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【小説】オールトの海でまた 🌕5

🌕12


 寮に着いた頃には全身がずぶ濡れで、体の芯まで凍えていた。着替えてから部屋を出て、雨の降りそぼる道路を横切り、大浴場に向かった。

 チェックインがはじまってまもないこの時間、客の姿は少なかった。軽くシャワーで体を洗い、外へと繋がる扉に手をかけた。当然ではあるが、露天風呂にひと気はなかった。ぼくは全裸に雨粒を浴びながらゆっくりと敷石の上を歩き、手すりに体重をかけて湯の張った浴槽へ身を沈めた。首から下はあたたかいけれど頭部は冷えた。骨に噛みついていた氷が少しずつ解けてゆく。ぼくは目をつぶって浴槽の縁に後頭部をのせた。

 客がひとり、扉を開けて出てきた。歳はおそらく五十半ばくらい。濃い眉は端に向かうにつれて吊り上がっていた。肋骨が浮き出るくらい痩せていたけれど、お腹は丸く出ていた。すね毛は見事なほどに生えていなかった。タオルで器用に前を隠していた。

 彼は手すりにつかまって温度をたしかめるかのように足先だけお湯につけ、納得したのか、ぼくの向かい側に腰を落ち着けた。ぼくは上向きに空を眺めていたのだけど、彼の視線を感じた。何度かぼくに話しかけたそうな様子を見せ、やがて意を決したように声をかけてきた。

「あのう、もしかしてお坊さんをやっておられるかたじゃないですかい?」

 ぼくは静かに体を起こし、額にかかっていたタオルをどかして男を見た。知らない人間に話しかけることに慣れていないのか、やや怯えたような目でぼくを見ていた。ぼくは確認の意味をこめて自分を指差し、目顔で尋ねた。

「間違っていたら申し訳ねえ」男は弁解するように言った。「あなたは髪の毛を丸めておられるから、ひょっとしたらそうなんじゃねえかって思ったんですわ」

 ぼくは首を振った。「いえ、ぼくはお坊さんじゃありませんよ」

「そうですか、それは申し訳ねえ」と男は頭を下げた。「もしお坊さんなら、話を聞いてくれるかもと思っちまったんです。私生活でいろいろとありまして・・・」

「そうなんですか?」

「ええ。実は三十年連れ添った家内と別れて、新たな生活をはじめることになったんです」男はまるで台本を読んでいるみたいな話しかたをした。「別れると言っても、不仲とか揉め事が理由なんかじゃなくって、二人でじっくり話しあって出した結論なんです。円満な離婚なんですわ」

「ふむ」

「子供たちもみんなひとり立ちして、子育ての義務からも解放されました。もうそれぞれが好きな人生を歩んでいいんじゃねえかって、そういう話になったんです。最近そういった夫婦が増えてるでしょう? わし個人の意見を言えば、それはいいことですよ。やらなきゃならないことをやったあとなら、ひとは好きに生きるべきです。でなきゃ救いってもんがありませんわ」

「なるほど」

「家内にもどこか思うところがあったみたいで、ごく平穏に話は進みました。むかしっからわしらはそうなんです。喧嘩だって一度もしたことはない。似た者同士なんですな、きっと。お互いの考えてることが、それを口に出す前にぱっとわかっちまうんです。別れ話を持ち出したのはわしなんですが、家内はそれを予期していたみたいでした。わしがどんな話をはじめるかわかってたんですな。わしが定年を迎える前に退職をして夢を叶えたいんだと言うと、家内はただ頷いて、あんたの好きにしたらいいさ、と言ってくれたんです。前々から思ってはいましたが、わしには過ぎた家内ですわ」

「素敵な奥さんですね」

「ええ、ほんとうに。もしかしたら子供たちは反対するかもと思っていましたが、あの子たちもわしの話に真剣に耳を傾けてくれて、最後には納得してくれました。元より、彼らは彼らで、しっかり自分の脚で立っとるんです。親にも自分の人生を好きに生きる権利があると、背中を叩いてくれました。あの子らの稼ぎなんかあと数年もすれば、わしが一番もらっていた頃よりも上まわっちまいそうな勢いで。もちろん、それは喜ばしいことですがね」

「素敵なお子さんたちだ」

「とはいえ、家族に迷惑をかけるつもりなんてさらさらないんだ。貯えはしっかりありますし、家内は家内でちゃんと仕事を持っとります。家は話しあった末、売らないと決めました。あそこには家内が住みつづける。子供たちの帰る場所も必要だし、わしにだって翼を休める場所はほしい。ええ、別れてからも彼らとは会うつもりですよ。むかしっからいっしょに旅行へ出かけたり、家でゲームをして遊んだりして、家族仲のいいのが自慢なんです。今日だって娘に温泉へ行こうと誘われて、新幹線に飛び乗ってここまできたんですわ。お宅はどちらからこられたんで?」

「ぼくはここで働いてるんです」

「そうでしたか。どうりで慣れているというか、そんな雰囲気がしましたわ。娘もいまごろのんびりしているだろうて」

 長くお湯に浸かっていたせいで頭がぼーっとしてきた。男は両手でお湯を掬い、何度か顔をすすいだ。

「三十年も会社に勤めたんです。もう充分義理は果たしましたよ。わしはこれでも機転の利くほうでしてな。会社のピンチを救ったことも何度かあるんです。これで、定年を迎える前に退職するなんて、ってな文句を言われたら、わしは真っ向から戦いますよ。そいつは筋が通らねえ」

 ぼくは頷いた。両腕をお湯から出し、雨にあたるよう浴槽の縁にのせた。

「とにかく金はあるんです。他人に迷惑をかけなくても生きていけるだけの金はね。すでに現地の日本人に話を通して、ベトナムに移住する算段はついとるんですわ。ダナンという街なんですがね。ちょっと前からリゾート開発に力を入れている街でして。住むのは郊外ですが、生活には困りません。大きい街なんですよ。海岸沿いに砂浜がずらーっとつづいておりましてな。熱海のビーチなんて目じゃありません。世界一、海が綺麗なとこですわ。加えて飯がうまいんだ。ベトナム料理は日本人の口とあうなんて言われてますがね、まったくそのとおりで。料理もうまければ、マンゴーやドリアンのようなフルーツもうまい。初めて家族で旅行に行ったときから虜になっちまいました。いつか絶対ここへ住むんだと、自分に言い聞かせましたね。お宅はベトナムには行ったことがあるんですかい?」

「ぼくは海外に行ったことがないんです」

「そうですかい、そいつはもったいねえ。ベトナムはいいですよ。なにしろ人柄がこの国とは違います。根が優しいんです。挨拶したら無視されるなんてことはないし、近所付きあいがしっかりしています。他人の領域には踏みこまないなんていう冷たい考えかたはしません。みんな手をとりあって生きとるんです」

「日本とはそんなに違いますか」

「違いますね。機会があればベトナムのひとが描いた絵を見てください。人々がお互いに手助けしあって仕事をしている。輪になって遊んでいる。そんな絵ばかりですから。孤独という構図はあの国のひとたちにはなかなかないんです。そこが日本人とは違います。この国の人間は謙虚がすぎるんですわ。それでもって、プライドが高すぎる。何百年も前からそうなんです」

 視界が霞んできた。自分がのぼせたのがわかった。話の途中でぼくは体を起こし、浴槽の縁をまたいで、近くにあったベンチの上に仰向けに寝転んだ。全身が雨に濡れたけど寒くはなかった。体がマグマのように熱かった。目線にタオルを被せ、雨があたらないようにした。そうやって火照った体を冷ました。

 どのくらいそうしていたかわからないけれど、気づくと男はいなくなっていた。もしかしたらぼくの意識はしばらく飛んでいたのかもしれない。体は冷たく、雨は降りつづいていた。

 立ち上がり、もう一度温泉に浸かって体をあたためた。今度はのぼせたりしないよう気をつけた。浴槽を出て手すりに近寄り街を見下ろすと、濡れそぼった灰色の世界が目の届く限りつづいていた。海は荒れ、波がコンクリートに打ちつけていた。ぼくは扉を開けてなかに入り、シャワーを浴びて脱衣所に上がった。

 着替えを終えて脱衣所を出ると、近くのベンチからぼくの名を呼ぶ声が聞こえた。振りかえってみると、普段はフロントでチェックイン業務を担当している男性が、ぼくを見て手招きしていた。彼は小夜と仲のよかったひとで、ぼくに声をかけてくる数少ない人間のひとりだった。ぼくらより十歳くらいは年上だったと思う。仕事中はいつも頑固な髪をワックスでがちがちに固めているのだが、このときは乱れるに任せていた。おかげで命からがら火事から逃げてきたばかりのようにも見える。足元に着替えの入った袋が置いてあったから、おそらく今日は休みで入浴してきたばかりなのだろう。清潔な半袖と半ズボン、サンダルを身に着けていた。

 ぼくは山口さんに近づき、指し示されるまま、彼の横に腰かけた。

「風呂に入っていたのか。全然気がつかなかったな」彼は口のは端をわずかに吊り上げてしゃべる。笑っているわけじゃない。笑っているときもあるが。「見せたいものがあるんだ」

 彼はポケットからプラスチックの箱を取り出し、蓋を開けて箱を傾け、手の平にトランプの山をのせた。からになった箱を脇に置き、慣れた手つきでトランプの山を無造作にシャッフルしはじめた。

「好きなカードを選んでくれ」やがて彼は手を止めてぼくに指示を出した。ぼくは広げられたカードの束から一枚を抜きとり、手の平に収めた。「ぼくに見えないように数字を確認してくれ」ぼくは片方の手で彼の視界をさえぎりながら図柄を確認した。ハートの六だった。その後、彼の指示でそのカードをトランプの山のなかほどに差しこんだ。彼は山の上をもう片方の手で抑え、どのカードも彼の手で移動してはいないということを示した。

「これできみの選んだカードが山の一番上にきていたらすごいとは思わないかい?」彼は指をぱちんと鳴らした。「ほら、いくよ。それっ」彼が一番上のカードをめくると、それはぼくが選んだハートの六だった。

「すごいですね。ぼくの選んだカードです」

「そうだろう? 暇なときはいつも部屋で練習してるんだ。ほかにもいくつかある。見ていってくれ」それから彼は二、三のマジックを披露した。ぼくはそのどれもに驚嘆し、よい客になった。山口さんは満足したように口の端を吊り上げた。

 その後、ぼくらは狭いベンチの上で七並べをした。二人でやってもどうかと思っていたけれど、これがけっこう盛りあがった。ぼくは彼の思惑を読みとり、先まわりして彼の手を潰した。何度かやって、ぼくはそのすべてに勝利したけど、彼は特段気を悪くしたふうでもなかった。

 それからぼくらはだらだらとしゃべりながらババ抜きをした。それは勝負というよりも、ただの作業だった。

「今度、若い女の子の新人がくるんだ。耳に入ってるかい?」と山口さんが言った。

「いえ、初耳です。フロントですか?」

「なにを言ってるんだ。きみの部署だよ。期間雇用のアルバイトさ」

「はあ」

「パソコンに送られてきたデータを見たが、けっこうかわいい子だったぞ。あれだけ容姿の整った子がこんな寂れたホテルにくるなんて、なにか特別な事情があったとしか思えないな」

