【小説】オールトの海でまた ☀️3
☀️
6
耳からイヤホンを抜きとり、膝の上に置いてため息をつく。つぶやきが口から漏れた。それは言語という形をとるまでもなく、行き場のない靄となって消えた。ベンチの背もたれに体重を預け、暮れてゆく空を眺めた。雲は素早く空を横切り、瞬く間に形を変えながら駆け抜ける。地上のわたしには目もくれない。ここはそういう世界。わたしなんかに。わたしごときに。
中庭ではわたしの半分くらいの背丈しかない子供たちが、黄色い声ではしゃぎまわっていた。彼らは飛び跳ねるように走り、そのたびに土のついた足の裏をはっきりと見ることができた。レンガ道脇の花壇にはマーガレットの白い花弁が咲き乱れ、風に揺れている。花壇は遊歩道の果てまでつづき、花々はひとつひとつまで丁寧に手入れされていた。わたしは自分の病室の窓を見上げ、もうひとつため息をついた。しばらくしてから重たい腰を上げて立ち上がり、薄暗く澱んだ空気の籠った屋内へと向かった。
病室に入り、扉に背中をつけて一息ついた。部屋のなかに人影はない。窓は開け放たれたままで、細かい塵が足元で舞い踊っていた。部屋の奥へと進み、視線を上げると、小田原城の天守が窓の四角い輪郭に収まっていた。城から工事用の幌が取り去られて久しい。工事がつづけられていた間のことは印象に残っている。あの公園は部活動のランニングで週に何回かは訪れていたし、学校からの帰りに同級生と立ち寄ることもあった。思えばこの病院の営みと無関係とは言えない距離だったのだ。
ノックの音が室内に響き、返事をすると、なかに入ってきたのは律子さんだった。わたしは立ったまま彼女と向かいあった。
「みんなもう帰ったわよ」律子さんは言った。
わたしは頷いた。先ほどまで居座っていた人影はいなくなっていた。だからこそここへ戻ってきたのだ。そんなわたしを律子さんはじっと見つめていた。
「会わなくてよかったの? 涼ちゃんの友達なんでしょう?」
わたしは頷いた。「いいの。いまのあたしは弱っていて、とてもあの子たちが望む殻を被っていられそうにないから」
わたしは顔を伏せていたけど、律子さんに見られているのはわかった。わたしは自分の顔が赤くなるのを感じた。
「そう。みんな涼ちゃんに会えなくて残念がっていた。でも会いたくないなら仕方ないわね」
律子さんは窓辺に歩み寄り、夕日に照らされた中庭を見下ろした。黒髪が艶のある鬣のようにきらめいていた。律子さんのそれは美しい弦のようでもあって、きっと弾けば妙なる音を奏でるに違いない。窓辺から離れたわたしの耳には、子供たちのはしゃぎ声が壁越しに残響となって響いていた。不意に寂しさに襲われて、わたしは律子さんの隣に並んで、夕暮れの外を眺めた。
「子供は元気だね」とわたしはつぶやいた。
「そうね。いまこのときのあの子たちを籠に閉じこめて、家へ持って帰って、気の済むまで眺めていたいわ」
「いいね。律子さんに飼われるんだったら、わたし、そんなに悪くないって思えるかも」
「そう? それが籠のなかの小鳥だとしても?」と彼女は首を傾げてわたしを見た。
「それでも、律子さんなら、ちゃんとお世話してくれるでしょう? わたしに絶対の庇護を与えてくれるんだったら、代わりに飼い主想いのペットになってあげる。いつでも好きなときに、性欲に絡めとられた巷の男たちみたいに顔を歪めながら、律子さんの前で優雅に踊りまわってあげる」
「お給金が嵩みそうね」と律子さんは笑った。
「一日三食、レトルトやインスタントは抜き。律子さんが家にいないときは、アニメや漫画に溺れてだらだらと過ごすから、わたしのために、しっかり稼いできてね」
中庭ではひとりの女の子が髪を振り乱しながら、前を走っていた男の子に手を伸ばしていた。けれどもその小さな手は届かない。男の子が蹴り上げた土が、かわいい手に降りかかる。二人はぐるぐると螺旋を描き、なにに邪魔されることもなく、上へ上へと昇ってゆく。
