【小説】ミヤマ 3
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新宿のビル群に埋もれた一画に営業している『ピンクパイナポー』という店は、午後の五時になってから開店する。ウィンドウにはセクシー女優が卑猥なポーズをとるポスターが貼られ、看板は妖しげな色のネオンで照らされている。古くなった紙や、プラスチックの断面のにおいが、自動ドアの隙間から外に漏れている。
ミヤマが店に入ると、薄暗いカウンターに立っていた店員が視線だけをこちらに向けた。禿頭に潰れた耳。きれいに折り目のついた青いエプロン。店員は何事もなかったかのように視線を戻した。
ミヤマは壁一面の棚にぎっしり詰められたエロ本の束を見上げた。このなかのどこかに、彼女が息を潜めて隠れているかもしれない。前日に探した箇所は記憶していた。ミヤマはつづきからエロ本を手にとりはじめた。
それは単調な作業だった。ぱらぱらとページをめくり、彼女の面影が見られなければ棚に戻す。さまざまな姿でページに収まっている裸の女たちを、ミヤマは冷めた目で流し見た。少年と彼女たちは別々の生き物であって、彼らの血や思想が交わることは決してない。少なくとも少年はそう思っていた。店の奥では小さなテレビでサンプルのアダルトビデオが再生されていて、女性の喘ぎ声がかすかに耳に届いていた。ミヤマは一冊ずつ手にとっては棚に戻し、無言で作業を進めた。
ふと背後に気配を感じて振りかえると、あの禿げた店員が近くに立っていた。
「お客さん、ここ最近、毎日こられてますよね?」
そう尋ねられ、ミヤマはわずかに頷いた。店員は少年と目をあわせようとはしない。声にもかすかな振動が感じられて、手元ではエプロンをいじくっていた。
「なにか探し物ですか?」
ミヤマはわずかに緊張を解いた。「ええ、少し」
「よかったらお手伝いしましょうか? どういった種類のものをお探しで?」
ミヤマにはどうこたえればいいのかわからなかった。返事を考えていると、店員から漂ってくる汗のにおいが、まるでミヤマの返事を急かしてくるように思えた。
「ずっと気になってはいたんですよ」と店員は言った。「若いかたでもこの店にはきます。ですがお客さんは、まるでこっちのほうが目的じゃないみたいなんでね。そりゃ印象にも残りますよ」
ミヤマは頷いた。
「どういった類のものをお探しで?」と店員はあらぬほうへ視線を向けながら尋ねた。
「むかし見た、ひとりの女性を探してるんです」一縷の望みをかけて言った。「このなかにいるかもしれなくて」
「なるほど」万事理解したかのように店員は頷いた。「どんな女性なんですか?」
ミヤマは少し考えてから、彼女と初めて出会ったときの様子を語った。店員は真剣な表情で耳を傾けた。少年が語り終えると、店員は眉をひそめた。
「正直に言って、いまの情報だけでブツを特定するのは難しいですね。なにしろこの量なんで。それにこの店に置いてすらいないのかもしれない。この世界はね、絶えず流動してるんです。つまり入れ替わりが激しいってことです。お客さんが見た女性ってのが、まだこの業界にいてもおかしくはないし、どこか静かな街の、静かなカフェでウェイトレスなんてやっててもおかしくはないんですよ」
「たしかに」
「もう少し具体的な外見の特徴はありますか?」
ミヤマは少し考えてから言った。「白いワンピースがよく似合います。夏に着ているというより、春に解けかけた雪の上で、ワンピースを着てくるくると踊っているイメージ。彼女は自然を包含するひとつの粒子なんです。風も鳥の鳴き声も遠くの波音も枝から重々しく垂れ下がる張り裂けそうに膨らむ果実も、すべてが彼女とともに在るんです。彼女は歩かないし自転車もこがないし車にも乗らない。彼女は飛べるからその必要はありません。手足は対象をつかむためのものではなくて、単なる羽なんです。それから彼女の目は常に己の中心へと向けられています。それが観測者をとらえることはまれでしょう。最初に見たときからぼくにはわかっていました。あとは——」最後に少年は付け加えた。「いまの彼女は坊主頭かもしれません」
店員はしばし自分の足元をにらんでいたが、やがて言った。「残念ながら、思い当たる節はありませんね。もし時間をかけてもよろしければ、いまの情報を元に、わたしのほうで探しておきますが」
ミヤマは少し考えてから礼を言った。「ありがとうございます。でも、大丈夫です。ぼくのほうでなんとか見つけてみますので」
