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【小説】オールトの海でまた 🌕4

🌕8



《今日、中庭の散策から帰り、部屋の扉を開けようとしたところで、背後から声をかけられました。振りかえってみると、斜向かいの病室から、体を半分のぞかせた長谷川さんがわたしを手招いていました。長谷川さんはあなたもわかるでしょう? ほら、よくあなたが訪ねてきたときに、手書きのメッセージとともに和菓子をお裾分けしてくれる、あのおばあちゃんです。入院生活がこうも長引くと、同じような患者さんでも顔見知りくらいできます。わたしは喜んでお茶の招待に応じました。わたしは彼女のことが好きなのです。

 長谷川さんの病室は、これまでも何度か訪れたことがあります。もしまだでしたら、あなたも一度は訪ねてみるべきです。扉を開けて入ると、一瞬、自分が病院のなかにいることを忘れそうになるくらい。間取りはほとんどわたしの部屋と同じはずなのですけど、その内状には目を見張るほどの大きな隔たりがあります。ベッドの枕元は動物やなにかのキャラクターのぬいぐるみで飾り立てられて、まるで若くて夢見がちな女の子の寝室のよう。毛布や掛布団は自宅から持ってきた私物で、分厚いふわふわの生地に触れていると、宙に浮いているかのような錯覚をおぼえます。窓枠やソファの肘掛けの上には、カラフルなお菓子の空き箱や折り紙が、吟味された間隔で配置されていてきらびやか。机の上には彼女愛用のラジオとノートパソコンが、コンセントのコードで壁と繋がれていました。

 部屋も然ることながら、ご本人もおしゃれな装備に身を包まれています。手編みされた縞模様のニット帽は、黄色や青の蛍光色が電飾のように光を放っています。いつも着ているウィンドブレーカーは魅惑的で濃厚な紫。病院のなかだというのに、ほとんど毎日お化粧をしています。

 淹れてもらった紅茶をいただきながら、興味深い話をうかがいました。彼女の言によると、半年ほど前にインターネットの一角で自らを予言者と名乗る人物が姿を現し、いまから二年後に、宇宙から地球外生命体が我々人類との交信を呼びかけることが予言されたというのです。

 宇宙人がくる。ノートパソコンを膝の上に広げ、真剣に語りつづける長谷川さんを見ながら、わたしは想像しようとしました。ですが未知すぎてなかなかうまくいきません。地球に未知の生命体が訪れたら、人類はどのように対処するのでしょうか。相手が侵略者ならば身を守るために争いも生まれるでしょうが、そうでなかった場合、いまの人類は平和的に接することができるのでしょうか。好戦的な種族を相手にするより、友好的な種族を相手にすることのほうが、事態はより複雑なのではないかと、わたしは思います。食べものや飲みものはどうでしょう。彼らの栄養はこの星のもので賄えるのか、あるいは彼ら自身で用意してきているのか。『宇宙戦争』で登場するインベーダーのように、地球の細菌は彼らにとって有害であったりするのでしょうか。彼らが乗ってきた宇宙船はどこに停泊するのでしょう。軌道上ならば問題なくとも、地表ならば南極でもない限り、醜い派閥争いが生まれそうです。我々人類の生活への影響はどうでしょう。訪問者たちの力の下にいまのような支配体制をつづけるわけにもいかず、国家は崩壊して異なる法や政治に置き換わるのでしょうか。新しい文明が持ち込まれ、新たな宗教が誕生するのでしょうか。わたしたちの日常は、永遠に姿形を変えてしまうのでしょうか。

 長谷川さんといっしょに、金色のお菓子の空箱にリボンを飾りつけながら、わたしは考えつづけます。もしもわたしが宇宙人であったなら。そうだったなら、やがて地球を訪れる宇宙人との外交に駆り出されるでしょう。わたしは地球を代表して、彼らとの会談にのぞむ。わたしの言葉が、そのまま地球の言葉となる。相手がどんな種族であれ、意志疎通が可能なら、地球の代表はわたしが適任だと思うのです。地球人が相手のときよりも、わたしはのびのびと、健やかに会話をおこなえるでしょうし、わたし以上にUFOの存在を信じている女が、いったいどこにいるというのでしょう。彼らの存在をすんなりと受け入れられる人間が、わたしのほかにいるでしょうか。わたしは自分が宇宙人であったらと思います。そうすれば、この星にはヒースクリフのような人間もいるのだと、彼らに優しく説明することができるでしょうから。

 わたしは考えていたことを長谷川さんに伝えました。すると彼女はリボンで綺麗な薔薇の花をつくりながら言うのです。わたしたちが宇宙人でないと言える根拠などどこにもないのだと。たしかにそのとおりです。わたしは雷にでも打たれたような心地でした! わたしが元は地球外の生物ではないと、だれが証明できるでしょう。UFOから降り立ったのではないと、だれが言えるでしょう。記憶や記録なんてあいまいなもの、いつだって論破してやります。わたしたちの見ている現実は、所詮、脳が勝手につくった錯覚でしかないのです。わたしや長谷川さんにそのような下等な理屈など、まったく通用しないことを教えてやります。わたしたちを形づくった種は、遥かむかしに宇宙からこの星に植えつけられたのかもしれない。わたしは地球人に紛れこんでいる、憐れな地球外生命体なのかもしれない。少なくとも、お前は地球人だ、と頭ごなしに言われるよりも、よほどしっくりきます。胸がすくようです。

 わたしがもし宇宙人だったら、あなたはどうしますか? いえ、わたしが宇宙人であれば、きっとあなたも宇宙人ですね。たとえ地球上にほかの宇宙人がいなかったとしても、これについては断言できます。

 ふう、やれやれ。どうやらわたしの貧弱な想像力ではこのあたりが限界のようです。なにより、わたしには未来の映像をうまく思い描けた試しがないのです。わたしに描けるのは、いまのわたしではない、別の世界線——つまり並行世界パラレルワールドにいる、こうであったかもしれないわたしの姿だけ。長谷川さんは話しながら二年後のことを遥か遠い、膨大な時間を経た先の出来事であるかのように、目を細めていました。それは病気や寿命のせいでもあるのでしょう。そこに至るのが困難だと知り、それでも顔をしわくちゃにして微笑んでいました。そんな彼女のことがわからない。わたしには二年後のことを、歩みつづけるうちに自身の身に訪れるものと感じることも、自分から伸びた長い長い線上の、遠く彼方にあるものととらえて考えることもできないのです。それは〝自覚〟という枠から飛び出して別次元の領域にふわふわと漂っています。わたしはそれを視認しないしできません。興味も持てなければ手を触れようとも思いません。子供の頃からずっとこうなのです。要するに、わたしにとって未来とは、単なる他人事でしかないのです。

 こんなふうに、自身を田舎者の年寄りと同じくらい信用できないなんて、とても悲しいことじゃありません? 長谷川さんの自室をあとにし、扉を後ろ手に閉めながらわたしは考えました。たったひとつでも信を置けるものがわたしにあったなら、たとえこの病気が避けようのないものに見えていたとしても、いまのような状態になるのとは違う運命になっていたのではないかと、ほとんど確信に近い情念が、形を持ってわたしの胸の奥に居座っているのです。

 なんにせよ、宇宙人がくるのなら、彼らの肉体の大きさがわたしたちとさほど変わらなければと思います。なにか自分より大きなものに、意味もなく踏み潰されるのだけはごめんですから》




《先日はわたしたちの我儘に付き添ってくれてどうもありがとう。熱海にいた頃から小田原城の藤棚を一度は見てみたいと思っていたのです。あなたが持参してきてくれた梅ジュースはとてもおいしかった。手づくりであのような味が出せるなんて驚きです。食堂のおばちゃんに感謝しなくてはなりませんね。

 藤の花は話に聞いていたとおり、ほんとうに綺麗でした。頭上からたわわにぶら下がっているさまは、みずみずしく熟した葡萄の実のよう。やはり人間は部屋に閉じこもりっきりではよくありません。たとえそういった気分ではなくとも、無理にでも出歩いて体中を外の空気で満たさないと。

 公園は案の定、家族連れの観光客で賑わっていましたね。この時期は熱海の街も混みあっていて大変でしょう? あなたがホテルの都合に振りまわされず、毎週同じ曜日に休みをとれていることが、いつも不思議でなりません。熱海はあれでも日本有数の温泉街ですから、忙しい時期はそれなりに大変なはずです。きっとアルバイトという立場の人間に、あまり強く命令することもできないんですね。ですがくれぐれも無理はなさらぬよう。決して揉め事は起こさず、少なくとも表面上はおとなしく、粛々と従順に従っていることを示すのですよ。あなたの、べつにいつクビになってもいいや、という態度は仕事に人生を捧げている人間からすると、ときには鼻につきもします。やすやすと文句や八つ当たりの対象となることは想像に難くありません。まあ、わたしがこんなことを言うまでもなく、なんだかんだであなたはうまく立ちまわるのでしょう。旅人は器用でもなければ旅をつづけていられないでしょうから。

 それでも、あなたの訪問をわたしが喜んでいないなどとは考えないでくださいね。わたしが言いたいことをきたん忌憚なく言えるのは、いまはあなたと律子さんくらいですし、この二人がいなくなれば、わたしの頭は退屈で爆発するでしょう。これは決して比喩などではありません。こんなふうに感謝の言葉を伝えるのは初めてですけど、どうか警戒しないで。わたしの単なる気まぐれで、深い意味などないのです。

