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【小説】雪のひとひら 第一話

第一話 雪のひとひら

❄️1

「ほら、見てごらん」

 ぼくは口をつぐみ、言われたとおりに、指を差された方向へ目を向ける。

「あれは熊がブナの実を食べた跡だよ。あんなふうに枝を手折って食べるから、木の上に棚のような空間ができるんだ」

 鉄くずのように無知なぼくにそう教えてくれたのは、隣に並び立つ宗次郎兄さんだった。そう。何重にも折り畳まれた小さな記憶のなかで、兄さんはいつでもぼくの隣を歩いていた。ともに過ごした季節は短いけれど、ぼくらは本物の兄弟のようにいつもいっしょにいて、凍えそうな日にはお互いの魂を擦りあわせ、あたためあっていたのだ。

「実を食べた熊は、その種を山々のあちこちに運ぶ」

 遠い秋にうたわれた兄さんの声が、いまでもぼくの頭で響いている。

「そのことは木々も承知していて、彼らは自然のなかで共生の道を選んだんだ。森の木々にも、綿毛を空に舞い上げる風にも、暗い雲からくるくると踊りながら落ちてくる雪のひとひらにも、それぞれに豊穣な意志が宿っている。なあ、大輝。おれたちは同じ空を見上げてるんだよ。脆くて、儚いものでも、ひとつひとつを積み重ねて、おれたちは同じ空を目指しているんだ」

 とある山奥の裾野に、女木内おなきないという名の静かな村がある。段々に広がる田畑の美しい村だ。その村の端から木々が頭上を覆う山間の道に入り、十キロも車を走らせれば、視界の開けたもの悲し気な空間に迷いこむことができる。中央を流れる川を挟んでいくつかの廃屋が谷間にぽつぽつと浮かぶ、地図上からはその名を消された、声のない集落跡。伸びた雑草が錆びついた農具に絡みつき、遠いむかしに畑だった土の上では、いまは忘れられた、かつての住民たちの記憶を、すすきの穂が穏やかな風に揺れながら奏でている。


 ぼくが十三歳になるまでは鉄道さえも通っていた。一両編成の華奢な車体で、冬に走るさまは、広大な雪原に迷いこんだ野兎のようにも見えた。廃線となり、すべての車両が運行をやめた翌日、ぼくと祖父は、営業当時でさえ人影のなかった、廃れた駅のホームに立ち、集落の住民たちが踏面の錆びかけたレールや古くなった枕木を、線路から取り外しているのを眺めていた。

「とうとうこの日がきちまった」
 どこか遠くを見るように祖父が言った。
「もう何年も前から難しいとは言われていたんだ。乗客は減るいっぽうだし、借金は膨らむばかりだった。それでも、車の運転ができない年寄りや、学校へ通う子供のために、力を振り絞って走りつづけてきただ。それももうおしまいよ。長い間お疲れさま、と労わなければならねえ。そして、こんなふうにおらたちは取り残されていくのかもしれねえな」

 ぼくは返事もせずに、ホームに転がっていた小石を、つま先で線路の上に落っことした。当時、すでにぼくらの関係は修復不可能なまでに気まずくなっていた。祖父はきっと、一本ずつほどけていく撚り糸を、どうにかして元の姿へと戻すために、ぼくへと語りかけたのだと思う。その意図はあまりにも見え透いているようで、ぼくは塞いだ気持ちで空を仰いだだけだった。あのときのことを思い出すと、いまでも胸がうず疼く。心を殺し、どうにかして彼の期待にこたえるべきではなかっただろうか。頭ではどうしようもないことだったとわかっている。だが、どうしようもないことだとわかっているからといって、この痛みが薄まるわけでもない。

 レールや枕木は、けっこうな金額で売れたらしい。


 そしてあの命をもった彫像たち。祖父の手で彫られた龍や馬や三葉虫などの種々雑多な生き物たちが、集落のあちこちに立ち尽くし、この辺境に訪れる者を冷たい眼で見つめる。祖父の生きた証。集落が存在したことの証左。冬になれば、汚れのない雪が彼らを覆い尽くす。そして春になれば、ふたたび・・・・。

 あの春・・・あの春が訪れるまで、もつれあい、絡みあうようにして、ぼくらは山々を駆け巡った。ぼくと祖父と兄さんの、三人で。あれから永遠とも思える月日が経ったいまでも、あの頃のことは時々、夢に見る。釣りの経験がないぼくのために、祖父たちが選んでくれた、傾斜のなだらかな渓流。雪解けの季節は、枯れ葉や枯れ枝を巻きこみ、轟音をあたりに轟かせながら、歌うように朗々と流れる。木々の葉に遮られ、斑模様となった陽光の下で、ぼくの釣り竿に餌をつけてくれる祖父。流れる水音に負けないよう声を張り上げ、魚が休んでいる場所を指差して教えてくれる兄さん。何尾かの川魚を収めたビクを腰にさげ、フキの葉をかきわけながら、誇らしげな気持とともに彼らの背中を追った帰り道。夢から覚め、目を開けると、涙が一滴、こめかみを伝って零れ落ちることがある。ぼくの色彩豊かな少年時代は、あの景色、あの玲瓏な空気、あの手の平の感触、あの笑い声に、いまでも囚われたままでいる。


 とにかく、ぼくはそんなふうに育ったのだ。血の繋がった家族に見守られ、かの地で代替のきかない幼少期を費やした。両親が離婚してかわいそうだとか、父親に捨てられた子だとか言って、後ろ指を指す集落のひとたちを満足させることもなかった。ぼくはどこまでもぼくだったから。集落での生活は、都会暮らしよりもずっと、ぼくにはあっていたのだと思う。雑多な記憶はすぐに脇に追いやられ、新たな生活が、空いた隙間を瞬く間に埋めてしまった。あんなことさえなければ、たとえ集落との別れが避けられなかったのだとしても、ぼくはあの土地を、祖父の微笑みを、真夜中にうごめく獣たちの語らいを、いついつまでも愛せていたはずだ。

❄️2


 春。雪解けの季節。田植えははじまっておらず、田んぼの縁にはいまだ解けきっていない根雪が、斜めに差しこむ陽光に抗っている。雪の重みに潰された笹やすすきなどが、濡れ髪のように斜面にへばりついている。

 ぼくが六年生になったばかりで、新学期がはじまってまだまもない頃のある日。集落の入口でスクールバスから芝地に降り立ち、顔を上げると、陽はすでに山のは端にかかり、谷間は暮れかけていた。集落に戻ったぼくを真っ先に出迎えてくれるのは、祖父のつくった木彫りの動物たち。屋根の下や道路脇など、あちこちに薄気味の悪い彫像が散らばっている。ぼくは目玉の飛び出た龍の横を歩いて脇に避け、バスが車体を器用に旋回させるのを見守った。家の前まで送迎してもらえないのは、これより先にバスが折りかえせるほど広い道がないからだ。運転手は田んぼ脇のスペースを目いっぱい利用し、エンジンの唸りをあげながら細長い車体をバックさせ、ブレーキランプを一度だけ灯してクラクションを鳴らし、林の奥へと消えていった。ぼくはところどころ土に汚れたランドセルの位置を整え、我が家を目指してとぼとぼと歩きはじめた。手には体操服の入った巾着袋がぶら下げられている。少年はそれをサッカーボールにでも見立て、一歩ずつ歩むと同時に膝へぶつけた。巾着袋が蹴られ、潰れるたび、長時間閉じこめられた汗のにおいが大砲のように発射され、鼻先をくすぐる。次はもっと遠く、天まで届けと、少年はますます力をこめ、剥き出しの膝小僧で蹴り上げる。雲のない日で、川のせせらぎが澄んだ空気中に響き渡っている。稜線の向こう側から陽の名残りが一日の最後の輝きを谷間に投げ、風が吹くたびに立ち並ぶ杉の木が光を吸収し、針のような葉の先端まで波打つようにきらめく。

 ひとの気配を感じて、ぼくは立ち止まった。吟子ぎんこさんの家の前に、見慣れぬ軽自動車がとまっていた。どこか金属質な青色で、洗車されたばかりのように汚れひとつない。タイヤは白線を跨ぎ、車体がわずかに道路へはみ出している。それが地区の人間のものでないことは明らかだった。この地に一年も住んでいれば、どの住民がどの車を運転しているのか、知ろうとしなくたってわかってしまう。車の横には二つの人影があった。

 吟子さんは冬の間いつもそうしていたように、折りかえしのある紫色のニット帽を被り、同じく、こちらは幾分、蛍光感の強い紫の半纏はんてんを羽織っていた。どうやら出先から帰ってきたばかりのようだ。彼女は週に一度、必ず車を運転して飛鷹ひだかという町のパチンコ屋に顔を出す。そして昼から夕方まで、むかし借金を抱えていた頃に経営していたスナックの売り上げを、小指の先ほどしかない銀色の玉に捧げる。彼女はよくぼくにこんな冗談を言った。
「おらがボケちまって、夜中に家を抜け出して徘徊しだしても、あわてる必要はねえだからな。一番近所のパチンコ屋を探せばすぐに見つかるだよ」

 吟子さんがこちらに気づき、手招きをしたので、近づいて彼女を見下ろした。彼女は小さく、ぼくはクラスでも一番上背があるのだ。

「おかえり、大輝くん」
 吟子さんは黄ばんだ歯並びを見せてにやりと笑った。滑らかな銀髪が帽子の縁から流れ落ち、肩を通って胸元に垂れている。片手に挟んだ煙草から薄く白い煙が立ちのぼっていた。
「学校はどうだっただ? 楽しかったかい?」

 ぼくはもごもごと形にならない言葉でそれにこたえた。注意は吟子さんの隣に立つ女性に引き寄せられていた。年に二回、お盆と正月に吟子さんの娘たちがこの地へ遊びにくるのは知っていたけれど、それ以外の日に地区の外の人間が彼女を訪ねる場を見たことがなかった。

 女性は宗次郎兄さんと同じくらい若かった。肌にぴたりと張りついたジーンズは色褪せ、ところどころにダメージがかかっていた。いまだ肌寒いというのに、上には薄い綿のシャツ一枚しか身につけていない。姿勢がよく、おかげで突き出した胸が強調されている。ボリュームのある髪は吟子さんと同じように流れるようで、束ねることもせずに背中へ垂らしていた。

「ちょうど大輝くんの話をしようとしていたところなんだ」
 ぼんやりする頭に吟子さんの声が響いた。
「いまは孫に集落のことをいろいろと説明していたんだよ。これからしばらくここで暮らすことになるんだ」

 このときぼくは気づいた。ぼくが呆けた顔で女性を見つめているのと同じく、彼女も驚いた表情で目を見開き、ぼくを見ていた。

「驚いたわ」
 女性が消え入りそうな声でつぶやいた。
「こんな辺境に子供がいるなんて」

 ぼくはまともに女性の顔へ視線を向けた。凹凸おうとつのないほおは肉厚で艶やか。丸いというわけではない。綺麗な小麦色に日焼けしている。整った形をした尖った鼻は、このあたりでは見られないものだ。瞳は真っ黒ではなくかすかに茶色がかっている。その目に見つめられると、耳の奥まで沁みるように熱くなった。

「たったひとりだけだ」
 吟子さんは煙草を持つほうの手をひらひらと振った。
「それも去年、東京からきたばかりの子なんだ。なあ、大輝くん?」

「こんにちは、はじめまして」
 ぼくは困惑したまま、二人の中間に向かって頭を下げた。だがそれ以上の言葉は喉から出てこなかった。

「行儀のいい子だで」
 吟子さんが言った。
「この子のお父さんもよくできた男の子だった。大輝くんはおらの友達なんだ」

「こんにちは、はじめまして」
 女性の声は柔らかく、いまだ驚きが滲んでいた。
「こんなところに子供がいるなんて思わなかったわ、おばあちゃん。てっきり、お年寄りしかいないんだと思ってた」

「直にそうなるさ」
 吟子さんは煙草をくわえ、深く吸いこんでから灰を地面に落とした。
「それもそう遠くないうちにな」

 吟子さんは家のなかに上がり、ねぎやトマトの入ったビニール袋を抱えて戻ってきた。待っている間も女性はぼくを見つめたままだった。一二かずじさんによろしくな、と言われて袋を渡されたぼくは、ふたたび家に向かってとぼとぼと歩きだした。地面から放出される冷気が、火照った体を冷ましてくれた。家々の窓には明かりが灯りはじめている。犬の遠吠えが、集落を包む静寂を引き裂いた。闇が訪れるまで、まだ少しの間がある。

 白い石段をのぼって我が家の前に辿り着くと、兄さんがバイクの横に、半帽型のヘルメットを脇に抱えたまま立っていた。その顔には感情が浮かんでおらず、目は不純物のないガラスのように透き通っている。

「ただいま、兄さん」
 柳に向かってするように声をかけた。
「お仕事はもう終わったの?」

 兄さんはゆっくりと視線をぼくに移して頷いた。
「おかえり、大輝。手になにを持ってるんだ?」

「帰りに吟子さんからもらったんだよ。ねぎとトマトが入ってる」

「そうか」
 彼はふたたび頷いてみせた。
「それなら今度、お礼にうかがわなきゃならないな。毎度毎度、ありがたいことだ」

「また岩魚いわなでも届けてあげようよ。それかバッケの味噌漬けでもいいや。兄さんがつくってくれたあれ、おいしかったから」

「ああ、そうしよう」
 そう言って兄さんは口を閉じた。彼は作業着のチャックをぼんやりといじっていた。ぼくらの頭上を鴉かなにか、黒い影が飛び越えていった。

 兄さんが静かにこちらへ向き直った。
「体はなんともないか? 去年はひどい目にあっただろう」

 いっしょに釣りに行ったあとは、よくこのように心配された。前の年の夏、山から帰るとぼくの体には頭から足にかけて、全身にてかてかとした赤い発疹ができた。一週間は痒みが止まらなかったものだ。
「大丈夫、なんともないよ」

「きっと笹が原因だろうな。時々いるんだ、アレルギーを起こす人間が」

「大丈夫だからまた連れてってよ。ぼく、全然なんともないや」

「ああ、また二人で釣りに行こう」
 兄さんはぼくの横の虚空に向かって頷いた。
「吟子さんにも今度、お礼にうかがわないといけないしな」

 ぼくは彼の背後で体を休めてるバイクを見つめた。ホンダのスーパーカブ。兄さんはどんな凸凹な道でも、これに乗って山々を駆け巡る。

「ねえ、兄さん」
 ぼくは尋ねた。
「兄さんは、ここをでて都会で暮らしたいと思ったことはないの?」

「どうしてそんなことを聞く?」

「べつに。なんとなく聞きたいと思っただけだよ」

 兄さんはしばらく考えこんだあと、ゆっくり口を開いた。
「なあ、大輝。おれは馬鹿なんだよ。うん、そうだ。おれは馬鹿なんだ。だから都会で暮らしたって、うまくいきっこねえさ」