少年がふたたびその店に訪れることはなかった。
錆びた自転車を引きずりながら戸山公園に辿り着いたのは、夜も更け、まぶしくあたりを照らす街灯に虫たちが引き寄せられる、そんな時刻だった。かまぼこの形をした体育館には明かりが灯され、なかではゴム底が床とこすれあう甲高い音が聞こえる。部活帰りの高校生や、見知らぬ場所へ迷いこんだような表情を浮かべた大学生が、駅を目指して足早に歩いている。
体育館の向かいに、街灯で照らされた一画がある。そこでは幾人かの老人が、輪を描いて座り、安物の酒を飲んでいた。酒瓶のケースに座る者もいれば、敷いた段ボールの上に胡坐をかいている者もいる。その向こうには段ボールやブルーシートで建設された仮のテントが、暗がりのなかで亡霊の棲み処のように浮かび上がっていた。
ミヤマがその集団に近づくと、自転車がたてる金属音に気づいたのか、ひとりの老人が顔を上げ、少年のほうを振りかえった。焼酎の瓶をもった手をかざす。少年も手を振って挨拶を返した。
「自転車、どうしたのかね?」三笠老人は立ち上がってミヤマに歩み寄った。初めて出会ったときも思ったのだが、この老人にはホームレス特有の、活舌の悪さがない。彼は雷鳥のようにスムーズにしゃべった。被っている帽子やまとったジャンパーは定期的に洗われ清潔。濃い眉毛が毛虫のように顔面を横切っている。二、三日に一度、ひげは剃っていた。
「タイヤがパンクしちゃったみたいなんだ」ミヤマは後輪を指差してこたえた。「段差に乗り上げたときにやっちゃったんだと思う。空気を入れてもすぐに抜けていく。どうにかして直らないかな?」
「よし、ちょこっと待っとれ」三笠老人は自転車のスタンドを立て、屈んで後輪を指で触った。うんうんと頷き、立ち上がって暗がりに並ぶテントのひとつに入っていった。三笠老人を待つ間、集団の何人かに声をかけられ、ミヤマは返事を返した。やがて戻ってきた老人は、プラスチックの盥と金槌、黒いシールのようなものを手に持っていた。
「これに水を汲んできてくれ」
ミヤマは言われたとおり、近くの水道で盥に水を汲み、元の場所に戻ってきた。三笠老人はすでに後輪からタイヤを外し、ゴムのチューブを取り出していた。老人はチューブに息を吹きこんでから盥にたまった水に浸し、空気の漏れている箇所を探した。ミヤマはチューブのあらゆる箇所から小さな泡が立ちのぼるのを見つめた。
「こりゃ、いかんな」と三笠老人は作業をしながら言った。「空気があちこちから漏れとる。一、二か所ならこいつで穴をふさげたかもしれんが」老人は黒いシールのようなものを指し示した。「これだけ広範囲に渡っていると難しいぞ。もしかして、パンクした状態でこいだりしたのかね?」
「うん。ずっと引きずってるのも疲れちゃったから、ちょっとだけ」
「だからだろうな。もうチューブ自体を交換するしかあるまいて」
「交換?」ミヤマは不安そうに尋ねた。「それって、お店に行かなきゃならないってこと?」
「ああ。近くに自転車屋がある。そこへ行くといいだろう」
「金額はどのくらいかかるんだろう?」
一瞬の間のあと、老人はこたえた。その金額を聞いて、ミヤマは頭を抱えた。とても手持ちで支払える値段ではない。そもそも数枚の小銭程度しか手持ちがなかった。
「ほかにつかえそうな自転車はない?」少年は縋るように尋ねた。「この自転車をくれたときみたいにさ。無理なお願いだとは思うけど、自転車がないとぼく、困っちゃうんだ」
「すまんが、いまは余ってる自転車がないんだ」三笠老人はすまなそうに言った。「金がないというなら、仕事を紹介しよう。わしにできるのはそれくらいだ」
「仕事ってどんなの?」
「身分がはっきりしてれば、いくらでもあるよ。ゴミを回収したり、工事現場で働いたり、警備員として交通整備したり。おまえさんの場合、ちょいと年齢をごまかさないといけないかもしれないが、たぶんなんとかなるだろう。その年齢で雇ってもらえるとなると、たいした給料はもらえんだろうからな。そんなのは時間の無駄だ」
ミヤマは自転車のサドルに手をつき、うなだれた。しばらくはなにも言わずに体重を預けていた。夜の風が和服の隙間を通り抜けていった。
「なあに、いますぐに決めなくたっていいさ」そう言って三笠老人は少年の背中を優しく叩いた。「好きなだけ迷えばいい。また新たにわしが自転車を見つけてくるのを待っていたっていいしな。おまえさんはまだまだ若いんだから、わしらみたいになる必要なんてないんだ」
