすると、軒先に提灯のぶら下げられた、寂れたエリアに辿り着いた。アスファルトの上を転がっていくごみや側溝にこびりついた吐しゃ物を見る限り、夜は多くの人々が集まるのだろう。灯に釣られる羽虫のように。ミヤマがこのエリアに足を踏み入れるのは初めてだった。新宿の街には知らない場所がいくつもあることを彼は理解していた。

 ライは一軒の飲み屋の前で車を停めた。入口の脇に大きなビア樽が置かれている。車から降りると、その肥えた樽をミヤマはじっと見つめた。もう少しで彼の背丈まで届きそうなほどに巨大で、なかにものがびっしりと詰まっているかのように膨れていた。

「おうい。こっちへきて、手伝ってくれ」

 声にうながされて荷台のほうへまわると、ライが酒瓶の詰まったプラスチックのケースを軽々と持ち上げ、裏口に向かって運んでゆくところだった。ミヤマはあわてて彼の真似をし、ケースの重みに体を揺らしながらあとにつづいた。

 開け放された裏口を通って暗がりのなかを進み、ライの指示した隅にケースを下ろした。ライは店主と思わしき中年の男性と談笑していた。

「こっちがしばらく仕事を手伝ってくれる友人なんです」

 そう言ってライはミヤマの背中をぽんと叩いた。前に出された少年は、こんなときどうすればいいかわからなかったので、無言のまま軽く頭を下げた。ライがなにか冗談を言った。店主がそれに冗談で返した。二人が笑いあうのをミヤマはじっと見つめていた。すぐに作業は再開され、ミヤマはライのあとにつづいてケースを運んだ。

 つぎの二店舗目でも同じような仕事だった。ミヤマはすぐに重い荷物をうまく持ち運ぶコツをつかんだ。作業をはじめてしばらくの間は腰への負担も大きく、指先に無駄な力がこもっていた。時が経つにつれ、負担が減っていく。腕や背筋で重い荷物を持ち上げるより、太腿や股間で持ち上げるほうがはるかに楽であることに少年は気づいた。軽トラの荷台から酒瓶のケースを引き寄せ、その重心を下腹部に当てる。いや、下腹部にのせると言ったほうが正しいかもしれない。首筋と丹田に力をこめてケースを持ち上げ、体の重心を後ろに反らすことでバランスを保つ。腋を締め、落ち着いた呼吸を鼻からすることでリズムをとる。ケースは体にのっている。踏み出す一歩は大きすぎず、重心がなるべくぶれないように運べば、それが腰や腕にかかる負担も減った。

 このような純粋な肉体労働を、少年は生まれて初めて経験した。夏の名残りが空に漂う日。次第に少年の腋は汗で濡れだし、のどは渇いて水分を求めた。それは少年にとって心地のよい渇きだった。いつしか思考は肉体の檻から離れ、空を舞う。体を動かすことで飛躍から飛躍を繰りかえし、昨日までの自分よりも哲学的な深みが増していくことにミヤマは気づいた。大地と木々がひとつであるように、意識と肉体もまた、引き離すことのできないひとつなのだと。


「いまの店で午前のは最後だ」ライはシートベルトをかちりとはめ、キーをまわしてエンジンをかけた。「疲れたか?」

「少しね」ミヤマはペットボトルのキャップを開け、ひと息で半分ほど中身を飲み干した。

「午後にも作業がいくらか残ってる」ライはミヤマの顔をのぞきこんで尋ねた。「まだ体力は大丈夫かい?」

「これくらいで音をあげたりしないよ」

「そっか。おまえに声をかけてよかったよ」

 車はゆっくりと発進し、店をあとにした。やがて車の列にまぎれると、都会の騒がしさがミヤマの耳によみがえってきた。建物に反響するエンジンの音や人々の話し声。時折、遠くから響いてくる電車の走り抜ける音。彼女はいまもこの街のどこかにいて、だれかに見つけられるのを待っているのだろうか。なぜかこのときのミヤマには、それほどの確信は持てなかった。