「時々こうして仕事の合間に、ふと足を止めて休むの。どこかの窓から見下ろして、子供たちを眺める。わたしにもあんな時代があったんだなあって、懐かしい気持ちに胸をつかまれるの」
「律子さんの子供時代? なあにそれ、すごく興味がある」
「わたしがいま思い出せる最初の記憶って、九歳か十歳頃のものなの」しばらくしてから律子さんはしゃべりはじめた。「わたしの特別な記憶、涼ちゃんに話すわね。当時、学校では問題児扱いされていてね。友達と三人でよく職員室に呼び出されて、先生に叱られてた。まあたしかに仕方ないのよ。それくらいひとに迷惑をかけていたのは事実だから。
よくおぼえているのは、用務員のおじさんが怒ったときの凝乳みたいな顔色。いまではもうなくなっちゃったけど、当時は校庭の片隅に用務員のひとが詰めるプレハブ小屋があったの。壁は灰色で、ぎざぎざの屋根は悲しいくらいカレーみたいな色をしていた。壁には断熱材が埋めこまれていて、冬でもなかはあたたかいの。隣あった倉庫には、芝刈り機やら、古くて硬くなった竹ぼうきやら、泥まみれの長靴やらが積みあげられていて、わたしたちにはそれが宝の山に思えた。壁にかけられていたボロいレインコートの下に、アルミ製のはしごが寝かされていてね。放課後にそれを拝借して、友達と三人でプレハブ小屋の屋根の上によくのぼっていたわ。もちろんだれにも見られないように動かなくちゃならないのだけど、その場所は校舎からは死角になっててそんなに難しいことじゃなかったし、用務のひとたちって終業時間がはやいから、小屋は無人であることが多かったの。三人で寝転んで空を見上げながらおしゃべりしてたら、あっというまに時間が過ぎていった。一度は夜に忍びこんで、いっしょに流星群を眺めたこともあるくらい、その場所がわたしたちにはお気に入りでね。すごかったのよ。流れ星がほとんど間断なく、ありとあらゆる方向に向かって夜空を横切っていくの。ひとりが、『星だ! 星が降ってくる!』って叫んだ。その声は夜にしてはちょっと大きすぎるくらいで、空気に反響しながらあたりに響いた。それからもうひとりが、「これだけ大きな街なのに、こんなにくっきりと見えるんだね」ってつぶやいた。わたしはその言葉に賛同して、「きっと街のひとたちも明かりを消して見てるんだよ。今日はひとの一生のなかでも特別な日なんだ」なんて特に意味のない返事をした。夜空へ吸い寄せられるみたいに、わたしが人差し指を宙に掲げると、残りの二人も真似をしはじめた。わたしは天に彫られた星の軌跡を、指の先端でなぞった。何度も何度もなぞった。残りの二人もわたしの真似をしていた。普段は光瞬く点の集合でしかない夜空が、ひとつ高位の次元に達したような、世界を満たしている法則を垣間見たような、そんな感覚があったの。
三人ともそんな光景を見たのはそのときが初めてだった。わたしたちはひと言ずつ、壊れそうな間を大事に渡しあいながら、ゆっくりしゃべってた。でも次第に口数が少なくなっていって、やがて三人同時に言葉を失ったわ。願い事を口にするなんて思いつく余裕もなかった。その瞬間のわたしたちはたしかに通じあったの。同じ想いを共有していたの。でもその何日かあと、たまたま用務のおじさんがはしごをつかおうとしていたときにわたしたちがつかってて、それでなにもかもばれちゃった。さんざん怒られてからは、もう屋根にはのぼれなくなったわ。どうせ言っても聞かないってことを向こうもわかってたから、それからは倉庫に鍵をかけるようになったものね。何度も大人たちに叱られた記憶があるわ。あたしたちに『じゃじゃ馬トリオ』ってあだ名をつけたのは、その用務員のおじさんだったの」
わたしは子供たちが走ったあとの軌跡を見つめた。汚れひとつない線を描きながら、高く高く飛翔する。わたしは腕を掲げ、人差し指を宙にさまよわせようとしたけれど、その前に律子さんは言葉をつづけた。