ミヤマはうなだれたまま頷いた。
「ところで、今日はここで休んでいくかね?」
「うん」ミヤマはこたえた。
「それならテントを用意しよう。ついでに洗濯したいものがあればわしがやっとくよ。食べ物は? 五十円あれば晩飯を用意するが?」
「食べ物はあるからいいよ」
「そうか。本はどうする?」
ミヤマはスクールバッグのなかから『ガラスの靴』の文庫本を引っぱり出し、老人に手渡した。
「また童話がいいな」少年は言った。「夜にひとりで読んでいても怖くなくて、ハッピーエンドで終わるやつ」
「わかった。わしが見繕って、明日の朝に渡してやろう。この本はどうだったかね?」
少年は少しの間、考えてから言った。「悪くなかったよ。主人公には父親がいて、四面楚歌というわけでもなかった。でも少し都合のいい展開が多い気がしたな。押し迫ってくるものが足りなかった」
ホームレスの老人は微笑んだ。「童話とはそういうもんじゃて。なんならどっかの文学作品にでもしとくかね?」
ミヤマは首を振った。「いいんだ、童話で。ぼくは夜にはぐっすりと眠りたいんだよ」
横になって、暗いブルーシートの天井を眺めていた。寝床を一か所に固定すると、多くの人間に注目され、厄介なことになる。ミヤマは話の通じない大人とは関わりあいになりたくなかった。外では老人たちが酒を片手に、静かに話をしている。街灯の灯りが、ほのかにブルーシートの壁を透かして漏れてきている。
シート一枚を隔てて、周囲を生きた人間で囲まれているというのに、普段ひとりで寝るときよりもミヤマは孤独を感じていた。闇が目の端からじわじわと押し寄せてくるようだ。少年は布団を胸にかき抱き、迫りくる焦燥感に抗った。
こんなときに彼が思い出すのは、彼女のことだ。初めてエロ本で出会った彼女。街の最果ての美術館で再会を果たした彼女。少年のイメージのなかで彼女は坊主頭であり、同時に腰ほど長く伸びた長髪でもある。白く輝くワンピースを身にまとい、同時に豊穣な乳房と桃色の乳首が目の前で揺れている。実在であると同時に虚構。夢か現か、その狭間か。
そうやって彼女が目の前にいることを想像していると気持ちが落ち着いてきた。学校へ顔を出してから六日が経った。明日は週に一度、学校へ顔を出す日だ。それに食料も底を尽きそうだからなんとかしなければならない。ミヤマは孤独を糧として、眠りに沈んでいった。
美術の授業の間、座る席はどこを選んでもいいことになっている。美術教師の鞍無はそのようなことさらさら気にしなかった。ミヤマはいつも美術室の窓際の端にあるテーブルを選んでいた。そこにはほかの生徒は座らない。同級生たちがほかのテーブルでおしゃべりをしながら作業を進めていくなかで、ミヤマはひとり、黙々と己の手元に集中する。彫刻刀で木片を彫り、紙に絵の具を塗りたくり、時にはパズルを組み立てる。少年はこの授業で手を抜いたことはない。彼には零か百か、その二つしか存在していない。
いつもの席に座り、手元を見つめて授業開始のベルを待っていると、珍しくミヤマに寄ってくる人影があった。
「よう」
「やあ」
ミヤマが返事を返すと、ライは彼の向かいに座った。彼は制服の前ボタンを解き放ち、暴れる猛牛と格闘したあとみたいに、シャツはズボンからはみ出ていた。シャツとブレザーをひっくるめて肘まで腕まくりしている。ほおからあごにかけて無精ひげが覆っている。ミヤマが同級生と同席するのは初めてのことだった。そのままチャイムが鳴るまで、二人は無言でたたずんでいた。
前の週に風景画は終わり、この週からは自画像が課題だった。ひとり一枚ずつ画用紙と単行本サイズの姿見が配られ、鉛筆の下書きからはじめるように教師の鞍無が指示を出した。
「自分の不細工な顔をまじまじと見つめなきゃなんないなんてな」
向かいでライがぼやくのを耳にしながら、ミヤマは姿見を立てかけ、そこに映る自分の顔を見つめた。その瞳には自らに対しての興味が宿り、ぽつぽつと浮かぶ若者特有のにきびには諦観が宿っている。少年は鏡から目を離し、鞍無に指示されたとおり、画用紙に薄い線で輪郭を描きはじめた。
「うへぇ、ひでぇ顔だ。一時間スープに浸ったままのラーメンみたいにひどい。こんな顔で接客業なんかしてたら、客は金を払ってでもおれをプチ整形させるだろうな」
「ぼくほどひどくはないよ」ミヤマは言った。「今日は仕事は休み?」