 公園を散策したときの話に戻りましょう。わたしたちはひとの波の合間を縫うように歩いていました。休日ということもあって、各世代の人間を偏りなく見かけました。お年寄りや若いカップル、両親に連れられた子供たち。あなたは律子さんとのお話に忙しくて気づいていなかったかもしれませんが、子供たちの何人かはわたしたちの姿に注意を惹かれたようでした。律子さんではなく、わたしとあなたです。わたしたちは普段着を着ていましたし、特殊なものを所持していたわけでもないのに、わたしやあなたの目を見て呆けたように口を開き、立ち止まっていました。いったいあの子たちの目にはなにが映っていたのでしょうか? とても気になります。ひとはときを経るにつれて多くのものを失っていきます。きっと大人には見えないなにかが見えていたのでしょう。はじめはわたしも気づかない振りをするのですけれど、長くはつづけられません。目をあわせ、微笑みかけると、彼らはみんな怯えたように、父親か母親の背中に隠れてしまいました。かわいいものですね。ええ、あなたは驚かれるかもしれませんが、わたしは子供が好きなのです。彼らを見ると安らぎをおぼえます。子供は人間が唯一完全な姿を保てている時代なのです。想像してみてください。都市部の近代化が進み、人口の流出が止まらない片田舎を。そこには子供や若者の姿はなく、大人やお年寄りしかいません。未来は閉ざされ、殺伐とした空気が集落を覆っています。わたしはそこに安らぎを見出せないのです。

 子を成すことは、人間が死後に自分の足跡を残すための、もっともわかりやすい手段のひとつなのだと、いつかどこかで耳にしたおぼえがあります。もしかするとそこに偽りはないのかもしれません。自らに流れる血を受け継いだ存在が自分の死後にも生きつづけ、偶然と必然によってその記録を先の世代にも広めていく。明快のように思えます。しかしそれだけではないのも明快でたしかなことでしょう。子を成すこと以外でも死後に足跡を残せるからこそ、ひとは特別な生き物なのです。それはなにも作品や金銭など、物理的な形に残るものを指しているわけではなく、もっと根本的な、ひとの想いに準ずるものです。是非のない強い想いはその分、深く大地を穿つのです。因果応報の輪を知り、失われてゆくものから目を背けず、侵略者ではなく先駆者の思考を持ち、己の言動から生まれる罪を背負い、己の内包する宇宙を可能な限りちしつ知悉する。それでこそ、魂の鳴動は時間や空間を飛び越えるのです。つまるところ、魂、共振、神、多大な犠牲、絆、内包する宇宙、内と外へと永の膨張をつづける宇宙。これらはすべて、未来という言葉と同義なのです。

 ここまで考えたところで、はたと思い至りました。わたしはどうしても死後の世界に、欠片でも自分へ所属するものを残したいとは思えないのです。パートナーや子供をつくれば、わたしの内包する宇宙を分断し、分かちあわなければなりません。わたしはそれが恐ろしい。わたしの宇宙はわたしだけのものであって、他者から見れば、おぞましい怪物のような姿をしているに違いないのです。ですからわたしに選択権などあるはずもなく、ただただ身を任せるばかり。こんなわたしにも、未来や生という権利が与えられてしまっているのです。考えれば考えるほど申し訳なさすぎて、わたしに分け与えられた未来を、それを欲しがるほかの人々に配ってほしいと思います。きっと喉から手が出るほどそれを欲する人間も、わたしよりも遥かにそれがふさわしい人間も、巷にはあふれかえっていることでしょう。そしてできることなら、こんなわたしごときのことで、だれにも悲しんでほしくはありません。そのときがきたら、わたしの足跡をこの世から綺麗さっぱり消し去って、だれもがわたしの存在などはじめからなかったかのように、普段の生活をつづけていってほしいのです。編まれてゆく織物に、わたしという横糸はいりません。わたしはただ、この世界もそこまで悪いところではなかったな、と最後に言いながらいなくなれればそれでいい。それ以上はなにも望みません。失われてゆくものを直視するなど耐えられない。己の言動に責任なんか持てないですし、己の定めた宇宙はまばたきするうちに、くるくると翻ります。因果応報など陰毛チリチリ野郎です。

 そんなことを考えながら、あなたと律子さんの口論に耳を傾けていました。いいじゃないですか、坊主頭。あなたによく似あっていますし、わたしは好きですよ。ただ次回はもっと丁寧に剃刀を扱ってください。頭皮を血だらけにしていれば、また律子さんに叱られますから》




《わたしは吝嗇家りんしょくかなのでしょうか?

 先日、熱海の知りあいに頂いたさくらんぼを口に運んでいたときのこと。あの小さい実をかじり、あっというまに歯が種まで到達すると、わたしはとても惨めな気分になってしまいました。種の大きさに比べ、実の割合が少なすぎるように思えたのです。なぜだか気分が落ちこんで、それ以上食べ進められなくなってしまったくらい。味はとてもおいしいのですけれど。

 思いかえしてみると、普段の生活から、わたしはそうなのかもしれません。電気は少しの間でも部屋を空けるときは、こまめに消しますし、コップの中身は最後の一滴まで飲み干します。少しでも長持ちすればいいと思って、ベッドは優しく飛び乗りますし、リモコンのボタンも優しく押します。この程度の我慢でいったいなにが救われるというのでしょう? それでもそうせずにはいられないのです。

 同じ理由で、わたしは桃が好きです。桃は甘酸っぱくておいしいですし、偏見も驕りもなく、その実を分け与えてくれます。桃はさくらんぼなんかとは違って、いちいち返礼を求めてはいないのです。

 くどくどと好き勝手述べてしまいました。相沢くんはどんな果物が好きですか?》


《ぼくはパイナップルかな。口のなかを酸でぐじゅぐじゅと溶かす、あの感覚がたまらないんだ》


《それではあなたが次きたときのために、母に頼んでパイナップルを用意しておきます。パイナップルってどう切り分ければよいのでしたっけ? これも母に聞いておかなければなりません》



 疲れた目を指の腹で抑え、顔を上げた。現実世界に浮遊してくるまで、少し時間がかかった。小夜との通信は、ぼくが迷走する世界とはひとつずれたところにあって、一度入りこむと時間を忘れる。タブレットの時刻を見ると昼休みが終わりかけていた。ぼくは食べ終わったパンの包装紙をまとめてビニール袋に入れ、防波堤の上に立ち上がった。

 夏が近い。それを目でも肌でもなく、嗅覚で感じた。花が散り、草木が茂り、空気に水が満ちるにおい。当然だった既存のものが終わりを告げ、新たなものがはじまろうとしているのがわかる。地面に降り立ち、追いつかれまい、あるいは置いていかれまいと、ぼくは走って自分の仕事へと戻った。


🌕9


 土曜日。駐車場へ降り、車の列を抜けて自分のバイクに近づき、カバーを剥いで近くのフェンスにくくりつけた。キーをまわしてスターターを押し、エンジンがあたたまるのをしばらく待った。ぼーっとあたりの景色を眺めていると、足元のアスファルトが、なにかに濡れたように黒く染まっていくのに気づいた。あわてて確認すると、キャブレターから液体が漏れ、車体からスタンドを伝って地面に垂れていた。エンジンを切り、冷めるのを待ってから液体を人差し指でなで、鼻に近づけてにおいを嗅いだ。むせかえりそうなガソリンのにおいがした。勘弁してくれ、と天を仰いだけれど返答などあるはずもない。このまま気づかなかった振りをしてこれまでと同じ日常を過ごそうかとも思ったけれど、そう簡単に無視できる案件でもない。結局、諦めて近くのバイク屋に電話をかけ、いまから修理を必要としているバイクを持ちこむ旨を伝えた。


 病院に到着したのは十八時を少し過ぎた頃だった。面会時間は終わり、ロビーには帰宅する見舞客が何人かいるだけで、ほとんどひと気がなかった。ぼくは外来の人間が待ち時間に座る椅子に火照る体を預け、靴を脱いで痛む土踏まずをさすった。靴下は踵と母指球の部分に穴が開き、皮の剥けた地肌がのぞいていた。足裏に溜まっていた血液が逆流し、一気に全身を巡ったので一時だけ眩暈がした。

 顔を上げて周囲を見まわすと、思ったとおり、ぼくの姿を認めて近づいてくる影があった。律子さんはぼくの傍らに立ち、静かにこちらを見下ろした。

「呆れた。まさかほんとうに熱海からここまで歩いてきたの?」

 ぼくはしゃべるのも億劫なほど疲れていたので、無言のまま頷いた。律子さんは小走りにどこかへ消え、しばらくしてからペットボトルの冷たいお茶と、冷たいタオルを持って戻ってきた。ぼくはお礼を言ってありがたくそれらを受けとり、タオルで顔を冷やしてからペットボトルを傾け、ひと息で半分ほど飲み干した。

「大丈夫そう?」ぼくのほうを心配そうに見ながら彼女は尋ねた。「面会時間は終わっちゃったけど、落ち着いたら病室に顔を出していきなさいよ。あの子、一日中あなたを待ってたんだから」

 ぼくは頷いた。呼吸を整え、いまだに冷たいタオルを首に巻き、幾分小さくなったような気がした靴を履いて立ち上がった。

 扉をノックすると、なかからゆるり落ち着いた返事が返ってきた。部屋に入ると、ソファに座っていた小夜と正面から目があった。カーテンは閉め切られていて、まだ沈むまで間がある陽の光が隙間から漏れていた。欠伸の出そうな暖気が、窓が開け放しであることを示していた。彼女は直前まで、なにかをしていたというわけでもなさそうだった。何時間もそうしていたという雰囲気で、ただそこに固定されていた。ぼくらはしばらく無言で見つめあった。

 口を開いたのは彼女のほうだった。「そんなところに突っ立ってないで、座りなさいよ」そう言ってベッドの横の机を指し示した。ぼくは頼りない足を引きずって彼女の前を通り、机の前の細長くて脆そうな椅子に腰かけた。

「冷蔵庫にパイナップルがあるの。食べる?」

 ぼくは重力に打ち負かされたかのように頷いた。「お昼ご飯を食べてないんだ。お腹がぺこぺこだよ」

 小夜は冷蔵庫から、すでにカットされていたパイナップルののった皿を取り出し、覆いを外して机の上に置いた。ぼくは彼女から差し出されたフォークを受けとってパイナップルに突き刺し、口に運んだ。