「わたしたち三人はとにかく仲がよくて、いつもいっしょに行動してた。給食だっていっしょに食べたし、放課後は毎日いっしょに遊んでた。当時あたしたちの間ではインディアンポーカーが流行っていて、ほんとうは学校には持っていっちゃいけないことになってたんだけど、ランドセルのなかにトランプを忍ばせて、帰りの通学路の河川敷で、ぺちゃくちゃしゃべりながら、いっせーので、カードをかざしたおでこを見せあってたっけ。それもだれかの親にばれて、叱られちゃったんだけどね。中学校だって同じところへ通う予定だったし、高校もいっしょのところを受験しようって約束してた。ずっといっしょ、ずっと友達ってね。あの世代の子にはよくある話。でも六年生のときに、内容はおぼえてないけど喧嘩別れみたいになって、わたしたちはそれっきりになっちゃった」
「それからどうなったの?」
「二人同時にあたしから背中を向けて、それっきり。中学校はいっしょだったけど、時々言葉を交わすことはあっても、仲がよかった頃みたいに話すことはなかった。思うに、わたしが彼女たちを傷つけてしまったのかもしれない。きっとわたしなら、彼女たちのすべてを受け入れてくれると思って・・・・・・。でもそれはできない相談だったの。あの子たちが求めた場所は、あまりにも深く、あまりにも冷たい。わたしは曇ったレンズでこの世界を眺めていた。あの子たちほどに、美を讃える歓びを知らなかったの。
ほかのクラスメイトとはあまり関わりのなかったわたしにとって、あの二人との友情はほかに代替できないものだったわ。彼女たちも、わたしと同じだったのかもしれない。その可能性を考慮しはじめたのは、わたしたちの友情が引き裂かれてから何年も経ったあとだったから、関係の修復に役立つことはなかったけどね。あれからさらに多くの年月が過ぎたわ。わたしは老けて、本のページに浮かぶ文字も、徐々に霞んできはじめたくらい。旦那も子供もいないけど、このからっぽの職業のおかげで、真の孤独とは縁遠い。収入は安定していて、ひとむかし前の箱入り娘みたいに、お金で苦労した経験がない。わたしはこんな大人よ、涼ちゃん。これが、あるがままのわたし。時間の流れとともに、擦り減って、子供時代の見る影もない。それでも、夜に学校の校門を乗り越えて敷き地内に忍びこみ、いっしょに夜空を見上げて降りそそぐ流星群に感嘆した記憶は、ふとした瞬間に思い出すの。わたしのなかではいまだって特別な思い出なのよ」
ひとりでいるときよりも、だれかと同じ時間を過ごしているときのほうが、強く寂しさを感じてしまうことがあるのはなぜだろう。律子さんが部屋をあとにすると、それまでわたしをつかんで放さなかった硬い感情が、ふっと黄昏にまぎれるのがわかった。窓枠に座り、静まりかえった病室を見渡す。ここに訪れた当初にはなかった、何者かの気配。その気配は部屋のなかのあらゆる物質と共鳴しあいながら、か細い声で、肉の詰まった叫びをあげる。耳を澄ますものにしか聞こえない。律子さんも同じなのだろうか。空いた時間にこの部屋をひとりで訪ね、行き場のない魂に、こたえのない問いかけを繰りかえしてきたのだろうか。
その必要もないのに足音を忍ばせ、枕元に歩み寄る。コードに繋がれたタブレットを手にとり、中断していた画面を開く。言葉としては意味を成さない、ランダムなアルファベットの羅列。小夜の残り香。
どうにかなってしまいそうだった。裏と表が引っくりかえりそうな、そんな恐怖。心に決めた決意も意志も、容易く翻ってしまいそうに思える。こんな体になってしまったのも、きっとわたしの弱さが原因なのだ。わたしがいけないんだ。わたしが、わたしが、わたしが——。
7