「ああ、そうだよ。学校から帰ったら、嫁の実家まで顔を出さなくちゃならない。おれたちはいま、別々に暮らしてるんだよ」
ライが妻と別居しているという話はミヤマも知っていた。二人の結婚を許可する条件は、ライが高校を卒業することだと、彼女の祖父に突きつけられたらしい。学校へ通いつづけるとなると、ライひとりの力で家族の面倒を見るのは不可能だった。妻は子供を連れて八王子にある実家に身を寄せ、残されたライはひとり暮らしをしている。だからこそのフリーダムだった。彼が夜な夜な軽トラを走らせ、あちこちをハイエナのように徘徊しているというのはだれでも知っている話だ。学校も、取得すべき単位は計算しているのだろうけれど、気が向かない日は絶対に登校しなかった。
「まったく。向こうのじいさんには困ったもんだよ。おれの言い分なんか聞かず、必ず月に一度は家族集まって食事会をするというルールをつくっちまった。さからえば、なにをされるかわかったもんじゃない。おれはあいつにぶん殴られたことを一瞬たりとも忘れちゃいない」
「行きたくないの?」とミヤマは尋ねた。
「どうだろうな」ライは首を傾げ、自身の内にこたえを求める。「彼らは彼らなりにおれを受け入れようとはしているんだ。でもだめなんだよ。おれはペンギンの群れに迷いこんだアザラシみたいなもんだ。彼らはおれを不真面目で根性のない不良だと思ってる。悪いひとたちではないんだよ。だが、ものを知らない人間は、時に悪人よりも性質が悪い」
「奥さんと子供はどうなの?」
ライの表情が和らぐ。「ああ。いまのおれの人生で、楽しみと言えるのは嫁と娘の顔を見ることだけだよ」
「ふうん」
ミヤマは手首の力を抜き、幾本かの薄い線で目と鼻と口を描いた。向かいではライが画用紙を見つめて作業をつづけている。口元がわずかににやけているようにも見える。自分の画用紙を見つめ、思わずミヤマもにやりと笑った。
「子供がかわいい?」消しゴムで線を消しながらミヤマは尋ねた。
「かわいいなんていう言葉じゃあらわしきれないよ」ライはふたたび表情を和らげて言った。「自分の血を引き継いでる子なんだ。いわばおれと愛するパートナーの分身だな。なにをしたって許せる。この間はおれが操作中のパソコンのコードに足を引っかけて引っこ抜いちまった。おかげで取引先のデータがいくつかぶっ飛んだが、そんなことは気にならん。これがどうでもいい女との間に生まれた子だったら話は違ったかもしれないよ。でもそうじゃない。二人合意の上で子供ができたといえば嘘になるが、少なくともおれたちは納得した。おれたち二人の子ならと。嫁とは毎日電話するし、月に二回は顔をあわせることにしている。おれたちは言葉を尽くさなくても互いに理解しあってるんだ。子供はかわいいよ。あの子が傷つけば同じ分だけおれも傷つく。あの子が学習すれば同じ分だけおれも学習する」
遠くで同級生たちの笑い声が聞こえる。同じ部屋の、同じ空間で。二人は外部からの視線も意識も感じなかった。この瞬間、彼らは彼らだけの世界にいた。
「ぼくには想像できないな。これ以上自分の分身が増えるなんて」
「おれだってそうだったさ」ライは上機嫌で言った。「過去のおれに『一年後のおまえは子連れで妻がいて学校へも行かずに汗水垂らしながら働いているぞ』なんて言っても信じなかったろうさ。ただ結果はこれだ。この世界ではいつどんなことが起こっても不思議じゃない。明日の朝になったら家の前のアスファルトが、全部おかきになってる可能性だってゼロとは断言できないんだ。おまえだって、一年後には子連れになっているかもしれない。きっとそんな道もあるんだよ」
一瞬だけ二人の間に沈黙がおりたのち、ミヤマは首をのけぞらせ、声を出して笑った。ライは穏やかな表情で顔を上げた。
「一年後のぼく?」ミヤマは口元に笑みを浮かべたまま首を振った。「想像できないよ。ぼくがいまの生活から脱け出しているところなんて。一年後も十年後も百年後も、ぼくはいまの生活をつづけているよ、まちがいなく」
「どうして言い切る?」
「ぼくは夢の世界の住人なんだ。現実に生きているわけじゃない。ぼくみたいな人間は夢を見つづけていないと生きてはいけないんだ」
「しかしだな。人間、いつかはどんな夢からも覚めるもんじゃないのか?」