「いったいここに着くまでどれぐらいかかったの?」小夜はソファに座り直し、膝に頬杖をついてぼくに尋ねた。

「熱海を出たのがちょうど正午くらいだったよ」

「ずいぶんかかったわね。近いようで、遠いんだ」

「これでもほとんど休憩なしで歩いたんだけどね」パイナップルの沁みるような果汁が、ぼくの泡立つ血液を冷ましてくれた。

「律子さんにはもう会った?」

「下で顔をあわせたよ」ぼくは先ほどの場面を思い浮かべた。「そういえば、今日はなにも小言を言われなかったな」

「きっと事前に連絡をいれたのがよかったのよ。心の準備ができてれば、目くじらを立てたりはしないんじゃない?」

 そうだったのか。ぼくは納得した。

 その後もだらだらとしゃべりつづけ、気づくと時刻は十九時になろうとしていた。ぼくは食べ終えた食器を洗おうとしたけれど、小夜は「わたしが洗うからそのままにしていきなさい」と言った。外はもう暗かった。ぼくは立ち上がり、小夜に手を振って暇を告げた。

 病室を出て、静かに扉を閉めた。廊下にはひと気がなく、物音ひとつしなかった。照明が鏡面のように滑らかな床に反射していた。下を見ると、ぼくの立ち姿が床に映っていた。一歩ずつ、小夜との距離が開いていくのを背中に感じながら、階下に向かった。

 ロビーでは律子さんが待っていた。仕事着ではなく私服を着て、肩から鞄を下げていた。女性の衣服についてはよくわからないけれど、肌に張りついたベージュのズボンや白い薄手のカーディガンは彼女によく似あっていた。ぼくは彼女に近寄った。

「帰りはどうするつもり?」彼女は尋ねた。「疲れているんでしょう?」

 ぼくは首に巻いていたタオルを彼女に返した。「きたときと同じだよ。バスや電車は苦手なんだ」

「いまからじゃどんなに急いでも、あっちに着くのは真夜中になるわよ。明日も仕事なのよね?」

「休みながら行けばなんとかなるさ」

「それじゃ体がもたないわよ」彼女はポケットから車のキーを取り出し、人差し指にぶら下げてみせた。でもそれ以上はなにも言わなかった。

 ぼくはここまでの道のりを思いかえし、やれやれと諦めて首を振った。「送っていってくれたら助かるよ」ほかにどうしようもなく、ぼくはそう言わされた。律子さんは微笑んだ。



 彼女の車はひとり暮らしの女性らしく、コンパクトで淡い色あいのブルーだった。ぼくは後部座席のパワーウィンドウに頭をもたせかけ、つぎからつぎへと流れゆく外の世界を乾いた目で眺めていた。車のランプは列を成して闇夜を煌々と照らし、その脇を追い抜くと、ぼくの網膜に線となって焼きついた。律子さんの運転は穏やかで丁寧だった。スムーズな動作で左折し、混雑する東海道から熱海につづく一三五号線へと合流した。

 運転に注意を向けている律子さんの眼差しは、外の灯火を宿していた。「まだ時間はかかるだろうから、到着するまで寝てていいのよ」彼女はバックミラー越しにぼくを見つめ、そう言った。

 運転で前方にのみ注視する必要のない新鮮さが、ぼくを眠気から遠ざけていた。熱海と小田原の間をこんなふうに移動するのは初めてだ。外は暗く、見慣れた景色は闇に潜んでいたけれど、普段スイッチにしか触れていなかったラジオを分解して中身をのぞいてみたような、浮ついた気分になった。一三五号線は空いていた。乗っている車より、時折走り抜けていく車のエンジン音のほうが、高く大きく耳に響いた。これなら耳を澄ませば波の音さえ聞こえるのではないか。そんな気がした。海は近いようで、木々や崖によって遮られていた。車体の揺れは規則的で、曲がるときは緩やかな弧を描いた。試しに瞼を閉じてみると、外の景色——赤いテールランプの航跡や木々の影、その合間からのぞくひと気のない砂浜が、瞼を開いているときと同じように鮮明に見えた。ぼくはどこか懐かしい感覚に包まれ、それに身を任せた。

 律子さんに優しく揺り起こされて目を覚ました。気がつくと車はすでに停止していて、窓の外を見ると、ここが熱海のスーパーの駐車場だということがわかった。律子さんは運転席からこちらを振りかえって、ぼくの膝に軽く手をのせていた。

 ぼくらは共に車を降り、ひとまず海の見える場所まで歩いた。日中の疲れは眠っている間にどこかへ行ってしまった。時刻はほとんど二十時だった。律子さんは周囲を物珍しげに眺めていた。

「熱海は訪れたことがあるんだろう?」とぼくが尋ねると、「実を言うと二十年振りくらいなの」と返事が返ってきた。

 律子さんから晩ご飯に誘われ、了承した。どうせ従業員食堂は閉まってる時間だった。なにか食べたいものがあるかい、と訊くと、行きつけのお店でもあれば紹介してよ、と言われた。この時間、この近辺で営業している飲食店は限られていた。行きつけの店か。ぼくはためらったけど、お望みならば是非もない。彼女を連れて寮の方向へと歩きだした。

 その店は不定休で、野ざらしで、出される食器は油汚れでべとついており、表面が木材のテーブルには煙草を押しつけてできたかのような噴火口がいくつか花開き、染みだらけで薄汚れたみすぼらしい暖簾のれんには蠅がたかり、同じく薄汚れたみすぼらしい店主にも蠅がたかっていた。老人はにやにや笑いながら欠けた歯を見せびらかし、色褪せたデニム地のエプロンで手を拭いながら、干からびた細腕で客を迎え入れる。美人看護師を食事に誘うには素敵すぎるラーメン屋だった。

 広場に浮かびあがる赤い提灯を前にしたとき、いったい律子さんはどんな表情をしているのかと、気になって彼女のほうをうかがい見た。彼女はぽつねんと一軒だけ営業している屋台を好奇の目で眺めていた。店主がカウンターをまわりこみ、広げてあった座席にぼくらを誘った。ほかの卓にタクシーの運転手らしき客が二人いた。律子さんはためらうことなく席に着き、油で若干べたついた手書きのメニュー表を手にとった。もっとも、そこには『らーめん』『ちゃーしゅーめん』『びーる』の三つしか書かれていない。

「ここへはよくくるの?」と彼女はメニュー表から顔を上げて尋ねた。

「病院からの帰りに、たまにね」

「いまどき珍しいわね、こんな本格的な屋台。わたしが子供の頃は時々見かけたけれど」

「ぼくが知る限り、熱海にはこの一軒だけだよ」

 律子さんがいたから、少し奮発してチャーシュー麵を注文した。丼が運ばれてくると、ぼくも律子さんも慣れた手つきで割り箸を割り、レンゲを手にとった。「わたしもよくひとりで、家の近所のラーメン屋に食べに行くのよ」と彼女は言った。ぼくらは麺をすすっている間、特段、会話を交わしたということもなかった。「お昼、食べてないんでしょう?」律子さんは自分のチャーシューを二枚ほど箸でつかみ、ぼくの丼に移した。二人黙々と食べつづけた。律子さんはレンゲを上手につかって上品に食べていたけれど、上品すぎるというわけでもなく、予想したよりもこの場に馴染んでいた。やはりというべきか、食べ終わるのは彼女のほうがはやかった。箸を置き、鞄からティッシュを取り出し唇を拭いた。淡い色の口紅のついたそれを丸めてテーブルの上に置き、ほかの客や屋台の提灯を興味深そうに眺めた。

「夜、小腹が空いたときなんかに、寮の部屋を出て、ひとりで食べにきたりするのね?」

「まあ、そういうこともあるかな」ぼくは箸でチャーシューをつまみ、レンゲでねぎの切れ端をすくいあげながらこたえた。「ここは寮から近いからね。従業員食堂が閉まっちゃった日には、大抵ここだよ」

 律子さんは少しの間、無言だった。顔を上げると、こちらを見つめる彼女と目があった。それは不快とは言わないけれど、ぼくの居心地を悪くするような眼差しだった。痛いところまで見透かしてくる眼差し。ぼくはなんとかすぐに目を逸らすのをこらえ、彼女の視線をそっと受け止めてから食事に注意を戻した。

「なんだか」足跡ひとつない新雪の丘みたいな声で彼女はつぶやいた。「ひとり暮らしの男の子の生活って感じがするわね」

「そりゃあそうだよ」ぼくは驚いて目を見開いた。「独身で、寮暮らしで、休日をいつも友人の訪問に費やしてるんだ。いったいぼくのことをなんだと思ってたの?」

 律子さんはなにか言いかけて口を開いたけれど、それは言葉にはならず、首を振って困ったように笑った。

 ぼくが麺を食べ終え、最後にレンゲでスープをひと飲みしていると、ふたたび律子さんが口を開いた。

「段々と興味が湧いてきたわ。あなたの普段に」

「普段? 興味?」ぼくはちほう痴呆のように聞きかえした。

「そう。わたしは病院でのあなたしか知らないから。小夜といっしょにいるときの相沢くんしか知らないのよ。あなたがそれ以外の時間になにを思って、どんな過ごしかたをしているか、いますごく興味が湧いているの」

「そんなことを言われてもな・・・・」ぼくはレンゲを置き、丼を少し前に押しやった。「ごくごく普通の独身生活だと思うよ。律子さんの注意を惹くものも特にない。食べて、寝て、働いて、温泉へ入ってまた寝る。それの繰りかえしだよ」

「まさかそれだけで二十四時間が終わるわけではないでしょう? わたしが言っているのは自由な時間のこと。ひとが己の選択を、ほかの存在に委ねることが許されない時間の話をしているの」

「人間はその気になれば、いつだって、どこだって、どんなものにだって選択を委ねられるよ」

「ほんと、ああ言えばこう言うわね」律子さんは呆れたように顔をしかめた。「わかったわ、そういうことにしておく。あなたが己の選択を、なにかほかのものに任せているというなら、わたしはその存在がなんなのか知りたい。あなたがどこかへ収納したままの自由のことが知りたい。これでいい?」