「お昼はなにを食べたい?」前方を注視しながらライが尋ねた。

「手料理された肉じゃがからつくった甘口カレー」

「なんだって? すまん、よく聞こえなかった」

「なんでもいいよ。ぼくは好き嫌いがないんだ」

「それじゃあ、おれが決めてしまうか」

 軽トラは煩雑さのなかを縫い、少しずつ前に進んだ。ライは運転しながら缶コーヒーをミヤマに渡し、自分もプルタブを引き開けて口をつけた。

「なあ」おもむろにライが口を開いた。「この間の美術の時間のことをおぼえているか?」

「なにを?」ミヤマはプルタブを開けようとしていた手を止め、首を傾げた。

「あいつのことだ。ユズのこと」

「ユズってだれ?」

「おいおい」なかば呆れたようにライが言った。「おれたちの机に押しかけてきたあの女のことだよ。マジなのか? それとも世界レベルの天然なのか?」

「冗談だよ」ミヤマはプルタブを開け、缶コーヒーを仰いだ。「それで?」

「それで、おまえはあいつのことをどう思った?」

 ミヤマは飲み口に口をつけたまま、しばらく考えた。「特にどうとも思ってないよ。なんでぼくに話しかけてくるんだろうなってくらいかな。変わったひとだよ」

「でも、話しかけられて不快というわけじゃないんだろう?」

「いまのところはね」

 それからライは考えにふけるように黙った。ミヤマも無言で缶を傾ける。軽トラの外の雑音が音量を増し、少年の耳に届いた。ひとがすし詰めになったこの街を、こんなふうに旅することへの違和感を、少年はようやく感じはじめていた。自らの足で遅々とした歩みをつづけてきたというのに、ここにきて他人の手に頼っているとは。

「どうやらあいつはおまえとお近づきになりたいと思ってるらしいんだ」

 ミヤマはゆっくりと思考の湖から浮上し、ゆっくりと首を曲げてライを見た。彼はどこかおもしろがっているような表情でミヤマを見返した。

「なんの話?」ミヤマはのしかかるような疲労感をおぼえた。「意味がよくわからないな」

「よくわかってないのはおまえだけだ」ライは落ち着いた様子で言った。「おれはこういったことに関しては一家言あるんだ。横で見ていればおれにはわかる。突如、目の前に聖書を片手に持った巨大な大仏が空から降ってきたら、だれだって気づかずにはいられないだろ。おれにはそれぐらいわかりやすいことなのさ。あの女はおまえに熱をあげてる」

「そんなふうには見えなかったけどね」

「そりゃ、おまえみたいなにぶちんにはな」

「彼女がそう言ったの?」

「明言はしなかった」とライは言った。「ただ、それらしいことは言ったよ。ぜひ今度、おまえといっしょにバイト先へ遊びにこいとさ」

「それだけでひとの気持ちに判断はできないよ」

「もちろん、それだけじゃない。おまえを見るときの表情、目の動き、音となる手前で消失した言葉、鼻の穴が膨らんでいる時間、漂ってくる清涼な水みたいなにおいでわかるんだ。おれがまちがってたら肛門のなかでパスタを茹でてみせるよ」

「いいよ、そんなことしなくて」

 軽トラはウィンカーを点滅させ、大通りから脇道へ入った。車の流れが減り、視界がわずかに開けた。ミヤマは飲み干した缶コーヒーを太腿の上にそっと置いた。

「いまぼくらはどこへ向かってるの?」と彼は尋ねた。

「ああ、まあ試しに顔を出してみようじゃないか」


 駐車場は二台分しかなく、うち一台は乗用車で埋まっていた。喫茶店の名前は『アマテラス』。ミヤマは軽トラから降りて、まるで粗大ごみ置き場から回収したような看板を見上げた。

「いやだったかい?」隣に並んだライがミヤマの顔色をうかがった。「なんならいまからべつの場所に変えてもいい。大蛇みたいに腹が減ってるが、もう少しなら我慢できる」

 ミヤマは拗ねたように言った。「べつにいいよ。ここでも」

「なあ。おれがおまえを連れてきたのはなにもあの女のためじゃない」ライがなだめるように言った。「ただおまえを見ていたら、このままではもったいないと思ってしまったんだよ」

「もったいない? なにが?」

「現実は醜いもので溢れかえってるわけじゃないんだということを、おまえが知らないままでいることがさ」

 ライが扉を引くと、取りつけられたベルが凛とした音を鳴らした。彼の後ろについたミヤマは、古い喫茶店特有の時間に漬かった熱のにおいをかいだ。天井から吊り下げられた笠のついた電灯が、ほのかな灯りで室内を照らしていた。店内はさほど広くない。赤いレンガ調の壁と、ところどころ染みのついた木目調の床。左の壁際にテーブル席が四つ並んでいて、年季の入った革張りの席が据えられている。店内のもう半分はカウンター席だった。丸椅子がいくつか床に固定されていて、いくつか開いた穴からスポンジがのぞいている。カウンターの向こうには調理場があり、黒く焦げた調理器具と清潔な食器が、客の見えるところに並べられていた。

「いらっしゃいませー」

 二人に歩み寄ってきたユズの姿を見て、ミヤマはすぐに目をそらした。彼女は淡い水色のチェック柄をした、そでにフリルのついた白いワイシャツを着ていた。上のボタンが二つ開けられ、喉元には襟ぐりの深いインナーがのぞいている。肌色の胸元が空気にさらされていた。赤みがかった黒いスカートは膝丈まであり、膝の上で花開くように裾が広がっている。髪はいつもどおりひとつに結ってポニーテールにしていた。