 祖父は町まで買いものにでも行っているのか、家に上がるとなかは静まりかえっていた。ぼくはもらった野菜を冷蔵庫に仕舞った。洗面所で靴下を脱ぎ、汗の染みた体操着と共にかごへ入れた。手を洗うと、汚れた水が回転しながら排水溝に吸いこまれていった。鏡には少年の姿が映っている。霞のように形が定まっていない顔。しわがなく、絶えず見慣れぬものを求めてさまよい動く目。しばらく見つめあってから洗面所をあとにし、階段を上がって自室に向かった。二階にはぼくと兄さんの部屋が隣りあって並んでいる。ぼくは部屋に入り、扉を後ろ手に閉め、隅に重なった布団の上に中身の詰まったランドセルを投げ置き、窓辺に向かった。閉まっていた窓を開ける。冷ややかな水気がほおをなで、布団の上の滞った空気と混じりあった。

 見下ろすと、宗次郎兄さんが先ほどと同じ位置に佇んでいた。一歩も動いていないみたいだった。その場に根を張り、山の陰に沈んだ谷間を澄んだ目で、静かに見つめている。ここからでは、その瞳に映る色をうかがいみることはできない。首を巡らせて、兄さんの目線の先を追った。そこには耕された畑と、清流に縁取られた吟子さんの家が木々に挟まれ、暮れゆくひとの世界に浮かびあがっている。

 いま振りかえってみても、来訪者が彼女だったことが偶然なのか必然なのかわからない。たしかなのは、それがどんな姿をしているにせよ、外の世界が閉ざされた集落を侵食しはじめるのは時間の問題だったということだ。あの時代、それが避けられる土地など、この国のどこにも存在していなかっただろう。あの頃ははじまりと終わりの予感が集落中を満たしていて、直視するにせよ目を背けるにせよ、それを感じていなかった住民などひとりもいなかっただろうと思う。

 とにもかくにも、こうしてぼくらは朱美あけみさんに出会った。

❄️3

 それから数日後。学校からの帰り道に吟子さんの家の前を通ると、ふたたびあの青い軽自動車と隣に立つすらりとした人影を見つけた。朱美さんは先日と同じように、ほっそりとしたスキニージーンズを履き、滑らかな黒髪をなすがままに背中へ垂らしていた。時折、前屈みになり、蛇口から伸びたゴムホースを車の下に突っこんでいる。タイヤとバンパーには泥が跳ねた跡があり、彼女が水をかけるにつれて汚れはアスファルトに溶けていった。

 来訪者がきていることは、この時点で集落中の住民に知れ渡っていた。それもそのはず。ハイキングに訪れた物好きな観光客というわけでもなければ、渓流釣りの好きなマニアというわけでもない。これまで外部から集落を訪ねる人間はいても、住む人間はいなかった。加えてうら若い女性ときている。どう考えても一泊や二泊の予定では済まない量の荷物を吟子さんの家に運びこんでいるところは、すでに住民によって目撃されていた。ほとんどの人間は朱美さんに対して、少なくとも表面上は無関心を貫いたけれども、噂好きの住民にとって彼女の存在は虫刺されのように、痒くて落ち着かないものだったに違いない。

「あの若い娘っ子はだれだね? ある日ふらっと現れただが」

「吟子さんのところの孫らしいだよ」

「へえ。吟子さんに、あの歳頃の孫がいたんだな」

「うちにもあのぐらいの歳の孫がいるだ。でもあの娘っ子は、うちのよりもずっと大人っぽく見えるだよ」

「それにしても、ずいぶんと寒そうな格好をしているだな。きっとあったかい土地からきたんだろう。あれじゃ見ているこっちが寒くなってくるだ」

「むかし東京さ出稼ぎに出ていた頃に、ああいう服装の連中を見かけただよ。きっとあの娘っ子も東京からきたんだな」

「へえ、いったいあんな若いのが、こんな山奥になにをしにきたんだかね?」

「さあな。だが吟子さんの言うには、どこかの大学の研究室に所属しているっていう話だ。そいつと関係があるのかもしれねえ。毎日朝になると車で出かけて、夕方になるとタイヤを泥だらけにして帰ってくるだ。ただの娯楽とは思えねえな」

「そういやおらも、この間、見かけたよ。車の後部座席は畳んで、空いたスペースにカメラやらなにやら、たいそうな荷物を積んでただ。たしかにありゃ、ただの娯楽とは思えねえな」

「あれだけの荷物があるっちゅうことは、この場所に長く居座るつもりなんだろうな。とんだ物好きもいたもんだ」

「吟子さんとはずいぶん仲がいいみてえだ。おおかた、ひとり暮らしのばあちゃんを放っておけなかったんだろう。悪い娘っ子じゃなさそうだよ」

「ああ、悪い娘っ子じゃなさそうだな」

 納屋のほうをちらっと見やると、吟子さんの車はない。どこかへ出かけているみたいだった。ぼくは一瞬だけ迷ったあと、彼女に声の届く場所まで近寄った。というのも、すれ違う人間に挨拶をしないのは、ひどく失礼なことなのだと学校や祖父に教わっていたからだ。
「こんにちは」
 散水の音に負けないよう、少しだけ声を張りあげた。

 朱美さんは姿勢を正し、振りかえってこちらを見ると、すぐにぼくがだれだか判別したみたいだった。きびきびとした動きで蛇口を閉じ、ホースをサイドミラーに引っかけてぼくに微笑みかけた。

「こんにちは。一番奥にある家の子、だったわね?」

 ぼくは頷いた。

「驚いたわ。まさか子供がいるとは思ってなかったの。わたしが前回この集落にきたとき、きみはいなかったんだもの。それに東京からだなんて、すごい偶然だわ」
 彼女はまっすぐぼくを見た。
「おばあちゃんに聞いたわ。集落に、子供はきみひとりしかいないんですってね」

 ぼくは不明瞭な言葉をつぶやき、ぶら下がったホースから雫が垂れるのをあてもなく見つめた。こんなことなら、気づかれないうちに走り抜けてしまえばよかったのかもしれない。でも結局、好奇心には抗えなかった。

「都会の子がいきなりこんな片田舎に連れてこられたんじゃ、苦労も多いでしょうね。わたしも東京で育ったの」
 彼女はしゃべりつづけた。
「パパが東京出身なのよ。お母さんは中学を卒業するとすぐにこの家を出て、他県にある全寮制の高校へ進学したわ。ここで暮らしつづけようという気持ちがないわけじゃなかったらしいんだけど、おばあちゃんが許してはくれなかったのよ。『外の世界も見ねえうちに、こんなところに住みつづけるなんて言っちゃいけねえ』なんて言われて、ほとんど追い出されるような形で家を出たんですって。ほんと、ファンキーなおばあちゃんよね。大学は東京にある学校を選んで、そこで生まれて初めてのひとり暮らしをはじめたの。パパとは大学のサークルで出会ったのよ。だからわたしはこのあたりのことについては、ほとんどなにも知らないの。長期休暇のときに何回かおばあちゃんに会いにきたくらい。でも話に聞いていたとおり、素晴らしい自然に囲まれたところね」

「ぼく、ぼく、よくわかんないや」
 半分うつむき、半分彼女の目を見て言った。

「わたしは子供の頃から山とか森が好きなの。海に遊びに連れていかれても、ちっとも楽しくなんてなかった。海って広すぎてつかみどころがないのよ。体中、砂だらけになるし、海水でべたべたになるし。閉ざされた緑って見ているだけで心が安らぐの。だからここでの暮らしは退屈じゃないし、落ち着くわ。もしかしたらおばあちゃんからの遺伝なのかもしれないわね」

「うーん」

「でも子供にとっては酷な環境よね。いっしょに遊ぶ友達がいないと退屈じゃない?」

「ぼ、ぼく、女木内の子たちとはよく遊ぶよ。放課後に缶蹴りをやったりするんだ。サッカーやドロケイだってするよ。人数が少ないからルールは変えなくちゃだけど」

「懐かしいわね、缶蹴り。わたしもよく子供の頃はやったな。でも近所のおじさんにうるさいって怒鳴りつけられてからは、あまりやらなくなったわね。東京の住宅街じゃ、のびのびと遊べる場所が少ないのよ」

「放課後は自由に校庭をつかっていいって言われてるんだ。でも全員でつかったって平気だよ。全校生徒が十七人しかいないんだ」

「それっぽっちしかいないのね。東京じゃ考えられないわ」

「ぼくらは村全体をつかって鬼ごっこをしたりもするよ。騒いだって怒られやしないよ。東京にいた頃はこんなふうに遊んだことってなかったな」

「それが田舎のいいところだわ。子供がのびのびと外で遊べる。東京じゃこうはいかないもの」

「それにね、休日はいつも兄さんが釣りに誘ってくれるんだ。だから退屈なんてことはないよ」

「釣り? なあに、あゆ鮎でも釣るの?」
 と彼女は首を傾げて尋ねた。

「ぼくらがやるのは渓流釣りなんだ。岩魚や山女を釣るんだよ。鮎釣りは装備にお金がかかりすぎるからやらないんだって」

「ふうん、そうなの」

「ぼくはもう、ひとりで仕掛けをつくれるんだ。兄さんに何度も教わったからね。餌のイタドリ虫だって触れるようになったんだ。ぼく専用の竿とビクもあるんだよ」

「その『兄さん』は、とても釣りが好きなのね」

「すごいよ、兄さんは。山のことをなんでも知ってるんだ。ぼくがようやく一匹釣る間に、兄さんは十匹くらい軽々と釣っちゃうんだ。どこで魚が休憩してるか、どんなふうに餌を動かせばいいか、兄さんにはなんだってわかっちゃうんだ。でも兄さんは、じいちゃんのほうがもっとすごいって言うんだけどね」

「その兄さんって、きみの兄弟?」

「ぼくのお父さんの弟なんだ。ぼくと十歳くらいしか違わないんだよ」

「そうだったのね。知らなかったわ」
 彼女は考え深げな表情で頷いた。ぼくは視線をさまよわせ、水滴に濡れた車体に映った空を見つめた。

「いつも山に行ってるの?」
 とぼくは尋ねた。

「ええ。今日は集落の奥の林道を走ったの。途中で車をとめて、向こうの滝まで歩いてきたわ。道が整備されていたから、とても歩きやすかった」

「時々、観光客がくるんだよ」
 とぼくはこたえた。
「だから春になると、じいちゃんたちが見まわりをして、雪で荒れた道をならしてくれるんだ」

「それにこの間は女木内の堰堤えんていを越えてきたし、昨日は熊鷹山の山頂まで登ってきたわ。ちゃんと登山靴を履いていって正解だった。頂上付近は砂利で凸凹しているんだもの。途中までは車でのぼっていって、泥だらけになっちゃったから洗っているところなの。パパから借りてる車だから、汚しておくわけにはいかないのよ」

 ぼくは後部座席の窓に視線を移した。見たこともないくらい長い三脚と、黒い革製の、奇妙な形をした箱が見える。

「そのカメラ、高かったのよ」
 朱美さんはぼくの視線を追って頷いた。
「でも必ず役に立つものだからと思って奮発しちゃった。大学の研究でつかってるのよ。山へ行くときはいつも持参して、目いっぱい写真を撮っちゃうの」
 彼女は後部ドアを引き開け、箱のなかから、レンズがマンモスのようにばかでかいカメラを取り出した。
「でもね、わたしのほんとうの目当ての写真は、登山道みたいにひとが整備した通路からは撮れないのよ。もっと山奥へ入らないと。おばあちゃんにそう言ったら、このあたりに不慣れな人間が道を外れて林のなかに入ったら、北も南もわからなくなって、迷って野垂れ死ぬのがオチだって言われちゃってね。だからいまはおとなしく、山の浅いところまでしか足を踏み入れないの。さすがにそこまで無茶をする勇気はないからね」

「危ないよ、整備された道から外れちゃったら」
 ぼくは真面目な顔をして言った。
「毎年、何人か観光客が遭難するんだ。去年は雪山で迷ったひとがいたんだよ。女木内の民宿に泊まってて、女将おかみさんが止めたのに、冬の滝を見に行っちゃったんだ。それを聞いてすぐにじいちゃんが地区の仲間を集めて捜しまわったから、なんとか助かったけど。後始末とか、払わなきゃいけないお金とか、大変なんだ」

 朱美さんがぼくを見て、目を輝かせた。
「それならきみが案内してくれない? 地元のひとがいっしょなら大丈夫でしょう?」

「ぼく? ぼくに案内はできないよ。ぼくは山のことをなにも知らないんだ。いまはじいちゃんと兄さんにいろいろなことを教わっている最中だから、まだまだひよっこなんだよ。でもじいちゃんか兄さんに頼めば連れていってくれると思うよ。二人とも時々、観光にきたひとにガイドをしてるんだ」

「素敵ね」
 朱美さんは声を弾ませた。
「できればあなたのお兄さんにお願いしたいわ。お年寄りとはなにを話せばいいかわからないもの」

「いいよ。きっと喜んで引き受けてくれるや」

 ぼくは朱美さんと約束を交わし、兄さんが家に帰ってくると事の次第を報告した。兄さんはすぐに承諾すると、着替えも済ませずに吟子さんの家へ向かった。帰ってきた彼の表情は明るく、夕飯の時間はいつも以上に饒舌だった。

❄️4

 次の休みの日。予定どおり朱美さんが我が家を訪ねた。ぼくは朝から畑の横のベンチに座り、祖父が唸るチェーンソーの角度を細かに変え、納屋の前のコンクリートの上で、無味な木の塊から木片を削りとっていくのを眺めていた。祖父は起床して朝ご飯を食べ、すでに畑仕事をひととおり終えていた。ぼくは午後から女木内で、学校の友人とテレビゲームをする約束があったけれど、朝はすることがない。自分の部屋で過ごしてもよいのだけど、祖父はどんな作業であれ、仕事の場をぼくに見られているのが好きみたいだった。台所で料理の手伝いをするのはほとんど毎日のことだったし、ブルーシートの上で熊や鶏を解体する血だらけの作業を見せてくれたこともある。首のない鶏が痙攣しながらぼくのほうへ走ってきたとき、全身に鳥肌が立ってその場に唖然と立ち尽くしたことは、いまでもよく思い出す。祖父は望んだときに手を休め、ぼくに語りかける。ぼくは未知の言葉に対しては必ず質問を返し、世間知らずでいようと努める。祖父も兄さんも、ぼくの質問には真剣にこたえてくれた。いま振りかえってみても、自分のことを疎ましい少年だったと思う。今日はどこまで行ってきたの? 岩魚と山女ってなにが違うの? 庭に落ちてる栗を拾ってきてもいい? 夜中に外でガーガー鳴いてるあの生きものはなあに? けれども彼らはほかの多くの大人たちと違って、いやがる素振りを表に出したことはないし、実際、ぼくにいらだちをおぼえたこともないだろう。そういうひとたちだった。

「むかしおらが餓鬼の時分、まだいろんなことの締めつけが厳しくなる前はな」
 祖父が作業の手を止めて言う。
「おらは釣りなんてめんどくせえことはしなかった。女木内の佐藤さんところの鍛冶屋で青酸カリをちょっとばかし分けてもらって、それを上流から流すんだ。そんであとはもうひとりを下流に網を張らせて待機させるだけ。しばらくすると、死んで引っくりかえった魚が流れてくるから、それを捕まえて集めるんだ。もちろん、内臓はしっかり抜いて、隅から隅まで洗わなきゃならねえ。だがいまよりはるかに楽に捕れたもんだ。言うまでもなく、それは法律に反することだからな。警察に見つかりはしねえかと、いつもびくびくしていた。一度、巡回にきたおまわりに出くわしたことがある。力を失って川底に沈んだ魚たちを、必死で足で押し退けて隠したのをおぼえているだよ。あの出来事はいまでも仲間内で笑い話になるだ」