「要するに、これから律子さんの退屈しのぎに付きあえってこと?」

「察しがいいじゃない」律子さんは笑った。



 勘定はなんとかしてぼくが払った。彼女はぼくがたいしてお金持ちでないのを知っていたから、かなり渋ったけど、ぼくは譲らなかった。古くさい男の矜持とか、そんなものが理由ではなく、ただ彼女には迷惑をかけていたから、それに対しての罪悪感がそうさせた。財布からお札を取り出し、濡れている乾いた手に料金を支払う。ああ、これでしばらくはまた、ジュースやお茶を我慢しなければならないだろう。とはいえ、店主は二人分のチャーシューの料金をまけてくれた。彼はいつもぼくになにかしらのサービスをしてくれたし、ぼくが女性を同伴していったことが、なぜだか彼を喜ばせたらしい。

 律子さんはぼくに、ごちそうさま、と礼を言い、おいしかった、またきたいと言った。またいつでもくればいいさ、と返事をして、ぼくらは並んで静かな広場をあとにした。こんなふうに女性と肩を並べて歩くのはいつ以来だろうか。思い出せなかったから、生まれてから初めてのことだったのかもしれない。ぼくらは恋人ではなかったけれど、律子さんの美しさは、ぼくがいつかの路上から側溝に投げ捨てた、虚栄心の残り滓みたいなものをふたたび呼び起こした。彼女は綺麗だった。ぼくだけでなく、同性の小夜までそう言うのだ、間違いない。体には一本芯が通っていて姿勢がよく、首筋はしなやかに伸びていた。きっとこのひとは、十年後も二十年後もさほど衰えず、変わらないのだろう。そんな彼女の隣にいることがどこか誇らしくもあり、言い知れぬくすぐったさも感じていた。

 海沿いをしばらく行き、信号を渡って街中に入った。遠く黒々とそそり立つ山影に向かって歩いた。商店街にひと気はなく、数軒だけ営業していた飲食店もシャッターを閉めようとしていた。月のない日で、星明かりは気息奄々としていて、そのほとんどはとても地上までは届かなかった。街灯とホテルや旅館の窓から漏れる明かりと、時折走り抜ける車のライトが、この時間のこの街の光源だった。

 急な坂をのぼり、辿り着いたのは無骨で無機質で、規則正しくガラスが並んだ六階建ての建物だった。熱海市立図書館は坂の中途に建っている。それゆえに出入口は下側の一階と、上側の四階の二か所にあった。中央をエレベーターが貫いていて、狭い階段はほとんどつかわれない。当然、開館時間は終わっていて、昼間のようにひと気はなく、明かりもついていなかった。

「休みの日の午前中、病院へ行く前に必ずここへくるんだ。何人かの年寄りたちといっしょに、開館する少し前から入口で待って、扉の鍵を開ける司書さんと挨拶を交わす。もう司書のひとたちも、何度も顔をあわせているから、ぼくをおぼえてしまってるんだよ。

 四階の一部は文庫本コーナーになっていてね。ぼくはよくそこへ寄る。本が軽いと、読む心構えも軽くなるから気が楽になる。そこでしばらく適当なものを選んで立ち読みしたあと、気分次第で同じ階の漫画本コーナーにも顔を出す。好きな漫画は何度読んでもいいものでね。活字に飽きて手持ち無沙汰になったら、ここへくれば間違いない。まだひともいない時間帯だから、柔らかいソファに座って、どの漫画もぼくがひとり占めできる。

 時々は三階におりることもある。その一角には、手を触れたら朽ちて砂となってしまうんじゃないかと思うくらい古い本が集められてる。ここだけはほかの場所とはにおいも違う。退屈とは無縁の場所だよ。ジャンルは古今東西さまざまで、もうとっくに絶版になった哲学書や小説が、まだ呼吸をして読まれるのを待っているんだ。

 そうやってぶらぶらと一、二時間くらい過ごして、ぼくは図書館をあとにする。なにかを借りるときもあれば、借りないときもある。仕事終わりの特に用がないときにもくることがある。ここは落ち着くんだ。寮の部屋で寝泊まりするより、ここで暮らしたいくらいだよ」

 律子さんは背伸びをして窓枠に手をつき、閉じられたカーテンの隙間からなかをのぞこうとしていた。それほどの興味を持たれて、図書館もびっくりしているだろう。案の定なにも見えなかったのか、すぐにこちらへ戻ってきた。立ち止まった反動で薄手のカーディガンの裾がひらりと揺れた。

「楽しいかい?」皮肉でもなんでもなく、ぼくは問いかけた。

「ええ、とても。あなたは?」

「割とね」知らず、吐息をついた。ぼくらのほかに人影はなく、流れ出た声は瞬く間に闇へ溶けていく。

「本を借りない日でもここに来るのね」

 ぼくは頷いた。

「最近はどんな本を借りた?」

「『分子進化のほぼ中立説』」淡白にそうこたえた。

「意外。小説しか読まないんだと思ってた」

「どうやらぼくという人間について多くの誤解を抱いているようだね」

「そうね。そうかもしれない」そう言って彼女は遠い目つきになった。ぼくとしてはしんみりさせる気などさらさらなかったけれど、なにか彼女の琴線に触れることを言ってしまったみたいだ。しばらく気まずい沈黙がおりた。

「あなたは病院へお見舞いにくることを習慣と言ったけれど」長い間のあと、何事もなかったかのように彼女は口を開いた。「ここへくることもその習慣のひとつなの?」

「この街に住みはじめてからは毎週欠かさずにきているよ」

「朝のランニングも?」

「そうだね。考えてみれば、ぼくには多くの習慣がある」

「でもそれって妙な話じゃない? 習慣なんて、外部の要因でいくらでも捻じ曲がるものでしょう。体調を崩してしまったり、気分が変わったり、友人との急な予定が入ってしまったり。それらの影響を受けないなんて、ありえないことだと思うの。今日は病院へ行くのはやめようとか、図書館へ行くのはやめようとか、少しでも気が変わって、いつもと違う日を過ごそうとは思わないの?」

 ぼくは言われた言葉の意味を考えた。彼女の目がそれだけ真剣だったから。でもしばらく考えてからぼくは諦めたように首を振ってこたえた。「一度もないんだ。少なくともここ数年は習慣から外れたことをしたいと思ったこともないし、記憶にある限り、実際にしたこともない。ぼくにとっては当たり前で必要なんだ。これってそんなにおかしいことかな?」

「わからないわ。でも」律子さんはぼくの手の届くところまで近づいてきた。「なにも目的がないと言うなら、少し変かも」

 ぼくらは見つめあった。ぼくを見透かそうとする瞳に、次第に憂慮の色が滲み出てきた。意識してか無意識にか、彼女の垂れ下がっていた右腕がぴくりと動き、一瞬、ぼくのほうへと伸びかけた。ぼくは気づかなかった振りをして顔を背け、彼女をうながした。「さあ、そろそろ次に行こう」

 別の道を通って東へ向かった。途中で律子さんはコンビニのなかへ姿を消し、二人分の缶コーヒーを持って現れた。お礼を言っていっぽうを受けとり、振って沈殿物を攪拌させてからプルタブを引き開けた。ぼくらは先ほどと同じように隣りあって歩いたけれど、二人の間には新たな距離ができていた。律子さんは物珍しげに周囲を眺めていて、おしゃれな雑貨屋のショーウィンドウの前で立ち止まったり、側溝からあふれる蒸気に手をかざしたり、飲み屋から漏れ出る喧騒に耳を傾けたりした。彼女が動くたびに、艶のある黒髪が飛翔し、街灯の明かりを受けてきらめいた。ぼくは彼女が質問したときにはこたえ、いっしょになって、あまりこれまで注目してこなかった熱海という街の側面を見直した。

 ビーチにはいくつか人影があった。だれかの線香花火の儚い光が波打ち際を照らしていた。波の音に触れられそうな場所までぼくらは近づいた。

「ここまでくることは滅多にないんだ。海なら寮の目の前にあるし、見るだけだったらどこでだってできる。でも時々気が向いたときにこのあたりまできて、弱い酒を片手に欄干から身を乗り出して、波音を聞きながら夜を過ごすこともある。ぼくのことをロマンチストと嘲ってくれても構わないよ」

「どうしてわたしがあなたを嘲らないといけないの?」黒髪がしなやかにうねる。「そういう気持ちって、とても大事だと思うの。目に見えない、手の届きそうにないものを大切にする気持ち」

 ぼくらはビーチを横切り、街灯に照らされた遊歩道を歩いた。どちらからともなく立ち止まり、欄干にもたれかかった。ぼくは海に背中を向け、律子さんは街に背中を向けていた。彼女は缶をリスのように両手で持ち、ちびちびと中身を飲んでいた。遠くに灯台の明かりが瞬くのが見えた。風が吹くたびに律子さんの肩にかかっていた鞄が揺れ、欄干とぶつかって甲高い音が鳴った。

「昼間の疲れはまだ残っているの?」と律子さんが尋ねた。

「そう訊かれて、やっと思い出したくらいの疲れだよ」缶を傾けながらこたえた。

「若さね。わたしみたいに歳をとったら、数日は引きずるもの」

「律子さんは若く見えるよ」

 律子さんはため息をつき、胡乱な目つきでぼくをにらんだ。「前から思っていたけど、そういう物言いは感心しないわね」

「そういう物言い?」

「皮肉も嫌味もない。あなたに腹を立てられないから、わたしはわたしに腹を立てるしかなくなるの」

「ふうん」考えてみたけれど、言われたことの意味はわからなかった。結局、腹を立てられているのはぼくのような気がする。

「わたしは歳をとったわよ」律子さんは言った。「思い出だけで寂しさを埋められるようになったのがその証」

 ぼくはなにも言わず、缶を傾けた。砂浜では新たな線香花火に火がつけられ、また散ってゆく。波の音がぼくらの間に漂っていた。

「海はいいわね」やがて律子さんがつぶやいた。「海を見てると、ささくれだった心が鎮まってゆく」

 ぼくは同意の印に頷いた。

「でも同時に時々怖さも感じる」彼女は言った。「あの水平線を見てると思うの。あのあたりにはなにもない。ひともいなければ陸もない。わたしの声はだれにも届かない。もし仮に泳いであそこまで行けたとしても、引きかえしてはこれないんだわ」