「たとえば?」ぼくは自分の手札を確認しながら尋ねた。

「借金の連帯保証人になって、その相手がとんずらしてしまったとか。あるいは結婚詐欺師に引っかけられて心に傷を負っているとか」

「何年か前に京都で働いてたとき、似たような境遇の女性がいましたよ。なんでも別れた恋人のストーキングから逃げてきたらしいです」

「気立てのいい子だったら紹介してくれ。どうせまた新人への世話はきみに任せられるんだろう? 船橋さんにも困ったものだな。あれは本来、彼の仕事なのに」

「あのひとはあのひとで忙しいんでしょう。べつに構いませんよ、ぼくは。おかげで好き勝手やらせてもらってます」

「きみがそんな態度だから面倒事やら雑事やらを押しつけられるんだ。断るべきところはきっぱり断らないと。奴らはきみを都合のいい人間としか考えないぞ。そこに感謝の念はないんだ」

「はあ。べつにぼくは構わないんですけどね」

 結局、最後はいかに相手にジョーカーを取らせるかという遊びになった。ぼくは負け越した。前々から運にだけは恵まれたことがない。山口さんはふたたび山をシャッフルし、ぼくらはババ抜きをつづけた。

「相沢くんは将来の計画を立てているのかい?」

「いえ、特になにも。いつもその場しのぎです」

 山口さんは頷いた。「それもいいかもしれないな。ある種のひとはいつだって、その場そのときに、己が抱えられる限界を抱えて生きている。きっといまのきみは飽和状態なんだろう」

 ぼくはなにも言わず、揃ったペアを場に重ねた。

「ぼくは考える」彼は場に広がったカードを空いた手で几帳面に整えた。「十年先、二十年先、三十年先まで考えている。もちろん、ひとはいつ死ぬかわからない。たったいまなにかの発作を起こして死ぬことだってあり得る。それでも未来のことを考えているのは楽しくてね。きっとぼくは怠け者なんだろうな。いま抱えきれる分を抱えず、荷物の半分くらいを地面に置いて休んでいるんだ」

「すべては現実にも繋がっていますよ」

「そう言ってくれて嬉しいがね。まあとにかく、ぼくはこの職場をそう遠くないうちに辞めることになるだろう」

「熱海を出るんですか?」ぼくは少し驚いて尋ねた。

「ああ、もちろんそういうことになるだろうな」彼は眉間にしわを寄せ、透視を試みるかのようにぼくの手札をにらんだ。「ぼくはこんなところで終わりを迎えたくはない。お金持ちになって、もっと生活を充実させたいんだ。ここで阿保みたいに命令どおり動いているのは楽ではあるけどね。でもそんなの退屈にもほどがある。従業員食堂の飯はまずいし、冷暖房もない無機質な灰色の部屋で、これから先何年も生きていくだなんて、考えただけでぞっとする。それにこんなところじゃ異性のパートナーだって見つけられやしない。そんな人生は残念すぎる。はっきり言って、ぼくはもっと女の子と仲よくなりたいんだ」

 彼はぼくの手札からジョーカーを引き抜き、しまったという顔を見せたけど、すぐに真顔に戻った。

「ぼくは自分の店を持とうと思ってるんだ」彼は言った。「せっかく英語を話せるんだから、外国人向けの店がいいだろうな。ゲストハウスか、あるいはなにかの土産物屋か。いまそのために大量の本を読んでいるところさ。経営のこととか、法律のこととか、知らなければならないことが多いんだ。なにしろ大学では生物学を専攻してたんでね。あれが役に立たないとは言わないよ。生命の仕組みをある程度でも理解できたことで、ぼくの哲学も少しは充実したろうから。それでもひとつのことに集中しすぎたせいで、ほかのものがおろそかになっているんだ。ぼくがこれから学ばなければならないことを素材にすれば、熱海の街が丸々ひとつつくれちゃうだろうな。とりあえず、いまはできることを全部やる。実は店を開く場所は目星をつけているんだ。香川に親戚が住んでいてね。こちらが望めば、とある離島の廃屋を譲ってくれることになっている。そこを改修し、島を訪ねてきた観光客相手に、なにかはじめようと思っているんだ」

「きっと山口さんならうまくいきますよ。あなたを見ていても、特に不安を感じないのでそう思うんです」

「相沢くんにそう言ってもらえると、ほんとうに気が楽になるから不思議だな。どうだい、よかったらきみもいっしょにくるかい?」

 ぼくは驚いて顔を上げた。「ぼくがいっしょに?」

「そうだ。きみなら安心してぼくの留守を任せられる。売り上げをちょろまかしたりしないだろうし、問題が発生したら、いっしょに解決策を考えてくれそうだ。信頼できるパートナーはなににも代えがたい」

「ぼくは英語を話せないですよ」

「そんなことは問題じゃない。必要なら新たにひとを雇えばいい。ぼくはこれでもひとを見る目はあるつもりだよ。ぼくがこのホテルで安心して自分の背中を任せられると思えたのは、きみと乾さんくらいのものだ」

「はあ。なぜでしょう?」

「理由はいくつかあるけどね。一番は、きみたちがまったくお金に興味がなさそうに見えるからだ。ぼくにとってはそれだけで信頼するに充分なんだよ。お金にがめつい人間を見ろ。いつ寝首をかかれるか、わかったもんじゃない」

「ぼくはお金に興味がないわけじゃありませんよ。いつもたまたま持ちあわせがないだけです」

「お金持ちになって豪遊したいという望みがきみにもあるのかい?」

「もちろんありますよ」

「もし道端に五百円玉が落ちていたらどうする?」

 ぼくは想像した。「だれも見ていないのを確認してからちょろまかします」

「それじゃあ、道端に五千円札が落ちていたら?」

 ぼくはしばらく黙ったあと、しぶしぶこたえた。「面倒に巻きこまれないよう、見なかった振りをして通りすぎるでしょうね」

「ぼくが言いたいのはそういうことさ」



 ベンチから立ち上がり、いとま暇を告げた。山口さんは最後に「真面目に話しているんだ。考えておいてくれ」とぼくに言った。何メートルか歩いてから振りかえると、彼は浴衣姿の若い女性二人組に声をかけ、手元ではトランプの山をシャッフルしていた。ぼくは階段をおり、寮の自室に向かった。

 部屋に戻り、汚れた服を集めて一階におりた。コインランドリーは三機とも使用中で、胆力のある駆動音とともにガタゴトと揺れていた。持ってきた荷物を抱えたまま部屋に戻った。するべきことはなにかあったのかもしれないが、それらはあまりにも散らかりすぎていて探す気にもなれず、なにもせずに膝を抱えて壁際にもたれかかり、鈍色にびいろの空を眺めた。夜にはまだはやく、陽は暮れきっていなかった。雨は変わらず降りつづいていた。あまりにも手持ち無沙汰だったので、ぼくはサンダルを履き、傘も差さずに寮を出た。

 ビーチに人影はなかった。ここにくるまでひとと出会わなかった。何台かの車が水飛沫をまき散らして通りすぎていくのを見ただけだ。この時期に旅行へ行く物好きなど多くはない。観光客は少なく、街には雨音が響くばかり。

 ビーチは雨に濡れて黒っぽく変色していた。ぼくは石段をおりて砂浜に立ち、波打ち際を歩いた。細かな砂の塊がサンダルのなかに入り、素足をくすぐった。しばらく歩いてから、ずぶ濡れになるのも構わずに腰を下ろした。海を眺め、波音を聞きながら、終わりの見えない未来のことを考えた。それは狭くて、傲慢で、ひどく退屈なものだった。

 次に気づいたときには真夜中になっていた。


🌕13


 翌日、ホテルで問題が発生した。裏階段と呼ばれる従業員専用の階段がある。ぼくら裏方作業の人間が帰ったあと、午後十六時頃にそこを通ったレストランの料理人が、階段の途中で足を滑らせ転倒した。あわてて受け身をとろうと手を差し出した場所は、運悪く階段の縁で、激痛が走り、大事には至らなかったものの、包丁を握る手はつかいものにならなかった。その日は仕事にならず、帰宅後に行った病院で、右手の小指の骨にひびが入っていることがわかった。

 転倒した原因は明らかだった。階段の踊り場に水たまりができていて、料理人はそこに足をとられたのだ。次の日の朝、ぼくら裏方作業の人間は集められ、詰問された。あの階段をもっとも頻繁に通るのはぼくらだったし、モップを洗うバケツから水をこぼしてそのままにした、というのがもっともありそうな話だったからだ。そして例のごとく、疑われたのは金井さんだった。証拠などどこにもなかったけれど、船橋さんは疑わしげに金井さんの目を見て問いかけた。あんたがやったんじゃないのか。前にも似たようなことがあった。片づけもせずにそのまま放っておいたんじゃないか。金井さんは怯え、追い詰められたような目で違うと言った。身におぼえがまったくないし、昨日はモップを扱ってない。そんな作業はなかったと言った。

 ほかのだれもが金井さんにも船橋さんにも目をあわせなかった。でもぼくにはよくわかった。みな頭のなかで考えていることは同じだ。

 ぼくはそんな二人のやりとりを冷めた気分で眺めていた。似たような光景には何百回も出くわしたことがある。ぼくは欠伸を噛み殺し、目を閉じて片足に体重を乗せ、このくだらない無意味な時間がはやく終わることだけを祈った。


🌕14


 次の休みの日。駐輪場へバイクを停め、病室に向かった。穏やかな天気だった。梅雨明けも近いのだろう。中庭は四日前のひと気のなさが嘘のように活気であふれていた。子供たちが走りまわり、その足元ではマーガレットの花が陽光を受けて七色に輝いていた。

 病室の前で律子さんがぼくを待っていた。彼女の顔は青ざめていて、少しでも揺らげば、冷静さの仮面が音を立てて地に落ちそうだった。彼女はぼくに言った。昨日の夜から急激に症状が悪化して、目を覚まさない。どうしてこうなったのかわからない。兆候などなにもなかったのに。ご両親が昨日の晩から付き添っている。

 ぼくは彼女の言葉に頷いた。彼女の脇をゆっくりとすり抜け、扉の取っ手に手をかけた。べつになかでなにかをしようと思ったわけではない。ただ、それがぼくの習慣だったからそうしただけのことだ。

 なかに入り、ベッドに歩み寄ると、いつもとは異なる光景が広がっていた。小夜はベッドの上で仰向けになり、わずかに眉間にしわを寄せ、血の気の失った顔で浅く呼吸をしていた。ベッドの脇で何度か顔のあわせたことがある彼女の父親と母親が、顔を上げて闖入者であるぼくを見つめていた。父親の顔はパニックと動転で芯を失い、母親は直前まで泣いていたみたいだった。

 ぼくはベッドの近くまで歩み寄り、精気の失われ、燃え尽きた小夜の顔を見下ろした。ぼくの動きを父親と母親の目が追っていた。灰になった彼女を見つめ、しばらくただ立ち尽くしていた。なにをするでもなく、ぼーっとポケットの内側をいじくっていた。やがて見かねた小夜の父親が、座ったらどうか、とぼくに尋ねた。ぼくは彼らの表情を見て、かつて小夜に言われたことを思い出した。


「そういえば、ぼくがお見舞いにくる日はきみの両親を見かけないね。なにか気に障ることでもしてしまったのかな?」

「そうじゃないの。あのひとたち、あなたに嫉妬しているのよ」

「嫉妬?」

「そう。わたしがあのひとたちには決して見せない顔を、あなたの前では見せるものだから」


 ぼくは頷き、ベッドから離れて彼らからもっとも距離がある壁際の、ぼくのパイプ椅子に腰かけた。そこからの景色はあまりにも滑稽で笑ってしまいそうになった。これから言葉を交わそうというのに、これほど離れている必要があるのか?