「そしたらぼくは、どんな手をつかってでもつぎの夢を見つけるよ。そうやって、夢から夢へと渡り歩いていく。現実に足を踏み入れることがあったとしても、それは渡り鳥が喉の渇きを癒すみたいに、水面に一輪の花を咲かせる一瞬だけ。ぼくはまた戻るんだ。ぼくのいるべき場所に。これまでずっとそうやって生きてきた。ずっとひとりで生きてきた。だからぼくはこれから先もずっとひとりだし、ずっと同じ生活をつづけていくよ。仮になにかのまちがいで——無性生殖なんかで——子供ができたとしても、きっとぼくはぼくの夢のためにその子供を捨てるだろうね。ぼくはろくでなしなんだ」
「ふうん」ライはしばらくミヤマの顔を見つめ、やがて後退していくように手元へ視線を戻した。「だからかな。おまえと話していてなんだか安心するのは。しかしおまえは変わった物言いをするやつだなあ」
「きみほどじゃないけどね」
「おれにはおまえがろくでなしになんて見えないよ」とライは言った。「いつだってそうなんだ。人生に誠実な人間はそう見られる」
ミヤマはなにも言わなかった。
ライは顔を上げ、ズボンのポケットをまさぐった。「そうだ、飴でも舐める?」
「飴?」
ライはポケットから小さな包みを取り出し、ひとつをミヤマに渡した。ミヤマは美術教師のほうをちらっと見やり、彼がこちらを見ていないことを確認した。
「心配ないよ」ライは飴玉を口のなかに放りこみながら言った。「鞍無はそんな細かいことで気に障るようなちゃちなやつじゃない。授業中に煎餅をバリボリ食ってたってなんにも言われないさ」
それもそうかと納得して、ミヤマも飴玉を口に入れた。
二人はしばらくの間、言葉を交わさずに作業へ集中した。太陽は天頂を過ぎ、空を横切ろうとしている。魔力を帯びた午後のヴェールが四角い美術室を覆いはじめていた。
つぎにミヤマが顔を上げたとき、少年のそばにはひとりの女生徒が立っていた。前の週にミヤマに話しかけてきた彼女だ。絵の具に塗りつぶされたかのような黒髪を鮮やかな色あいのシュシュでひとつにまとめ、ポニーテールにしている。前歯が二本せり出していて、暗い廊下を照らす白色電灯のように目だっている。この女生徒が自分と同じクラスなのか、それとも隣のクラスなのかミヤマにはわからなかったけれど、美術の時間に時々話しかけてくる、あの女だ。ミヤマに話しかけてくる奇特な人間はひどく限られていたから、彼女の顔はおぼえていた。
女生徒が黙ったまま二人を交互に見つめていたので、先に口を開いたのはライだった。
「なにか用でも?」
女生徒はしばらくライを見つめ、静かに口を開いた。
「今日の課題がなんなのか、二人ともわかってる?」
「美男美女の自画像だろ? もちろんわかってるよ」とライがうそぶく。ミヤマは顔を上げ、二人は目をあわせると口の端を吊り上げた。
女生徒が首を傾げて言った。「どうかな。あんまりわかってるようには見えないけど」
「そうかい。けどおれたちは自分の履いてるパンツの柄を知ってるのと同じように、自分たちの仕事を隅々まで把握してるよ」ライは言った。「毎朝、悩みながらどれを履いていこうか決めてるもんな」
「だね」ミヤマは神妙に頷いた。
女生徒は深くは掘り下げないことにしたらしい。話題を変えた。「さっきは二人でなんの話をしてたの?」
「おれの家族の話をしてたんだ」
「そうなんだ」女生徒はふたたび二人を交互に見た。「あっちで見ていて、どうしても気になっちゃったから。学校一有名な二人が、どんな話をしてたのかなって」
「有名?」ライが訊きかえした。「おれたち二人が?」
「そうだよ、気づいてなかったの?」女生徒は驚いてみせる。「ひとりは二年も留年しているうえに既婚者で子持ち。もうひとりは美術の時間にしか学校に顔を出さない変人。違う学年でも知らないひとはいないよ。軽トラで通学してくるなんて、目立つためにやってると思ってるひともいるくらい」
ライは鼻で笑い、呆れた表情を浮かべた。ミヤマは静かに尋ねた。
「ぼくも名前を知られているの?」
「もちろん! あのぼろぼろの自転車だってすごく目立つよ。教室に座ってたって、窓の外からキイキイキイキイ、ペダルをこぐやさぐれた音が聞こえるんだから。それに荷台にはおっきい荷物が積んであるし。まるで日本一周旅行の途中みたい。駐輪場を見たら、きみが学校にきてるかどうかがすぐわかるよ。それでもレアなポケモンみたいに、たまにしか顔を見せないから、きみの姿をひと目見ようとする生徒だっているくらいなんだよ。野次馬根性って言うのかな」