 朱美さんはいつものよりもいくらか隙間のある動きやすそうなデニムを履き、いまにも暴れだしそうな髪をひとつにまとめていた。ぼくはベンチから立ち上がって彼女のほうへ歩み寄った。祖父は体を起こしてこちらに目をやり、首にかけたタオルで木の粉にまみれた顔を拭った。

 兄さんは軽トラックの荷台に彼女から受け取った荷物を積んでいた。リュックと三脚とカメラ。朱美さんは我が家の軽トラックを小さな少女のように輝く目で眺めていた。

「わたし、軽トラに乗るのって初めてよ」
 と彼女は言った。
「普通の車と違って、なんだかとても軽そうね。坂道から駆け下りたら、両脇から翼が生えて、そのまま飛んでいってしまいそう」

「よほど危ない運転をしない限り、そんなことにはならないから大丈夫ですよ」
 と兄さんは笑って言った。

「思ってたより荷台が広いのね。とてもアンバランスに見えるわ。まるでサイの角にでもまたがって進むみたい。少し緊張してきたかも」

「普段ひとりで山へ入るときはバイクで行ってしまうことが多いんですがね」
 兄さんは自分の荷物を積んでから、荷台の上に大きな苔色をした防水シートを広げた。
「今日は少し奥のほうまで行くつもりですから。軽トラは荷物を積めるし小まわりがきくので、畑仕事や山での作業に便利なんですよ。このあたりに住んでいるなら一台は持っていると助かります。大きな荷物を積める分、座席にゆとりがなくて、もしかしたら座り心地はよくはないかもしれないですが」

「だから毎日軽トラの姿を見かけるのね。ここらのひとはみんな持ってるのかしら」

「猟師や田んぼをやる人間なら、一台は持ってるでしょうね。うちはもう一台、四人乗りの普通車があります。用途によってつかい分けるんですよ」

 ぼくは兄さんとは反対側の側面に立ち、防水シートの縁に並んだゴムの輪っかを荷台の出っぱりに引っかけた。朱美さんは興味を持った様子で体を屈め、軽トラックの車体の底をのぞきこんでいた。

「あら」
 彼女が怪訝そうな声をあげた。
「ここに一か所、凹んでいるところがあるわ。ヘッドライトの脇のあたり」

「ああ、それは去年、おとうがぶつけてしまったんです」
 兄さんは彼女に近づき、いっしょになって体を屈めた。
「林道を走ってたら熊に出くわしてしまって」

 ぼくもいっしょになって彼らの横に並び、生々しい凹みを眺めた。いつのまにか祖父もぼくの横に、静まったチェーンソーを右手に持ったまま立っていた。

「熊? やっぱりこのあたりにも出るのね?」

「ええ、もちろんですよ」
 兄さんがこたえた。
「なんも、珍しいことじゃありません。時々ですが、集落のなかに現れることもあります。川の対岸を歩いてることもあれば、夏は田んぼのどまん中で、ぐっすり寝息を立てていたりします。一応、ひとの目を避けてはいるんでしょうけどね。やつらはたいして目もよくないんで、おれたちに見られていることに気づいてないんでしょう。集落の住民は生まれたときからこうなんで、みんな慣れたもんですよ。近くで出くわしたり、背中を向けて逃げたりしなければ、危険でもなんでもないんです」

「どのあたりでぶつかったの?」

 これには祖父が横からこたえた。
「女木内の脇道で、と言えばわかりますかね? 村から走ってしばらく行った茂みのあたりですだ。やつらが罠にかかっていないか、たしかめる途中でして。とはいえ、相手は生後半年ほどの子熊だったんで、これくらいで済んだんでさ」

「大丈夫だったんですか?」
 ゆっくりと立ち上がり、朱美さんは尋ねた。

「ええ、ええ。見てのとおり、車に傷はつきましたがね。でもあれがもし成獣だったら、こんなもんじゃ済まねえです。おらの知りあいなんて、新車で買ったその一週間後にやつらと正面から衝突しちまって、修理が不可能なくらいに壊れちまいましたよ。写真を見ましたが、えらい凄惨な壊れ具合でしただ。結局廃車にするしかなかったんですが、保険に入っていなかったらどうなってたことか。やつらをひ轢き殺すには大型のトラックくらいは用意しねえといけねえ。それでいて、ある程度のスピードは出さねえと。もっとも、それじゃこっちも無事には済まねえでしょうけど」

「それで、子熊は大丈夫だったんですか?」ふたたび朱美さんは尋ねた。

「え? ええ、もちろんぴんぴんしていましただ。山道でスピードも出てなかったし、やつらの体は丸太みたいに丈夫なんです。左側のやぶに黒くてちっさい、ぷりっとしたケツが飲みこまれていくのを見て、軽くブレーキを踏んだところだったんですよ。そしたらこっちが避けきれねえタイミングで、右の藪からもう一匹が飛び出してきました。双子だったんだすな、ありゃ。今度は思いきりブレーキを踏んだんですが、まにあわなくて、バンパーに衝突したあと、子熊は車体の下をころころまわって、車の後ろから這い上がりましただ。ミラーで確認すると、あっというまに立ち上がって、もう一匹の兄弟を追っかけていきましたよ。車をとめて窓を開けると、藪の奥から哀れっぽく泣き叫ぶ声が聞こえましてね。痛てえ、痛てえって言ってるようにも聞こえました。さすがにかわいそうになりましたが、母熊が近くにいるのは間違いねえんで、そのままその場をあとにしましただよ」

「そうですか。無事だったのならよかったです」
 と朱美さんは言った。

 その後、いくつか言葉を交わしてから、二人は車に乗りこんだ。窓を開けてぼくらに手を振る兄さんに祖父は言った。

「冬眠明けの熊がその辺をうろついてる頃だ。気をつけろよ」

「わかってるよ」
 子供扱いされたと思ったのか、兄さんはそっけなくこたえた。

 兄さんがエンジンをかけ、ギアを入れると、車体は少し小刻みに揺れ、ゆっくりとスロープを下ってアスファルトの道路の上に出た。ぼくと祖父はどちらも口を開くことなく高台に並んで立ち、白い軽トラックが木々を切り開いて山奥へつづく道を進み、カーブで姿を見失ってしまうまで見送った。

 それから何週間か、休みの日になるたびに兄さんは朱美さんを山へ案内した。我が家を訪ねる朱美さんを兄さんが笑顔で出迎え、二人で軽トラックに乗りこんで木々の陰へと消えた。あの頃の兄さんは口数が多かった。晩飯どきによく口を開いて、祖父を呆れさせていたっけ。

「大学の研究っていうのは、おれには理解できない神秘であふれているみたいだな。朱美さんはどうやら、いまだ存在を立証できていない、遺伝子のなかに隠された、とある塩基配列を探しているらしい。求心なんとかって言っていたっけな。そいつは進化の進む力を、時間にさからうみたいに、反対側から引っ張る力を持っているみたいなんだ。いや、おれにもなにがなんだかさっぱりなんだがな。だがそういうことらしいんだよ。その求心なんとかってのは、いっけん、不要で役に立たないもののようにも思えるけれど、そいつは違うんだ。それがないと、いまとは比べものにならないほど乱暴で、暴力的な突然変異が、細胞内で無差別に起こってしまう。いわゆる制御装置なんだよ、その求心なんとかってのは」

「宗次郎よ」
 祖父が苦笑する。
「しゃべるのはいいが、まずは飯を食っちまえ。でないといつまで経っても食器が片づきやしねえ」

 こうして兄さんは、ぼくや祖父、集落の年寄りたちが、彼に決して与えられなかったものに目を向けはじめたのだ。

❄️5

 春が深くなるにつれて気温は上がり、田んぼの縁に根を張っていた雪の塊も、いつしか地面に溶けてなくなっていた。林に入れば木々の足元にいまだ雪の塊が残っていることもあったけれど、太陽のあたる斜面にはまっすぐ伸びたアイコや、先端のカールしたコゴミなどの山菜が顔を出し、旬を迎えていた。ぼくは外へ出かけるときには目薬を携帯しないわけにはいかなくなった。晴れた日には林立する杉の木から、霧のような花粉が放出されるのを目視できるほどだ。不思議なことに集落で花粉症に苦しんでいるのはぼくだけみたいだった。年寄りたちは吹きかける粉に目をしばたたかせることもなく、平気の平左で表を歩いた。

 祖父も兄さんも田植えの時期は忙しかった。集落の体の動かせないお年寄りの代わりに、二人は休日もトラクターを運転し、完璧な水平になるように田んぼの土をならした。水を流し入れたときに高低差があっては、稲の成長に困難が生まれるからだ。これには技術の差が出る。上手な人間は冬の間で変形してしまった表面を綺麗にならすし、未熟な人間はなかなかうまくいかない。ぼくが見る限り、兄さんはとてもうまくならしていたけれど、祖父が言うにはまだまだらしい。
「五十年もやってきたおらたちと比べてもらっても困る」
 道路に沿って流れる水路には山からおりてきた不純物の混ざらない澄んだ水が流れ、開け放たれた水門を通って、田んぼに規則正しく植えられた幼穂ようすいを優しく揺らした。

 学校帰りに吟子さんの家に立ち寄るのは、ぼくの習慣のひとつだった。そうなるきっかけがなんだったかは、はっきりとは思い出せない。彼女がまだ出会ってまもないぼくにお小遣いだと言って、無理やり一万円札を握らせようとしたことか、虫に食われて彼岸花みたいになったキャベツと亀裂の入った茄子を無理やり家に持ち帰らせたことか(祖父は特に気にするふうもなく、それらを細かく切って味噌汁の鍋のなかにぶちこんだ)。ぼくらは気のあう友達だった。集落で唯一の、と言ってよかったかもしれない。彼女はほとんどが家にいるか、畑で作業をしているかのどちらかだったので、玄関を開けて靴が見当たらなければ、ぼくは家の勝手口のほうにまわって、紫の半纏と紫のニット帽といういつも同じ格好をした、土の上に屈んでいる彼女に声をかけ、我が家にあるのとまったく同じメーカーのベンチに並んで座り、缶コーヒーやジュースをご馳走になりながら、気の済むまでおしゃべりをした。

「昨日はまた飛鷹まで行ってきたんでしょう? どうだった、少しは勝てたの?」
 とぼくは飲みものを口に運びながら尋ねた。彼女の車があるかどうかは、家の前を通るたびにチェックする。吟子さんが町まで出かけたとなれば、その目的は聞かずとも見当がついた。

「ああ、そりゃ聞いてくれるな」
 吟子さんは百円ライターで煙草に火をつけ、ぼくに煙がかからないように、顔を背けて吸った。
「勝てるときもあればそうでないときもある。昨日はたまたまだめな日だったんだ」

「たまたまの日がつづいたら、それってたまたまじゃなくなるんじゃない?」
 そう言ってぼくらは笑いあう。細く萎んだ木漏れ日に照らされた、穏やかな午後だった。

「今度は大輝くんもいっしょにおらとくるかね?」
 と吟子さんがぼくに尋ねる。
「初心者がいっしょなら、パチンコ玉も陽気に弾けてくれる気がするだよ」

「だめだよ、ぼくは未成年なんだから。お店のひとに追い出されちゃうや」

「おらといっしょに打ってれば文句は言われねえよ。安心しろ。お金はおらが出すだよ。あとはちょいと煙草くせえのを我慢してくれりゃいい」

 すでに何度も交わされたやりとりを、ぼくらは何度だって繰りかえす。

「だめだってば。そんなことしたらぼく、じいちゃんに怒られちゃうよ」
 ぼくは言う。
「ギャンブルなんてやったら身を滅ぼすだけだって、口酸っぱく言われてるんだ」

「やれやれ。一二さんももう少し頭が柔らかけりゃ、もっと楽な生活ができただろうにな」

「そうかな?」

「ああ。ありゃ、損な性分だで。頼まれた仕事は断れねえし、中途半端は許せねえときている。おらは歳をとってまで、あんなふうに忙しくしてえとは思わねえ。ちょっとくらいのんびりさせてもらったって罰はあたんねえだろう。それが年寄りの特権だ」

 ぼくは首を巡らせてしわだらけの横顔を見た。

「ふうん。ぼくには吟子さんはとても働き者に見えるけどな。畑仕事とパチンコで大忙しでしょう?」
 とぼくは尋ねた。

「そりゃあ、一日中ぼーっと川のせせらぎや、雲の流れを見ているわけにはいかねえよ。人間、暇すぎると余計なことを考えちまってよくねえ。心も体も健康でいてえなら、ほどほどに忙しくするのが一番だ」

「ぼくはぼーっと過ごすのも好きだよ。何時間だってなにもしないで過ごせるや」

「大輝くんはそれでいいんだ。そういう人間は体を動かしていなくても、頭のなかはぐるぐると忙しくしているもんさ。体を動かすってだけが働くということじゃねえ。どんな考え事も、どっかで未来に繋がってるもんさ」

「未来に?」

「そうだ。世のなかは役に立つことと役に立たないことの二つに分かれるわけじゃねえ。過ごした時間を生かすも殺すも、そのひと次第さ」

「ふうん。なんだかよくわかんないや」

「大輝くんはいまのままでいい。おらが言いたいのはそういうことだで」

 ぼくは耳のあたりが熱くなるのを感じた。

「だが、おらみたいな人間はだめだ」
 吟子さんが言った。
「馬鹿だからな。頭をつかおうとしたってうまくいかねえ。だから動きまわってるのがいいんだ」

「吟子さんは馬鹿じゃないよ。吟子さんが馬鹿だったら、世界中の人間が馬鹿になっちゃうよ」

「いんや、おらは賢明な判断とはほど遠いばばあだよ。そう言ってくれるのはうれしいがね」

「吟子さんは馬鹿じゃないよ。どうしてそんなふうに思うの?」

「大輝くんや。もしもおらにちょっとでも先を見通す力や、ひとを判断する目があれば、こんなところに嫁いできたりはしてねえよ」
 吟子さんは煙草の先端でくすぶっていた灰を土の上に落とし、スニーカーの底で踏み潰した。
「旦那について、こんなこの世の果てみてえなところにほいほいきてしまったのが運の尽きってな。旦那は早死にするわ、旦那の両親の面倒を見なきゃいけねえわ、旦那の残した借金の海に溺れねえといけねえわ・・・。いまでも旦那の親父が死んじまった日のことはよくおぼえているよ。空が灰色の雲に覆われた真冬の日でな。一日中、灯油ストーブの火を欠かすことはできなかった。お袋のほうは先に死んじまって、子供はすでに二人とも家を出てからずいぶん経っていた。おらは自分の面倒を見ながら親父の世話をしていたんだ。日々の生活費は稼がなきゃいけねえし、借金は返さなきゃなんねえ。大輝くんは〝胃ろう〟って言葉を知っているかな? 喉が弱って口からものを食えねえもんだから、お腹に穴をあけてチューブを通して、そこから直接、細かく水に溶かした食いものを流しこむんだよ。親父はお袋が亡くなると、すぐに病気になっちまっただ。その食いものをつくるのもおらの仕事、チューブが詰まらねえように慎重に流すのもおらの仕事、姿勢を変えてやって、汗に汚れた体を拭いてやるのも、口のなかにたまった汚れを掃除してやるのもおらの仕事だ。それを毎日毎日、繰りかえすんだ。慣れてしまうと、なんとも思わなくなるけどな。それである日、眠るようにぽっくりとっちまったんだ。前日の夜に少し話した。おらを困らせようとしたわけじゃねえんだろうけど、あれが食いてえだの、これが食いてえだのと泣き言を漏らしていた。働きに出ていておらも忙しかったからな、ろくに相手はしてやれなかっただ。前に話したことがあるだろう? 飛鷹でスナックを経営していたんだ。冬は通うのが大変でな。夏は一時間で着くところを一時間半かけて車を運転していたんだ。スピードを出して走ったんじゃ命がいくつあっても足りねえ。滑って道路脇の側溝にはまっちまった車を運転中に何度も見かけただよ。むかしはいまほど道路も整備されていなかったし、タイヤの性能もよくなかっただ。