ベッド横の机の引き出しに、一冊の本が仕舞ってある。カバーの色褪せた、とても古い本だ。表紙には雲間からのぞく夕陽に照らされた、襤褸を纏った少年の絵。ヒースの乾いた茂みが岩場の合間から生えていて、頭上には何羽かの黒い鳥が、群れを成して空を横切ってゆく。それらの絵は、決して見る者が容易に観察できるわけではなく、読み手たちの霊が宿ったかのように、何度も指が触れていた箇所が擦り切れて変色していた。小口は陽に灼け、ページをぱらぱらとめくると、わたしが知っている本の香りではなく、長く持ち主であっただろう人間の香りが、本とわたしの間にあふれる。それはどこか家庭的な、友人の清潔な家に遊びに行ったときに嗅ぐような、ありふれた優しいにおいだった。そして手探りで掘りかえした深いところに、かすかな柑橘系の香り。わたしは混じりあったにおいが好きだ。なにもかもがいっしょくただと安心する。そのにおいを嗅ぐと、荒れていた心のパーツを、優しい手触りの毛布にくるまれたようで、気持ちが落ち着いた。
次に律子さんと会った日、わたしはその本を、ベッドの縁に腰をかけて読んでいた。彼女が部屋に入ってきてわたしの横に立ったとき、わたしはその本をぱたんと閉じ、脇に置いた。律子さんは置かれた本をちらっと見たけれど、特に触れることはしなかった。
「よかった、なかに入れてくれて」彼女は言った。「わたしも閉め出されるんじゃないかと思った」
「どうしてあたしが律子さんを閉め出すの?」
「ご両親をなかに入れなかったでしょう? さっき下で会ったわよ。なぜだかわからなくてとまどってるみたいだったわ」
わたしは軽くため息をついた。「しょうがないの。いまのあたしはなにもかもに退屈しちゃうから、あのひとたちが職場の愚痴とか妹への文句を言っても、我慢して聞いてなんかいられない。この体調不良の原因が心に起因するものだとしたら、いまのあたしは心の平穏こそ第一にしなくちゃならないもの」
律子さんはなにも言わずにわたしを見た。そこに責めるような色はなかったから、わたしはほっとした。わたしはベッドの縁に座って、もう何度もやったように履いているスリッパの模様を数えはじめた。
「今度、街までお出かけしようか」ふいに律子さんが言った。「涼ちゃんも、ずっと屋内にいると気が滅入っちゃうでしょう?」
わたしはうつむいたまま、こくりと頷いた。
「ショッピングモールまでわたしの車で行って、二人でお買い物なんてどう? わたし、涼ちゃんに着せてみたいと思う服がたくさんあるのよ。お人形さんみたいに着せ替えてあげたいわ。きっと似あうと思う」
わたしはふたたび頷いた。
「すぐそこの公園で散歩するのもいいわね。藤の花は散っちゃったけれど、この時期でも手入れされた庭園は見る価値があるわよ。お猿さんたちに挨拶をしてもいいし、お城を訪ねてもいいわね。わたしね、ひょっとすると、あのお城を最後に訪れたのって小学生の頃だったかも」
わたしは足を浮かせてつま先を動かし、スリッパをぱたぱたさせた。
「涼ちゃんがそうしたいなら神社を訪ねて、尊徳さんにお祈りしてもいいわね。はやく体がよくなりますようにって。なにも学問に関するお願いしか聞いてくれないわけでもないでしょうし」
しばらくしてから顔も上げずに尋ねた。「律子さんはこの街が好き?」
律子さんは黙ったままわたしを見た。やがて真剣な思考の末に言葉を紡ぐ。「うーん、どうかしらね」窓辺に歩み寄り、外を眺めながら眉を寄せた。「少なからず気に入ってる部分はあると思うわ。でないと四十年も居つづけていられないもの。大きいショッピングモールやスーパーがあって買い物には困らないし、ひとはそれなりに多いから、その類の寂しさを感じることもあまりない。でもはっきり好きと言えるかどうかとなると微妙なところね。ここでないといけない理由がないから」それから付け足すように言った。「それでもわたしにできることって、与えられた環境で最大限楽しむことくらいだから、好きかどうかはわからないけれど、愛着はあるのかも」
「あたしはね、この街が嫌いなの」下を向きながらわたしは言った。「いい思い出なんてひとつもないもの」
しばらくどちらも無言だった。やがて律子さんが口を開いた。「よかったら聞かせてもらえる? 涼ちゃんがこの街でどんな時間を過ごしてきたか。どんな想いを胸に抱いてきたのか」
わたしは顔を上げ、こちらを見ていた律子さんに尋ねた。「それは一種の治療なの?」