 テーブル席は何人かの客で埋まっていた。ミヤマたちはカウンター席を選んだ。二人とは反対の端に男がひとり座っていた。スーツのボタンを開け放ち、ネクタイを緩めている。カウンターに肘をつき、スプーンでカレーライスを口へかっこみながら、もう片方の手でタブレットをいじっていた。

「いらっしゃい、二人とも」そう言ってユズは水の入ったグラスをミヤマたちの前に置いた。ミヤマがちらっと見やると、彼女と目があった。「きてくれてうれしいな。おすすめはナポリタンだよ」

 注文を告げると、彼女は二人にほほえんでみせた。ユズは背中を向け、そのはずみで漆黒の髪が揺れる。甘い森のようなにおいが、店内のにおいと混ざってミヤマの鼻をくすぐった。

「なかなか悪くない雰囲気じゃないか」カウンターに肘をつき、ユズが店長らしき老夫婦に注文を告げるのを眺めながらライが言った。彼はおもむろに立てかけてあった紙ナプキンを手にとり、いったん広げてから、なにかを折りはじめた。ミヤマはその様子をぼーっと見ていた。

 客が席を立ち、店をあとにする。新たな客が慣れた顔つきで店に現れる。そのたびにユズは顔を上げ、ひと房の髪を羽ばたかせばがら、挨拶をする。ミヤマは横目で何度か彼女の様子をうかがったが、長く見すぎるということはなかった。

「ほい、できた」

 ライが手の平をどけると、紙ナプキンで折られた鶴が現れた。それは作者の手汗を吸って歪んだ翼をしていた。自力で姿勢を維持する力はなく、片方のよれた翼に寄りかかり、困ったように首を傾げていた。ミヤマは無言でそれを見つめた。

「ガキの頃に親父から折り紙を教わったことがあるんだ」ライは新たな紙ナプキンを取り出し、ふたたびなにかを折りはじめた。「おれは家に引きこもってゲームばかりする子供だった。室内でできる暇つぶしを知ってると役に立つとでも考えたんだろう。親父は手先が器用でないとできない仕事をしていたから、そのために折り紙をおぼえたらしいんだ」

「ふうん」

「なつかしいよ。なかなか忘れないもんだな」

 紙ナプキンの龍が誕生する頃、ユズがナポリタンののった二枚の皿を両手で掲げ持ち、ミヤマたちのそばに現れた。彼女がそれを二人の前に置くときには物音ひとつ立たなかった。その後、彼女はカウンターの向こうへ戻り、二人の向かいで皿洗いをはじめた。

 ライは木の籠からフォークを二本取り出し、一本をミヤマに手渡した。彼はスパゲッティを巻いて口に運ぶと、すぐに満足したような表情を浮かべた。

「どう、おいしい?」とユズが作業をしながら尋ねた。

「ああ」もぐもぐと咀嚼しながらライがこたえた。「めちゃくちゃおいしいよ。うますぎて腹をモーニングスターでぶん殴られたみたいな衝撃だ」

「それ、ほめてるのかな」彼女はミヤマのほうに向き直った。「味はどう?」

「おいしいよ」ミヤマは言った。実際、それはすばらしい味だった。「ぼくの大好きな味だよ」

 ユズは真面目な顔で頷いた。彼女はがちゃがちゃとスポンジで皿をこすりながら尋ねた。

「二人とも今日はどうしたの? 新宿の街に用事でもあった?」

「今日は仕事でね」とライがこたえる。「しばらくバイトで手伝ってもらうことになったんだ。いまは昼休憩なんだよ」

「仕事って、たしか肉体労働じゃなかった?」ユズが心配そうに視線をミヤマへ移した。「大丈夫なの?」

 ミヤマは咀嚼していたものを飲みこんでから言った。「いまのところはね」

「いったいいつまでつづけるつもり?」

「さあ」ミヤマは首を捻った。そんなこと、考えてもみなかった。

「気の済むまでつづけたらいい」ライは紙ナプキンの龍を肉塊に変え、ケチャップで汚れた唇を拭いた。「どうせ暇なんだろう? いまのうちに金を貯めておけば、その分あとで楽ができる。ほしいものを買ってもいいし、どこかの女のためにつかってもいい。おれはおまえがいてくれると助かるよ」

 それを聞いてミヤマはとまどいをおぼえたが、表には出さなかった。だれかに求められることなど初めての経験だったのだ。このとき、少年は額縁に収まったあの女性を心に描いた。いまは愛しいあの女が遠くに感じられる。これまでこの街にいる間は、常にあたたかく包まれているような心地だったのに。そしてミヤマはその遠離へ恐怖を抱かなかったことに、純粋で汚れない恐怖をおぼえた。