 どこまで話したかな? ああ、親父が死んじまった日だ。前日の夜までは元気だった。うん。心は日和っていたけれども、それは病気になってからはしょっちゅうだった。だからおらは特に気にすることもなかったんだ。いつもどおり飯をつくって食わせ、体を綺麗にしてやってから眠った。最後に見たときには穏やかな寝息を立てていただ。ところがな、わからねえもんだで。次の日の朝になると、最後に見たときの姿勢のまま冷たくなっちまってたんだ。夜中に物音は聞こえなかったし、表情は穏やかで苦しそうでなかったから、眠るように逝ったんだろうな。それはおらにとっても慰めになっただ。それでおらがなにをしたかっていうと、まずほとんど動いていない布団を喉元まで被せて、冷たくなった体がまだ生きてるみたいに声をかけたんだ。『お義父とうさん、わがままを言っちゃいけねえだ。病気が治ったら食いてえもんも食えるようになるだよ。それまではおらもいろいろ我慢するから、お義父さんも我慢せねばならねえよ。寒くならねえようにストーブは強めにして置いていくだ。あんまり暑いようなら呼んでくれな。おらはあんたの声の届くところにいるからよ』それから夜通し燃えていたストーブの火を少し強くした。寂しくて部屋の気温が一段階下がったような気がして、せめてひとがくるまでは暖かくしてやらねえとと思ったんだ。つぎに女木内に住んでいる親戚の連中に電話をかけた。親父の弟があっちで生活をしていたからな。諸々の手続きはあのひとたちに頼んだ。人間がひとり死ぬといろんなやらなけりゃならない仕事があるんだ。それから台所でひとり分の朝食をつくって、冷えたテーブルの上でそいつを口に運んだ。奇妙なもんだが、いつもより鮮明に味が染み渡るような感覚があった。朝飯を食い終わって、おらがなにをしたかっていうとな、当たり前だがよ、あのどうしようもねえ雪かきだ。まったく、忌々しいったらありゃしねえ。前日から大雪が降っていたもんだから、屋根の上にはちびりそうなくらいの雪が積もってた。忙しさにかまけて、ずいぶん長いことそのままだったんだ。あのときのおらにはのきがたわんでいるように見えたね。放っておいたら、いつ家が潰れちまってもおかしくねえ。あいにく業者に雪下ろしを依頼するほどの金を持ちあわせていたことなんてなかった。おらはヤッケと頭巾を身につけ、長靴を履いて外に出た。積もった雪に目印として刺したすすきの穂が埋まりそうなほど視界は真っ白だった。納屋から梯子はしごを引っ張り出して、踏んで足元をしっかり固定してから軒に立てかけた。屋根にのぼる必要はなかった。おらの家はそんなに大きくねえもの。梯子の上のほうから身を乗り出して、スコップで雪の塊を落とした。ひと塊落とせば、ほかのもっとでかい塊も引っ張られるようにしてずり落ちていっただ。その年は屋根にペンキを塗ってなかったから、うまく滑ってくれるか心配だったけんどな。その間、屋根の下では親父の死体が冷たくなって、だれにも見守られることなく横たわってるんだ。作業をしながらも、おらはそのことを考えつづけずにはいられなかった。ひとりにしてごめんな、もうすぐ終わらせるからよ。梯子をおりてからは屋根から落ちた雪を細かく砕いて、池や除雪構に放りこんで解かした。それから直にやってくる親戚や葬儀屋のために、今度は玄関から道路までの道をつくらねばならなかった。除雪車が寄せていった雪の壁を崩すのに骨が折れただよ。ひととおりの作業を終えた頃には、服の下は汗でびっしょり濡れていた。いったいおらはなにをしているんだろうなと、そのとき思ったもんだ。死んだ親父をひとり部屋に残して、地元に引っこんでりゃ縁のなかった雪と格闘して、また次の日には同じ労働を繰りかえす。しばらくしてから親戚どもがきて、ずかずかとおらの家に足を踏み入れ、天寿をまっとうしただの、苦しまずに逝けてよかっただのと好き勝手なことを言いはじめた。だれひとり、いままで血も繋がっていない人間の世話をしてきたおらに、ありがとうのひと言も言わねえんだ。信じられるか? おらがなによりも考えねばならなかったのはそこだった。お礼のひと言でもありゃ、労いのひと言でもありゃ、なにもかもが違っただろうに。

 昼には親父の死体は業者によって、大雪のなかを女木内の寺まで運ばれていった。それと同時に、親戚どももぞろぞろと引きあげた。おらは体が冷えるのも構わずにそれを見送った。肩に雪が降り積もって髪の毛に霜がはりつくまで、その場から動くことができなかっただ。そういったことを思い出すとな、大輝くん。おらはやっぱり考えずにはいられねえよ。おらは世間知らずな小娘だったなと。無知で傲慢で、想像力の足らねえ小娘だった。いっときの感情の高波に身を任せた結果がこれだ。こっちへきてから、ろくな目にあっちゃいねえ。だが故郷にいた頃の生活が幸せだったとも言わねえがな。あの頃はあの頃で、いろんなことがあったもんさ。もしかすっと、苦労する人間はどこへ行ったって苦労するようにできているのかもしれねえ。おらみたいなのは、どこへ行っても変わらねえのかもしれねえ」

 吟子さんは吸い終えた煙草の吸殻をベンチの上の灰皿に押しつけた。煙が一条、傾いてゆく陽光のなかに立ちのぼり、優しい風に追いやられて消えた。ぼくはしばらくそれを眺めてから、彼女に尋ねてみた。

「吟子さんは、ここへきたことを後悔しているの?」

 吟子さんは口の端を歪めて笑った。
「おう、おう。後悔している。そりゃ後悔しているともさ。あれだけの苦労があって、いまのおらになにがある? なにも残っていやしねえ。おらの人生は穴の開いたホースといっしょだで。おらの苦労や努力はどこかの過去に開いた穴で零れ落ちちまって、現在に繋がってねえんだ。だが何度も言うが、おらは馬鹿だで。難しいことはよくわからねえし、わかりたいとも思わねえ。だから深く考えこむことはできねえ。あるいは立ち止まって後悔に首まで浸かってしまうのが怖いから、あれやこれやと仕事を見つけているのかもしれねえ。忙しすぎるのはいやだが、暇すぎるのも怖いんだ。まあなんだかんだ、いまの生活は悪くねえよ。そう思わねえとおかしくなっちまうよ。子供たちは元気にやってるし、孫の顔も見れた。気楽なひとり暮らしさ。四六時中、借金に追われることもねえ。パチンコに通えるほど健康でもある。それになにより、こうして新たな友達に出会えたしな。大輝くんがここへきてくれてよかっただよ。去年までは年寄りの顔なじみばかりで、うんざりしていたところなんだ」

「ぼくも吟子さんに出会えてよかったよ」

 グラスが空になると、もう一杯飲むか? と聞かれたのでぼくは頷いた。吟子さんがお盆を持って勝手口から家へ上がるのを見送って、ぼくは立ち上がった。谷間の日暮れははやい。集落の暮らしでひとつだけ不満があったとすれば、太陽が顔を見せる時間があまりにも短いことだった。この時間、表にひとの気配は少なく、野生動物たちも開けた場所には姿を現さない。水気のあるところでは蛙がほおを膨らませて鳴き、上空のどこかでは山鳩やまばとが翼を広げて住処へと帰っていく。ぼくは吟子さんが消えた勝手口のほうをちらっと見やった。あたりは静かだ。燃え尽きた煙草が風に吹かれ、灰皿の縁をころころ転がって回転している。寂しさが背後から手を伸ばし、ぼくの胸を締めつけるようだった。ぼくはここへきてから、毎日のように襲ってくるその感覚に慣れたことはないし、いつかそのままぼくのまわりから、ひとりの人間もいなくなるのではないかと想像すると、純粋に怖かった。それは東京では感じたことのない痛みだった。どうかぼくひとりを置いていかないでほしい。ぼくの言葉が届いてほしい。でなければぼくは、行かなければならなくなるだろうから。

 戻ってきた吟子さんはひとりではなかった。隣には体の線がそのまま浮かびあがったような服装の朱美さん。目は充血していて赤く、一歩歩くごとに小さなくしゃみをする。ぼくは緊張して動悸が激しくなったけれど、そんな朱美さんの姿を見て、急に彼女がぼくに手の届く、世俗の人間だという気がして、喉元に温もりが一滴、伝い落ちていった。

「ほんとうに忌々しい花粉ね。東京よりもひどいわよ、ここ」
 朱美さんはベンチに腰かけ、吟子さんからオレンジジュースで満たされたグラスを受けとった。
「二人きりでなにを話していたの? おじゃまだったかしら」

「なんも」
 吟子さんは朱美さんとの間にスペースを空けて座った。
「大輝くんにむかしの話を聞かせていたんだ。いい聞き手だからな、ついついなんでも話しちまう」

「わたしだっておばあちゃんのむかし話は好きよ。まるでわたしの知らない世界の話をしてるみたいだもの」

「そうだな。たったひとりの人生の間に、ずいぶん多くのことが変わっちまう」

「どんなお話をしていたの? わたしにも聞かせてよ」

「わざわざ改めてしゃべるほどの話じゃねえよ」

「二人きりの内密の話?」

「ただの会話さ。取るに足らねえ話だ。取るに足る会話がこの世にあるのかは知らねえが」

「おばあちゃんたら、いくつになってもそんな口の利きかたをするんだから」

 ぼくはお盆の上からグラスをとり、立ったまま中身を飲んだ。ジュースは冷たく、思わず身震いしてしまうほどだった。朱美さんは、ぼくと吟子さんの顔を見比べ、わずかに首を傾げた。

「話は変わるけど、わたし、いま気づいちゃったわ」
 朱美さんがぼくを見上げて顔をほころばせた。
「この三人は、ほかの集落のひとが持っていない、ある共通点を抱えている」

「なんだい、それは?」吟子さんが尋ねた。彼女は新たな煙草を口にくわえた。「皮肉屋というのは大輝くんにはあてはまらねえだよ」

「わたし、おばあちゃんほどじゃないわよ。そうじゃなくて、わたしたち三人とも部外者で、元々はこの集落の人間じゃないの。ね? ここの血縁じゃないのよ。距離的にも血筋的にも遠くかけ離れた、大きな街からやってきた。そのうち二人は東京で、ひとりは大阪で生まれ育ってるの。ほかにはこんなひとたちっていないでしょう?」

「なんだ、そんなことか」
 吟子さんは煙草を口にくわえたまましゃべった。
「五十年もろくに外に出ねえで、同じ場所で閉ざされた暮らしをしてるとな、故郷なんてものは関係なくなっちまうよ。おらの血から骨まで、全部この土地のものでできてるんだ。しゃべりかただってもう元には戻らねえし、もう何十年も生まれ育った土地には帰ってねえ。この家に嫁ぐときも、旦那の両親に問われたもんさ。『この土地に、集落に、一生を捧げる覚悟はあるか』ってな」

「それでおばあちゃんは、はい、ってこたえたの?」

「あの頃はそんなふうに訊かれたら頷かなきゃならねえ時代だったんだよ。むろん、おらだってそうしたし、気持ちもそのつもりだった。むかしの結婚にはそういう意味あいもあったんだ。おらたち女には故郷を捨てる覚悟が必要だった。でなけりゃ独身のまま死んでいくかだ」

「でもおばあちゃん。生まれ育った場所や記憶というのは捨てられるものじゃないわ」
 と朱美さんは言った。
「生物学ではり込みと言うんだけれど、遺伝的なものといっしょで、幼少期の過ごしかたは、その後の一生を左右するの。それはとても強力なもので、人間個人の意志で引き剝がせるものじゃないわ。おばあちゃんの血には大阪での生活や思い出がいまでも流れていて、少女のときの育てられかたや過ごしかたが、いまの姿をつくっているの」

「そういうもんかね。おらのいまの生活は、ここへきてから確立したものだ。嫁いでからはなにもかもが急旋回して変わっちまったように思えるだ。いったい、その刷り込みとやらが強力だという根拠はなんだね?」

「まずひとつには、精神の均衡を保つ力は、遺伝を別にして、幼少期に決定づけられることが多いと聞くわね」
 朱美さんはグラスを置き、身振りを交えて話し出した。
「大学の同級生がそういった研究をしているの。何度か話を聞かせてもらったことがあるわ。子供の頃に自分の部屋があったかどうか、胸襟を開いて会話できる相手が身のまわりにいたかどうか、物事の選択権を本人が握っていたかどうか、そういったことで道は無数に枝分かれして、未来は決まっていくの。一般に、自己肯定感の低い人間のほうが自殺する確率は高いと言われているでしょう? それはやっぱり、子供のときに過ごした環境で変わってくるのよ。仲のよい家族や友人に恵まれたひとは、分相応な人生を歩む傾向にある。自分はどこまで手を伸ばせて、どの範囲まで歩みを広げられるか、無意識にでもわかったりする。相手が口を開くたびにその顔色をうかがう必要がなくいられる。自分の背中を見て育った息子や娘に嫌悪感を抱かずにいられる。でも親から頻繁に叱られたり、同級生から執拗ないじめにあった子は、とても自己肯定感の低いことがあるの。そういうひとは、暗い夜にひとり闇のなかに立ち尽くし、夜空に輝く星々に手を伸ばして、決して届かないことに絶望したりするの。たったひとつの記憶が深い傷となって、大きな権力を持つこともあるのよ。それから肉体の形成も忘れてはならないわ。大人になってから獲得した骨格や筋肉と、子供の頃に獲得したそれでは、まったく意味あいが変わってくるわ。後者のほうがより根深いの。そう考えると、人生なんてものはどうしようもないくらい、はやい段階で固定されてしまうというのも納得でしょう」

「そんじゃおらたちは、実際には子供の頃から、なにひとつ変わっちゃいねえとでも言うのかね?」

「わたし、そんな傲慢なことを言ったつもりはないわよ、おばあちゃん。努力やひとの意志が、価値のないくすんだものだなんて言わない。ただ、どうしようもないことでくよくよ悩む必要はないって言いたいだけ」

「世のなかどうしようもないことだらけだで」

「そうね。ひとの意志によって左右される事象がいったいどれだけあるのか、だれにも、どうやってもわからないものなのよ」

「あんまり難しい話をするでねえよ」
 吟子さんは頭を振って指の関節を擦りあわせた。
「おらたちみたいな年寄りは頭がコチコチに硬いんだ。いまの若者たちには、とてもじゃねえがついていけねえ」

