【小説】ミヤマ 7
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ライの住むアパートは中野のさびれた住宅街にあった。住民の自転車は乱雑に駐輪され、雨風にさらされている。部屋の扉の前にはそれぞれ洗濯機が設置されていて、ホースが排水溝へと繋がっていた。建物は二階建てで、廊下を照らす電灯はところどころ点滅している。
ライのあとにつづいてミヤマは錆びた鉄の階段をのぼった。バイト終わりに誘われたのだ。足音が夜の静けさによく響いた。ライの背中からはわずかに汗のにおいが漂ってきた。
「ここがおれの棲み処だ」
ライが指し示したのは二階の一番端にある部屋だった。電灯の明かりからもっとも遠く、扉の前は暗い。窓の下には密林のような色あいのフレームをしたクロスバイクが立てかけてあった。
「悪くないクロスバイクだろ? 初めてもらった給料で買ったんだ」
玄関では靴やサンダルが足元を埋め尽くしていた。踵の擦れ方や靴紐の通し方ですべて同じ人物のものだということがわかる。ライは鍵を収納棚の上に置き、雑に靴を脱いで家に上がった。ミヤマは脱いだ靴をそろえてからあとにつづいた。
ライが電気をつけると、そのまぶしさにミヤマは目を細めた。居間の中心には正方形の小さな木製の卓と三つの座椅子が置かれていた。向かいには中古で買ったテレビが直に床の上に設置されている。テレビの前にはコードがミミズのようにうねるゲーム機がある。
「先に座って待っててくれ」ライが座椅子のほうを指し示した。「おれは飯をつくってくるよ」
「なにか手伝おうか?」
「おまえは客なんだから、ゲームでもしてのんびり過ごしてくれ」
ミヤマはテレビに対して横向きの座椅子に座った。キッチンでライが無駄なく動くのが見える。卓の上にテレビのリモコンが置いてあったので、スイッチを押し、電源を入れた。テレビ画面ではライオンがシマウマを捕食している映像が流れていた。腹がぱっくりと割れ、白い骨がのぞいている。肉をむさぼる牙は血に濡れている。慈悲のない音楽が後ろから流れていた。
「簡単なやつで悪いな」
テレビをぼーっと眺めてるとライが食事を運んできた。湯気の立つ土鍋と丼いっぱいの麻婆豆腐。土鍋からしゃもじでお椀に白米をよそうと、ひとつをミヤマの前に置いた。箸はどこかの観光地で買った土産物だった。
「辛いのは大丈夫だったかな? 訊くのを忘れていたよ」
「人並みには平気だと思うよ」
「いやというほど豆板醤をいれたからな。苦手だったら言ってくれ」
二人とも手をあわせて、いただきますとつぶやいた。ミヤマはレンゲで麻婆豆腐を白米の上にのせ、箸でひと塊持ち上げて口に運んだ。辛みが舌を走り抜け、口内がぴりりとしびれる。すぐに服の下が汗で濡れはじめた。
「ぼくが食べたことのある麻婆豆腐とはどこか違うね」ミヤマは言った。「辛いだけじゃなくてなんというか、酸味がきいてるよ」
「ひき肉を炒めるときにケチャップをつかってるんだよ。こいつのレシピは死んだ親父直伝でね。内容は子供のころに頭に叩きこんでるから、いまでは両手を縛られてたってつくれる」
「親父さんは料理もできたの?」
「料理に限らず、なんだってできるひとだったよ。運動もひととのコミュニケーションもビジネスも。おかげで金だけはあったんだが、親父が死んだあとにうちのじいちゃんとばあちゃんがつかいこんじまってな。そういうわけで、おれは金持ちでもなんでもないんだ」
「ぼくからすればきみは充分億万長者だよ」
食事を終えるとミヤマは食器洗いを買って出た。土鍋は洗いづらかった。底にお焦げがこびりついていたので、ミヤマはヤスリで削るようにスポンジでごしごしと少しずつこすった。麻婆豆腐を調理した中華鍋は水圧で余計な油分を落としたあと、洗剤のついていないスポンジで優しくこすった。鉄になじんだ油を落とさないためだ。洗い終わった鍋はキッチンタオルでしっかり水分を拭きとった。
片づけをして居間に戻ると、ライがゲーム機の電源をつけて待っていた。彼はコントローラーの片方をミヤマに手渡し、リモコンでテレビの音量をあげた。
「格闘ゲームでいいか?」ライが尋ねた。
「ぼく、あまりゲーム自体をやったことがないんだ」ミヤマは座りながら正直にそう言った。「操作方法が難しすぎないやつがいいかな」
「それならこの格闘ゲームはおあつらえ向きだろう。コンボは単純だし、深いストーリー性があるわけでもない。初見でも大丈夫だよ」