 ユズは水道の蛇口を閉め、乾いた布巾で皿を拭きはじめた。彼女は静かに二人を交互に見つめて言った。

「よかったね、二人とも」ライとミヤマは顔を上げて彼女を見た。ユズは言った。「二人とも、ずっと学校でもひとりで過ごしていたみたいだったから。でもいまは、ひとりじゃないでしょ?」

 それから食事を終えるまで、二人は口を利かなかった。気恥ずかしさで、それどころではなかったのだ。

 食事を終えると、ライは紙ナプキンの鶴で口を拭き、コーヒーを二つ注文した。カウンターの反対に座っていた男性が、タブレットをいじったままスプーンを置き、片手で財布を取り出して会計を済ませ、タブレットに視線を落としたまま店を出て行った。

 ミヤマは差し出されたコーヒーにミルクと砂糖を入れ、持ち手に唐草模様の刻まれたティースプーンでかき混ぜた。ミルクの白い航跡が、またたく間に黒い波間に飲みこまれていくのを、少年はじっと見守った。隣でライが同じようにミルクと砂糖をカップに加え、飢えた聖職者のように繊細な動作で混ぜていた。

 二人がゆっくりしている間に客足は落ち着き、ユズの仕事も減ってきたようだった。彼女はカウンターの向こうの棚から、青い軟膏のようなものが入ったケースを取り出し、汚れた布巾ですくいとって、スプーンやフォークを磨きはじめた。やがて磨き終えた一本のフォークを電灯の下にかざし、その様子を見守っていたミヤマに尋ねた。

「どう、きれいになったでしょ?」

 ミヤマは頷き、湯気の立つコーヒーをすすった。奇妙な感覚が全身を駆け巡る。少年には馴染みのない感覚。未来をすっかり入れ替えてしまうもの。隣に座った男がなにかを言ってくれるのを期待したけれど、彼はなにも言わなかった。ユズは街中を歩く女性たちが浮かべるような笑顔を浮かべた。

「汚れていたものが、きれいになっていくのって気持ちいいの」彼女は作業をつづけながら言った。「増えた体重を落としたり、貯めていたお金をぱぁっとつかうのといっしょ。脳の真ん中あたりが刺激されるんだよ」

 ミヤマはいくらコーヒーを飲んでも、のどの渇きがなくならないことに気づき、衝撃をおぼえた。この自分が? これから先も、ひとりで生きていくことを覚悟していたのに?それもこれも、ライが余計なことを言うからだった。彼の言葉に引っぱられ、踊らされている。隣を見やると、彼はそしらぬ表情でメニュー表を手にとり、眺めていた。いかにもその内容に興味を惹かれたという様子を見せているが、ミヤマにはわかっている。彼がこの状況を楽しんでいるということが。厄介なのは、ミヤマの色を自分の色で染めてやろうという意思が、ライにはないことだった。

「こんなにゆっくりしてて大丈夫?」ミヤマは部外者を気取る詐欺師に話しかけた。「午後からも仕事があるんだろう?」

「大丈夫だよ」ライは落ち着いた声でこたえた。「午後の仕事なんて、折れた鉛筆の芯といっしょだ。すぐに片づくさ。おれはもうちょっと、英気を養いたいんだ」

「ペテン師め」と小さな声でミヤマはつぶやいた。軽快な動作でくるぶしを蹴られた。

「子育てしながら働いて、学校にも通わないといけないなんて大変だよね」ユズが同情するように言った。「ちゃんと毎日寝れてるのかな?」

「日に八時間は寝てるよ」とライがこたえた。「そのどれもを同時にこなしているわけじゃないからな。一日にひとつだ。たいしたことじゃない。それに、家族のためだと思えば苦労も吹き飛ぶさ」

「ふうん。素敵だね。奥さんと子供のためだって胸を張って言えるのは」

 ライの表情はやわらぎ、目は優しさを帯びた。「妻と娘はおれの生きがいだよ。彼女たちがおれの地図であり、目標であり、おしまいでもあるんだ。いまのおれはどんなことも怖くない」

「いいなぁ」心底うらやましそうにユズは言った。

 ミヤマの心臓は激しく高鳴り、それを抑えようとする意思に抗った。彼女の言葉がねじまわしのようにこめかみから侵犯してくる。少年はこれまでだれかに甘えたことはなかった。弱音を吐いたことはなかった。そんなことは微塵も許されなかったから。でも、この場所は……。

 ユズが済んだ瞳でミヤマを見つめていた。

「どうかした?」

 ミヤマは首を振ってこたえた。「なんでもないよ」

 コーヒーを飲み終え、店をあとにすると、ほっと胸をなでおろさずにはいられなかった。

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