「それから教育もあるわね」
 朱美さんはつづけた。
「おばあちゃんの世代には常識だと思われていた思想や道徳が、いまでは一八〇度違っていたりする。教育は幼少期の根っこを形成するものだし、世代間の軋轢を明確にするの。進化生物学がいい例だわ。パラダイム・シフトはこれからも何度だって起こるのよ」

「ああ、いまの若者は多くの点で恵まれてるだよ。むかしの人間は生活のことを考えるだけで精いっぱいだったもんだ。欠けたものを、必死に追い求めた時代だった。あまりにもいろんなことが同時期に起こるもんだから、おらはもうついていけねえよ」

「わたしたちが恵まれてるかどうかなんてわからないわよ」
 朱美さんは言った。
「おばあちゃんの世代やもっと前の世代だって、見かたを変えれば多くの点で恵まれているわ。目的論的自然淘汰に対する信頼は、老いに対する恐怖を緩和してくれるもの。わたしたちがこれから立ち向かわなきゃいけないもののことを考えると、ため息ばかり出てくるわ」
 それから彼女は膝の上に肘をつき、遠い目つきをした。
「わたしたちが特別に恵まれてるわけじゃないんだわ。欠けたものを探す苦労が、いまのお年寄りたちには理解できないのよ。出口の用意されていない迷路を進んでいく心細さが、むかしのひとにはわからないのよ」

「朱美。おらはそんなつもりで言ったんじゃねえよ」
 吟子さんは優しく言った。

「この国で生きていると、うんざりしてくることが山ほどあるわ」
 朱美さんは語気を強めて言った。
「いつの時代もこうだったのかしら。いつの時代も、お年寄りと若者は手を取りあうことができないのかしら」

「おらと朱美のような関係だってある。そう悲観的になることもねえだろうに」

「わたし、お金がたまったら海外に住みたい。この国はうんざり」

「そうしたらいい」
 吟子さんは言った。
「おまえは狭いところに収まっていられる女じゃねえだ。気が向いたときに飛行機にふらっと乗って、次に連絡をくれたときにゃ、アフリカや南米の貧困地域で、人々のために奉仕活動やらなにやらをしているような、そんな女だ。おらみたいに、馬鹿な自分に幻滅したりしない、そんな女だ」

「ねえ、おばあちゃん。お年寄りのひとたちだって、いろんな意味で恵まれてるのよ」
 朱美さんは口調を和らげた。

「おまえの言うとおりだ。いまの若者たちは大変だで。いつの時代も若者には若者の苦労があるんだ」

「この国にはうんざりよ。外国に行って、こんなところよりももっといい場所に住みたいわ」

「朱美や。頼むからおら以外の前で、そんな口の利きかたをするでねえぞ。世のなかには冗談の通じねえやつらだって多いんだから」

 朱美さんはぼくに向き直った。
「わたしって、そんなに言葉遣いが悪い?」

「どうかな」
 ぼくはグラスで口元を隠し、吹かれれば消えそうな声で言った。
「でも、吟子さんも似たようなしゃべりかたをするよ」

「言われているわよ、おばあちゃん」
 朱美さんは笑った。吟子さんも体を揺らして笑っていた。ぼくは体が熱くなっていくのを感じて、川の向こうに並ぶ木々を見つめた。

「そうだ、思い出したわ」
 やがて笑いが収まってから朱美さんが言った。
「きみのお兄さんに改めてお礼を言っておいてほしいの。案内を引き受けてくれて、ほんとうに助かったわ」

「もう案内は必要ないの?」
 ぼくは驚きを隠して尋ねた。

「目当ての場所も見つけたし、あとはひとりでも大丈夫。お兄さんにもすでに伝えてあるわ」

 気づかなかった。兄さんはそんな素振りを家で見せなかった。

「きみにもお礼を言わないとね」
 彼女は言った。
「大輝くんのおかげで話を通してもらえたんだもの。あのとき、声をかけてもらってよかった」

「研究は順調なの?」

 朱美さんは微笑んだ。
「ええ、おかげさまで。ここ数日で、この地へきたそもそもの目的は叶えられそうな気がしてきたし、とても満足しているの」

「ふうん」
 ぼくはもじもじと、体重を乗せていた足を入れ替えた。空は暗くなりつつあり、だれかの飼い犬が盛んに吠えたてている。さまざまな夕飯のにおいが、どこからともなく漂ってきていた。

「気になるなら、一度ついてきてみる?」

 ぼくは顔を上げて朱美さんを見た。薄くなってゆく陽光のなかでも、彼女の瞳は光を失っていなかった。ぼくは首筋まで血がのぼるのを感じながら、彼女の言葉に頷いた。

 ぼくらは約束を交わし、ぼくは帰途へついた。帰り際に、吟子さんはぼくの手に五百円硬貨を無理やり握らせた。そのくらいの金額ならぼくも辞退できないことを、彼女も学んでいたのだ。谷間の集落は隙間だらけで、そこら中に分厚い毛皮を着こんだなにかが、息を殺して潜んでいるような気がした。森のなかからなにかに見られているという感覚は、家に帰るまで途切れることはなかった。

 兄さんはすでに帰宅していた。玄関の明かりが、兄さんの影をぼんやりと浮かびあがらせていた。彼はいつもと変わらない様子で顔をほころばせ、薄明のなかでぼくを迎え入れた。
「おかえり、大輝」
ぼくは手を洗ってから自分の部屋へ入ると、机の上に置いてあった黒い缶の貯金箱に、吟子さんからもらった硬貨を入れた。なかにある金属の丘が、高い音を立てて震えた。

❄️6

 次の休みの日の朝に、ぼくらは吟子さんの家の前で待ちあわせをした。その日は家の前の鴉がけたたましく鳴く声で目を覚ました。ぼくは弾けるように布団から飛び起きて、無地の明るい赤色のシャツと生地の厚い抹茶色のズボンに着替えた。山へ行くときはいつもこのズボンだ。丈夫なために、なにかに引っかかっても破けたりしない。階下におりると洗面所で顔を洗い、土鍋から白米をお椀によそっていた兄さんに朝の挨拶をした。祖父は朝はやくに出かけていて、テーブルの上にはアルミホイルで覆いをされた朝ご飯が用意してあった。漬けもの、鮭の塩焼き、山菜の和えもの、納豆と昨晩の残りの煮もの。ぼくは自分のお椀にお焦げが多めについた白米をよそい、鍋からもうひとつのお椀にわかめと茄子の味噌汁をそそいだ。ぼくがテーブルにつく頃には、兄さんはすでに食事をはじめていた。

「今日は朱美さんと山へ行くんだったな?」兄さんがぼくに尋ねる。

「うん。ご飯を食べたらすぐに出かけるよ」

 ぼくは箸をつかんで手をあわせ、いただきます、とつぶやく。湯気を立てる白米の入ったお椀を右手で支え、最初に左手の箸でつかむのは決まってお漬けもの。たくあんであったり、きゅうりのぬか漬けであったりする。ぬか漬けは祖父が漬けたものもあれば、吟子さんから分けてもらったのもある。それをまず口に入れ、しゃりしゃりと脳に響く咀嚼音を響かせるのがはじまりの合図だ。それからあとは特に決まりはない。ご飯とおかずを交互に食べる。喉に引っかかったおかずは味噌汁とともに胃のなかに流しこむ。

「お父は今日は夜まで帰ってこないそうだ。大輝はお昼頃には帰ってくる予定かな?」と兄さんが白米を口に運びながら尋ねた。

「うん」
 ぼくは頷いた。
「行って帰ってくるだけだから、そんなに長くはかからないよ」

「朱美さんにはそれほど山奥を案内したわけじゃないから大丈夫とは思うが、気をつけてな」

「うん、わかってるよ」
 ぼくはふと思いついて尋ねた。
「ねえ、兄さんが持っている鉈を借りてもいい?」

 兄さんは箸を動かす手を止め、思案顔でぼくを見た。
「鉈かあ。たしかに、今日はお父もおれもいないからな。いざというときには必要かもしれん」

「扱いかたはわかってるから大丈夫だよ。だから貸してよ。あれがあれば、安心するんだ」

「そうだなあ、山歩きには必要なものだし、大輝ももう子供じゃないからな。よし、おれのやつは貸せないが、納屋に一本つかっていないのがある。それを大輝にあげよう。ただしずいぶん長い間、研いでいないものだから、切れ味はよくないはずだぞ。今日のところはそれで我慢して、帰ってから時間があるときに、おれが研いでやろう。そうすれば新品みたいにすぱすぱと、邪魔な枝を切れるはずだ。大輝の腰にあうベルトも見つけなければな。だが危険なものだから、くれぐれもまわりを確認してから振るうんだぞ」

「うん。ぼく、気をつけるよ」
 ぼくは内心の興奮を抑えて言った。これまでは祖父や兄さんのものを借りて、大人の前で振るうことしか許されなかったのだ。ぼくは二の腕ほどの大きさもある鉈を腰にさげ、ひとりで山の急斜面を登る場面を想像した。深い藪が目の前に立ちはだかると、ぼくは鞘から不気味に熱を帯びた鉈を引き抜き、刀身に陽光を滑らせてから根元に向けて容赦なく袈裟けさ切りに振り下ろす。枝が音を立てて崩れ落ち、敗者となって頭を下げ、強者たるぼくに道を譲る。そうだ。今日ぼくは刃物を持った強者になる。山の人間である証の鉈を手に入れ、兄さんや祖父の仲間入りを果たすのだ。

 ぼくはふと思い出して兄さんに尋ねた。
「でも、じいちゃんに訊いておかなくても大丈夫かな? あとで怒られやしない?」

「心配しなくていい。おれが大丈夫と言ったんだから大丈夫だ。大輝ももうひとりの大人として扱っていい年頃だ。お父がなにか言うようだったらおれが説得するさ」

 ぼくはほっと胸をなで下ろした。同時に大人として認められたことで体が熱くなる。興奮はなかなか冷めない。
「ねえ、兄さん。ほかにはなにを持っていったらいいんだろう?」

「いつもおれといっしょのときに持っていくものを持っていけばいいさ。万が一、迷ったときのために、食いものは忘れるなよ。あとでおれがおにぎりを握ってやる。それをアルミホイルに包んで持っていけばいい」

「兄さんはどこかへお出かけするの?」

「おれは釣りに行ってくるよ。女木内のほうに前から気になっていた沢があるんだ。そこがどんな具合だか、たしかめてこようと思う。おれも昼頃には帰ってくるからな」

「兄さんでも、このあたりにまだ行ったことのない渓流があるの?」

「もちろんだとも。行ったことのない場所の方がずっと多いくらいだ。一生かかってもすべての流れを訪れるのは無理だろうな。とにかくどんな具合かたしかめてみて、よさそうな場所だったら、今度は大輝も連れていくからな」

「うん。ぼく、いろいろな場所に行ってみたいよ」

 玄関を出ると、谷間にはいくつかひとの気配があった。畑仕事や田んぼ仕事をする者。職場へと向かう車。ブリキの煙突から立ちのぼる白い熱。ぼくはいつ壊れてもいいような安物の長靴を履き、祖父からもらった厚手の生地のキャップを、少し斜めに被っていた。
「山へ入るときは必ず帽子を被っていけよ、大輝。帽子は陽射しや諸々のものから頭を守ってくれるだ」
 背中に背負ったリュックには着替えや水筒、兄さんが握ってくれたおにぎりが入っていた。腰には先ほど手渡された鉈が鞘に収まっている。よく晴れた日で風が少し出ていた。木々の葉が擦れあい、なにかを伝えたがっているかのようにささやいている。吟子さんの家の前ではメタリックブルーの車が、エンジンのかかった状態で待っていた。朱美さんは後部に荷物を積みこんでいるところだった。ぼくは彼女を手伝い、積まれた荷物の隣に自分のリュックを横たえた。

「なんだか男の子と二人きりで出かけるのって緊張するわね」
 ぼくが助手席に座ると、運転席から彼女が冗談めかして言った。
「でも、この間も仲よくおしゃべりしたし、わたしたちはお友達よね?」

「うん。吟子さんが仲よくしているひとなら、みんなぼくの友達だよ」
 今日はぼくの代わりにしゃべってくれるひとはいない。そう考えると喉元に水の吸った綿でも詰まっているみたいな気がした。

 車は木立の間を縫い、曲がりくねる川沿いの道を上流に向かって走った。朱美さんは窓を半開きにし、流れこむ風に髪をなびかせるがままにしていた。集落から離れるにつれ、空気は冷たく清冽せいれつになる。やがて砂利敷きの林道にさしかかると、車は緩やかにスピードを落とした。舗装された道路との境に乗り上げたとき、車体が大きく傾いで揺れた。ぼくらは木々が影を落とす暗い山道をゆっくりと奥に向かって進んだ。林道の両脇の溝と、時折、道を横切るように這う筋は、雨水や雪解け水の逃げ道だ。わかりやすい溝が姿を現すたびに朱美さんはブレーキを踏み、ぼくは衝撃に備えた。車体の片側ががくっと沈み、時間差でもう片方が同じように沈みこむ。タイヤが砂利を踏みしめる音が車内に響き、会話をするには少し声を張りあげなければならなかった。

「まったく、忌々しい凸凹ね」
 朱美さんが言った。
「まるで子供の頃に行った遊園地のアトラクションみたい」

「雪解けの季節はいつもひどいんだ。もう少ししたら組合のひとたちが整備して、平らな走りやすい道にしてくれるよ」

「ここへきたばかりの頃は山道を走るのも特別なことに感じたけど、何度もきているとさすがになんの感慨もないわね」

「ぼくは好きだけどな、山を走るの。運転は大変かもしれないけれど、横で乗っているだけならわくわくするよ」

「わたしはうんざりしてきちゃったわ。むかしから同じことを何度も繰りかえすのって苦手なのよ。学校の授業でも、しばらく同じ作業がつづくと、ひとりでべつのことをしちゃってたわ。おかげで教師にはよく怒られてたけど。頭のなかを常にシフトチェンジさせてないとだめなのよね。ここでの生活もそろそろ潮時なのかもしれない」

 ぼくはのしかかるような木々の列から目をそらし、朱美さんを見た。彼女は眉間にしわを寄せて前を見たまま運転に集中していた。

「ぼくは好きだよ、いやになっちゃうなんてことないな」
 ぼくは声を大きくした。
「この間は道の真ん中に蛇が出たんだ。いきなりだったけど、じいちゃんがあわててハンドルを切ったから轢かずに済んだよ。蛇はのんびり身をくねらせて、そのまま道を横切っていった。じいちゃんが言うんだ。故意にしろ事故にしろ、蛇を轢いちゃうと罰があたるんだって」

「ふうん、そう?」

「野生のたぬきや野兎を見かけることもあるよ。茂みの陰から顔をのぞかせてるんだ。車を見ると逃げていくから、出くわすのはまれだけど」

「わたしはまだ一回も見たことがないわね」

 ぼくは窓の外の流れていく景色を見つめた。進むにつれ森は深く、影は濃くなる。車は休むことなく排気ガスを吐きつづけ、森の異物であるエンジン音が木立のすきまに飲みこまれていく。

「ぼくは好きだな。何度きたって同じ景色じゃないんだ」
 ぼくは言った。
「兄さんも今日は山に行ってるんだ。行ったことのない沢があるんだって。釣りに行こうと思ってもまだ知らない流れがいっぱいあるから、いやになっちゃうなんてことはないな、ぼくは」