「いつもわざわざ遠いところからありがとうね、相沢くん」小夜の父親が言った。彼は努力して普段のような世間話をしようと努めていた。多分、ぼくの存在はいまの彼らにとって、そこまで邪魔ではないのだろう。ぼくという異物がここにいるから、彼らはぎりぎりで平静を保てていられるのだ。

「遠いと言っても、慣れてしまえばなんとも思いませんよ」ぼくは言った。「バイクですから渋滞だって関係ありませんし」

「いつもきみには感謝していたんです。娘の我儘に付きあっていただいて」

 ぼくはなにも言わず、首を振った。このひとたちには事態が理解できていないのだろうか。でも考えてみれば、ぼくにだってわかっているとは言い難いのだ。

「こんなことになってしまって、きみにはなんと謝ったらいいかわからない。きみたちはまだ若くて、未来はこれからだというのに・・・。まさかこんな形で終わりを迎えてしまうだなんて」

 母親が鼻をすすった。父親が彼女の背中をなでていた。ぼくには背中をなでてあげられるひとも、なでてくれるひともいなかった。そんな二人の様子を黙って見ていた。なぜ小夜の父親がぼくに謝ったのか、その意味を考えようとしても、思考は水のなかをたゆたう水流をつかむがごとく、ぼくの指の隙間からすり抜ける。特にかける言葉も見つからず、彼らにも言うべきことはなくなったようだった。そろそろ潮時だと思い、ぼくはヘルメットを抱えて立ち上がった。

 ぼくの動作に触発されたのだろうか。ここで初めて母親がぼくに話しかけた。あるいは独り言だったのかもしれない。

「昨日のお昼まではあんなに元気だったのに、いまはもうわたしたちの声が届かないところへ行ってしまった」

 ぼくは振りかえり、笑顔でそれにこたえた。「それは違いますよ、お母さん」

 彼らは顔を上げてぼくを見た。そして凍りついた。その目にあった感情を、ぼくは口で説明することができない。ぼくの姿になにを見たのだろう。彼らの目は恐怖、畏怖、羨望、嫉妬、諦観、嫌悪、それらがない混ぜになったものを通り越したなにかを映していた。

「彼女はただ、無限の欠片となって散ってしまっただけなんです。消えてしまったわけじゃない」ぼくは言った。「それとも、あまねく宇宙に存在していると言ったほうが正しいのかもしれない。なんにせよ、彼女はぼくの目を通して物事を見ています。そこがどぶのなかであれ、宇宙の果てであれ。大丈夫ですよ。あなたたちの声は彼女に届きました。いまぼくがここにいますから。なにがあっても〝見ている〟と、彼女自身がそう言ったんです」

 彼らの凍りついた表情は解けることがなかった。やがてはぼくの言葉の意味を模索し、憎悪か底なしの悲しみがそこに浮かんでくるのだろう。それまで見届けるつもりはなかった。背中を向け、出口に向かった。ぼくは彼らに対して、これ以上ないほどに申し訳なく思う。だがぼくに謝罪の言葉を口にする権利など、たとえ地平線の向こうを探したところで見つかるはずもない。

 病室を出ると律子さんが先ほどと同じ場所に、先ほどよりはいくらか落ち着いた様子を見せて立っていた。彼女はぼくを認め、近寄ってきた。ぼくは反射的にあとずさって、彼女から一定の距離をとった。律子さんはわけもわからず、とまどったような表情を浮かべて立ち止まった。

「まだ帰るわけではないでしょう?」彼女は不安そうに尋ねた。

「いや、帰るよ。熱海へ」

「どうして? あの子、もういつまで保つかわからないのよ。もしかしたら、明日にはもう」ほとんど泣きそうな声だった。

「家族水入らずなんだ。ぼくは邪魔なだけだよ」

「でももう会えないかもしれないのよ。あれだけあの子のことを大切にしてきたじゃない。毎週毎週、必ずお見舞いにきたじゃない。いっしょに栗拾いをしたじゃない。簡易ベッドを空いてる部屋に用意するわ。泊まっていきなさいよ」

「明日は仕事があるんだ」

「仕事がなんだっていうのよ!」彼女は叫んだ。声は廊下の壁に木霊し、虚ろに響いた。彼女は壁に頭を打ちつけ、弱々しい声でつづけた。「仕事がなんだっていうのよ、習慣がなんだっていうのよ。これで最後かもしれないの。あなたにとってあの子はそれだけの存在だったの?」

「また火曜日にくるよ」ぼくは背中を向けた。ぼくが積み重ねてきたすべての時間に対して。それは細く、高く、天を貫くほどにつづいている。土台はいまにも崩れそうだけど、それでもぼくはまだ立っている。歩いている。



 どうやって街まで帰ったか、よくおぼえていない。いつもの五倍の道のりだったような気もするし、一瞬だったような気もする。走ったというよりは、転げ落ちるように道を進んできた。よく事故を起こさなかったものだ。

 街に着くと陽は沈みかけていた。病院を出たのはたしか昼頃だったはず。どこかで時間を潰してきたのだろうか。病院で過ごした時間が思っていたより長かったのだろうか。それとも時間を飛び越えてきてしまったのだろうか。駐車場にバイクを停めてカバーをかけ、部屋に荷物を置き、寮を出た。

 街を歩いた。陽は山の陰に入り、平地よりはやい陽暮れが訪れていた。宿に帰る観光客が足早に通り過ぎる。波の音が船の航跡のように彼らのあとを漂う。ぼくは海沿いを歩き、街中へ足を向けた。

 商店街の寂れた一角に差し掛かったとき、声をかけられた。相手はしばらく洗っていないであろうしわだらけのスーツを着た、腰の曲がった老人だった。服は全体的にサイズがあっていないのか、袖や裾が重そうに垂れ下がっていた。額は禿げあがり、両脇に瘦せ細ったちぢれ毛がこびりついているだけだった。頭のてっぺんから出ているようなキーキー声で話した。

「そこのお兄さん、ちょっと話を聞いてよ」

 ぼくは立ち止まり、老人を見下ろした。それがしゃべると口元から銀歯のきらめきがのぞいた。まとわりつくようにぼくに近づいてきた。

「いまなら一時間一万円だよ。遊んでいってよ。お客を呼ぶまで帰ってくるなって言われてるんだよ。このままだとおれ、路頭に迷うことになっちゃうよ」

 ぼくは老人を凝視した。それは憐れみを誘う姿だった。ぼくの胸のなかで、正体のわからない感情が芽生えた。

「一時間一万円よ。このあたりじゃ一番安いよ。遊んでってよ。かわいい女の子ばかりだからさあ」

 ぼくは近くのコンビニでお金を引き出し、老人の案内でネオンの光る看板をくぐった。店に入ると、寂れた雰囲気が鼻をついた。入口のすぐそばにハンガーラックが立っていて、派手な衣装がいくつかかけられていた。巨大なサボテンの鉢植えが、ひとの形をとって空間の隅を占めていた。照明は薄暗く、目を凝らさなければ足元を見失ってしまうほどだった。老人が受付の女性に何事か話し、ぼくをカウンターの前に誘った。ぼくはそこでお金を払った。老人はぼくの背中をぽんぽんと叩き、訳知り顔で頷いてみせた。

 客はぼく以外にいなかった。待合室の中心に一人掛けのソファが二列、全部で六脚並んでいた。それぞれの肘掛けには灰皿と爪切りが置かれていて、どこもかしこも煙草のにおいが染みついていた。テレビが音量を消して流されていた。隅には本棚があって、一番上の段にはアニメのプラモデルやフィギュアが並べられ、それより下の段は、すべて漫画で埋め尽くされていた。そのなかに小夜の好きな漫画が全巻あるのを見つけた。病室でよく読んでいたやつだ。でも彼女は最終巻だけを持っていなかった。ぼくは最終巻だけを手にとってソファに座り、ページをぱらぱらとめくった。当然だけど、話の内容はさっぱりわからなかった。それでも絵は上手で、見ているだけでも楽しめた。ちょうど最後のページをめくる頃、案内のボーイに呼ばれた。漫画を本棚に戻し、待合室を出てボーイに従って階段をのぼり、個室に入った。

 部屋は狭く、ベッドと壁の隙間は、やっとひとり立てるくらいの幅しかなかった。シャワー室はぼくの肩まであるアクリル板で仕切られているだけだった。ベッドの上でシャツ一枚に下着のみを身に着けた女が待っていた。若くて骨が浮き出るくらい痩せた子だった。彼女はぼくに、体を洗って歯を磨くように、と命令した。ぼくは服を脱いでシャワーを浴び、言われたとおり歯を磨いた。仕切りを出て籠のなかに入っていたバスタオルで体を拭いた。女はベッドの上で立っていた。近くで見ると、前歯が飛び出ていてパルテノン神殿みたいな顔つきをしていた。ぼくはベッドにのぼり、立っていた女の肩に手をのせ、力を入れて跪かせ、女の開いた口にぼくのモノをねじこみ、奥まで腰を押しつけた。女は首を振り、苦しそうな抗議の声をあげたけれど、ぼくはやめなかった。そのまま何度か腰を振り、二分もしないうちに果てた。女はティッシュの塊にぼくの精液を吐きながら文句を言った。こんな乱暴な客には出会ったことがない。お店のひとに言いつけますよ、と脅しもした。ぼくは無言でベッドに寝転がり、枕に頭をのせて、木材で格子模様の描かれた天井を眺めた。腕で視界を覆い、なにもかも真っ暗にして、泣いた。女のほうは見なかったけど、きっとアマゾンに打ち上げられた鯨でも見るような目でぼくを見ていただろう。しばらくは沈黙が降りた。

 やがて女が近寄ってくる気配を感じた。ベッドが軋み、マットレスがたわんだ。女が話しかけてきた。

 彼女の名はアリス。偽名ではなく、本名らしい。訊いてもいないのにそう言った。先ほどの怒りはどこかへ行ったみたいで、すぐにアリスはぺちゃくちゃとしゃべりはじめた。ぼくは黙って耳を傾けた。二十分もしないうちに、ぼくは彼女の全財産を残らず巻きあげてしまえそうなほどの知識を得ていた。