「未知のものへの好奇心というのはわからなくはないがね」ライが言った。「だが連中の大半は実際にそれへ手を触れたとき、思ってたのとは違ったと言って、勝手に幻滅して背中を向けるんだろうさ。いまからでも予想がつく。やつらが見たいのはおれたちじゃなく、やつらが勝手に築きあげた砂の楼閣でしかない。そいつはちょいと豪華絢爛が過ぎる」
「好奇心を持ってることは責められないよ。みんな毎日授業ばっかりで退屈してるし、若者ってそういうものなんだから」
ライが首を振ってつぶやいた。「くだらん」
「そうかもね」女生徒は頷いた。「とにかく、有名人を二人も抱えたうちのクラスは、けっこうな好奇の的にさらされることが多いんだ。まったく学校にこないんだったらまだしも、気まぐれできました、みたいな顔でたまに現れるんだから。もう進級なんてどうでもいいと思ってなきゃ、こんなふうにはなれないよね」
「どうでもいいなんて思ってない」ライは言った。「おれはちゃんと卒業するつもりだよ。たとえどれだけ時間がかかっても。ただこれよりも優先することがあれば、学校は後まわしになってしまうというだけの話だ。仕事やら娘の世話やら新発売のゲームやら、やらなきゃならんことがタコみたいにあるんだ」
「そうなんだ」女生徒はミヤマへ向き直った。「きみは?」
「ぼくもだいたいそんな感じ」
「だいたいそんな感じね」
その後、女生徒は自分の名を名乗った。ユズは一度自分の席に戻り、画用紙と鉛筆を手にしてミヤマの隣に座った。ミヤマとライは顔を見あわせた。
「どうしてそんな顔をするの?」と少女は澄んだ瞳でまっすぐミヤマのほうを見つめ、尋ねた。
ミヤマは首を振ってなにも言わなかった。女生徒の夏の夜空みたいな香りが、口中の飴玉のにおいと絡まって鼻腔をくすぐった。
「きみは今日も学校が終わったらあの街に行くの?」
しばらくの無言のあと、ミヤマは頷いた。
「わたし、あの街でバイトしてるの。前にも言ったよね?」ユズは作業を進めながら言った。「カフェに勤めてるの。駅の広告で見つけた店で、高校生でも雇ってくれるところなんだ。そこで注文とったり、厨房で簡単な調理をしたりしてるの。スパゲティのナポリタンがおいしくて有名でね。むかしからやってる店で、レトロな雰囲気が常連さんにはたまらないらしいんだ」
「へえ」舌先で飴玉を転がしながらライが相づちを打った。
「わたしね、新宿の街で働くのがむかしからの夢だったの。うちは家族でお出かけと言えば新宿のデパートが定番だったから、あの街にはいいイメージしかない。アドベンチャーって言えばいいのかな。街に足を踏み入れただけで、まるで漫画の主人公になったような気分を味わえるんだよね」
ライは顔を上げ、奇妙な目で女生徒を見たあと、手元に視線を戻した。
「お店はオフィス街が近いからね、サラリーマンのおじさんたちがよくくるの。あのひとたちも女子高生と話ができてうれしいみたい。おじさんってみんなそうなのかな。わたし、けっこう人気のウェイトレスなんだ。おじさんたちの下品な冗談を、オードリー・ヘップバーンみたいに、さらりとおしゃれにかわすの」そう言ってユズは手の平で顔の前を払う仕草をした。
「ふむ」
「時間があるときにくればいいよ。わたしは週五日は勤務してるから」
ミヤマは消しゴムで乱れた線を消した。
「きみもバイトかなにかであの街に行くの?」
手元の画用紙に視線を落としたまま、ミヤマは首を振った。
「そうだよね。バイトでお金を稼いでたら、あんなぼろっちい服着ないよね。初めてあの街であの服装を見たときはびっくりしちゃった」
「おまえは和服がよく似あう男だよ」向かいでライが言った。「死んだ親父が冬に半纏を着るひとでな。おれも子供の頃は冬に着ていたんだ。和服を着ていると心が落ち着く。そんなふうに、おれたち日本人の遺伝子に刻みこまれているのかもしれないな」
「それはわかるなぁ」女生徒が頷く。「わたしも夏祭りがあるときは浴衣を着て行くんだけど、洋服を着たときには感じたことがないほど気持ちにフィットするの。風通しがよくて体が軽くて、ところかまわず踊りだしたくなるんだ。腕を振るえば、それに気づいた空気があわててあとから遅れてやってくる。つま先で流路な円を描けば、そこがわたしの不可分な領域になる。たまに着るだけだからそう感じるのかもだけど、和服っていいよね。きみもそう? きみも和服を着たときに、気分が上がるからあんな恰好をしてたの?」
ミヤマはちらっとライを見やる。彼は向かいからユズにいぶかしげな視線を投げていた。ミヤマはつぶやくように言った。
「中学生のときに自分のお金で買ったものなんだ。ぼくは学校の制服とあれ以外に服を持っていないから」