 ぼくは景色を見つづけた。頭蓋骨の後ろに朱美さんの視線を感じた。

「そうだとしたら、大輝くんたちがうらやましいわ」
 彼女は言った。
「わたし、自分が何事も長つづきしないところを直したいと思ってたのよ。でも無理。しばらく同じような景色を見てると、まったく違う景色を見たくなって仕方なくなるの。脳みそのなかがどうしようもなく痒くなってくるのよ。人間を相手にするときもそう。同じひととばっかり話してても、段々と楽しくなくなって、そのうち顔を見るのもいやになっちゃう。大輝くんは集落のひとと話していて、そんなふうに思うことってない?」

「ぼく、わかんないけど、吟子さんと話すのは好きだよ。もう話したくなくなるなんてことはないな」

「おばあちゃんは違うわ、あのひとは特別。彼女は頭もいいし、とても無意識の領域で苦労をしてきた女性なの。生まれ育った土地もここではないしね。わたしもおばあちゃんのことは大好きよ。そうでなかったら、ひとつ屋根の下でいっしょに生活することなんて考えなかったわね。だからおばあちゃんはべつ。ほかの集落のひとはどう?」

 ぼくは首筋に血がのぼるのを感じた。なぜだかこの質問にはこたえたくなかった。こたえたら、ぼくが信じて身を捧げてきた大切なものが、音を立てて崩れ去ってしまう。そんな気がした。

「ごめんなさいね」
 ぼくが言葉に詰まっていると、朱美さんの声が遠い彼方から聞こえた。
「考えが足らない質問だったわ。大輝くんを困らせるつもりはなかったのよ」

「ぼく、よくわかんない」

「それでいいのよ」
 朱美さんの声には優しいと言える響きがこもっていた。
「いまのわたしの言葉は忘れてちょうだい。所詮わたしは部外者だものね。勝手なことを言っちゃいけないわ。具体的な予定を立てることもせず、いつでも出ていけばいいという軽い気持ちでここへ立ち寄って、目的を果たしたらまた軽い気持ちで次の場所へ行くだけだもの。でも勘違いしないでほしいのは、べつに否定しようとか馬鹿にしようというつもりはないってこと。これでもわたしはわたしなりに真剣に生きているし、相手をむやみに傷つけない限り、ひとは好きに生きればいいと思うの。相手が土足で踏みこんでこないなら、わたしが踏みこむこともないわ。大輝くんたちみたいな生活にちょっぴり憧れているのもほんとう。時々、自分の諦めの良さにうんざりしちゃうことがあるの。もうずいぶん前に受け入れたつもりなんだけどね、なかなかうまくいかないものよ。わたしはまだまだいろいろな景色を見たいし、ずっと似たような景色を見ながら死んでいくのはいやなの。そんなふうに老いてゆくのを想像すると、五十年後に死ぬのもいますぐ死ぬのも変わらないんじゃないかって思っちゃう。そんな生活でなにを得られるのかなんてわからないけど、そうせずにはいられないの。だからわたしが真の意味でこの土地の住民になるのは不可能なんでしょうね。わたしはいつまで経っても異邦人で、この土地においてはどこまでいっても中立な立場でしかないの。それはきっとおばあちゃんにも言えること。何日も近くで見ていて、彼女が身内として集落に受け入れられているとはどうしても思えないの。そしてそういうひとは彼女だけじゃないんだわ」

「ぼくはここが好きだよ」
 ぼくは短くつぶやいた。

「素敵よ、そんなふうに思えるのは。かっこいいとも思うわ。でもわたしには無理。わたしも土地やひとを好きになることはあるけれど、それはあなたたちが口にする〝好き〟とは同じじゃない。なんにせよ、やるべきことを済ませたら、友達であるあなたたちに迷惑をかけないようにしないと。わたし、これでもひとに迷惑をかけないように生きてるつもりなのよ」

 集落を出てから三十分ほど経って、ようやく車は林道の中間地点でとまった。朱美さんがエンジンを切ると、自分たちは侵入者なのだという自覚が強くなった。森の空気はせいひつ静謐で侵しがたい。ぼくは沈んだ気持ちで車を降りた。朱美さんとの会話が、どうしようもなくぼくを落ちこませていた。

 目的地は車から三十メートルも離れてない、少し下がったところにある木立の合間にぽっかり開いた窪地だった。地面はひとと獣に踏み荒らされ、土が剝き出しになっている。杉とブナの木に周囲を囲まれている。木々のすきまから谷をひとつ隔てて離れた反対側に、もうひとつの山の尾根と斜面が見えた。

 その斜面に向かうようにして、朱美さんは三脚とカメラをセットしはじめていた。ぼくにはまるっきり背中を見せている。車を降りてからは並び立つ木々の陰に耳があるかのように、ぼくらの口数は少なかった。朱美さんはカメラをセットし終えると、懐から双眼鏡を取り出して顔に押し当て、対岸の斜面に動くなにかの姿を捉えようとしていた。ぼくはそんな彼女の様子を落ち着かないまま見守った。朱美さんといても、祖父や兄さんといるときのような、全体重を預けられる安心感はなかった。見られ、品定めをされているという感覚が、先ほどからチクチクと首筋を刺している。いつ木の影から悪しきものが飛び出してもおかしくはないのだった。そしてそうなったときに、ぼくらの身を守らなければいけないのはぼくだ。ここには祖父も兄さんもいない。抗う力を持つのはぼくしかいないのだ。だからぼくは待っている間、周囲の警戒を怠ることなく、鉈の硬い柄に右手をのせたまま、居合いあいの凶手になったつもりで待機していた。なにかが現れればすぐさま切り伏せる。あるいは朱美さんを庇って、体中を鉤爪で引き裂かれながらも巨獣の前に立ちはだかり、彼女が逃げる時間稼ぎをしなければならないかもしれない。その妄想はぼくをおかしくさせた。ぼくは血だらけで負傷している。右目は潰れてつかいものにならないし、左肩から先はだらりと垂れ下がり、もはやなんの感覚もない。内臓は無惨にも破裂している。そんなふうに考えていると落ちこんだ気分は跡形もなく消え去った。ぼくはなるべく音を立てないよう、瀕死の剣士みたいに片足を引きずって歩きまわりながら、周囲の茂みに疑わしげな視線を向けつづけた。

 どれほどの時間が経っただろう。ぼくらがお互いの存在を忘れたとも思える頃、朱美さんが短い歓声をあげ、ぼくの名を呼んだ。ぼくはたちまち現実世界に引き戻され、彼女に近づいて差し出された双眼鏡を受けとった。彼女の胸の高鳴りがぼくにも移ったみたいに、はやる心を抑えながら、彼女が指差す方向に双眼鏡のレンズを向けた。

 はじめは拡大された水楢みずならの樹皮しか見えなかった。ぼくらが立っている場所よりも標高は高く、木々の葉が大きい。濃い暗がりが斜面の岩場を覆っている。しばらく朱美さんを興奮させたなにかを探しまわっていると、一本の巨大な木の足元、レンズの縁のあたりに、黒々としたうごめく影があった。影はごつごつと突出した岩のそばをゆるりとした速度で斜面を横切るように歩いていた。

 それは一頭の成熟した月ノ輪熊つきのわぐまだった。後ろ足で立ち上がれば、ぼくと同じくらいの身長はあるだろうか。尖った鼻面を左右に揺らし、重たい体重を器用に移している。幹のように太い四つの足で急な斜面を踏みしめ、降りかかる重力をものともしない。前足の間の胸とあごの一部の毛だけが白く、残りは全身が真っ黒だ。時折、立ち止まっては草の間に鼻先を突っこみ、と思うと顔を上げて鼻をひくつかせ、空気中のにおいを嗅いだ。目はその巨体にしてはつぶらで、あくまでも平和的だ。仮に存在するなら、狂気や暴力は深いところに鳴りを潜めている。毛並みは艶やかで滑らか。太陽の光を跳ねかえし、風を受けて豊かにきらめいている。ほおのあたりで口角が上向きに上がっている。垣間見える牙は白く鋭く、鋭利な爪からも、まだ生後数年の若い成獣であることがわかる。よく見ると一頭ではなく、成獣の脇腹のあたりで、もうひとつの黒い小さい影が小走りに移動している。小さな影ははしゃぐように斜面を転げまわり、幾度も木々の根っこを跨いでは、後ろ足で立って木の幹に前足をのせる。岩場の割れ目に生えた雑草をかじって引き抜き、二、三度咀嚼してから地面に吐き出す。ふたたび走り出したかと思うと、凹凸の少ない岩場の上で無様に足を滑らせ、急傾斜を数メートル転がり落ちる。遠すぎて音は届いてこないはずなのだけど、子熊の悲鳴が聞こえた気がした。親熊は呆れて向き直り、器用に岩場をおりて子熊の元へ歩み寄った。屈んで子熊の背中を前の歯でくわえ、姿勢を正させる。子熊はおとなしくされるがまま抗わなかった。前足を力なく垂らし、座りこんで顔色をうかがうかのように母熊を見上げた。母熊は子熊の鼻についた土汚れを舌で舐めて拭いとった。

 このときのぼくの感情をどう言い表したらいいだろう。心臓の鼓動は強く打ち、じっと身動きしないでいようとすると手足が震えた。あやうく双眼鏡を落としてしまいそうになったほどだ。野生の彼らをこの目で見るのは初めてだった。その存在を耳にしたことは何度もあったし、集落の生活とは切っても切り離せないものだったけれど、所詮はぼくの頭のなかの伝説でしかなかったのだ。このときまでは。

「ここ数日、同じ親子をあのあたりで見かけるの」
 朱美さんはカメラのレンズを丁寧に調整しながらシャッターを切っていた。
「胸の模様がいっしょだから、同じ親子だってわかるのよ。子熊はいつも母親の苦労も知らずにあたりを走りまわっていて、届くものすべてに手を伸ばしたり、まだあごの力の弱い牙でかじったりしてるわ。この冬に生まれたばかりで、雪に閉ざされた洞穴ほらあなしか目にしていなかったのだから、外の世界の光に好奇心を刺激されて、ああやって元気いっぱいにはしゃいでいるのも仕方ないのよ」

 その間も子熊の動きは止まらなかった。立ち上がり、母親を背後に置いて走り出す。少し行ってから立ち止まって振りかえり、母熊がついてきているかどうかをたしかめた。母熊は緩やかな動きで足を交互に運び、子熊のあとを追った。生い茂る草花を踏みしだき、やがて二頭は深い森の奥へと姿を消した。

 二頭がいなくなってからも、再び草葉の陰から姿を見せやしないかと、ぼくは双眼鏡のレンズをのぞきこみ、獣たちの姿を探した。だがそれから二頭が陽の光の下に現れることはなかった。厳かな空気に包まれながら、ぼくは双眼鏡を胸元まで下ろした。こめかみが脈打ち、喉がからからに渇いている。隣で朱美さんが静かにつぶやいた。

「これでようやく、この土地にきた目的を果たすことができたわ」

❄️7

 集落から最後の住民がいなくなって数日後。車を運転して長い時間をかけ、ぼくはかつてぼくらが暮らした集落の跡地を訪れた。祖父が遺した財産の整理をしなければならなかったのだ。とはいえ、金銭面で手を煩わされることはほとんどなかった。祖父の最後の数年はとても慎ましやかなものだったし、元々贅沢な生活とは縁遠い土地だった。彼が遺したのは金銭的な価値のない、この世に形として存在するものばかりだった。家のなかのものはぼくがいた頃とたいして変わっていない。キッチンには研がれたばかりの包丁と手入れされたまな板。和室には外のタンクと管で繋がったストーブと来客用の座布団。納屋には壁に立てかけられた草刈り機やフックにかけられた合羽が、持ち主に使用されるのを待っていた。遺されたものはそれらだけではない。祖父が持っていたという女木内の田んぼや山は、親戚だと名乗る連中に無料タダでくれてやった。ぼくが所持していたところで抜け毛ほどの役にも立たないものだったし、この土地の人間と深く関わりあいになるつもりはなかった。それは向こうも同じだっただろう。

 身辺整理という名目でかつての故郷を訪ねはしたのだけど、祖父の家を訪れてから、ぼくの気持ちは翻ってしまった。二階にあるぼくと兄さんの部屋は、ぼくらがいなくなったあとも定期的に清掃された形跡があった。納屋にはいつか彫られる予定であった杉の木材がいくつか置かれ、壁の隅々まで、杉の木の日陰のようなにおいが移っていた。キッチンの棚にはタッパーに三分の一しか残っていない、罠用の蜜蝋があった。かつての食卓での温もりや祖父の声、兄さんにまとわりついた排気ガスのにおいなどを忘れかけた頃に、ふたたびこうして我が家の中心に立ち、祖父の生活の跡を目にして思い出を蘇らせていると、こう思わずにはいられなかった。ぼくにその権利はない。祖父の所有物を売ったり処分する役目は、ぼくに与えられたものではない。ぼくにはそんなことは許されない。結局ぼくは最初から最後まで部外者でしかなかったのだ。この地で生きた人間のことは、この地で生きた人間にしかわからない。土地と人間の結びつきはそれだけ強固なものなのだと、そのときぼくは悟った。だからぼくは祖父の遺品には手をつけなかった。ほんとうならそれらを必要なものとそうでないものに仕分け、家のなかをからっぽにし、最終的には業者を呼んで家屋を解体しなければならなかった。それがだれにも迷惑をかけないための順序というものだ。だがこの地を訪れてからぼくの気持ちは変わってしまった。どうせ周囲は崩れかけた廃墟だらけなのだ。屋根にたまった雪が隣家の敷地に落ちて迷惑をかけることもない。ひとの訪れない辺境に空き家がひとつ増えるだけ。ぼくには祖父の生活や記憶に踏み入る権利などない。集落に背中を向けたぼくを引き留める権利が、祖父になかったのと同じように。

 それから何日かはかつての我が家に泊まった。強い郷愁の想いか、はたまたべつのなにかかわからないが、ぼくをその場に繋ぎ留めようとするものがあった。ぼくは町で数日分の食料を買い、それからの時間はほとんど集落から出ることなく過ごした。自分の部屋の布団に寝転んで、天井を眺めたまま一日を費やしたこともあるし、かつて訪ねた場所を歩き、記憶の残り滓を辿ることもある。季節は春だった。何年も前に朱美さんが訪れ、そして通り雨のように過ぎ去っていった季節。ぼくはむかし吟子さんが住んでいた家の前に立ち、雪の重みに圧し潰されてしまったトタンの塊を見下ろす。ここでの思い出はあまりにも多すぎて、少しでも深いところに潜りこもうとすると溺れてしまいそうになる。ここで吟子さんと陽が暮れるまでおしゃべりをした。オレンジジュースをご馳走になった。畑仕事の手伝いもした。ぼくが立っている場所には、あの春、朱美さんの青い軽自動車がとまっていた。彼女が腰を屈め、女性特有の丸みを帯びたお尻を突き出し、蛇口から伸びたホースで車を洗っている光景がいまでも鮮明に目に浮かぶ。きっと兄さんも同じだろう。それがはじまりだった。それを起点にして、蔓のように絡まりあう思い出を手繰り寄せることができる。あれから何年も経ったいまでも、彼女との記憶はまばゆく熱を発する目印として、ぼくらの前に立ちはだかっているはずだ。