「ぼくは好きだよ、水平線を眺めるの」振りかえることもせずに言った。「対岸に陸が見えてしまったら、窮屈で仕方ない」

「それもそうね」律子さんの声の方向がこちらに向けられた。「相沢くんはどうしてこの街を選んだの?」

 ぼくは少し考えてからこたえた。「大きな図書館があるからだよ」

「それだけ?」

「そう、それだけ」

「温泉が好きとか、海が好きとか、そういうこだわりはなかったの?」

「こだわり?」ぼくは思わず笑って聞きかえした。「こだわりなんてないよ。ただ抗わずに身を任せてるだけさ。次に行く土地を選ぶきっかけなんてそんなものだよ。あとのことは行ってみないとわからない。そうやってぼくらは各地を渡り歩くんだ。こんなに長居するとは、さすがに思わなかったけどね」

「あなたは一年と半年を〝長居〟と言うのね」

「ひとつところにとどまるなんて、一、二か月もあれば十分。でないとうんざりしてきちゃうんだ」

「そうね。たしかにうんざりしてきちゃう」彼女はそう言って体の向きを変え、海に背中を向けた。ぼくらは並んで缶を傾け、暗くなった通りや明かりの消えたホテルを眺めた。

「その言いかただと、まるで律子さんはいまの生活に、不満を持っているみたいに聞こえるよ」

「どうかしらね。わたしがいまでもあの街にいる理由は、あそこがわたしの故郷であるという以外にない気がするの」

「ふうん」ぼくは眉尻を上げた。

「相沢くんがこの街へ引き寄せられた理由も、案外それに近いんじゃない? 故郷の街に海があったとか?」

「あいにくだけどそれはないよ。ぼくは自分の故郷の記憶を持ってないんだ」

 律子さんがこっちを振り向いた。ぼくは体の向きを変え、手にしていた缶を突き出すようにして欄干から身を乗り出した。水面は闇とひとつになり、暗い海の向こうに水平線は見えなかった。

「故郷の記憶を持っていないってどういうこと? 生まれ育った街のことくらいおぼえているでしょう」

「ぼくの記憶は故郷を出て、ひとりで生計を立てた頃からはじまるんだ。それ以前の記憶はないんだよ」付け加えるようにぼくは言った。「ただひとつおぼえていることがあるとすれば、ぼくの生まれ育った土地に海なんてなかった。それもこの街に暮らしはじめてから気づいたんだ」

 律子さんの視線が射抜くようだった。彼女はぼくに追随するように体の向きを変え、街明かりに背を向けた。ぼくは顔を背けて逃れようとしたけれど、今度は捕まった。彼女の左手が伸び、逃げようとするぼくの頬に添えられ、つづいて右手で挟むようにぼくの顔を包んだ。手の平から叫びたくなるような温もりが伝わってきた。砂浜では線香花火が最後の気炎を見せ、その命を終えた。律子さんの瞳が、これまで見たことのない色に染まってゆく。さまざまな陰が揺らめき、踊りあがってはどこか遠くへ薄まっていく。眉間にはしわが寄り、目は細められていた。

「どうかしたの?」沈黙に耐え切れず、そうささやいた。

「どうかしたの、じゃないわ。あなた、大丈夫なの? 見ていてとても危なっかしい。とても不安になる」

 ぼくはそれ以上目をあわせていられなかった。距離を置こうと思っても、彼女はそれを許してくれず、ぼくは金縛りにあったようにその場で突っ立っていた。

「ぼくの心配なんていいんだ」ぼくは呻いた。「それよりも小夜の心配をしたらどうなんだい? 毎日死について嬉々として語る若い女の子のほうが、ぼくなんかよりよっぽど不健全だよ。彼女にこそ不安を感じるべきだ」

「あの子はいいのよ。あの子はただ恋をしているだけだから。片思い中なの」

「へえ」愚かしくも、訊かずにはいられなかった。「ぼくに?」

「ありとあらゆるものに」

 一瞬の間。そんな季節でもないのに、背筋に寒気を感じた。永遠へと膨らみつづけるなにかに、圧し潰されそうな感覚。ぼくは弱々しくも抗うように言った。「それは大変だ。返す刀で、幾創もの致命傷を負いかねない」

 彼女はなにも言わず、ぼくを見つめつづけた。



 言葉を尽くして、律子さんの不安を和らげた。ぼくは大丈夫。まだ一文なしじゃないし、いざとなったら手を差し伸べてくれる友人もいる。ギャンブルも深酒もしない。悪い人間に騙されるほど人間好きでもない。自分の選択をほかのものに任せたりなんてしていない。ここ数年の記憶はおそらく正常。少なからず小夜のことを想っている。ぼくはしっかりここに立っている。ここがどこだかは知らないけれど。

 スーパーの駐車場まで彼女を送った。広いスペースに彼女の車しか停められていなかった。別れ際まで彼女は疑念の表情を浮かべていた。熱海の街は気に入ったかい? とぼくが尋ねると、今度はもっとゆっくりしたい、と返事が返ってきた。彼女はためらいながらも車に乗りこんだ。窓を開けてこちらにひらひらと手を振り、ウィンカーを出して通りへと合流するのを見送ってから、ぼくはその場をあとにした。

 閉店間際のスーパーで安売りしていた総菜を買った。寮へ戻り、着替えを準備してから温泉に向かった。眼鏡をかけたやせ細った男と、子供連れの禿げあがったお年寄りが湯船に浸かっていた。あたたかいお湯のシャワーを浴びると、足の裏の皮が剥けた部分に痛みが走った。ぼくは丁寧に体を洗って汗を流し、頭にタオルをのせ、痛みは無視して肩まで湯船に浸かった。疲れが芯から溶け出てゆく。思わず呻き声を漏らすと、少し離れたところにいた子供にじっと見つめられた。ぼくがもう一度静かに呻き声を漏らすと、今度は笑いをこらえる素振りを見せた。もう一度だけそっと呻き声を漏らすと、お年寄りの体の陰に隠れ、乳歯の欠けた歯を見せてくすくすと笑った。

 軽くシャワーを浴び、タオルで体を拭いてから脱衣所に上がった。冷水器のスイッチを踏んで冷たい水を貪るように飲み、鏡に映る細長い裸の全身を眺めながら、備えつけの綿棒で耳掃除をした。清潔な部屋着を身に着け、汚れた服をビニールの袋に詰めてホテルを出た。

 自分の部屋へ戻り、スーパーで買ったきんぴらごぼうとマカロニサラダをカーペットの上に広げ、胡坐をかいて箸でつまんで食べた。味はおいしかったけど少し古かった。飲みものはペットボトルに入った麦茶だった。冷蔵庫がなかったから気分が悪くなるくらいぬるかった。体が熱かったので扇風機の電源を入れた。食事を終え、空の容器と割り箸をごみ袋に突っこみ、瘦せ細った蛍光灯の下、一時間ほど図書館から借りていた本を読み耽った。途中から内容がさっぱりわからなくなったので、ぼくはその本をしおりも挟まず、部屋の隅に投げ捨てられた鞄のそばに置いた。時刻は二十四時だった。布団を広げ、歯を磨き、トイレに行って用を足し、部屋の電気を消して床に入った。眠りはすぐに訪れ、なにに邪魔をされることもなく、朝まで眠った。


🌕10


 梅雨の時期。空を分厚い雲が覆い、水気をはらんだ風が街を通り抜ける。降りそぼる雨が道路を洗い流し、排水溝は流れこむ雨水であふれかえる。晴れた日は少しずつビーチに顔を見せる人間が増えていたけれど、気温はまだ上がりきっていない。

 駅前の商店街。土産物屋やカフェテリア、小さな温泉がアーケードの下、軒を連ねる。寮の近くの商店街より人通りは多く、シャッターを下ろす店が増える夕方五時頃まで、観光客の姿が見えないということはない。店頭では呼子の女性が金切り声をあげ、圧ぺんとうもろこしに群がる鶏のように、客が店内に集められてゆく。

 寮から離れすぎているため、数か月に一度ぐらいしかここへは訪れなかったけど、久々に足を運んでみると、そのたびに細部の光景がところどころ異なる。見おぼえのあった店は畳まれ、新たな幟が通りへ掲げられている。自作の人形やキーホルダーを売っていた店は、漆のきいた豪著な箸が壁をずらりと覆う土産物屋に。ぼくが小夜に例の小説を買ってあげた古本屋は、市場から直送された魚を扱う海鮮丼屋に。店の前に檜のベンチや目が痛くなるほど赤い幟を立てていた老舗の甘味処は、店舗を丸ごと改修し、ぴかぴかの嬰児のように生まれ変わっている。

 立ち退く理由は老いか、商売がうまくいかなかったか、それともほかのやむにやまれぬ事情によってか。いずれにせよ、それはぼくの思惑とは隔絶した場所にある。古きものは退き、新しきものが代わりに居座る。胸に希望や野心を抱き、よりよい生活を求めて。その想いは退いた古きものも、かつては抱いていたに違いないのだ。彼らはお金のために自分の労力と時間を提供し、商店街や熱海という街の定めに縛られると同時に保護され、観光客に愛想を振りまき、己の卑屈さと生活を呪い、恋をし、子供が生まれ、日々を乗り越え、やがてきたるべきときにまた店を畳む。

 とあるショーウィンドウの前でぼくは立ち止まる。ガラスをのぞきこむと、幾分、猫背気味で瘦せ型の男が、力の籠らない眼差しでぼくを見かえす。綿でできた無地の黒いシャツを着て、同じく綿でできた無地のステテコを履いている。映っている背後の図様は、ぼくが辿ってきた道、視界に収めてきた既視の景色。ぼくの見ている現在はすべてこのように映る。どのような光景を見ても、そこには必ずぼくがいて、暗い眼差しの既視が見かえしてくる。定められたパターンの繰りかえし。新しきものが脱出速度を超えることはないし、それは古きものにも言える。ぼくにはそういう見かたしかできない。すべては同じことでしかない。