「ただの一着も?」とユズは尋ねる。
ミヤマは頷いた。
「でも、家に帰ったら箪笥に仕舞ってあるはずじゃない? よそいきの服とか、カジュアルな洋服とか」
ミヤマは黙ったまま鉛筆を動かした。
「ねえ、そうじゃない?」女生徒は今度はライに尋ねた。「持っている服が一着だけなんて、どう考えてもおかしくない?」
「そういう人間がいてもおかしくはないさ」ライが静かにこたえた。「だれだって、そのひとの好きにしたらいい」
女生徒は引き下がらなかった。
「ただの一着だけしか着ないなんて、わたしはもったいないと思うな。きみはすらっとしててスタイルがいいんだし、きっといろいろな洋服が似あうよ。せっかくなんだから、派手なやつも目立たないやつも、たくさん試してみればいいんだよ。わたしも——」
ユズの話を聞きながら、ミヤマは物思いにふけった。彼は自分自身が彼の作務衣に所属しているという意味を、彼女に説明する気にはならなかった。いわばミヤマにとって服装とは、ただ肉体と精神を閉じこめるための牢獄でしかないのだ。学校の制服を身に纏うと、彼はたちまち群衆にまぎれたひとりの高校生になる。凝縮された暗闇に怯え、果ての見えない光に怯え、隣を歩く者と肩が触れあうことに怯える。ミヤマの振動は鳴りを潜め、空間を隔てたものとの和音という魔法が解けてしまう。そんなことを、少年は望んでいなかった。作務衣の場合はもっと厄介であった。それは少年の現在と過去を繋ぐものだったから。彼の作務衣は、その邪悪な顎で少年を包み、絶えず彼の精神を締めつけた。立ち止まり、跪いてしまいそうなときにも、無理やりにミヤマの四肢を引き立たせた。だが同時に、少年の精神を肉体ごと吹き飛ばそうとする激しい突風が吹いたときに、彼の二本足を大地に繋ぎとめてくれるものもまた、あのぼろぼろの作務衣なのだった。
それをだれかに説明しようとは思わなかったし、その方法も、少年にはわからなかった。
ミヤマが放心しているうちに、話題はよそへ移っていたらしい。
「二人とも授業中に飴をなめるなんて悪い子」とユズが言った。
「あいつは大丈夫なんだ、鞍無は」ライがこたえた。「おれたち生徒が授業を真面目に受けようが適当に聞き流そうが、あいつにとってはどうでもいいんだよ、ほかのやつの邪魔をしない限りは。ここでバーベキューをやってたって、裸でソーラン節を踊ってたって、騒がない限りは気にしないだろうさ。おれは付きあいが長いからわかるんだ」
「優しいってこと?」
「どうだろうな。少なくとも話のわからないやつじゃないよ」
「ふうん。いったい普段はなにを考えてるんだろうね、あのおじいさん」
ライは画用紙から顔を上げ、教室の前方を見た。そこでは美術教師の鞍無が、作業机の奥に座り、自分の手の平をじっと眺めている。灰色に波打つぼさぼさの髪は、その活力を失い、その場にただたたずんでいる。午後の眠気を誘う陽光が老人を包んでいて、彼の顔に摩耗した陰影を刻んでいた。
「さあな」ライは静かに手元へ視線を戻した。「前にあいつがおれのクラスの担任だったことがある。その頃もいまみたいによくわからんやつだった。ホームルームでだれかが騒ぎはじめても注意したことなんてないし、自分の声が生徒に聞こえなくても、いかれた機関車みたいに構わずしゃべりつづける。黒板に書く字はか細くて息も絶え絶えって感じ。汗くさいのを生徒からいやがられてるのに気づいてても、どこ吹く風であの身なりだ。おれにもあいつがなにを考えてるのかわからんときがある。職員室であいつが湯気の立つコーヒーをすすっているのを見たときは、ああ、こいつも人間なんだなと思ってほっとしたよ」
「得体の知れないおじいさんってわけだね」
ユズはしゃべりながらも作業をつづける。彼女は前髪をかき分け、鏡に映った自分の顔を覗きこんでいる。横目で見ると、彼女のほおに薄っすらとそばかすが散っているのにミヤマは気づいた。
「それでも悪いやつじゃないことはたしかだよ」ライはつづけた。「おれがたまに学校へ顔を出せば、なにかしらの理由を見つけて声をかけてくる。職員室にひとりで呼び出されて、クラスの連中に配ってほしいとプリントの束を手渡されたときは少しいらついたが、それがあいつのやり方なんだろう。おれみたいなポンコツを、あのじいさんはどうも放っておけないらしい。帰りにアイスでも買ってけと言われて五〇〇円を渡されたこともある。おれは好きだよ。イタい勘違いをしてるほかの教師よりよほど絡みやすい」