❄️8

 朱美さんと山へ入った日から一週間が経った土曜日。ぼくと兄さんは並んで歩き、吟子さんの家に向かっていた。兄さんは町に出かけたときに買った菓子折りを右手に抱えていた。吟子さんに渡すためのものだ。

「吟子さんには毎度毎度お世話になっているからな」
 兄さんは言った。
「ちゃんとお礼をする機会を持たないといけない」

「吟子さんはお礼なんか言われなくても気にしないと思うな」
 とぼくは言った。
「ぼくがいやがっても、無理やりお小遣いを握らせるんだ」

「そりゃあ、大輝は気にせずもらえるものをもらっておいたらいい。だが大人になると、もらいっぱなしというわけにもいかないんだ。特にこの集落のような狭い世界ではな。礼も言えないやつだと思われたら、いざというときに見捨てられてしまうかもわからない。ここではだれの助けもなく生きていくのは難しい。だから借りは返せるときに返さねばな」

「吟子さんは気にしないと思うけどな。ぼくらからなにかを返されることなんて、考えてもいないと思うよ」

「大輝は気にしなくてもいいさ。だが大人になるとそういうわけにもいかなくなるんだ。それが大人になるということなんだ」

 吟子さんの家では軽自動車が二台とも所定の位置にとまっていた。兄さんが青い軽自動車にちらっと視線を向け、かすかに頷いたのをぼくは見た。この一週間、青い自動車はほとんどエンジンをかけられなかったのをぼくは知っている。玄関の扉を開け、声をかけると、紫の半纏を羽織った吟子さんがぼくらを出迎えた。彼女はぼくの顔を見ると、目尻にしわを寄せて微笑んでみせる。会うたびに必ずだ。そんなふうに受け入れられると、思わずくらっとくるものがある。ぼくを出迎えるときの彼女を目の当たりにするたび、このまま二人きりで手を繋ぎ、行けるところまで行こうと思えてしまうのだ。おそらくぼくは恋をしていた。もしかすると、吟子さんもそうだったかもしれない。彼女があと六十歳、いや、五十歳若ければどうなっていただろうと、考えたことがないと言えば嘘になる。ぼくらは手に手をとり、人目を気にすることもなく、小石を跳ね飛ばしながら畦道を駆けまわっただろう。身の丈ほどもあるすすきの穂に身を潜ませ、弾む心を抱えながらかくれんぼをしただろう。毎年巡ってくる冬にうんざりする大人たちを尻目にして、全身を白雪しらゆきにまみれながら、あたりを転がりまわったことだろう。だがそんなぼくの秘めた想いを、当然ではあるが、だれかと分かちあったことなどない。これはぼくだけのもの。分かちあえば、たちまち空気中に散ってゆく。後年、振りかえってみても、この想いがぼくを苦しめることは一度もなかったように思う。尽きることのない水瓶のような夢だった。

「そうかそうか。よくわかんねえけど、ありがとよ」
 吟子さんは兄さんから包みを受けとると言った。
「二人とも、上がってのんびりしていけ。ちょうど朱美とお茶を飲みながら、ゆっくりしていたところなんだ」

 吟子さんの家はお世辞にも広いとは言えない。キッチンと居間がひと繋がりで、それらにトイレ、風呂場、納屋がお情けのようにくっついている。部屋の隅には黒く艶のある仏壇が扉を開いていて、その上では定期的に清掃されている神棚が家のなかを見下ろしていた。中央に設置されたストーブからはブリキの煙突が伸び、天井の近くを通って外に繋がっている。居間では朱美さんが頬杖をついてちゃぶ台にもたれかかり、どこか眠たげにも見える視線でぼくらを迎えた。ぼくと兄さんは並んで彼女の向かいに腰を下ろした。

「いらっしゃい、二人とも」
 朱美さんは間延びした声で言った。
「いま、おばあちゃんと二人でおしゃべりをしてたとこなの。田舎の生活って暇なのね。することがないから、午前中はおばあちゃんにくっついて町に行ってきたわ」

「そうですか」
 兄さんが訳知り顔に頷いた。
「たしかに、田舎の生活は緩やかに進みますからね。ただ、好きなことでもあれば時間はいくらあったって足りませんよ。なにしろ、自然は季節ごとにまったく違う顔を見せてくれますから」

「あまりにも暇だったから、おばあちゃんが教会へ行くのについていって、いっしょにお祈りをしてきたわ。べつにわたしはキリスト教徒というわけでもないんだけど。ねえ、おばあちゃん?」

「ああ、まあな」
 吟子さんは抱えていたお盆をちゃぶ台の上に置き、ぼくらの前にオレンジジュースの満たされたグラスを置いた。塗料の塗られた黒い木皿には、兄さんが持ってきたばかりの大福が、ひとつひとつ半透明の包装紙に覆われて並んでいた。朱美さんは頬杖を外して大福をひとつ手にとり、包装を解いて白い皮にかじりついた。

「お祈りなんて真面目にしたの、何年振りくらいかしら?」
 朱美さんがしゃべるたびに、くちゃくちゃと彼女の口のなかで咀嚼音が響いた。
「わたし、教会は好きでよく訪れるのよ。信者というわけじゃないんだけどね。建築物として好きなのよ。日本には各地に凝った設計の教会があるの、知ってた?」

 ぼくは大福をほおばりながら首を振った。こし餡の甘い味が口のなかに広がる。隣で兄さんが木皿に手を伸ばした。

「時々暇なときに、建築の素敵な教会を訪ねたりするの。明るいレンガ造りの建物であったり、七色に輝くステンドグラスがはめこまれていたり、キリスト像が代わりにわけのわからない放射状に広がるべつのなにかであったりするの。見慣れないものを見るのって、いつでもいい刺激になるのよ。平日の昼間でも信徒のために開放しているところはあるから、そういう場所ではなかに入って、一時間ぐらいぼーっとすることもあるわ。祈るわけじゃなくて、なにも考えず、体を背もたれに預けて半分眠っちゃうの。ひとのいない教会って、ただいるだけで気持ちが落ち着くのよね」

「信徒席はベッドじゃねえがな」
 吟子さんがぼやいた。彼女は半分開いた大福の包装を両手で持ち、小さな歯でかじりついていた。口を開くとほおのしわが伸びて平らになり、閉じると元に戻るのをぼくは気づかれないように見守っていた。朱美さんはつづけた。

「わたし、教会で眠ってしまったことって何度かあるんだけど、とても疲れがとれるのよね。リラックスしすぎて眠気に抗えないのよ。子供の頃はお母さんが聞いていた讃美歌を子守唄だと思ってたくらい。もしかしたら眠りへのプロセスが体に染みついちゃってるのかも」

 吟子さんはなにも言わずに大福をかじりつづけていた。ぼくは彼女を見ていたし、朱美さんと兄さんも吟子さんに視線を向けた。

「どうかしたの、おばあちゃん?」
 と朱美さんが尋ねた。

「ああ?」

「なんだか口数が少ないみたい。わたし、なにか変なこと言っちゃった?」

「なんもねえ」
 吟子さんは大福を噛んで千切った。しばらく咀嚼してからふたたび口を開いた。
「ただ、人前で宗教の話をするのは慣れてねえんだ。いままではなるべくその話はしねえようにするのが当たり前だったからな」

「ねえ、おばあちゃん。むかしはそんなにひどかったの?」

「ひどいというほどじゃねえがな。ただそれが礼儀というやつだったんだ」

「どういうことだい、吟子さん?」
 兄さんが尋ねた。
「いったいなんの話?」

「この集落でおばあちゃんがどんなふうに扱われたかという話よ」
 朱美さんの前には二枚目の包装紙が重ねられようとしていた。
「古い世界では宗教そのものへの風当たりが強かったのよ。特にここみたいな狭い田舎では」

「これはそう単純な話でもねえんだ、朱美」
 吟子さんが言った。
「もっと深くて複雑なんだ。お前が思ってるほど、そんなにひどいものでもなかった。おらたちが集落で仲間外れになるなんてこともなかったしな」

「でも偏見はあったんでしょう?」

「どうだろうな」
 吟子さんは手を止めてちゃぶ台の模様を眺めはじめた。遠い日の記憶を思い起こすかのように、ぼくらには見えないなにかを見ていた。
「おらにも旦那にも、自分たちが信じているもののことを人前で話さねえようにするくらいの賢明さはあった。だが時々その話題が避けられねえときは、気まずい空気があたりを満たしたもんだ。それまでは普通に会話をしていたのに、ふと目をそらして、よそよそしくなりやがる。だもんだから、こっちもあわてて取り繕うんだが、それが面倒なことこの上ねえ。もしかしたらおらたちの耳に入らねえところで好き勝手に噂されていたかもしれねえが、おらたちが口をつぐんで礼儀正しくしていりゃ、向こうも礼儀正しく接してくれただよ」

「くだらないわね」
 と朱美さん。
「ほんとうにくだらない」

 ぼくは吟子さんの話をもっと聞いていたかった。
「吟子さんはむかしからキリスト教徒だったの?」

「旦那と旦那の両親がそうだったんだ。だから結婚するときに、おらもいっしょにならずにはいられなかった。元々旦那の親父は寺の次男坊でな。先祖代々仏教の系譜だったんだが、アメリカからきた〝長老〟とかいう連中に出会ってからは、仏教というものが信じられなくなっちまったらしい。だからお袋も旦那も当然キリストの信徒だった。結婚するまでは宗教なんて関わりあいになったこともねえが、旦那が神を信じているのに嫁はそうじゃない、なんていう道理は通らなかった。日曜は家族でそろって街の教会まで出かけたよ。せめて娘たちは自由にさせてえと思って、いっしょに連れていくことはしなかったがな」

「ほんとうにくだらないわ」
 朱美さんが言った。
「話を聞いてるだけで、いらいらしてきちゃう」

「だが、いまはそんなこともないんだろう? みんなとも仲よくやっているじゃないか」
 兄さんは不安げに訊いた。ぼくは兄さんの気持ちが痛いほどわかったから、口を開くのは我慢した。

「ああ。みんな慣れちまったんだろうな」
 吟子さんは小さくなった大福の欠片を口のなかに放りこんだ。
「いまはおらひとりしか残っていねえから安心しているんだろう。もしかすっと、おらたちにとって食われるんじゃねえかと心配していたのかもしれねえ。おらたち年寄りはそんなもんなんだ。宗次郎くらいの年代の人間は最初からなんとも思わねえだろうけどな。いまじゃ宗教なんて珍しくもなんともねえ。いろんな人間と教会で顔をあわすだよ。若い大学生もいれば、赤ん坊を連れた一家もいる。いっしょに歌ったり、手を繋いで踊ったりするんだ。平和な光景を目にできて、ほっと胸をなで下ろしているところさ」

「おばあちゃんはすごいわよ」
 朱美さんは手を休めることなく、次々と木皿に手を伸ばした。
「ほんとうにすごいと思う。とても長い苦労をしてきたのね。わたし、おばあちゃんみたいな人生を歩みたいとは思わないけど、強い女性って憧れるわ」

「なんだね、それは? どういう意味だい?」
 吟子さんが朱美さんを鋭く一瞥した。ぼくは不穏な空気を感じとった。朱美さんも同じだったみたいだ。

「だってそうじゃない」
 朱美さんは空の包みを静かに置いた。
「おじいちゃんははやくに亡くしてるし、借金を抱えながら二人の子供を育てなくちゃならなかった。よくもまあ女手ひとつで娘二人を大学に行かせたものだと思うわ。それもこんなに貧しい土地で。おばあちゃんはほかの女性よりよっぽど苦労して、それを乗り越えてきたのよ」

「朱美。お前はなんもわかっちゃいねえよ。これはそんな単純な話じゃねえんだ」

「ふうん、そう?」
 朱美さんはふたたび大福に手を伸ばした。お昼ご飯を食べていないのかな、とぼくはぼんやり考えた。彼女は言った。
「おばあちゃん、いつも自分で言ってるじゃない。子育ても、両親の世話も、日々の暮らしも苦労してきたんだって。考えるだけで、わたしにはとても無理。そんな運命が通せんぼしてきたら、立ち向かう前に背中を向けて逃げ出してしまうわ」

「べつにおらは定められたことに立ち向かっていったわけじゃねえ。そこからしてお前は間違ってるだ。おらは朱美が言うほどたいした人間じゃねえ。これだけははっきりと言わねばなんねえ」

「立ち向かって乗り越えてきたでしょう」
 朱美さんは驚いた様子で吟子さんを見た。
「そうでないならなんなの? おばあちゃんは怠け者で、他力本願で、いつも自分を憐れんで涙を流しながら働いていたとでも言うの? 違うでしょう。おばあちゃんは強いひとよ。それは認めないと、弱いひとたちに失礼だわ」

「おらが言いたいのはそういうことじゃねえ」
 吟子さんは真面目な顔で朱美さんを見た。
「強いとか弱いとか、そういうことじゃねえ。ひとの意志がざるみたいに抜け落ちていく時代があったんだ。もしかすると、いまだってさほど変わんねえのかもしれねえが、複数の人間が巨大なひとつの生きもののように扱われていた土地もあったんだ。朱美や。おらの言葉や振る舞いをたいして目にしてもいねえのに、勝手なことを言ってはだめだ」

「そうね、そうかもしれない」
 咀嚼しながら朱美さんは少し項垂れた。すぐに彼女は顔を上げ、吟子さんを見た。
「でも、やっぱりおばあちゃんはすごいひとだと思うわ。それはわたしのお母さんを見ればわかることだもの。子供は親の背中を見て育つのよ」

「大きなうねりがあったんだ」
 吟子さんが言った、和紙のようなこめかみでは、浮き出た静脈が静かに脈打っていた。
「大きな大きなうねりだ。いまからじゃ、なかなか想像がつかねえ。だれもがそいつに飲みこまれたし、逆らうこともできずに流された。それほどむかしのことじゃねえ。おらたちが生きていた頃の話なんだから。おらはなにも武器を手にとって立ち向かったわけじゃねえ。おらみたいな人間は、ただついていくだけでよかったんだ」

 しばらくはだれもなにも言わなかった。兄さんは気まずそうにオレンジジュースをちびちびと吸っていた。朱美さんの前には山と積まれた包み紙があった。朱美さんは噛んでいた大福の残りをごくんと飲みこみ、やがて口を開いた。

「わたしにはやっぱりわからないわ。どうしておばあちゃんみたいなひとが、ここでの生活を我慢しつづけれたのか。わたしだったら背中を向けてまっ先に逃げ出してる」

「それでもいいさ。だれも咎めはしねえよ」
 吟子さんが口調を和らげて言った。
「自分で自分を許せるならそうすればいいさ。あるいはおらもそうすべきだったのかもしれねえ。もうどっちでもいいことだがな」

「わたし、よくおばあちゃんのことをお母さんと話すの」

「へえ、そうかい?」

「おばあちゃんがおばあちゃんでよかったって、二人で話すのよ」

「そうかい、そりゃよかったな」
 吟子さんはジュースの入ったグラスを傾け、ふたたび大福をひとつ手にとった。ぼくも真似をしてひとつ手にとった。目があうとしわを寄せて微笑みかけてくれた。