ミヤマはコントローラーを引っくり返したりしてよく観察した。それは到底、手になじみそうにもないような気がした。スクリーンでゲームのタイトル画面が映し出された。ミヤマの知るゲームよりはるかに解像度もよく、色鮮やかだった。ライが慣れた手つきで操作をつづけると、すぐにキャラクターを選ぶ画面に移った。
「いつもはコンピューター相手にプレイするの?」疑問に思ってミヤマは尋ねた。
「そんなわけないだろう?」笑いながらライは言った。「オンラインで知らないやつと対戦するんだよ。ネットはすごいぞ。魑魅魍魎と言いたくなるような強いやつがわんさかいる。やばいやつは一撃だってあてさせてくれない。発売から四年も経ってるのに、いまだに命がけでランキング上位をキープしようとしてるやつがいるんだ」
ライはカーソルを動かし、ショートヘアで金髪、フリルのついたドレスを着た女性キャラを選んだ。ミヤマがカーソルを動かし、各キャラにあわせるたび、横でライがキャラについての詳細を解説した。
「その首からうえが熊になったやつは、手術で熊と人間の合成生物になったっていう設定なんだ。見た目のとおりパワーを重視したキャラだな。一発一発の威力はハンパじゃないが、いかんせん動作が遅い。そいつが技を繰り出すたびに、こっちは晩飯を食って、風呂に入って、化粧水を塗って、歯磨きをするくらいの余裕がある。まあ初心者にはおすすめせんよ。そっちの分厚い辞書みたいなのを片手にもったやつは、元オックスフォード大学の教授だったっていう設定だ。専門は物理学。現代に転生した錬金術師という異名をもっている。その電子レンジみたいにばかでかい辞書みたいなのは呪文書だな。そいつをつかって相手をぶん殴るんだ。呪文を唱えて魔法を繰り出すんじゃないのかって? それができたら格闘ゲームじゃなくなっちゃうだろ。ああ、そのキャラは今作で一番やばいやつかもしれん。宮本武蔵の子孫という設定なんだが、片手で日本刀を振りまわしながら、もう片方の手で火縄銃を操るんだ。もう狂気の塊だろ? ポントウをつかうんだかチャカをつかうんだかどっちかにしろって話だ。素手相手には反則級に強いはずなんだが、いかんせんこれがたいしたことない。火縄銃は一度撃ったらリロードするのにアホほど時間を食う。しかもその間は無防備だ。まず銃はつかわん。つぎに日本刀だが、片手で振りまわしてる弊害か、大振りで動きが読みやすい。構えたときを狙って後ろに下がり、振り下ろした直後に距離を詰めて殴ればまず負けない。やはり初心者にはおすすめできんな」
悩んだ末、ミヤマはぼろぼろの新聞紙のみを体にまとった、がりがりに痩せたホームレスに決めた。ライいわく、「そいつは牛蒡みたいに痩せ細っているが、なかなかの強キャラなんだ。細い腕から繰り出される殴りはたいしたことないんだが、それに対して握力がべらぼうに強い。こいつは工事現場でつかわれるような鉄パイプを日常茶飯事ですみたいな顔をしながら片手で握りつぶす。だからメインウェポンはつかみ技だ。一度相手をつかんでしまえば連続で地面に叩きつけることができる。必殺技は相手の股間を握りつぶす〝アイアンクロウ〟だ」
バトルがはじまると、ライはミヤマの操るキャラから距離をとった。彼が選んだ金髪の女性は中距離攻撃ができる。腕を鎌のように振り下ろすことで、真空波が生じるのだ。おかげでミヤマは防戦を強いられた。ガードでダメージを軽減し、隙を見て距離を詰めるしか方法はないのだけど、相手はそれを許してはくれなかった。結局、初戦はライの圧勝に終わった。
「気に病むなよ」そう言いながらライはつぎの試合へ進もうとした。「初心者が中級者に勝とうと考えるほうがおかしいんだ」
ミヤマはその言葉を自分への挑発と受け取った。つづいても同じキャラを選択し、同じ戦法でぼこぼこに敗北させられた。何度も何度も挑み、攻略法を探した。上空へのジャンプで敵の攻撃を避け、タイミングを見計らって距離を詰めるのが定石ではあるようだが、頭で理屈はわかっても、指先がそれに追いつかなかった。十回ほど連続で負けたところで、ライがコントローラーを置いた。
「ちょっと休憩しよう。こんなふうに熱くなってもおれには勝てないだろうよ」
ミヤマはおとなしく従い、ライの淹れた紅茶をずずずとすすった。砂糖の甘い味とりんごの香りが口のなかに広がった。ライはテーブルの向かいで缶ビールの蓋を開けた。