🌕11


 病室の窓際に立ち、不安定な暗い空を眺めていた。この時期の天気は気まぐれが過ぎる。寮を出るときは涼しげな曇り空だったのに、病院に着く頃には雨がアスファルトを激しく殴打するほど降っていた。ずぶ濡れの上着とリュックはハンガーで干してある。下着やシャツはまだ濡れたままで、動くたびに体にぴたっと張りついた。だが特にこの天気を疎ましいと思う気持ちはない。雨粒が宙を舞う光景は見飽きることがない。何時間でも見ていられそうだ。

 小夜はまたいつもの小説を読んでいた。先の展開も言葉もあらかじめわかっているのに、どうして繰りかえし何度も読めるのか不思議だった。ページは親指のあたる部分が手汗で変色していた。小夜のにおいがこびりついていた。ささやかながら、なぜだかその本に憐れみをおぼえた。

 立ったまま、彼女の後頭部を見つめた。ページを手繰る細い手はしなやかに伸び、規則正しく動く。ライトブルーのパーカーを着て、背中にフードが垂れ下がっている。艶のある黒髪がひと房、こめかみを伝い、口元まで垂れ下がっている。物語が彼女の好みの場面に差しかかると、唇は時々ぶつぶつとひとり言を紡ぎ、ぎゅっと引き結ばれる。いついつまでも記憶に留めようとするかのように。

 ぼくは時々こういうことをする。黙したまま、姿勢を変えずにただ見つめつづける。彼女が顔を上げ、ぼくの視線に気づいたのならぼくの負け。そのときぼくは視線を逸らしてはならないし、素直に負けを認めなくちゃならない。ぼくがこれまで積み重ねてきた時間を彼女に差し出す。そういう決まり。でもいまのところ、ぼくが負けたことは一度もない。何分も、何十分もつづけたことだってある。どうやら彼女の領域は、ぼくのように矮小な存在には侵せないらしい。



 しばらくすると雨がやんだ。雨雲はその輪郭を黒々と際立たせ、去る気配を見せなかった。太陽がその隙間からのぞいていた。小夜が中庭へ散歩をしに行こうと言うので承知した。ぼくはリュックのなかから透明なビニールの包みを二つ取り出し、彼女のあとにつづいて部屋を出た。患者用の玄関から外へ出るとき、貸し出しされているビニール傘を一本、傘立てから抜いて持っていった。彼女は必要ない、降りはじめたら走って屋内に戻ればいいのだから、と言ったけれど、念のためだ。

 レンガの遊歩道はびしょ濡れで、繋ぎ目の溝に雨水が溜まっていた。芝生にできた水たまりは深く、銀色に空を反射していた。通路に沿った花壇にはマーガレットの白い花弁が目の届く限り咲き乱れ、水滴でいくらか首を傾げていた。ぼくらが歩を進めるたびに足元でぴちゃぴちゃとくすぐったい音が響き、雨に濡れた景色は光の加減でプリズムのように移り変わった。

 遊歩道をしばらく行った先の茂みに覆われた一画に、そこだけ日本庭園の一部と言ってもいいような、岩場や石灯籠に囲まれた池があった。石畳の通路が遊歩道から繋がっていて、池の縁沿いに散策することができた。ぼくらはそこまで歩いて立ち止まった。ポケットから包みを取り出し、片方を彼女に手渡した。

「ありがとう。この時間は数少ないわたしの楽しみのひとつなの」

 包みを開き、なかに入っていたパンの耳を取り出した。朝のレストランの朝食の余りを、食堂のおばちゃんに頼んで廃棄される前に掠めてきたのだ。それを細かく千切って水面に投げると、何匹もの鯉が一斉に身を乗り出し、水面を叩きながら餌に飛びついた。ばしゃばしゃと音を立て、水滴があたりに飛び散った。

「見て、背中に左右対称の赤い斑点が浮かんでるあの子」小夜は笑顔でこちらを振り向いた。「あの子が毎回一番乗りね。賢い子だわ。きっとわたしたちの足音が聞こえた時点で待ち構えているのよ」

 定期的に掃除がされているのか、水は綺麗でほどよく透き通っていた。岩場に張りついた苔はみずみずしく鮮やかな緑だった。鯉の体表はその模様が一匹一匹異なっていて、よくよく見ればそのどれもが個性的だった。ぼくらは歩いては立ち止まり、餌をばらまいて魚が群がる様子を眺めた。やがて沈黙ののち、小夜がぽつりとぼくに問いかけた。

「相沢くんは、夢をおぼえてる?」

 ぼくは彼女のほうを振り向いた。二人の距離は、お互いが手を伸ばしても届かないくらい開いていた。その横顔はなにかを思いつめてるように見えた。「夢って、眠るときに見る、あの夢?」

「そう」彼女は頷いた。「眠っている間に見た夢を、目が覚めてからもおぼえていられることってある?」

「うーん、どうだろう」ぼくは考えた。「何度も何度も見たことのある夢とか、とても強く印象に残った夢はいまでも思い出せるよ。でも普通は朝起きてからしばらくすると忘れているかな」

「たとえばどんな夢が記憶に残っているの?」

「高いところから落ちる夢とか、水のなかにいるみたいに動きが緩慢になってしまう夢。それから線路の上に縄で縛りつけられて、そのまま列車に轢かれてしまう夢とか」

「もぐりの心理学者が聞いたら、歓喜して解説してくれそうな内容ね」

 小夜は千切ったパン屑をひと際遠くに投げた。それは放物線を描いて池の奥に着水した。群れの一群がぼくらの元から離れ、尾びれで水面を叩きながらそちらに吸い寄せられていった。

「最近になってからね、いままでとはなんだか違うのよ」と彼女は言った。「夢をおぼえていられるようになったの。目が覚めてからも忘れていないのよ」

「へえ」ぼくは彼女の横顔をちらっと見やった。「目が覚めたばかりのときに、夢の残り滓みたいなものが脳裏にへばりついていることはあるよ。きっとメモでも残せば思い出せるんだろうけど、頭がはっきりしはじめると、もう思い出せないんだ」

 小夜は激しく首を振ってぼくの言葉を否定した。「そうじゃないの。そんなおぼろげなものじゃなくって、それは記憶なの。夢とうつつ現の境があいまいになるというわけじゃないんだけど、日中の記憶と同じようにはっきりと、鮮明に思い出せるのよ」

 風が吹いていた。どこか遠くの雲間で雷鳴が轟いた。ぼくは穏やかに言葉を紡いだ。「そういう人間がいるっていう話は聞いたことがあるよ、そんなに珍しい話じゃない。なかには自分の意志で夢を自在に操れる人間もいる。彼らは夢のなかで行ったことのない土地へ旅行をしたり、好きなものを好きなだけ食べたりできるらしいんだ。なぜだかあまり羨ましいこととは思えないけどね」

 小夜は頷いてパン屑を池の中心に向かって投げた。「どうしてこうなったのか不思議。わたしはこれまでの人生でどんな努力も積み重ねもしてこなかったから。未来は底の抜けたコップで汲もうとするようなもの。少し前まで、常に現在と同じ高さに浮いているものだった。わたしにとって夢とは、ただ埋もれていくだけのどうでもいいものに過ぎなかったの。疲労とは無縁の眠りなんて、ただの機械的なプロセスでしかなかった。でもいまでは・・・・」

 ぼくは無言でパン屑を千切り、小夜の投げたほうとは違う方向に投げた。魚たちが喧嘩しないように。怪我をしてしまわないように。でもここから眺めていると、それはとても難しいことのように思える。

「なにか大切なことを気づかせようとしているんじゃないかって気がするの」魚たちの動きにかき消されそうな声で彼女は言った。「新しいことができるようになるって、いまのわたしには大きな意味があるんじゃないかな。目を背けてはならない。わたしの持っているすべてを賭けて、これと向きあわなくてはならない。でないと、わたしはわたしを失ってしまうことになる。そんな声が、全身をぐらぐらと揺さぶって、片時も放っておいてくれないの」

 ぼくは間をおいて尋ねた。「たとえば最近はどんな夢を見たの?」

「あなたのバイクに餌を与えている夢。あの子、わたしたちと同じようにお米や野菜も食べるのよ。与えつづけるうちにみるみる成長して、近くのビルを越えるくらい大きくなっちゃった」

「跨るのが大変そうだね」

 小夜はくすっと笑った。空はいまにもひと雨降りだしそうな気配を見せていた。ぼくは左手にかけていた傘を開いて、どこも壊れていないのをたしかめ、畳んでまた腕に引っかけた。小夜はどこか遠くを見る目つきでぼくの挙動を追っていた。彼女が口を開いた。

「些細な夢もあれば、とても印象に残る夢もあるの」

「そうなの?」

「あなたがここへきてくれた日には、あなたに関係する夢を見るの。少し長くなっちゃうんだけど、聞いてくれる?」

 もちろんだよ、とぼくは言った。

「いつだったか、あなたがボイジャーの話をしてくれたときのこと、おぼえてる?」

 ぼくは頷いた。当然だ。彼女はその話が気に入って、事あるごとに持ち出してくるのだから。

「わたしの夢ではね。ボイジャーの三号機が出てくるの」

「なんだかおもしろそうな夢だね」ぼくは思ったことを口にした。

「打ち上げ場は熱海の街。沖合に海上ステーションが浮かんでいて、そこから発射されるの。打ち上げ日には海沿いのスカイデッキが、花火大会のときみたいに大勢のひとで埋め尽くされる。なぜならこの宇宙船は、一号機や二号機と違って有人機。外宇宙の謎を解き明かす、人類の希望だから」