「なんにせよ潮時ね」
 朱美さんが言った。
「ここでの生活、けっこう楽しかったわ」

 ぼくは兄さんのほうをちらっと見た。兄さんは目の前に一枚だけある空の包装紙を指先で小さく丁寧に畳んでいた。その表情からは、なにを考えているのかわからない。

「やるべきことを終えたら、この一週間、することがなくなっちゃった。のんびり体を休められたからよかったけど、そろそろ動かなくちゃ」

「出発はいつだね?」
 と吟子さん。

「明日には出ようと思うの。幸い、荷物もたいした量じゃないからすぐに準備はできるわ」

「そうかい。あんまり大変なようだったら、二、三日延びたって構いやしねえからな。いたけりゃ好きなだけいりゃいいし、またきたくなったらくればいい。おらはいつでも構わねえだよ」

「ありがとう、おばあちゃん。わたしの勝手を許してくれてありがたいわ。でね、前にもお母さんから言われただろうけど、おばあちゃんも好きなときにお母さんたちのところへ行っていいんだからね? パパもいつだって歓迎するわ。ここでひとり寂しく暮らすより、家族いっしょのほうがおばあちゃんのためにもいいと思うの。笑いって、長生きと健康に必要なことなのよ。わたしたちみんな、おばあちゃんに長生きしてほしいの」

「なんも。おらがひとりでいるのは、ひとりが好きだからだ。おまえの母ちゃんといっしょになったって、毎日些細なことで言い争いになるだけだ。そりゃあ、おまえの母ちゃんが義理の息子と喧嘩でもすれば、おまえの母ちゃんの味方はするさ。なにがあっても娘を守らないといけねえという気持ちはある。だが家族といっても他人は他人だからな。いっしょに生活をすれば納得のいかないことは自然と出てくるだろう。それがわかっているのにわざわざつの角を突っつきあわせることもねえだよ」

「そう? わたし、ここへきてからおばあちゃんと言い争いになったことなんてないけど」

「おまえたちがこの家にくるのはいいんだ。いつでもくればいいし、いつまででもいたらいい。ここはおらの家だ。おらの土地だ。おらの体も考えも、ここの土と水でできているんだ。だから訪れるひとがあったって、おらは揺るがねえし、ブレねえ。おらはしっかりこの地に根を張ってしまってるんだ。おらはこの地の土の味を知っている。どんな作物が、どんな気候で、どのように成長を左右されるか知っている。生まれたばかりの小鳥の鳴き声、春の雪解け水のにおい、山のは端にかかる夕暮れの色を知っている。この地に住む人間のほくろの位置から、習慣や口癖のひとつひとつまで知っている。パチンコ屋の店長が開店時に、その日はどの台を当たりにしがちなのかを知っている。目的を果たすまでにどれくらいの時間がかかるのか、なにが必要になるのかを知っている。だがおまえたちの家に行けばそういうわけにもいかねえ。おらはここ以外の土地を知らねえし、義理の息子とは血も繋がってねえ。娘たちと暮らしたって、お互いにいいことなんてねえよ。そう言ってもらえて、おらは恵まれてるのかもしれねえがな。息子や娘がもう何年も実家に顔を見せねえ、なんていう話はこのあたりじゃ頻繁に耳にするからよ。血の繋がった人間がたまに顔を見せにきてくれるだけありがたいのかもしれねえ。まあとにかく、おらはひとりで気楽にやっているだ。お前たちが心配する必要はねえよ」

「そっか」
 朱美さんは小さくため息をついた。
「おばあちゃんがそんなふうに考えてるなら仕方ないわ。しばらくいっしょに生活してみて、たしかにひとり暮らしを謳歌おうかしているように見えるもの。でも気が変わったら言ってちょうだいね。お母さんもパパも、いつでも歓迎するってことをわたしは言いたかったの。お母さんたち、東京を離れようかという話を最近しているのよ。どこか田舎のほうに一軒家を買って、しばらくのんびり暮らそうかって計画しているらしいの」

「へえ、そうかい?」
 吟子さんは眉を吊り上げた。
「そんな話は初耳だで。まあどんなところに住むにせよ、ここより田舎っちゅうことはねえだろうがな」

「そうね」
 朱美さんが微笑んだ。
「まだ行き先は決まってないみたいだけど、ここよりも田舎なんてことはないと思うわ」

 ここで兄さんが口を開いた。
「それじゃあ、明日にはここを発ってしまうんですね?」

 朱美さんが兄さんに向き直った。
「ええ、その予定よ。当初立てていた目的も果たしたしね。すれ違うたびにお年寄りの住民のひとから白い目で見られているような気がするから、あまり長居するべきではないと思うし」

「そいつはさすがに気にしすぎじゃないかね」
 吟子さんが言った。

「そうかもしれないわね。でも散歩中に会った名前の知らないおばあちゃんに一度言われたことがあるのよ。『最近の化粧はすごいですね。きらきらまぶしくて、金粉でも振ってあるみたいですな』って。それを聞いたらわたし、笑っちゃったわ。べつに嫌味なんてこもってなかったし、しばらく立ち話もして楽しく過ごしたのだけど・・・。ねえ、わたしの言いたいこと、わかるでしょう?」

「朱美や、それはお前の気にしすぎだで」

「東京に帰るんですか? 車で?」
 と兄さんが尋ねた。

「東京?」
 朱美さんは怪訝そうに眉をひそめた。
「わたし、東京に住んでいるなんてあなたに言ったかしら?」

「いや、おれはてっきり、そうだと思っただけで」
 兄さんはもごもごと呟いた。

「違うわ。わたし、北海道に帰るのよ。いまは実家から離れて、大学の寮に住んでいるの。車でそこからきたし、そこへ戻るの。寄りたい場所がいっぱいあるから、まっすぐ帰るつもりもないけれど」

「へえ、そうですか」
 兄さんは視線を泳がせ、壁にかかった時計に目を向けた。それから目の前の畳んだ包装紙に視線を戻した。しばらくしてからふたたび彼は口を開いた。

「これから夏にかけて、獣たちの交尾期が訪れます」
 ぼくは兄さんを見た。いったいいまからなにを言おうとしているのだろう。
「相手を見つけるために熊たちが山を練り歩くんです。興奮しているし、行動範囲も広がるので出くわす危険も高いですが、見ることができたらなかなか貴重な光景です」

「ええ、知ってるわ。そんな運よく会えるとは思えないけど」

「そういったものを見にきたんだと思ってました」
 兄さんは畳んだ包装紙をいじりながら言った。
「秋には冬眠に備えて、木にのぼって大量の木の実を食べます。彼らが好んで食べるどんぐりには脂質が多く含まれています。熊は冬眠中、脂肪を燃焼して代謝を働かせるんです」

「ええ、そうね」

「そういったものを見にきたんだと思ってましたよ」
 兄さんはもう一度言った。ぼくはうつむいて、会話に加わろうとはしなかった。吟子さんのほうを見やると、憐れみのこもった目で兄さんを見つめていた。多分、同じ予感を抱えていたのだろう。兄さんはつづけた。
「おれはてっきり、あなたがずっとここにいるもんだと思ってましたよ」

 朱美さんは目を見開き、一瞬だけ驚いたあと、眉をひそめたまま尋ねた。
「わたし、そんなことあなたに言った? ずっとここにいるなんて、冗談でも言わないわ。どうしてそんなふうに思ったの?」

「おれはただ、集落の人間がそう言っているのを聞いたんです。あなたから聞いたわけじゃない」

「わたし、だれにもそんなことを言ったおぼえはないわよ」
 朱美さんは感情を抑えるように言った。
「東京からきたなんてこともひと言だって言わなかった。ここにずっといるなんて、欠片でもにおわせたことはないわ。帰る予定は立てていなかったけど、こんなところに長居するつもりなんてなかった。どうしてそんな勘違いができるの? わたしはただの部外者でしかないのに」

「集落の人間が言うには、吟子さんと仲がいいようだから、吟子さんと暮らすためにきたんだろうって」
 兄さんはつづけた。ぼくは少しずつ耳のあたりが熱くなるのを感じた。
「もちろん、研究もあるんでしょうが。おれはてっきり——」

「呆れた」
 朱美さんが遮った。抑えようとはしているが、口調は激しい。
「集落のひとたちが好き勝手に噂して、それをあなたが鵜呑みにしたの? そんなに突拍子もないことを? しっかりしてよ。あなた、いったいどれだけ馬鹿なの? 脳みそがあるんだから、ちょっとは自分の頭で考えなさいよ。もう子供じゃないんだから、だれの言葉を信じて、なにを疑うのか、どんな真相を受け入れるのか、少しは自分で判断したらどうなの? 気づいていないのかもしれないけれど、あなた、もういい大人なのよ」

 そう言われて兄さんは押し黙った。時計の秒針が時を刻む音が聞こえる。耐えきれそうにない沈黙を、しかしぼくは気概を振り絞って耐えきった。ぼくは申しわけない気持ちで兄さんを見た。父親譲りの柔和な丸顔が耳元まで赤くなり、ほおは小刻みに震えていた。しばらくは彫像のように動かなかったが、やがて余っていたジュースをひと息に飲み干し、覚束ない足で立ち上がった。

「朝方は野生動物が道を横切ることが多いです。運転はくれぐれも気をつけてください」

 そう言って彼は背中を向け、部屋を出た。少ししてから玄関の引き戸を開ける音が遠く彼方から聞こえた。それは兄さんとそのほかのものを断絶するように虚ろな響きを伴っていた。ぼくは気づいた。このとき、兄さんと出会ってから初めて、ぼくは置いていかれたのだ。長靴に石ころが入って立ち止まっても、黙って待ってくれた兄さん。つまずくと笑って手を差し伸ばし、ぼくが置いていかれないかと、ひとりになりはしないかといつも注視してくれた。待ってくれ、置いていかないでくれ、などと言う権利は、ぼくにはない。ぼくには黙って見送るくらいのことしかできなかった。

 そしてあとにはぼくらが残された。大福ののった木皿はほとんど空に近い。朱美さんは残りの大福をつかみ、荒々しく包装を破って食いついた。吟子さんが静かに言った。

「朱美、言いすぎだ。感情をあらわにして、お前らしくもねえ」

「そうね、ごめんなさい」
 彼女は平板な声でつぶやいた。
「大輝くんもごめんね。不快な想いをさせてしまったわ。でもわたし、いらいらしちゃって。まるで単なる八つ当たりみたい。とにかく無性に許せなくなってしまったのよ。わたしはわたしを型に嵌めようとするひとが大きらいなの。わたしの行動や思想を制限されそうになると、頭の裏側が熱くなって、叫びだしたくなっちゃう。わたしがどんな色に染まるかはわたしが決めることよ。赤の他人には関係ない。ましてやお互いのことをろくに知らないひとならなおさらよ。まったく。こんなことになるなら、もっとはやくにここを出ていけばよかったわ。どうしてわたしがこんな気持ちにならないといけないのよ。わたしはただ、落ち着いた休暇を過ごしたくてここへきただけなのに」

 吟子さんがなにやらそれにこたえた。二人は低い声で言葉を交わしていた。それは野原をさまよう蜂たちのささやきあいにも聞こえた。ぼくは立ち上がることもできず、二人の会話に加わることもできず、兄さんが立ち去った跡を見上げ、彼のことを想った。部屋を出るときの兄さんは、ひどく萎んだ背中をしていた。頭は前に沈み、腕は力なく垂れ下がっていた。そんな兄さんをぼくは見たことがなかったから、いますぐ立ち上がり、彼のあとを追いかけ、すぐ隣を歩いてあげたかった。でもぼくは代わりにその場へいつづけた。日が暮れて、祖父の軽トラックが我が家の玄関前に現れるまで、家には帰らなかった。

❄️9

 次の日の朝。ぼくは朱美さんを見送るため、手ぶらで吟子さんの家の前に立っていた。兄さんは朝はやくから、釣りに出かけると言って家を空けていた。眠りから覚めようとしているとき、バイクのエンジン音が遠ざかっていく音が耳に届いていた。柔らかい陽射しが山々の繋ぎ目から集落を明るく照らしていた。朱美さんは細いジーンズと体に張りついた白い綿のシャツを身につけていた。大きな胸とお尻が突き出している。エンジンの温められた青い車の隣で、朱美さんはぼくに近づき、わずかに体を寄せて言った。

「ありがとう。大輝くんがここにいてくれて助かったわ。山の案内を頼めたのもそうだけど、あなたがいなかったら、ここでの生活はひどく退屈なものになっていたと思うの。わたしたちは仲のいいお友達よ」

 彼女の言葉を飲みこみながら、彼女の肢体から漂ってくるにおいを嗅いだ。それは成熟した女性の香りだった。それは集落を縁取る稲穂のにおいと絡まって、緩やかに波打ち、旋回しながらぼくの脳髄を刺激した。あまりにも激しい勢いだったから、めまい眩暈で足腰が頼りなくなったほどだ。おかげでぼくはなにも言えず、ただ頷くことしかできなかった。

「お兄さんにもよろしく言っておいてね」

 ぼくは青い車が木々の間に溶けていくのを、吟子さんと二人で見送った。車が見えなくなると、ぼくを深い後悔の念が襲った。なぜかはわからない。ただ、やり残したこと、言いそびれたことが山ほどあるのだという感覚が頭の表皮にこびりついて離れなかった。違うんだ、違うんだ、違うんだ! だが仮に彼女が再びぼくの前に姿を現したところで、言葉は紡がれずに霧散するだろう。痛みは近すぎて、ぼくにその正体がわかるはずもない。それらをぼくのなかから追放する手段は、彼女と別れた瞬間、永遠に奪われてしまった。もう二度と、このぼくが彼女に会うことはないだろう。ぼくは立ち止まることを許されなくなってしまったから。もしも彼女がぼくの在りし日の影を求め、探しまわったとしても、そのとき、その場所に、このぼくがいるとは限らないのだ。

「さて」
 吟子さんが大きく伸びをした。
「パチンコに行く前に、少し畑仕事をしていかねばな。大輝くんはどうするだね?」

「ぼく、午後からは友達と遊ぶ約束をしてるけど、それまでは暇なんだ。吟子さんの手伝いをしてもいい?」

「ああ、もちろんだとも。急ぐことはねえ。ジュースかお茶でも飲んでからはじめよう。昨日の大福は朱美のやつが全部食っちまったが、なにか代わりの菓子があるだろう」

 ぼくはうわの空で立ち尽くし、朱美さんが去っていった方向を見つめていた。吟子さんがぼくの顔をのぞきこんで問いかけた。

「大輝くん?」

「うん?」

「どうしたのかね? ぼーっとしちまって」

 しばらくしてからぼくは首を振って言った。
「なんでもないよ。ただ、いま頃兄さんはなにをしてるかなって、そんなことを考えてた」

「そうか」
 吟子さんは一瞬の間黙ってから言った。
「なあ、大輝くん。昨日食べた大福はうまかったな。宗次郎に言って、また持ってきておくれよ」

 ぼくは振り向いて吟子さんを見た。彼女はぼくの目を見て微笑んでいた。

「うん」
 ぼくは熱をこめて言った。
「おいしかったならまた兄さんに頼んで買ってきてもらうよ。きっと兄さん、喜んでくれると思うな」

「ああ、あれは実にうまい大福だっただよ。宗次郎に伝えて、気が向いたらまた持ってきてくれ」
 彼女はぼくの背中を軽く叩いて頷いた。
「うんうん。あれはうまい大福だった。またそのうち食べたいもんだ。そうだ、大輝くん。もし女木内に行くんだったら、ついでにおらが送っていくだよ。お昼を食べたら家においで」

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