 アリスは心理学を専攻する大学生だった。ゆがわら湯河原にある実家から平塚の学校まで電車で通い、授業が終わると熱海まで働きにきた。「だって、大学の同級生と顔をあわせるわけにはいかないですから」アリスが熱海で働きはじめたのは十日ほど前からだった。この類の仕事ははじめてだった。最初の客は福岡から出張できた会社員で、ひりひりと痛むほど執拗に乳首をいじられた。毎晩十一時に仕事を終え、裏口から出て熱海の駅まで歩き、電車で湯河原まで帰った。駅から家までは徒歩十二分で、急げば九分で着いた。夜道は暗く、時々、道路を挟んで猪の親子を見かけることもあった。家に着くと家族はみんな寝ており、足音を忍ばせて二階にある自分の部屋へ向かった。

 両親は幼い頃に離婚していて、祖父母と母親、妹と暮らしていた。熱海にきたのは小学生のときの遠足以来だった。この街ではまだ温泉に入ったことはなかった。学校が休みの日は、湯河原駅前のファミリーレストランで、ホールのアルバイトをしていた。くらげが好きで、たまの休みはひとりで水族館へ遊びに行った。同級生のだれよりもはやく化粧をできるのが自慢だった。車の免許は持っていなかった。よく物を失くした。銀行の残高には二十八万六千円あった。ヨーロッパへ留学するためにお金を貯めていた。

「最低でも百万は必要なんです。足りない分は、向こうで働いて稼ぐつもりなんです。どの国に行くかはまだ決まっていないんですよ。とにかくこの国を出ていきたくて仕方ないんです。だから予定だけ先に立ててしまっていて、詳細はこれから考えていこうかと思ってるんです。でも」彼女は天井を仰いで遠い目つきをした。「できたら料理のおいしい国がいいですね。ヨーロッパへ行ってなにが変わるかわかりませんけど、わたしに行けるところなんて、せいぜいそのあたりが限界なんです。まさかゲームみたいに、画面の向こうの異世界に旅立つ、なんてわけにもいきませんから」

 それからアリスはぼくのことを知りたがった。ぼくは訊かれた質問にこたえた。期間雇用のアルバイトで、この街にきて一年と半年になる、と話した。

「わたしも、夏休みの間は軽井沢のレストランで短期バイトをしていたんですよ!」いっしょですね、と言って彼女はぼくの顔色をうかがい、ぎこちなく笑った。「ほんとうはわたしもあっちこっち巡りながら稼ぎたいんですけど、そんなに長く大学を休むわけにはいかないんです」

 それから彼女は、ぼくがこんなにも長く一か所に留まっていることを不思議がった。

「親しい友人がこの街でできたんです」ぼくは説明した。「それに、温泉へ毎日浸かれるので、けっこういまの生活は気に入っているんです」

「タダ無料で温泉に入れるなんて羨ましいな。できればわたしも近所の温泉へ通いたいんですけど、いまはお金を節約するために、いろんなものを我慢しなくちゃいけないんですよ」

 アリスはぼくの隣に寝転び、肩に頭をもたせかけてきた。そうすると小夜の二倍は長い黒髪が、ぼくの二の腕に絡みついた。ぼくの手の甲を人差し指でなで、肌が滑らかなのに驚いた。きっと温泉のおかげだ、とぼくが言うと、悔しそうに唇を噛んだ。

 そうこうしているうちにタイマーが鳴った。二人でシャワーを浴び、ぼくは彼女が手渡してくれたバスタオルで全身を拭いた。彼女が畳んでおいてくれた服を着ると、ぼくらは手を繋いだ。並んで部屋を出て階段をおり、一階に着いたところで腕を引っ張られた。彼女は最後の一段の上に立っていて、振りかえるとちょうど同じ高さでぼくと目線がぶつかった。彼女は唇をこちらに寄せ、キスをするような素振りを見せた。ぼくはなにも言わず抵抗もせず、されるがまま突っ立っていた。ぼくらは触れるか触れないかくらいの淡いキスをした。記憶にある限り、ぼくが女の子とキスをしたのはこのときが初めてだった。またきてくださいね、と言って彼女はぼくに微笑みかけた。ぼくはなにも言わずに背中を向けた。その女からは腐乱した川魚みたいなにおいがした。


🌕15


 次の日の朝。ぼくは習慣であったランニングをしなかった。この街にきてからは土砂降りの日も、木枯らしが吹き荒れる日もつづけていた習慣で、やらなかったのは数年ぶり、熱海では初めてのことだった。いつもより朝寝坊をし、着替えを巾着袋に詰めて大浴場に向かった。

 シャワーで体を洗い、髭を剃ってから露天風呂へ出た。もう裸でもそこまでの寒さは感じない。手すりから身を乗り出し、街を見下ろした。この習慣はまだ消滅していなかった。露天風呂にはすでにひとがいた。なぜすぐに気がつかなかったかわからないけれど、金井さんが湯に浸かりながら、いつもとは違うリラックスした表情を浮かべて、ぼくに手を振っていた。お互いに朝の挨拶を交わし、ぼくは湯に浸かった。

「おらは毎日この時間にここへくるんだ。高ければ高いほど、見える景色もいいものだよね。相沢くんは朝に入浴するのは時々かな?」

「いえ、ぼくも毎日この時間に入りますよ」

「そうなの? 不思議だな。いままで一度も顔をあわせたことがないなんて」彼は首を傾げた。

 穏やかな時間が流れた。金井さんは普段、職場ではほとんど口を開かなかったけど、このときはよくしゃべった。彼は自分が幼少期を過ごした東北の片田舎の話をした。

「むかしは釣りをするのに許可をとったり、お金を払う必要なんてなかった。学校からの帰りとか、好きなときに釣り糸を垂らしたよ。おらの住んでいた集落は山奥にあった。冬は積雪で車が通れなくなるし、街からも遠すぎるからとにかく不便でね。ひとの流出が止まらなくて、とうとう集落自体がなくなってしまった。我が家の庭で育てたミミズで、よく友達と渓流釣りをしたもんさ。もちろん、おらは海釣りだってやれる。相沢くんは釣りはするのかい?」

「いえ。ぼくはただ、釣りをしているひとを横で見ているだけです」

「そういえば相沢くんは、海でお昼休みを過ごすんだったね。おらも時々、ひとりになりたくなるよ。従業員食堂で食べてたって、楽しくなんかないものな」彼はため息をついた。「おらとまともに言葉を交わしてくれるひとなんて、食堂のおばちゃんくらいさ。まあ、それもおら自身のせいだから仕方ないんだけどね」

「そんなことありませんよ。金井さんはだれよりもよく働いてます」

「この間はレストランのひとが怪我しただろう? 怪我で済んだからよかったものの、もっと大きな騒ぎになっていた可能性だってあった。職場にいたときはおらがやったんじゃないって言いきっていたが、部屋に帰ったら段々わからなくなってきちまった。ほんとうはおらがやって、気づかずにそのままにしたんじゃないかって」

「あれは金井さんじゃありませんよ。べつのだれかがやったんでしょう」

「歳をとるとな、自分のやったことに自信が持てなくなる。物忘れだって激しくなるし、責任を押しつけられても強く否定する気力が湧かないんだ。おらが責任を被って事態が丸く収まるなら、それでいいのかもなと思ってしまう」

「大事にならないうちはそれでもいいかもしれませんが」

「この仕事を辞めようかと考えたこともあるんだ。おらにはあわないんじゃないかって」

「それならどうしてつづけるんです?」とぼくは尋ねた。

「そういう気分にならないっていうのが一番の理由だね。歳をとるとそう簡単に仕事を辞められないんだ。そんな活力も自信もない。相沢くんくらい若かった頃は、陸に上がりたての魚みたいに跳ねまわっていたさ。だが六十二歳の男を新たに雇ってくれる職場なんてそうそうないよ。いまの仕事だって、見つけるまでに相当苦労したんだ。このあたりには知りあいだって少ないしな。話を聞いてくれて、面接を受けさせてくれるだけでも、おらたちにとってはありがたいんだよ。なかには電話で年齢を告げた途端に、態度が変わって電話を切られることだってある。そういった経験があるから、雇ってもらえるだけマシだとも思うんだ。怒鳴りつけられるのを我慢すればお金がもらえる。職を失ったら生活していくことができないものな。養っていく家族がいるならなおさら、いろんなものを我慢しなきゃならない。守るべきもののためさ」

 そう言って金井さんは目をつぶり、くつろいだように深い吐息を漏らした。ぼくはそんな彼をじっと見つめた。やれやれだ。

「ホテルの裏方仕事というのは、おらくらいの年齢の人間にとって救いの場所であり、掃きだめでもあるんだ」金井さんは言った。「客の前に出る仕事じゃないし、体を動かすだけの簡単な仕事だから、おらの年齢でも雇ってくれる。見様によっては手を差し伸べてくれているんだ。おらみたいなものが最後に行きつく場所がここなんだよ。だからおらは会社からクビを切られるまではなんとかつづけていこうと思う。体が維持できる限りはね」ここで金井さんはぼくを見た。「相沢くんはおらによくしてくれるから、おらみたいにはなってほしくないな。いまのうちに努力して、歳をとったら楽できるようにならないとね。もっとも相沢くんはおらとは頭の出来が違うものな。おらが年寄りのくだらない説教をしなくても、きみは仕事もできるし物事を器用に扱うんだろう。おらみたいな頭の悪い人間は田舎に引っこんでおくのが一番安全なんだ」

 ぼくは立ち上がり、手すりに寄りかかって体を冷ました。滴が汗と絡まってぼくの肢体を流れ落ちる。ぼくは金井さんと目をあわせずに言った。

「船橋さんの𠮟責ですがね。そう長くはつづかないと思いますよ」

「どうしてそう思うの?」金井さんは怪訝そうにぼくを見た。

「なんとなくわかるんです。大丈夫。こんな悪い時間は、いつまでもつづいていくようにはできていないんです」

 ぼくは背中を向け、露天風呂をあとにした。



 八時五十分に出勤し、タイムカードに印を押した。九時にミーティングがはじまり、裏方作業の従業員が、ベッドシーツやピローケースが積まれた薄暗い倉庫に集合した。そこで今日の予定を船橋さんが説明し、ぼくらはそれに耳を傾けた。午前中は宿泊客が帰ったあとの客室清掃、午後は客室清掃と、大浴場やカラオケボックスなど、各地の清掃とのことだった。要するにいつもどおりだ。

 この日のぼくの担当は二階の客室だった。同じ階を金井さんと分担することになった。ぼくらは軽く打ちあわせをし、ぼくが二〇一から二〇七までの七部屋を、後半の七部屋を金井さんが清掃することに決めた。ノックをして客がすでにいないのを確認し、階共通のマスターキーで扉を開ける。スイッチに手を触れ、暗くなった部屋を明るくする。閉じたカーテンを開いて留める。ベッドシーツを剥ぎとり、ごみ箱をからにし、掃除機をかける。新たなシーツをベッドにセットする。洗面台は専用の雑巾で拭いた。便器をブラシでこすり、アルコールを吹きかけて除菌する。浴室に入って扉を閉め、壁や浴槽や鏡に洗剤をばらまく。手の届くところはすべてスポンジでこすり、排水溝にたまった髪の毛を取り除き、シャワーで全体を流してから、水に濡れている箇所を乾拭きする。掃除機を持ち上げ、部屋を出ていくときに、テレビ台の上に鮮やかな紫色をした、飴玉の包装紙が捨ててあるのを見つけた。ぼくはそれをズボンのポケットに入れた。