 波紋が池の中心から水面をなでるように広がった。それは端っこの岩場に辿り着くと弱々しく跳ねかえり、やがて消えた。

「三号機はごく一般の日本家屋みたいな外見をしているの」彼女はつづけた。「屋根は瓦葺きで、一枚一枚丁寧に葺かれている。外壁は地味な白なんかではなくて、全体がピンク色のペンキで着色されている。側面のほとんどを鏡みたいにきらめく窓が占めていて、太陽の光を反射している。玄関は曇りガラス張りの引き戸で、正面には破風や軒までついているの。内装も普通の一軒家と変わらない。キッチン、リビング、寝室、浴室、クローゼットまであって、食べたいメニューを調理することもできれば、一日の終わりにベッドの上で休むこともできる。大きなスクリーンで好きな映像も見れるし、本棚には読みきれないくらいの小説が並んでいる。乗組員は航行の間、生活に困らない。この船では好きなことを好きな時間にできるの。長い長い旅になるし、この宇宙船はひとり乗りだから、せめて寂しくならないようにと、設備が整えてあるのよ。こうして宇宙へと旅立ったボイジャー三号機は、まず取りつけられたスラスターの噴射で船体を回転させ、遠心力で折り畳まれたソーラーセイルを、ゆっくり時間をかけて広げる。それは鳥の翼のように両脇についているの。太陽の光と衛星軌道上から照射されたビームで推進力を得て、太陽とは遠ざかる方向へと、光の粉をまき散らしながら、羽ばたくように突き進む。小惑星帯を越え、海王星を越え、幾度ものスリングショットを経て、太陽系の外を目指すのよ。そして永遠とも思える長い時間をかけて辿り着いたのが、オールトの海。そこがボイジャー三号機の目的地なの。三号機がつくられた理由はね、宇宙に住む地球外生命体、つまり宇宙人と関係を築くことなの。

 太陽系を脱出した三号機を待っていたのは、さまざまなトラブルだった。浴室のシャワーホースの水漏れやソーラーバッテリーの不調。持ちこんだ小説が実は古本で、余計な線引きや書きこみがあったとか、積まれていた食料に食べられないものが混じっていたとか。体調不良になっても診察してくれる医者さえいないし、話し相手もいないから心だってどうにかなってしまいそう。それはとても孤独な旅路だった。それでも宇宙船は進みつづけた。引きかえすという機能がそもそも存在しなかったから。航行は片道切符で、それは送り出した人間も旅立つ人間も承知していた。だれもが気持ちより己の使命を優先したの。三号機計画は多くの犠牲の上に成り立つものだった。やがて辿り着いたオールトの海には、無数の星々が浮かんでいて、そこには無数の地球外生命体が生きていた。人類が初めて到達したフロンティア。そこは未知というヴェールで覆い隠されているの。そのうちひとつの星を選び、ソーラーセイルの翼を畳んで、宇宙船は大地へ静かに着陸した。その星には生命の反応があった。人類が初めて出会った地球外生命体は、悠久のむかしからその星に住む、戦艦みたいな形の体をした純白の生き物。両腕が横から生えているのだけど、とても短くてね。頭や背中がかゆくなったときにかけないのよ。だから三号機は地球からの贈り物として、巨大な孫の手を渡したの。相手は歓喜して感謝の意を伝えてきた。これがあれば我々の苦悩は解決すると、実際に体中をかきながら喜んだ。お返しにこちらの望みを叶えたいと言うのだけど、返礼なんて三号機にとっては死ぬほどどうでもいいことだった。彼らとの面倒な共生関係をつくるつもりもなかった。彼らの苦悩が一件落着した時点で、こちらの使命は果たしているの。それに旅はここで終わりではない。三号機はその星をあとにして、次なる目的地に向かった。次の宇宙人を探して、次の未知を探して、終わりのない永遠の孤独な旅路を再開するの」

 ここで小夜がいったん言葉を切った。ぼくは口を挟んだ。

「それで、その三号機に乗っているのがきみというわけだ」

「違うわ」小夜は首を振った。「乗っているのはあなたよ」

「は? え?」驚きすぎて、ぼくは池へ真っ逆さまに落ちそうになった。「ぼくが乗っているの?」

「そんなに素っ頓狂な声をあげないでよ。これは夢の話なんだから」

 ぼくは自分を取り戻すのに多くの時間をかけ、やがてごめんと謝って先をうながした。

「次の星にも、その次の星にも、未知の世界、宇宙人が待っていた」ふたたび彼女はつづけた。「そしてそれぞれが特有の問題を抱えていた。三号機はそのすべてに寄り添い、ひとつひとつに地球の技術や歴史を惜しげもなく提供したの。彼らは、自分たちのためにどうかこの星に住みつづけてくれ、と懇願してくるのだけど、あなたはそんなことを言う連中は、もちろん眼中にもなくて、背中を向けてまた旅をつづける。でもそんなふうに親身になっていたら、それを逆手にとって悪さをしかけてくる悪い奴も現れた。とある星であなたはトラブルに巻きこまれる。あなたが宇宙人の話に耳を傾けているその隙に、悪い奴らが三号機を手に入れようと、人類の秘匿された哲学を盗んでしまおうと画策したの。彼らは三又の槍を持ったばい菌みたいに三号機に群がってきた。体は全身が真っ黒で、おでこに三つの尖っていない角が生えていた。決してまっすぐには進まず、ジグザグに飛び跳ねながら走った。彼らの先頭が三号機に触れようとした瞬間、天からいなびかり稲光とともに轟音が鳴り響いて、星の大きさほどもある巨大な鉄拳が、奴らめがけて降りそそぐの」

「なんだか漫画みたいな話になってきたな」

「ウィルスを駆逐する抗体みたいに、その巨大な拳は暴れまわった。ひと振りで五十匹くらいが地平線の彼方まで吹っ飛ばされた。|《はたたがみ》霹靂神のような勢いとスピードで拳は振るわれた。ばい菌たちは吹っ飛ばされ、あるいは地面に叩きつけられて粉砕され、あるいは圧倒的な質量でナノレベルの薄さまで圧し潰された。奴らは悲鳴をあげて散り散りになったけど、天上の意志は絶対だった。やがて敵を一匹残らず殲滅した拳は、きたときとは打って変わって物音ひとつなく、空間に薄まっていくみたいに消滅して、元いた場所へと帰っていったの」

「何者なんだい? その天上の意志とやらは」

「これはわたしがやったの」彼女はぼくを見た。ぼくも彼女を見た。「わたしはあまねく宇宙に存在する神様だから」

「はあ」

「もう一度言うけど、これは夢の話なのよ」彼女はぼくから目を背け、そこになにかを探し求めるかのように水面を見つめた。「こうして無事に星を脱出できた三号機は、また新たな星へと向かう。労力と時間を地球外生命体の補助となることに捧げつづける。概ねは平穏に事が進むのだけど、時々は事件のほうからやってくる。ほとんどは三号機が自力で解決するのだけれど、どうにもならない状況になってしまうこともあって、そういうときは、わたしが力をつかって介入するの。わたしには時空間に干渉する力があるの。だからその気になれば、あらゆる事象を制御できる。困っている宇宙人に手を差し伸べて、あっというまに思いどおりの未来をつくれるし、悩みを取り除いてあげられる。でもわたしはそうしない。わたしが力を行使するのは、あなたに対してだけ。宇宙人が往来で野垂れ死にしそうだとしても平気で放っておくし、彼らの生活がどぶを浚うようなものだとしても構わない。彼らを助けるのは、あくまであなた。それはわたしに与えられた役割じゃないの。あなたが危険な目にあったときや、だれかを助けたいと強く願ったときのみ、わたしは意識をあなたにそそぐの」

「まるで専属の守り神みたいだな」

「わたしはあまねく宇宙に存在している。だからあらゆる現象を把握できるはずなのだけど、なぜだかわたしはあなたの目を媒体にして世界を見ている。あなたが見ているものを、そのままわたしも見ている。あなたの行くところに必ずわたしもいる。あなたはさすがにわたしの存在に気づいているけれど、手を触れることはできない。

 そんなふうにあなたの旅はつづいていくの。あなたはひとりで文句も言わずに歩いていく。わたしは少し後ろからそれを眺めている」

 水滴がぽつりと鼻先に落ちてきた。見上げれば、無数の雨粒がぼくらに迫ってきていた。「これがわたしの見た夢」彼女はぼくを見ていた。現世にぎりぎり留まっている気まぐれな妖精のように、か細く、いつのまにか木々の合間に消えてしまいそうな立ち姿だった。「とても印象に残っている夢なの。あるとしたらどんな意味があるのか、さっぱりわからない。あなたにはわかる、夢占い師さん?」

 ぼくは傘を開き、腕を目いっぱい伸ばして彼女の頭上に差し出した。雨粒がビニールをぱらぱらと叩く音が響いた。雨は少しずつ強くなり、ぼくの首筋を伝って背中に流れ落ちた。

「きみに触れることはできないんだろうか」ぼくは尋ねた。

「それは夢のなかでの話?」

 ぼくは頷いた。

「それはできないの」彼女は言った。「わたしはそういう存在じゃないから」

 ぼくはもう一度頷いた。温もりを感じたのでそちらを見ると、小夜が両手で傘を持つぼくの手を包み、体をこちらに寄せてきていた。彼女の頭がぼくの肩のあたりに触れた。ぼくの頭上にも透明なビニールの覆いができ、体を冷やしていた雨粒を断った。でも雨の勢いは増しつづけた。もういまでは雨は弾丸のように降りそそぎ、池には数えきれない波紋が花開いた。横殴りの風が周囲で踊りまわっていた。舞い上がったしぶき飛沫がぼくらの服を濡らした。

「もう部屋に戻ろう。風邪をひいちゃうよ」

 彼女は首を振った。この騒音のなかで、どうして彼女の言葉が聞きとれたのかわからない。「まだここにいたい。もういやなのよ、見てるだけなのは」

 どうすることもできず、ぼくはその場に留まった。彼女に触れてしまわないよう、左手はポケットに突っこんでいた。パン屑の入っていた包みはもうとっくに空だった。鯉たちは岩場の陰や水底に姿を消していた。見渡す限りにぼくら以外の人影はなかった。頭上を見上げると、透明なビニールを通して、黒い雨雲が見えた。今度の雨はしばらくやみそうになかった。