「そうね、そういう側面もあるかもしれない。もし涼ちゃんが体調を崩した原因が精神的な面にあるのだとしたら、ひとつのアプローチにはなるかも。単なるわたしの興味もあるけれど」
「話すだけで治るものなのかな?」
「わたしが知っている患者さんは、涼ちゃんと同じ症状で、ある程度運動ができるくらい快復するまで三年ほどかかったひとがいたわ。でもほかの患者さんには三週間くらいでころっと元に戻ったひともいた。こればっかりはわからないの。なんにせよ、もし問題がはっきりとしているなら、まずはそれを取り除くのが最優先事項。いまの涼ちゃんは、その問題がまだ見えていない段階なの。問題が有形で存在するとしての話だけれどね」
わたしは頷いた。律子さんはつづけた。
「わたしたちも手探りなのは患者さんと変わらないの。この病院には、一応こういうやりかたで進めましょうっていうマニュアルはあるけれど、わたしに言わせればたいして役に立ったことはないわね。状況次第で、道は無限に枝分かれするから」
わたしは言った。「あたしの話は退屈だよ。普通の思春期の女の子の、どこにでも転がってそうな話」
「馬鹿ね、そんなこと気にしなくていいの」律子さんが優しくそう言った。彼女はこちらに歩み寄り、わたしと並んでベッドに腰かけた。「涼ちゃんのためならどれだけ時間をかけてもいいって先生からも言われているから、ゆっくりでいいのよ」
わたしは目をつむり、わたしが過ごしてきた歳月に想いを馳せた。それらはあまりにも煩雑で、つかみどころがなかった。わたしはどうしていいかわからず、軽いパニックに陥った。墜落してしまわないよう手を伸ばすと、指先がなにかに触れた。目を開けると、律子さんの柔らかくあたたかい両の手の平が、わたしの手を包んでいた。
「一歩ずつでいいのよ」彼女は静かに言った。「完成された絵を思い浮かべる必要はないの。それができるひともいるかもしれないけど、できないひともたくさんいるんだから。流麗な線を描くのが困難なひともいるの。わたしたちにできるのは、一歩一歩、小さな足跡を刻みつけることだけ。穿たれた隣りあう無数の点は、たとえ左右にブレていたとしても、歪んでいたとしても、離れて見れば線になってるの。不器用なら不器用で、そうやって描くこともできる。それは世界から法則を盗むということ。あなたたちが忌避したパターンを、その手につかみとるということなの。涼ちゃんの未来は涼ちゃんだけのものだから・・・。一歩ずつ、目の前だけを見て、大地に足跡を刻みつけていけば、不恰好でも思い描いたとおりでなくても、勝手に真実の絵画は紡がれていくのよ」
律子さんにそう言われて気分が落ち着いた。一歩ずつ。いまのわたしにできるのはそれくらいだ。
それからいろんな話を律子さんに聞いてもらった。それはわたしの物語であって、彼らの物語ではないから、ここに多くを記すつもりはない。
きもい担任教師の話。眼鏡の鼻あての跡が年中ついている六十歳くらいの男。そいつはわたしのことをねちっこい声で『涼華くん』と下の名前でくんづけで呼び、わたしの成績が下がったり、進路予定表に書いてあることに納得がいかなかったりすると、わたしを数学の準備室まで呼びつけ、こちらの言い分を一切聞くことなく、二人きりで長々と説教をした。きみのこういうところがだめなんだ、と断言した。彼は進路面談で生徒が将来なりたい職業を具体的に言わないと帰さなかった。根拠は知らないけれど、うぬぼれの強い醜い男だった。校長やかわいい外見をした女の子には猫なで声で話しかけた。そのくせ、生徒から陰でばかにされていることに気づいていない。脳みそが崖崩れを起こしている生理的に無理なきもい老害。
部活をやめようとして妨害された話。両親に強要されて運動部に入ったけれど、上下関係や肉体の酷使など、自分にはあわなかった。顧問の教師に退部届を出しに行くと、たちまちわたしが退部しようとしていることが部全体に知れ渡った。先輩たちはわたしを体育倉庫に呼び出し、十人くらいでわたしを取り囲み、わたしが退部を撤回するまで外には出さないと脅した。一度やると決めたことを途中で投げ出すなんて、負け犬のすることだと罵った。そのなかのひとり、大柄な女子がわたしの頬をビンタし、わたしは泣きながら退部を取り消した。