 正午になる一時間前に二〇七号室までの清掃を終えた。廊下の向こう側をのぞくと、金井さんが二一〇号室の清掃を終え、二一一号室に入っていくところだった。二部屋は手伝うことになるだろう。ぼくはひとに見られていないことを確認し、二〇八号室の鍵を開け、足を忍ばせることもなく、なかへ入った。

 部屋は綺麗に清掃されていた。靴を脱いでなかに上がり、寝室を横切って窓に近づくと、時間が経って床に落ちていたほこりが、陽光に照らされながら、ふたたび空中に舞い上がった。窓の外には海が見える。海面が太陽を反射し、室内の暗闇に秘匿された一画を明るみに引きずり出す。ぼくは目を細めながら、思わず口元に笑みを浮かべた。

 振りかえり、金井さんの努力の痕跡を見つめた。ベッドシーツは洗い立てで、しわひとつない。冷蔵庫についた指紋は綺麗に拭きとられている。ぼくは部屋の中央へと歩み、ズボンのポケットに手を入れた。取り出し、握った拳を開くと、手の平の上には、けばけばしい飴玉の包装紙。ゆっくりと手の平を傾けると、それはやがて重力に負け、名残り惜しそうに肌から離れる。ひらひらと宙を舞いながら、時間をかけ、音もなくゆるりと床の上に着地した。

 午後になれば、船橋さんが各部屋の点検をしに現れるだろう。そのときのことを想像すると、口元へ浮かべた笑みが大きくなる。彼は部屋のどまん中に放置されたごみを見つける。憤りに鼻息を荒くし、空間を埋め尽くすように膨張しながら、廊下を歩いて容疑者を探す。やがて額に汗の玉を浮かべて作業に集中している哀れな老いぼれを見つけ、いつものあれがはじまる。これ以上に滑稽なことがこの世にあるだろうか? ぼくは声を上げて笑った。大きく息を吸い、空気を震わせるように笑った。だれにもぼくの声は聞こえていなかった。だれもぼくを見ようとはしていなかった。馬鹿め。眼球が腐ったゴムでできた、底なしの阿保共。お前らの脳内にはお花畑が巣食っていて、ブリキで組み立てられたつくりものの蝶が舞っている。いつまでもいつまでも、そいつを本物と思いながら追いかけて行けばいい。ぼくを置いて、どこどこまでも行ってしまえばいい。

 笑い声は萎むように消えた。口を閉じ、しばしその場に佇んだ。振りかえり、海を眺めた。そこにはぼくの感情など映っているはずもなく、穏やかな風に白いさざ波を立てている。巨大な渦潮でも発生して、熱海の街ごと飲みこんではくれないだろうか。くるくると円を描きながら中心へと沈んでいくぼく。ぼくもその場でバレエダンサーのように、くるくるまわりだす。いつのまにか、この渦潮を発生させていたのはぼくになっている。街もひとも巻きこんで。

 ふらふらと歩いて二〇八号室をあとにした。廊下を歩く頃には足取りもたしかになり、歪な表情は歳相応の男のそれに戻る。ぼくは多くの犠牲の上に立っている。なにがなにやら、もうわけがわからない。



 次の日の朝。ぼくは船橋さんに今日限りで仕事を辞める旨を伝えた。

「え? どうしたの、そんな急に。困るよ」彼は目を丸くした。

「実は実家の母親が体調を崩したんです。命に別状はないんですが、人手が足りなくなってしまったので、手伝いに帰らないといけなくて」とぼくは説明した。

「うーん、困るなあ。せめて一か月前には言ってくれないと、こっちも予定を組んでしまってるからね」

 ぼくは申し訳ないと頭を下げた。

「でも仕方ないか。べつに相沢くんが悪いわけじゃないもんね。だれにだってやむにやまれぬ事情はあるよ」船橋さんはころっと態度を変えた。「お母さんの体調はそんなに悪いの? なにかの病気?」

「病気と言うよりは症状と言ったほうが正しいのかもしれません。むかしからあまり体が強くなかったんです」

「実家に帰るってことは熱海を離れちゃうんだ。相沢くんの実家ってどこにあるの?」

「長崎です」

「家の手伝いってことは、農業か商売でもやってるのかな?」

「うちはぼくが生まれたときからゴーヤーチャンプルー屋なんです」

 ぼくはこの話が気に入った。



「ぼくらの血縁は元々、大阪に居を構えていたんです。ところがぼくのおじいちゃんが仕事で長崎に出稼ぎに出かけることになり、結果的に、ぼくのおばあちゃんと娘であるぼくのお母さんもついてゆくことになったんです。ぼくのおじいちゃんは海に沈んだ沈没船やら漂流物を潜って回収する、いわゆるサルベージを生業にしていたんです。ええ、たしかに。けれどもむかしはそういう職業の人間もいたようなのです。その仕事はギャンブルに近いものがありました。なにせ金目のものが引き上げられるかどうかは、運に寄るところが大きいですからね。生活の水準は浮き沈みが激しかったらしく、食卓に牛肉や珍しい山菜やきのこが並ぶこともあれば、お米に大量の水を足して嵩増ししなくてはならないときもあったそうで、苦労が多かったみたいです。

 おじいちゃんはサルベージ中の事故で亡くなってしまいました。危険な仕事だったので、おばあちゃんも心のどこかに覚悟があったみたいで、取り乱すようなことはなかったと聞いています。なんとかして生計を立てなくちゃならない。娘を養わなくちゃならない。そこで子供の面倒を見やすい自営業の仕事を、おばあちゃんの実家のある沖縄からアイデアを得て、ゴーヤーチャンプルー屋を開くことになったんです。開業資金はおじいちゃんの保険金から捻出しました。それでも借金を抱えることにはなって、開業して数年はお金に苦労したみたいです。その辺の話は母親から耳にできものが残るくらい何度も聞かされて育ちました。

 ゴーヤーチャンプルーの専門店なんて、当時は長崎中を探しまわっても、ほかに見つからなかったそうです。珍しさもあってお店は繁盛しました。もちろん、味がおいしいと言う前提があってこそですけどね。おばあちゃんは人付きあいのよいかたでした。店は常連さんのおかげで成り立っていたとも聞いています。もしかしたらおばあちゃんの旦那という位置に収まろうとした客もいたのかもしれませんが——おばあちゃんは沖縄美人でしたからね——生涯独身を貫きました。死ぬまでおじいちゃんに恋をしつづけていたのだと、母は言っていました。ぼくはおじいちゃんには出会ったことがないですが、豪快でざっくばらんで、裏表のないひとだったそうです。

 おばあちゃんはぼくが幼い頃に亡くなりました。なにかの病気だったわけでもなく、寿命だったようです。お店はお母さんが引き継ぎました。すでにその頃には父と二人で店を切り盛りしていたんです。父は元々、このお店の常連でした。おばあちゃんのお手伝いをしていた母にひと目惚れをし、猛烈なアプローチをかけたそうです。結婚したら婿になるという条件で、二人は交際をはじめました。一年間の交際を経てぼくが生まれ、店を引き継いだのです。

 こうしてお店は存続してきました。いまでもそれなりの人気店です。味はぼくが保証します。おばあちゃん直伝の調理法がずっと守られているんです。うちのゴーヤーチャンプルーは世界一おいしいんです。ですがさすがに父ひとりでとなると、店を切り盛りするのは難しい。両親は二人ともぼくに好き勝手を許してきましたが——よい父と母を持ちました——今回はほんの少しだけ親孝行をしようと思うんです。明日には熱海を出て、バイクで西へ向かいます。この街には長く暮らしたので、別れを告げなければいけないのは名残惜しいですが、いつかはまた訪れて、気の済むまで温泉に浸かりたいと思っています」

 ぼくが話しかけていたのは、顔は知っているけど名前は知らない、フロントの新入社員の若い女性だった。裏階段を清掃していたときに、通り過ぎようとしていた彼女にぼくが声をかけた。口を利いたこともないぼくに話しかけられて、礼儀上おとなしく話を聞いていたけれども、とまどいは隠せていなかった。

「大変ですね。お母さんの体調がはやく快復することを祈ってます」

 その若い女性社員はせっかくだからと言って、ぼくの携帯電話の連絡先を訊いてきた。ぼくは断ったけれど、女性は特に残念そうな様子も見せなかった。

 お昼になると船橋さんに、いっしょに従業員食堂でご飯を食べないかと誘われた。これが最後だからと。ぼくは了承して彼のあとについて地下に向かい、久方ぶりに昼の食堂を訪れた。ホワイトボードに書かれていたその日のメニューは、炊き込みご飯と季節野菜の豚汁、豚の角煮だった。ぼくらは皿とお椀に料理をよそい、期間雇用アルバイトの席に向かいあって座った。箸立てから箸を抜き、いただきます、とつぶやいて料理を食べはじめた。

「相沢くんにはずいぶんと世話になったな。きみがいてくれて、どれだけ我々の仕事が楽になったか、言葉じゃ言いあらわせないほどだ」

「そんなことはありません」そそられない料理を箸で口元に運びながらぼくはこたえた。「いろいろとご迷惑もかけてしまいました」

「迷惑? きみに迷惑をかけられたことなんてないよ。あのじいさんはべつだけどね」

 ぼくは首を振ってなにも言わなかった。船橋さんは言った。

「はっきり言って、わしは期間雇用のアルバイトという人間を、あまり信用してはいなかったんだ。彼らには多くの場合、責任感というものが欠けている。自分は社員ではない、この会社に勤める人間ではないから、大きなミスをしても背中を向けて逃げ出せばいい。そんな態度で仕事にのぞむ連中を山ほど見てきた。ところが相沢くんはしっかりやってくれたよ。社員のだれよりもよく働いてくれた。長崎に帰ってしまうのは仕方ないけれど、落ち着いたらまた戻ってきてくれていい。なんだったら、いつまでもここにいてほしいくらいだよ」

 ぼくは礼の言葉を言って頭を下げた。食欲がなく、料理を少しよそいすぎたと思った。

「これからこの国はますます負担を抱えていくのだろうな」船橋さんは豚汁を息を吹きかけて冷まし、ずるずるとすすった。「きみたちの世代は苦労をすると思うよ。職を探すのも難しくなってくるだろうし、給料だってなかなか上がらないだろう。とにかく、そういうふうに言う学者もいるんだ」

 ぼくは頷いた。豚肉は筋が多く、噛み千切るのに苦労した。野菜には色がなく、熱が通りすぎていて、味のついた段ボールの切れ端を食ってるみたいだった。

「相沢くんくらい若ければ、旅をしながら仕事をしてお金を稼ぐのもいいだろう。でもいつまでもそんなことをつづけるわけにはいかないよ。いつかはどこか場所を決めて、そこに根を張らなきゃいけない。でないとどこにも栄養が行き渡らないまま、育つものも育てられないからだ。信頼や実績、仕事のコツ。仕事を変えるたびにそれまで積み重ねてきたものをリセットするなんてもったいないじゃないか。きみは頭もいいし、物事を一歩離れて多角的に見ている。いまの暮らしはきみのように能力のある人間には似あわないんじゃないかな。一番はひとつところにどっしりと腰を据えて、手に職をつけることだ。職人なんかがいいだろうね。刀鍛冶や和紙職人、伝統的なものだとなおいいだろうな。ほかのだれもが真似できないから、競争になることもない。食いっぱぐれることがないんだ。そういう職を手に入れることがこれからの理想になっていくんだろう。わしの親戚にも——」