「普段はあまり飲まないんじゃなかった?」とミヤマは尋ねた。
「ああ。だが今日はいいんだ。今日みたいな日はいいんだ」
ライが缶を傾け、ごくごくとのどを鳴らすのをミヤマはしばらく眺めていた。赤みがのどをあがり、やがてライの顔全体を覆った。三口も飲むころにはまぶたがとろんと垂れ、視線は足場を失った。あやしい呂律で彼は言った。
「おれはうれしいよ。こんなふうに友人が家に遊びにきて、まるで学生みたいな時間を過ごせるなんてな」
「はやいね、酔うのが」ミヤマは言った。「あまり恥ずかしいことは言わないでくれよ。あとが大変だからね」
「べつに酔ったからこんなことを言ってるわけじゃないさ。もともとおれはこういうやつなんだ。必要もないことを言って場をしらけさせる。ひとの痛いところを平気でまさぐる。予定調和を全然守れない。そんなおれでも愛してくれるのが家族だと思ってたんだがなあ」
ミヤマは黙ったままカップを傾けた。なにかをしていないと落ち着かなかった。少年はそのままライが使っていたコントローラーを手にとり、オンラインのプレイヤーを相手に対戦をはじめた。使用するキャラは先ほどまでと同じく、痩せ細ったホームレス。そのキャラはあまりにもみすぼらしくてミヤマは不快感をおぼえたが、どういうわけかこのキャラが一番見ていて安心できた。
対戦相手のユーザーネームが画面を横切る。ライはそれをうろんな目で見つめながら缶を傾けた。
「おう、やれやれ、やっちまえ。ぼこぼこにして病院送りにしてやれ」
ライの応援に頷きを返し、ミヤマは対戦をはじめた。オンラインの相手は正真正銘の猛者だった。結果を見てライが言った。
「一瞬だったな。乾いた海苔を握りつぶすみたいに砕け散りやがった」
つづく二戦目も似たようなものだった。ミヤマのつたないプレイを見てライは笑った。
「おまえのプレイを見てるのはおもしろいな。ガチャプレイなのに運のいいときは相手を追いつめている。無意識がうまいこと反応してくれているのかもな」
「家族となにかあったの?」とミヤマは尋ねた。
「なんでもない」ライは言った。「たいしたことじゃないんだ。ただ妻がおれに黙ってほかの男と二人きりで会ってただけさ。ああ、それだけだ。ずいぶん前からつづいていた関係らしい。向こうの家族はなにもかも承知で、おれは笑いものにされてたっていう、ただそれだけの話だ。たいしたことじゃない」
「うーん」
ミヤマは必殺技のコマンドを入力し、相手の股間を握りつぶしにかかった。しかしそれは空振りに終わり、カウンターで画面端まで吹っ飛ばされる。起き上がったときには膝蹴りをくらい、相手の猛攻になすすべもなかった。
「こんなふうにはめ技を食らったときはどうすればいいんだろう?」
「なにもできることはないさ」ライはつぶやいた。「おとなしく体力が削られるまで、されるがままでいるしかない」
ミヤマががちゃがちゃとボタンをいじくると、彼のキャラは相手の蹴りをかわして立ち上がり、カウンターで敵を投げ飛ばした。だがそのころにはこちら側の体力はほとんどゼロに近く、相手の反撃を一発食らっただけで敗北した。
その後も何度かオンライン対戦を繰り返していると、いつのまにかテーブルの向こう側でライが寝息を立てていた。腕を枕にして突っ伏している。握られたままの缶にはまだ中身が三分の一ほど残っており、手のなかで危なっかしく傾いていた。口の端からはよだれが垂れている。息苦しそうに眉をひそめていた。
ミヤマはその様子をしばらくじっと眺めてから、傾いていた缶を抜き取って離れたところに置いた。力の抜けた腕が音もなく倒れた。ゲームの電源を切り、テレビを消してから立ち上がった。ほんの少しの名残り惜しさに後ろ髪を引っぱられながら部屋をあとにした。
ドアを開けると夜風が若い肌を刺すようだった。ドアが背後で閉まると、少年は胸をちくりと刺されたような鋭い痛みをおぼえた。少なくともこの少年にはあまりなじみのない感覚だった。新宿の街をさまよっていたころには感じなかった痛み。得体の知れない喪失感。ライの家までは彼の軽トラに乗ってきた。自転車は新宿の街に停めたままだ。ミヤマが階段をおりると錆びた鉄が乾いた音を立てた。しばらくすると少年は夜の闇に抱かれ、境界の向こう側へと消えた。
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