わたしの部屋には好きなアニメのDVDや好きな漫画がコレクションされていた。スライド式の棚はわたしの趣味で埋め尽くされていた。何年もかけて集めてきたものだ。休日はママチャリに乗り、遠いときは二十キロ先の平塚の街まで、ひとりでまだ行ったことのない古本屋を目指した。そうやって少しずつ、お小遣いの範囲内で買える値段のものを集めた。そのような活力がどこから湧くのかわからなかったけど、なにひとつ苦ではなく、中古の商品を扱っている店を巡り、埋もれていた貴重品を掘り当てるのがわたしの青春だった。学校の成績が悪くなり、両親が怒ってわたしの集めた漫画本を勝手に売り払ってしまうそのときまでは。
わたしが小学生の頃、同級生にアオイという名の女の子がいた。その子はわたしと仲がよく、放課後はよくいっしょに、駄菓子屋で駄菓子を買った。彼女は十円ガムが大の好物で、寄るたびにひとつは必ず買った。封を開け、ピンク色のガムを二つに割り、まずひとつを口のなかに放りこむ。やがて味がなくなった頃、噛んでいたガムを包みの上に吐き出し、もうひとつの塊を噛みはじめる。そしてそのガムの味もなくなった頃、すでに噛み終わって吐き出してあったガムをもう一度口のなかに放りこみ、二つ分のガムを味わう。なんでも彼女が言うには、噛み終わったガムは一度外気にさらしておくと、味が復活するそうなのだ。わたしはその話を高校のクラスメイト相手に嬉々として話すのだけど、彼女らはひたすらに退屈そうな顔をみせ、早々に話題を変えてしまう。教室で過ごす時間はわたしにとっても、わたしと接するひとにとっても、退屈以外のなにものでもなかった。
そういった諸々の話をだれかに聞いてもらえていると、心を固定していた楔が剝がれていくのを感じた。気づくとわたしは泣きながら律子さんの肩に頭を預けていた。彼女は優しくわたしの髪の毛を梳ってくれた。しばらくしてからわたしは取り乱したことを詫び、ティッシュで鼻をかんだ。
「あたし、この街が嫌い。どうしても好きになれない」わたしは言った。
「ならこの街を一旦離れなさい。涼ちゃんの問題がそこにあるというのなら、なにがなんでも避けないと」
「でも、あたしは子供だよ。自分で自分の面倒も見れない。ほんとうはひとりで生活していきたいけどできないよ」
それから律子さんはいくつかの選択肢について語ってくれた。長野の山奥にある施設では、親の許可さえあれば、療養と同時に教育も受けることができた。傷を負った子供たちが行き着く場所だった。わたしは退院してから両親にこの施設のことを相談し、わたしはもうこの家にはいられないのだと説明した。根っこを断たなければならないのだと。だが彼らにはそれが理解できなかった。ここから病院へ通いつづけて、時間のあるときに学校へ通えばいいと言った。わたしはすでにまとめてあった荷物を抱え、なけなしの全財産と、律子さんから借りた十万円を懐に入れ、家族が寝静まった真夜中に家を飛び出した。小田原から遠く離れた瀬戸内海に面する岬に、律子さんから教わった、家出をした子供たちのための施設があった。そこでは家族とのやりとりも仲介してくれ、宿と食事を居場所のない子供たちに提供してくれた。わたしはそこで学費を稼ぎながら、大学を卒業するまでの数年間を過ごした。そこでは忙しくつらい日々を送った。貧しい施設だったので贅沢とは無縁で、自分の身銭は自分で稼がなくてはならなかった。昼間は通信制の学校で授業を受け、夜は遅くまで近くのコンビニでアルバイトをした。それでもわたしは自分で自分の面倒をみることができたし、責任を負うことができた。同じ施設の仲間と、ときには笑いあうこともあった。体は少しずつ快復し、完全に元通りというわけにはいかずとも、ある程度、健康な肉体を取り戻した。なにより胸を締めつけるような退屈が、知らぬ間にどこかへ消え去っていた。地元の人間で唯一連絡を取りあっていたのは律子さんくらいだったけど、わたしにはそれで十分だった。