 そこから先は聞いていなかった。あるいはもしかしたら、彼は彼なりにぼくを気づかい、背中を叩いてくれていたのかもしれない。その可能性もある。だが真実を求めようともしない人間の言葉などあまりにも軽すぎて、ぼくの芯を構成する部分に届いてくるはずもなかった。



 仕事を終え、寮の部屋に戻った。別れの挨拶は淡白なものだった。元々ぼくと関わりのあるひとなど少なかったし、ぼくがいなくなって残念がる人間もいなかった。いや、食堂のおばちゃんはそれなりに気を落としてくれた。彼女はお腹が空いたら食べなさいと言って、ラップに包んだおにぎりを二つ手渡してくれた。具はぼくの好きな梅干しを入れたと言っていた。ぼくはありがたく受けとり、翌日の朝に食べようと思って、部屋の比較的涼しい場所にそれを置いた。中身が梅干しなら、明日まで保つだろう。

 床に寝転がり、天井を眺めていた。カーペットのささくれが首筋やふくらはぎ、剥き出しの素肌をチクチクと刺した。この部屋の天井の模様を観察した時間を、これまでの分すべて総合したのなら、おそらく数百時間にも及ぶのだろうけど、観察をはじめると毎回新たな発見がある。見たこともない図様をそこに見出し、自分の過ごしてきた時間のちっぽけさを知ることになる。そのまま何時間も目を見開いていた。

 気づくと外は暗く、天井の模様など闇のなかに溶けてしまっていた。時刻を確認する気にはなれなかった。時間の感覚など、とうのむかしにどこかへ投げ捨てていた。ぼくは体を起こし、暗がりのなかでするべきことをやった。荷物はすでに軽くまとめてあった。必要なものをあわせたら、リュックひとつ分にしかならなかった。不要なもの——余分な服、いつかつかうこともあるだろうと束ねていたビニール袋の塊、美術館の半券、水着とゴーグル、この街にきてまっ先に買ったサンダル、ハンガー、使い古された髭剃りなどはごみ袋に放りこんだ。最後に財布から図書館の貸し出しカードを取り出し、じっと眺めた。この街にきてから最初に起こした行動が、このカードを申請することだった。図書館には何度も何度も足を運んだ。いまのぼくに捨てづらいものがあるとするなら、これだ。プラスチックの表面が、窓から忍びこむ街灯の明かりを反射してきらめいた。裏には休館日や開館時間、諸々の注意事項が印刷されていた。表の右上には温泉のマーク、その下にはぼくの署名が書かれていた。注意事項には『このカードが不要になった場合は、図書館にお返しください。』とある。くだらない感傷だが、ぼくはそれを手にしたまま立ち上がり、寮を出た。

 いつかの夜に訪れたときのように、図書館は静まりかえっていた。閉館時間にのみ開けられる返却ポストに、ぼくは自分の貸し出しカードを入れた。それは軽すぎる音を立てて滑り、向こう側に着地した。やれやれ。わざわざ二十分も歩いてきて、やった行為がこれだ。でも胸の淀みはいくらか晴れ、寂しさがひとしずく、どこかぼくの知らない場所へと霞のように消えた。カードはぼくの名前が消され、ほかの利用者のために再利用されるだろう。それを想像すると、多少はぼくの気持ちも晴れた。あるいは親切な司書が、いつまでもぼくの返事を待ちつづけるのだろうか。わからない。ここには安らぎがあった。ここはいつでもぼくを受け入れてくれた。ぼくは世話になったと言葉にして、灰色の建物に別れを告げ、きた道を戻った。

 この街に別れを告げるべき場所はあった。でも別れを告げるべきひとはいなかった。そう思っていた。本道と側道が交わる交差点に差しかかり、広場に浮かびあがった提灯の、おぼろで夢のような薄明かりを目にしたとき、ぼくは自然と吸い寄せられるように、何度も訪れたことのある、その場所に足を向けていた。屋台には営業中の証である暖簾がかけられ、遠く懐かしい思い出のように、その空間に漂っていた。ほかに客の姿はなかった。

 店の主人も夢の世界の住人のように、淡く消え入りそうな姿を、ぼうっと闇夜に浮かびあがらせていた。彼は頭に薄汚れて煤けたタオルを巻き、ラーメンの出汁が入った寸胴鍋をおたまで掻きまわしていた。シャツは肩のあたりまでまくられていて、細く、針金のような腋毛が束になってのぞいていた。腰かけは色褪せたデニム地。コンロの火にかけられた小さめの鍋は、いつでも麺がゆでられるように湯が張られていた。その横にはほうれん草や、メンマや、ゆで卵などの具材が、タッパーによって小分けにされていた。ゆで卵を二等分するための糸が屋台の柱にくくりつけられていた。龍と渦巻き型の文様が描かれた丼が、逆さまに重ねられていた。塗料の禿げた菜箸が、タッパーの上に寝かせるように置いてあった。

 ぼくは少し離れたところから眺めていた。主人の作業はのんびりとしていて無駄が多かった。なにかの作業をしている途中にほかの忘れていたことを思い出し、作業を中断する。それが繰りかえしつづくのだ。ぼくは主人の視界に入る位置に移動し、声をかけた。彼は顔を上げてぼくを認めると、片方の口の端を上げてにやりと笑い、欠けた歯をのぞかせた。両の腕を開き、ぼくを席へ案内しようとした。

「今日はラーメンを食べにきたのではないんです」ぼくは言った。「実は明日、熱海を離れることになったので、お別れを言いにきたんです」

「そうかそうか。それは寂しくなるなあ」老人はテーブルの前の椅子を引いた。「なんにせよ、食べていきなさいな。これが最後だと言うならなおさら」

 ぼくは首を振った。「軽い散歩のつもりだったので、財布を寮の部屋に置いてきたんですよ」

「そんなのは構いやしねえよ。最後なんだ。わしがおごるよ」そう言って老人はにやりと笑った。



 ラーメンはいつもどおり、少し伸びていて味が薄かった。主人がぼくの前に丼を運んでくると、ここ数日はまったく感じなかった空腹感が胃のなかで暴れだした。麺もチャーシューも、いつもより大盛りにしてくれた。晩ご飯を食べていないことを、このときまで忘れていた。ぼくは行き倒れた人間みたいに麺をすすりつづけた。

 この日はほかに客がいなかった。「今日はもう客はこねえだろうな」と店主は言って、ぼくが食べ終わらないうちに暖簾をしまい、空のテーブルや椅子を片づけはじめた。やがて作業を終えるとぼくの向かいに腰を下ろし、熱海を離れたあとはどうするのかとぼくに尋ねた。

「北へ行こうと思ってます。それ以外のことはなにも決まっていません」そうぼくはこたえた。

「そもそもこのあたりのどこへ勤めていたのかな?」

 ぼくはホテルの名前を教えた。

「それなら船橋っちゅうやつがいるだろう?」

「ええ、ぼくの上司だったひとです」ぼくは驚いた。「知っているんですか?」

「この街でわしの知らねえことなんてねえよ。船橋だって、あいつがガキのころから知っている」

「ずっとこの街に住んでいるんでしたね?」

「おうよ。前にも話したことがあるが、わしは生まれも育ちもこの街だ。仕事場も熱海だし、結婚して子供を産んだのも熱海だ」

 それから店主は彼の職業について語りだした。どうやらぼくのホテルの大浴場を設置したのは彼らしい。

「驚きました」ぼくは言った。「あの温泉には毎日浸かっています。こんな繋がりがあるなんて」

「それだけじゃないぞ」と店主は言った。そしてぼくでさえ知っている熱海のホテルや旅館の名を並べ立てた。「あそこも、あそこも、あそこも、風呂場は全部わしらの会社がつくったんだ。熱海の街はわしらがつくったと言っても過言じゃねえよ」

 ぼくは麺と具を食べ尽くし、スープを飲み干した。空になった丼を店主が片づけた。特に用があるというわけではなかったけど、ぼくは座ったままぼーっとしていた。晴れていて星の見える日だった。遠くには波の音が聞こえた。時折、車のヘッドライトがまばゆい光でぼくを照らした。ぼくはその光に魅入られた。それはぼくとあらゆるものの隔絶を強固にする光だった。現世はぼくの手の届かないところにある気がした。ぼくの生活や選択は、ほかの数えきれない多くのものと同様に取り戻せない過去になっていた。信号が青になり、車が通り過ぎると、光はぼくを見捨ててどこか遠くへ流れ去っていった。いつまでもぼくごときを照らしているわけにもいかないのだ。


  きてみれば わが故郷ふるさとは 荒れにけり

        庭の間垣も 落ち葉のみして


 声がしたのでぼくは振りかえった。老主人がぼくの背後に立ち、ぼくと同じように走り去ってゆく車のテールランプを見送っていた。いつものようににやついてはおらず、目はこことは違う場所を見ていた。老人は静かにぼくを見下ろした。

「いまの歌は・・・」ぼくはそれ以上言葉にできず、沈黙をもって問いかけた。

「わしの好きな詩なんだ。わしは詩をたしなむんだ」と老人はこたえた。

 彼はノートを一冊、大事そうに抱えていた。表紙は赤く、ところどころ擦り切れていた。

「なんです、そのノートは?」

「わしはそうたくさんの物事をおぼえていられるほど賢いわけじゃねえ。だから本を読んでいて気づいたことや、テレビで聞いたセリフなんかで忘れたくないものがあれば、ここに残しておくんだ。あとでいつでも思い出せるように」

 ぼくは差し出されたノートを受けとり、ページをぱらぱらとめくった。最後のページまで文字でびっしりと埋められていた。その紙からは記憶にあるにおいがした。ページをめくるたびにぼくの指先は熱を帯び、老主人の意識がぼくに流れこんでくるようだった。


   金は天下の巡りもの。手放す者のもとにのみ、降りそそぐ


  ハラジロカツオブシムシ


  ニーチェよ。おまえはダメだ。


  君看雙眼色きみみよやそうがんのいろ 不語似無憂かたらざればうれいなきににたり


  アインシュタインなる男と同時代の人間でなくてよかった。同年代にあんなのがいた  ら、自分の才能のなさに絶望してたところだ。


  チェリーピッキング


  公共システムを信用してはならない。頼りにしてはならない。集団の知能は個人のそ  れに劣る。


  子どもらと 手まりつきつつ この里に
       遊ぶ春日は 暮れずともよし


  デモクラシーと量子


  盲目の出目金


  信じることと疑うことは矛盾せず、疑うことと否むことは相いれない


  裏を見せ 表を見せて 散る紅葉


  意識とは重力?