 雨の勢いは最高潮に達したあと、急激に弱まって元の強さに戻った。風は止まった。傘の骨組みの先端から滴が垂れていた。石畳の上で動かず、佇んでいるぼくらの影はあまりにも近すぎて、離れた場所からだと、ひとりの人間のように見えたかもしれない。小夜は力を抜いてぼくの胸に顔をうず埋めていた。ぼくは停止した空を眺めていた。

「なにかお話をして」小夜がぽつり言った。

「きみの夢を見たよ。きみと熱海の上空を滑空している夢。人間たちが蟻みたいに小さくて、滑稽なんだ。ぼくらは自由に空を飛びまわるんだけど、着地することはできない。翼はあっても、歩くための脚がないから」

「嘘」

「ホテルの食堂できみの話題が出たよ。きみの様子はどうか、元気でやってるか、みんなぼくに訊いてくる。だれもがきみのことをおぼえていて、心のどこかで気にかけている」

「それも嘘」

「食堂のおばちゃんがきみの話をしていた。できることならきみと代わってあげたい。若い女の子が不自由なのは、とても自然なこととは思えないってさ」

 小夜はくすっと笑った。「それはほんとうね」

 雨は変わらず降りつづけ、ぼくらは変わらず身を寄せあっていた。我が家への帰り道を見失い、荒れ果てた野原に遭難した肝っ玉の小さい小動物のようだ。

「今朝、虹を見たんだ」ぼくは不器用にしゃべりつづけた。「海上に架かっていて、それを露天風呂から見下ろすことができた。街を丸ごと包んでしまえそうなくらいに大きかったよ」

「素敵ね」

「きみがいない間にずいぶん街は変わった。知らない店が増えて、次にきみが帰ったときはべつの街に思えるんじゃないかな」

「帰れる日がくるならね」

「図書館で無人貸し出しサービスがはじまったんだ。司書のひととやりとりしなくても、機械を通せば本が借りられる。ぼくはいままでどおりカウンターで司書のひと相手に手つづきをする。古いやりかたのほうが、性にあってるんだ」

「ふうん」

「ビーチに観光客が増えはじめたよ。ピークはもうちょっと先なんだろうけど、水着姿の人間を街で見かけるようになった。男や子供は構わないんだけど、成熟した女性が相手だと目のやり場に困るんだ」

初心うぶな中学生みたい」

「ぼくの働きぶりがいいから給料を上げようという話が出ているらしいんだ。上がるとしても一時間あたりたったの五十円。一日で三百円、一か月で六千円になる。その代わりに、ぼくはなにを捧げなくちゃならないんだろう」

「アルバイト万歳ね」

「今年もまた寮に蜘蛛が出るようになったんだ。蛍光灯のカバーや天井の隅っこは蜘蛛の巣だらけだ。時にはトイレの便器のなかにも蜘蛛の巣が広げられていることがある。あんなところで獲物が引っかかるのかな」

「きっと蜘蛛のなかにも変わった性癖を持った子がいるのよ」

「この間、律子さんといっしょに屋台でラーメンを食べたよ。普段は病院でしか姿を見ないから、なかなか新鮮な光景だったな」

「聞いたわ。二人でデートしたんでしょう?」

「そんなに聞こえのいいものじゃなかったな。ぼくはただ律子さんに付きあわされただけだよ」

「それをデートと言うのよ。楽しかった?」

 ぼくはあの日の夜を思いかえした。「楽しかったと思うよ。でもいろいろと不思議なことを言われたな」

「たとえば?」

「ぼくの発言は彼女を困らせることがあるらしい。ぼくに腹を立てるわけにはいかないから、自分自身に腹を立てるしかないんだってさ」

 小夜は笑った。振動がぼくにも伝わってきた。「それはちょっとわかるかも。あなたは少し、無自覚なところがあるから」

「そうかな?」

「俳優さんもいるのよ。多くの男性が女性に接するような、そんなやりかたを求められることもあるじゃない? 女性から容姿を褒められたいし、地中深くまで根を張った大木のように頼られたい男性。若者から尊敬されたいし、彼らに対して粋がりたいお年寄り。大人に自分の選択をなにもかも委ねたい子供。でもそうしないからと言って、あなたを責めるわけにもいかない」

「まあ、たしかに」

「それだけじゃないわ。多くのひとが醜いとみなしていることに対してのあなたの態度も、あまり良心的とは言えないかも。老い、狂気、罪の露呈、混ざらない孤独、不安、不潔、均衡を崩した容姿、意志の転換。ほかにも数えきれないくらいあるんだろうけど、そういうものに対して相沢くんはすごく無関心に見えるの。悪意があってそうしてるわけじゃないことはわかってるし、ひとりでいるうちは、それでトラブルになることもないかもしれないけど」

 ぼくはため息をついた。「なんとなくはわかったよ」

 ぼくの胸で彼女は首を振った。「わからないわよ、相沢くんには」

 ぼくは首を傾げた。「きみの言いたいことはわかったよ。要するにぼくは面倒くさがり屋の観客なんだろう?」

 小夜はつぶやいただけだった。「いいえ。あなたはこれから先も永遠にわからないまま。でもあなたはあなたのままでいて」

 少しの間、沈黙がぼくらの間に流れ、やがて小夜がぼくに尋ねた。「ほかにはどんなことを言われたの?」

「もうひとつ、気になることを言われたよ」

「どんな?」

「ぼくが熱海という街に引き寄せられたのは、ぼくが海のある街で生まれ育ったからなんじゃないかって。故郷に海があって、郷愁の念に捕らわれたんじゃないかって。でもぼくは違うと言った。もしそうだとしたら、ぼくは海を見るたびに故郷のことを思い出して、郷愁の念を呼び起こさないといけない。でもそんなこと、いままでに一度だってないからね」

 小夜が頭をぼくの胸元から浮かし、長いまつ毛の下からぼくを見上げた。「もしかしたらそれ、あながち間違ってない話かもしれないわよ」

 ぼくは驚いて彼女の目をのぞきこんだ。「へえ。それはどういう意味?」

「帰属欲と言えばいいのかな」彼女の吐息がぼくの鼻先をくすぐった。「性欲や食欲以外にも根源的欲求と呼べるものがひとにはあるのよ。魂の奥底に深く根づいた欲求。もしかしたら回帰欲と言ってもいいかもしれない」

 雨の音が途絶えた。雨がやんだわけじゃなかった。傘を握った手の平に振動は伝わっていたし、視界の隅では雨粒が池の水面を叩きつづけている。でもこの長い瞬間、ぼくには彼女の声しか聞こえなかった。

「だれもがなにかの一部でいたいの。それは集団を指していることもあるし、大地や個人、世界そのものを指していることもあるの。でも究極的に言ってしまえば、それは故郷のことなの」

「よくわからないな」ぼくは正直にそう言った。「ぼくは心のどこかで、生まれ育った土地に帰りたがっているってこと?」

「そうじゃないの。故郷という言葉には生まれ育った街って意味もあるけれど、わたしたちが帰るべき場所という意味もあるの。その二つはまったくの別物。だれもがみんな、どこかへ帰る途中なのよ。それが生きるということなの」

「だからぼくはあの街へ引き寄せられたの? あそこへ帰るために?」

 小夜は首を振って、外気にさらしたら形を失ってしまいそうな笑みを浮かべた。「べつに熱海じゃなくていいし、海でなくてもいいの。宇宙の果てがどんな姿をしているかわからないけれど、きっとあんなふうではないと思う。きっとね。あなたはほんとうの自分との乖離かいりを埋めるために旅をしていて、その途中であの街に立ち寄っただけ。それが偶然か必然かなんて人間ごときにはわからないけれど、偶然と考えるほうが自然よね。そうやってごまかしながら、はったりの上に人生はつづいてゆく。結局のところ、辿り着きさえすれば、ほかのことなんてどうでもいいのだから」

 背筋を寒気が走った。冷や汗をかいていた。ぼくは彼女に動きが伝わらないように、左手をゆっくりポケットから抜いた。

「その場所に——故郷に辿り着いたら、ひとはどうなるんだろう?」震える声で、そう尋ねた。

 小夜は長い長いため息をついた。ぼくの胸元に再び顔を埋め、そこにほとんどすべての体重をかけた。ぼくは左手の指を開いたり閉じたりした。ちゃんと動くのをたしかめるかのように。

「死ぬのよ」と彼女は言った。「肉体が滅んで死ぬのではなくて、肉体を動かす力の源が滅んで死ぬの。だって、そこに辿り着くことができたら、極上の満足が待っているに違いないもの。ひとは故郷に辿り着いたら、それ以上生きつづけなくてもいいの。ほかにするべきことなんて、なにひとつないんだから」

 ぼくには小夜の頭しか見えなかったけれど、ほとんど泣きそうな顔をしているのがわかった。彼女は最後のためらいで踏みとどまっていた。ぼくは左手を上げ、彼女の冷たく震える肩を抱き、これ以上は不可能なほど引き寄せた。彼女は抵抗しなかった。そんな気力が残っていなかったのだろう。

「ねえ、相沢くん」

「なんだい、小夜」

「わたしね、いつまでこんな生活をつづければいいかわからない。食べたものを吐いたり、眩暈で立ち上がれなかったり」

「うん」

「もう元の生活には戻れないの。わたしが失った時間はあまりにも大きいし、独りだった時間もあまりに長すぎる。このどうにもならない肉体を、きっとこれから先も死ぬまで引きずっていかなくちゃならない。それがどれだけしんどいことか、あなたにわかる?」

「いや」ぼくは首を振った。これっぽっちもわからなかった。

「だからね、お願いがあるの。あなたにしか頼めない」

「器を満たせばいいの?」

 小夜はしばらく無言だった。やがてつぶやいた。「ごめんなさい」

「いいんだ。きみと出会ってから、ぼくはたったひとつのことだけを願って生きてきた。きみが満たされれば、ぼくも満たされる。謝らなくてもいいんだ」

 水なら困るほどたくさんあった。だからぼくはそうした。

「わたしを縫い留めて」

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