病院での話に戻ろう。わたしは律子さんの話を聞いて今後の方針を決めた。話を聞いている途中でわたしの指先があの古本に触れた。おもむろにそれを手にとり、表紙を眺めた。律子さんは口をつぐみ、わたしの動きを目で追っていた。
「ヒースクリフ」と律子さんは小さくつぶやいた。
音声データをくれたあの夜以来、わたしたちの間で小夜の物語について言及されたのは、これが初めてだった。
わたしは頷き、表紙に描かれた、帰る家のない孤児の少年を、人差し指で優しくなでた。隣からもうひとつの人差し指が差し出され、わたしと同じことをした。
「これ、ロビーの本棚に並んでるのに気づいたの」とわたしは言った。「律子さんがやったの?」
「ええ、そうよ」彼女は愛おしげに本を見つめた。「これは小夜がこの病室でいつも手放さなかったあの本なの。あの子がいなくなってから、ベッドの裏で、マットレスとバンドの間に挟まっているのを見つけたのよ」そう言って苦いものを飲み下したように笑った。「そういう子だったのよ、あの子は」
「そういう子?」
「ずっとふざけていたい。ずっと笑っていたい。苦しいこととか、難しいことなんて、自分の人生にはひとつもいらないんだって、それを乗り越えることなんかどうだっていいんだって、そんなふうに思ってる子だった」
律子さんは口元に静かな笑みを浮かべた。わたしたちは無言の海を泳いだ。気の済むまで戯れてから、律子さんが口を開いた。
「もうお話は最後まで聞いた?」とわたしに尋ねた。
わたしは首を振った。「まだ途中までだよ。でも最後まで聞くつもり。ただちょっと疲れたから、休憩してるんだ。もうあのひとの声を直接聞くことはできないんだって思うと、悲しくなっちゃって」
「無理はしなくていいのよ。いつか涼ちゃんにあのデータを渡したこと、後悔する日がくるかもしれない」
わたしは彼女の目を見た。その瞳は光を求めて、どこを目指していいかもわからずにさまよっていた。わたしは自分の手を彼女の手に重ねた。
そしてわたしは気づいた。わたしは自分の生活や未来のために生きれるような女ではないのだ。わたしの時間や労力は、そんなもののために消費されるようにはできていない。律子さんの苦しみを想うと、彼らの苦しみを想うと、胸になにか温もりのあふれたものが芽吹きはじめた。一度は折れたもの、壊れたものが、ふたたび力を取り戻す。わたしは彼女を支えるように語りかけた。
「たとえそんな日がくるんだとしても、わたしは律子さんを恨まないよ。律子さんはただ、だれかに助けてほしかったんだよね。ひとりじゃ抱えきれなくなってたんだよね。流れ星が永遠に見えなくなって、どうしようもなく悲しくなっちゃったんだよね」
律子さんはうつむき、重ねられた手を見つめた。日が暮れて、夜の気配が窓の隙間から忍びこみはじめていた。
「あたしは大丈夫だよ」わたしは静かに言った。「ひとり暗く寂しい夜に、彼の声を聞いていると、心が落ち着くの。それにだれかのお話を聞くのって、あたしはいつでも好きなんだ。ほかのひとの目を通して、隠された世界の神秘を見るの。きっと物語がなければ、あたしは庭先のマーガレットを美しいと思うこともできないんだよ」
律子さんは「ごめんね」とつぶやき、わたしたちはしばらく寄り添ったまま、お互いの温もりに身を浸らせていた。部屋が完全に夜に支配された頃、律子さんは立ち上がってわたしを見た。
「ほんとうに、無理はしないで」ささやくように彼女は言った。
わたしたちは視線を交わしあい、お互いそこに穏やかな理解と緩やかな歩みを見た。律子さんは最後にもう一度微笑んでから部屋をあとにした。
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