  マクロからミクロへ


  結び目


 ぼくは長い時間をかけてノートを読んだ。往来は減り、周囲は静まりかえっていた。時々顔を上げると、老人はにやにやと笑いながらぼくを見た。

 老人が口を開いた。


     金色に光り輝く世界よ

  あなたの目には わたしの存在が灰色に映ろうとも

  お願いだ ほんの片隅でいい

  わたしの色に 染まっておくれ


「なんです、いまのは?」ノートを返しながら、ぼくは尋ねた。

「わしのつくった詩なんだ」店主は照れたように笑った。「近所の大学生に勧められたんだ。自分でもつくってはどうかってな。もちろん、うまくできてるとは思わねえが」

「そうですか。とてもいい歌に聞こえました」とぼくは言った。



 これから家に帰るのかと老人に尋ねると、まだ用事があるのだと彼はこたえた。

「暇ならいっしょにくるかね?」

 ぼくは頷き、彼が屋台を引っぱるのを背後から押して手伝った。向かった場所はぼくの勤めていたホテルの隣、幌で覆われた廃墟の前だった。老人は立ち止まり、ちょっと待っててくれ、とぼくに言い、屋台の陰からなにかを引っぱり出した。それは蛍光シールの貼られた青い制服と、スイッチを押すと滲むような赤い蛍光色に光る警棒だった。彼はそれらを身に着け、警備員の恰好になった。

「どうしてそんな恰好をするんです?」

 老主人はこたえた。ここは数年前まで実際に営業していたホテルだった。会社が潰れ、ホテルは営業をつづけられなくなり、責任者はみな蒸発してしまったけれど、まだ自分が残ってる。

「わしもオーナーのひとりだったんだ。出資してたんだよ」

 廃墟は古く、コンクリートの破片がいつ落ちてきてもおかしくはなかった。本来ならば、目の前の道路を通る通行人や車を誘導するために、警備会社の警備員を雇わなければならなかった。そういう決まりがあるのだ。ところがそのような金はどこにもない。解体作業の目星も立っていない。代わりの人手もない。

「みんなどっかへ行っちまった。いまはもうわししかいない。だからわしがやるしかないんだ。日中はほかの仕事があるからこれないが、せめて夜だけは役目を果たさなければならないと思ってな」

「いつまでここにいるんですか?」

「朝日が昇るまでだよ。せめて暗いうちはいないと危ないからな」

 人通りはなかった。車も通らなかった。この先に目指すべき目的地などなかった。建物の明かりもいつしか消され、店主の持つ警棒の赤い光が、闇夜を怪しく照らしていた。店主は海に背中を向けて道路の縁に立ち、交互に左右へ注意を向け、警戒していた。ぼくはそんな彼の横に並び、話しかけた。

「日中も仕事なら、いったいいつ眠ってるんです?」

 老人は微笑んだだけだった。



 何時間もそこで過ごした。ぼくは座ったり立ったりを繰りかえしたけど、店主はずっと立ったままだった。彼が動くたびに制服についた蛍光シールが光を反射した。警棒は一度も本来の役割で振るわれることはなかった。店主はよくしゃべった。この夜の時間をだれかと過ごしたことはないのだと言った。

「このホテルはわしの夢だった」彼は言った。「すべての精力をここへ注ぎこんでいた。いっときは軌道に乗って、うまくいくものと思われた。だがバブルの崩壊とともに、なにもかもおじゃんになっちまった。わしは多くのものを失った。妻も子供も、わしのもとから離れていってしまった。あいつらを責めることはできねえ。わしは好き勝手やった。それだけの迷惑と心配をかけたんだ。家族がばらばらになるのは時間の問題だとわかっていて、それでもわしは突き進んだ。あの頃のわしは己の生に意味があるんだと信じていた。そいつを国や家族が与えてくれるのだと信じていたんだ」

 妻と子供に戻ってきてほしい。老人はぼくの目を見てそう言った。

「わしは多くのものを失った。けどなればこそ、責任は最後まで果たさなければならないとも思うんだ。でなければわしの過去の言動に意味などなかったことになってしまう。わしはいっときたりとも適当に生きてきたつもりはねえ。無責任に言葉を発したつもりもねえ。多くの人間を傷つけてきたのかもしれねえが、わしの叫びは魂の底から出たものだったはずだ。ここから逃げ出せば、だれにも恥ずかしくて顔向けできねえんだ。妻や子供にもな。多くのものを失ったからこそ、なにかそれに代わるものを得たのだと信じたいんだ」

 いつしか太陽が水平線から顔を出し、熱海の街を照らしはじめていた。使い古された屋台と、警備員の姿をしたしわくちゃの老人が、朝日に包まれるのをぼくは見ていた。ぼくらは並んで無限に広がる海原を眺めた。どちらも無言だった。その静謐を侵してはならないと、頭蓋のなかで警鐘が鳴っていた。これはおまえの平穏だぞ。ここからはみ出せば、おまえに待っているのは破滅なのだぞと。けれどもどんな時間にも終わりはくる。ぼくは店主のほうに向き直った。彼はぼくと目をあわせ、微笑んでくれた。

「そろそろぼくは行きます」

 老人は頷いた。

「ラーメン、おいしかったです。毎日毎日、おいしかったです」

 老人は頷いていつものように口の端を吊り上げ、欠けた歯を見せてにやりと笑った。ぼくも同じようににやりと笑った。ぼくは背中を向けて歩きだした。二十メートルほど歩くと、背後から呼び止められた。振りかえり、陽光を浴びて輝くそれを見た。その光景はぼくの網膜に、記憶に焼きついていまでも離れない。老人が微笑み、なにもかもを抱きとめるかのように両腕を広げていた。

 頷くことはしなかった。代わりに頭上へ親指を立ててみせた。老店主は高い声で笑った。



 部屋に戻ってから四時間ほど眠った。目が覚めても体に疲れなどなく、胸に鈍い刺すような痛みがあるだけだった。トイレでおしっこをしてから歯を磨き、食堂のおばちゃんからもらったおにぎりを二つとも食べた。温泉で体を洗い、前日の汚れを落とした。部屋に戻ってから寮の掃除機を借り、この街にきてからずっとつかいつづけてきた部屋を掃除した。食べものもこぼさなかったし、比較的きれいに過ごせていたと思う。ごみ捨て場まで行ってごみ箱をからっぽにし、ピローケースとシーツを剥いで布団を隅に畳んだ。リュックを背負い、脇にヘルメットとシーツ類を抱え、部屋の鍵をポケットに入れて靴を履いた。玄関から部屋を見渡し、忘れものがないことをたしかめた。もうここへ戻ってくることはないのだと、時間をかけて胸に刻みつけた。ぼくは狭い扉に体やヘルメットをぶつけながら部屋を出た。

 ホテルの倉庫でシーツとピローケースを返した。それからフロントへ向かい、寮の鍵を返却した。フロントに立っていたのは、ぼくが言葉を交わしたことのないひとだった。お疲れさまでした、とお互いに頭を下げ、ぼくは正面玄関から外へ出た。

 駐車場でバイクのカバーを剥ぎとり、それを専用のネットで荷台にくくりつけた。キーをまわし、チョークレバーを下げ、スターターを押してエンジンがあたたまるのを待った。やがてエンジン音が耳を聾するほどに高くなった頃、チョークレバーを元の位置に戻し、シートに跨った。ヘルメットを装着し、手袋を身に着け、スタンドを払い、アクセルを吹かして、ぼくは熱海の街をあとにした。


🌕16


 病室の扉をノックし、返事も待たずになかに入った。まずはじめに意識したのは、柑橘系のにおいが、どこかへ運び去られてしまったこと。この部屋へ入るたびに、ぼくはそれに迎え入れられていたのだ。それはこの部屋を離れ、持ち主の終わりのない旅路についていってしまったのだろう。寂しさがぼくの胸倉をつかみ、崩れ落ちそうな足腰を引き立たせた。しっかりしろ、と自分に言い聞かせ、ぼくは奥へと歩を進めた。

 窓は閉め切られ、カーテンは左右できれいに留められていた。ベッドに人影はなく、シーツは剥がれ、布団はほかの空室と同様に、しわひとつなく規律正しく畳まれていた。机の上の花瓶はすでに持ち去られていた。床やソファ、床頭台などに溜まっていた埃はなくなり、部屋は彼女がいた頃よりも清潔で近寄りがたかった。部屋の隅に置かれたパイプ椅子は元の場所から動かされていなかった。だれからも触れられず、気づかれなかった。ぼくはこの部屋で唯一ぼくの所有物だったそれに歩み寄り、荷物を床に置いて腰かけた。待っていればそのうちくるだろう。ほどなくして、病室の扉が開かれる音が聞こえた。ゴム底のスニーカーが床と擦れあう音が響き、壁の陰から律子さんが姿を現した。それはいつもどおりの律子さんなのだけど、だれかが精妙に写実したかのような、どこかこことはひとつずれたところにいるような立ち姿だった。彼女はぼくをまっすぐ見て口を開いた。

「おとといのお昼。あなたが最後に会った次の日」

 ぼくは頷いてため息をついた。防波堤に座って海を眺めていた頃かな、とぼんやり考えた。

「ちゃんとあなたに電話をかけたのよ。そしたら電源を切っているんだもの」

 ぼくはふたたび頷いた。視界がぐるぐると渦巻き、律子さんの姿も歪んで見えた。しっかりしなくては。そのためにぼくは言葉を紡いだ。

「痛みはあったかな?」

「わからない。でも横から見ていると、穏やかに眠っているみたいだった」

「そうか」

「せめて最後くらい、そばにいてあげたらよかったのに」

「いいんだ。彼女だって、そんなこと望んでいなかった」

 沈黙が降りた。ぼくは背もたれに体を預け、足をぶらぶらと浮かせていた。律子さんはそんなぼくの様子を呆けたように眺めていた。

「どうしてこんなことになったかわからないの」彼女はつぶやくように言った。「危ない兆しなんてなにひとつなかった。そしたら急な坂を転げ落ちるみたいに、具合が悪くなった。先生は手を尽くしたわ。でもなんだか、あの子自身が治ることを拒んでたみたいだった」

「ぼくが殺したんだよ」足を動かすのをやめ、ぼくは言った。

「え?」

「どうしてこうなったのかと訊いただろう? その理由はぼくが殺したからだ」

 少しの間、律子さんはぼくの言ったことが理解できなかったみたいだった。やがて穿つような視線でぼくを貫き、ぼくから逃げ場を奪った。もとより逃げるつもりなどなかったのだが。

「どういう意味? あなたが? 冗談であろうとそんな発言、許されないわよ」

「文字どおりの意味だよ。ぼくが彼女の死の原因だ。それ以上でも以下でもない」

「わたしにはあなたがわからない。どうしてそんなことを言うの? まさかあなたが彼女に毒を盛ったとでも言うの?」

 ぼくは首を振った。「そうじゃない。ぼくがつかったのは毒でも刃物でもない。言葉だよ」

「言葉?」

「愛してると言ったんだ。きみが満たされればぼくも満たされると言ったんだ。そうやってぼくは彼女に許しを与えた。だから小夜は死んだんだよ」

 律子さんは納得していないみたいだったけど、刺すような視線は和らげた。「あなたの言っていることがわからない。あなたたちが愛しあっているのはそばで見ていてよくわかったわ。不器用な二人だから、それをお互いに伝えられずにいた。その愛が実ったのなら、あの子が死ぬ必要がないじゃない」

「小夜はずっと許しを求めていた。ぼくとは違って、彼女にはそれが必要だった。でもそれを与えられる人間はぼく以外にいなかった。だから彼女はぼくを愛した。ぼくはぼくの理由で彼女を愛した。彼女は境界線の上でふらついていた。ぼくが背中を押した。その結果がこれだよ。彼女はぼくを置いて、頂に辿り着いたんだ」

「わたしにはあなたの言っていることがわからない」律子さんは首を振った。「言葉でひとを殺すことはできないわ」

 これを聞いてぼくは爆笑した。涙が出そうなほど大笑いした。言葉ではひとを殺すことができない。それがまさか、律子さんの口から出るなんて。

 そうじゃないんだよ、律子さん。ぼくは小夜の乖離を一瞬で埋めてしまった。ぼくらのようなはみ出し者は、乖離なくして生きつづけていくことはできないんだ。なぜそんなこともわからない?

 もう充分だった。律子さんはしゃがみこみ、床に大粒の涙と鼻水をこぼしていた。ぼくは立ち上がり、リュックを背負った。ここはどこだったっけ? 一瞬、自分を見失いそうになったけど、かつてこの場所で過ごした記憶が脳裏をかすめ、ぼくはなんとか踏みとどまった。律子さんの脇をすり抜け、扉に手をかけた。振りかえることはしなかった。そこにぼくが求めるものはもうなにもない。

 廊下に出て、ふらふらと階段に向かった。通路は捻じれ、重力は真下からまっすぐ引っぱるものではなくなっていた。ぼくは壁に手をつき、ありとあらゆる方向から引っぱられる感覚に抗った。抗うと気分が悪くなり、吐き気がした。出口はどこだ? 自分がどこに向かっているかかろうじて判別できた要因は、なにかが自分を見ているという直感のおかげだった。そのなにかに無様な姿を見せるわけにはいかなかった。ぼくはそれを唯一の道しるべにして階段をおり、出口があると思われる方向へ向かった。


🌕17


 病院を出たその足で、バイク屋にバイクを売りに行った。総走行距離がけっこうな数値だったので、たいした金額にはならなかったけど、北までの旅費と考えればお釣りがくるくらいにはなった。小田原から東海道を歩いて東へ向かった。東京へ着くまでに二日かかった。それからは方向を切り替え、ただひたすらに北を目指して歩いた。なるべく太平洋の見える平坦な道を選んで通った。海が見える場所にいたい。そういう気分だった。途中は宿には宿泊せず、背中に背負った寝袋を広げて、その辺のベンチや建物の陰で寝た。日によっては寝袋も必要ないくらいあたたかかった。夜中のうちに蚊に食われまくったので、途中のドラッグストアで蚊取り線香を買い、それにライターで火をつけてから眠った。おかげでいまでも寝袋やリュックの中身にはすべて、蚊取り線香の懐かしさあふれるにおいがこびりついている。食事はコンビニでパンや水を買って、なるべく手軽に済ませた。肉や米は重すぎて、どうしても喉を通らなかった。平均して一日に四十キロほど歩いた。朝の六時には寝床を出発し、夕方の四時か五時にはその日の寝床に足を休めた。ご飯を食べるとき以外、ほとんど休憩しなかった。暗くなるまでは東京の古本屋街で買った、ふやけた本を読んで過ごした。

 時々、道を確認するためにタブレットを取り出すと、律子さんからの着信がきていることがあった。メッセージも届いていた。いまどこにいるのか。なにをしているのか。あなたのことが心配です。いますぐ返事をよこしなさい。ぼくは道を再確認するたびにタブレットの電源を切った。

 一度だけ、海沿いの道を外れ、山奥に針路をとったことがある。東北の山中でトリカブトを採集するためだ。自殺する手段についてはもう何年も前に多くの時間をかけて悩み、こたえを出していた。一酸化炭素中毒や首吊りは、繊細さに欠けていて荒々しいように思えた。自然のものを摂取して自然に帰る。それがぼくにはお似あいのような気がした。痛みに対する恐怖はあったけれど、最後の最後で妥協するわけにはいかない。採集したトリカブトは根っこと葉っぱだけを千切り、それらを洗ってタッパーに入れ、残りは山のなかに捨てた。

 青森の港に着くまでに四週間近くが経っていた。チケット売り場の受付に並び、函館港までのチケットを買った。フェリーに乗っている間の時間は、二階の窓から海を眺めて過ごした。津軽海峡の海は熱海の海とは違っていた。ここを海と呼んでいいのかわからなくなるほど違っていた。この日は波が高く、海面が揺れるにつれてフェリーも大きく上下した。北の海はそれだけ奔放で、疲れ知らずだった。四時間の航行の間、一度も飽きることなく眺めつづけた。

 北海道に上陸したのは夜も遅い時間だった。その日は函館の二十四時間営業の温泉に泊まった。足の裏のマメが潰れた部分と、皮の剥けた箇所が体を洗うときに沁みた。温泉に浸かりながら、ここまでの道のりを思いかえした。きっとバイクで走れば一日か二日で辿り着ける距離を、その何倍もの時間をかけて移動してきた。けれどもそれは必要なことだったのだ。ぼくは一歩一歩、足跡を刻みつけることで、小夜との記憶をひとつひとつ、ぼくの胸に刻みつけた。それは疾駆するバイクに乗っていては不可能なことだった。考えてみると、ぼくは一歩ずつ歩むたびに振りかえって、自分が残した足跡を確認せねば前に進めない人間だった。なにひとつ取りこぼしたくなかったのだ。きっとぼくは物事をなかったことにしたくないから旅をし、遅々とした歩みをつづけてきたのだろう。

 次の日、リクライニングチェアの上で目を覚まし、ぼーっとする頭で強張った体をほぐしながら、すでに目的地である北へ辿り着いたことを思い出した。いや、ぼくの旅はまだ終わっていない。顔を洗い、荷物をまとめ、ぼくはふたたび歩きだす。小夜の思い描いた夢を目指して。ぼくの心と体が形を保てる、その限界まで。


「ねえ、相沢くんは自分が死んだあとに、どんなふうに葬送されたいとかって希望がある?」

「自分が死んだあとのことなんてどうでもいいよ。生きている人間が決めたらいい」

「それじゃあ、あなたの魂は死後も地上に留まりつづけるとしたら? 意志を持ちつづけるとしたら?」

「それなら話は変わってくるよ。どうでもよくなんかない」

「どんなふうに?」

「うーん、具体的にはわからないけど・・・」

「わからないけど?」

「暗くて狭いところは嫌いだよ」



⭐️



 幼少の頃から後生大事に抱えつづけてきたものがある。それを炎にくべ、灰へと変えつづけなければ、ぼくのような人間は生きてはゆけない。夜中からぼくは背負っていた荷物をこうして燃やしつづけてきた。削ぎ落として、削ぎ落として、削ぎ落とした。さあ、これがぼくの剥き出しの胚珠だ。ぼくは裸だ。ここは寒い。

 待ち焦がれた夜明けの刻。朝日が地平線から頭をのぞかせはじめている。星々は姿を消し、夜の気配が後退していく。獣たちは目を覚まし、あるいは新たな眠りに落ちていく。鈴虫の声はもう聞こえない。草原は朝露に濡れていて、風が駆け抜けるたびに雫が朝日を吸収し、優しくきらめいた。

 長い旅をつづけてきたのだなと思う。ぼくは打ちひしがれ、立ち上がる気力すら残っていない。あたりに生きものの気配はなく、ぼくはひとりだった。風が吹いている。どこか遠くから、ほのかに潮の香りが運ばれてきたような気がした。それは古い郷愁のにおい。旅の終わり。

 ぼくはぼくのままでいられているだろうか。彼女に永遠の安らぎを。すべての人類に無窮の安寧を。ぼくはいい、置いていってくれ。ぼくはあまりにも遅いから。

 俯きながら、そっと彼女の名をつぶやく。自分の発した言葉に何度も触れ、彼女との記憶をなでまわす。つぶやきは風に攫われ、ぼくはそれを見送る。草原がさやぎ、風の向かった彼方まで音を鳴らして波打つ。

 もしこの世に心残りがあるとするならば、それは律子さんだ。彼女は納得しないだろう。ぼくらの足跡を、ぼくらが姿を消した地平線の果てまで探しつづけるだろう。彼女の悲しみを想像すると、身悶えるような罪悪感をおぼえる。振りかえってみれば、いろいろなひとに迷惑をかけて生きてきた。もしかしたら律子さんとは出会わなければよかったのかもしれない。そうすれば、彼女の悲しみはぼくらを追うことがなかっただろう。小夜とも出会わなければよかったのかもしれない。ぼくは生まれてなど、こなければよかったのかもしれない。

 ぼくは最後の手段としてトリカブトを選んだけれど、それを聞いたら小夜はどんな顔をするだろう。地味だと言って笑うだろうか。それではあまりにも芝居じみていると首を振って否定するだろうか。あなたにはお似あいだと言って諦めてくれるだろうか。彼女の表情を想像するのはいい。この世界にもまだ楽しみがあるのだと知って、ぼくは穏やかな気持ちになれた。思えばぼくらは二人でひとつ。この強固な繋がりはなにものにも引き裂くことはできない。もうこれ以上、飢えている必要はないんだ。

 太陽が地平線の陰から完全に姿を現し、陽光が真正面からぼくを射抜いた。光の波が空間に満ちはじめていた。そのときまで、あと少しだ。


 なぜだろう。無性に海が見たい。


 海を見たい。その活力がぼくのうちに湧き上がった。タブレットを手で持ち、裸足のまま、ふらふらと立ち上がった。足の裏を濡れた土がくすぐる。ここから海までどれほどの距離があるかわからない。自分がいまどこにいるのかもわからない。陽の照らす方向を目指し、足を引きずって歩く。肉体が悲鳴をあげ、限界が近いことを教えてくれる。それでもぼくは歩きつづける。それ以外にとるべき行動などあるはずもない。

 やがて潮騒の音が聞こえたような気がした。どれだけ歩いたかわからない。視界が霞み、足がもつれる。気づくと口のなかに土の味がする。ぼくは前のめりに倒れていた。足には力が入らず、もう立ち上がれない。近くに海があるのかどうかわからない。

 太陽が頭上で永遠の炎を燃やしている。ぼくは光に包まれ、かつてないほどの温もりに受け入れられている。体は重力から解放され、光の粒子がぼくのまわりで旋回している。これが大地とひとつになるということなのだろうか。宇宙と深く結びつくということなのだろうか。ぼくはここへ故郷を築き、肉体を置いて新たな旅へ出る。最後の陽光がまばゆいほどに輝きを増す。ぼくの視線を押しかえし、遠く遠く、空高くへと舞い上がる。慄く腕を上げ、ぼくはそれに手を伸ばした。でも届かなかった。

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