「前にうわさを聞いたことがあるんだけど、あれはほんとう?」ユズはためらいがちに尋ねた。
「息子さんのことかい?」
ユズは頷く。
「ああ、ほんとうみたいだな。息子さんを事故で亡くしたってのは」
「かわいそうに」ユズがその幼い顔を歪めた。
二人は口をつぐんだ。重苦しい沈黙のなか、三人は作業をつづけた。やがて授業終了の五分前に、鞍無は教室全体に片づけの指示を出した。ミヤマとライは顔を見あわせ、お互いの意図を一瞬で汲みとった。隣でユズがいぶかしげな表情を浮かべる。
「せーの」
ライの合図で二人はお互いの作品を見せあった。ミヤマは画用紙に施した下書きを向かいに差し出す。ライもまた、同じように。
ライの画用紙に描かれていたのは、顔は本人のものでも、体は巨大なイモムシだった。うねうねと波打つ胴体が画用紙の奥までつづいている。その足元では機能的なビルが林立し、巨大なイモムシの体重を支えていた。空には星々が金箔のように輝き、散らばっている。夜空を渡り歩く生き物。闇に浮かぶさまざまな夢想や光の粒子を餌にして生を繋ぐ怪物。
ミヤマの描いた絵では一機の飛行機が雲間を飛んでいた。機体のあちこちに、彼の顔のパーツが刻まれている。操縦室の窓には彼の目、先端に耳、尾翼に鼻、ジェットエンジンには眉毛が、主の支配から解き放たれ、しっかりと居座っていた。周囲の雲は輪郭が濃く描かれ、ひらがなの形をしている。「す」「か」「ふ」「ろ」「い」「た」「と」の文字が空に踊っている。
二人は顔を見あわせて笑いあった。
ミヤマがトイレから美術室に戻ってくると、美術教師の鞍無が背もたれに体重を預け、集めた画用紙を一枚ずつめくって眺めていた。時々、口元に物静かな笑みを浮かべ、それが彼の表情を和らげる。窓からあたたかな午後の陽光が差し、老人の横顔、作業机、チョークの残り滓が浮いた黒板を、水が滲むように照らしている。
鞍無は顔を上げ、穏やかな表情でミヤマを見た。
「座りましょうか」
ミヤマは頷いて、鞍無の向かい、生徒たちがつかう椅子に腰かけた。少年が無言で教師を見つめる間、しばらく鞍無は回収した画用紙をめくっていた。ある水準の観察眼を持つ人間にしかわからない程度だったけれど、画用紙をめくり、異なる作品を目にするたび、その表情には彼の感情が極微に見え隠れした。ミヤマは教師の顔に微細なしわが生まれ、消えていくのを黙って見ていた。
やがて鞍無は画用紙の束の端をそろえ、先の固まった筆や絵の具の染みが散らばる机の上に置いた。
「生徒の作品を見るのは、いつだって興味深いものです」
ミヤマは床に目を落とし、口を丸くすぼめ、わずかに頷いた。
鞍無はつづけた。「どんなに退屈に思える作品でも、長い時間をかけてじっと見つめていると、そこには作者の影が見えてきます。そのひとの辿った人生が見えてくるんですね。記憶と言い換えてもいいかもしれません。すべての作品が優れているわけではありませんが、興味深いのはたしかです」
「ぼくの知りあいは」ミヤマは黄昏を思い浮かべた。「真に自分にフィットする芸術作品を見つけるのは、広い砂浜に散らばった玉を見つけるようなものだと言っていました。そこに至るまで、多くの砂粒をかきわけなくてはならないのだと」
「そうかもしれませんね。しかし、砂粒も一粒一粒、拡大して見てみると、案外きれいな模様を描いているものですよ」
そう言いながら、鞍無は画用紙の束から二枚抜き出した。
「この作品も非常に興味深い。自画像の課題だと言っているのに人間以外の対象を描いたのは、ぼくの教師人生でも二人だけです」
ミヤマは無言で床をじっと見つめていた。
「これはイモムシですね。顔だけがひとのものだ。足元の建物が小さく見えてしまうくらいに大きい。ざっとですが、背景が黒く塗られて空には星々が浮かんでいるところを見ると、時間帯は夜なんでしょう。建物にも明かりが灯っています。このイモムシは、ここまでどうやって生を繋いできたんでしょうね。なにを糧として生き永らえているんでしょうね。日本には獏と呼ばれる、ひとが眠るときに見る夢を食べて生きるとされた妖怪がいましたが、このイモムシも同じように夢を栄養としているのか。こうやって角度を変えて見ると星々を食らっているようにも見えます。また、この生き物はひとびとの労力が結晶となったものの上を這っているようだ。きっとくねくねと全身を少しずつ伸び縮みさせて、ゆっくりと進むんでしょう。あとには光を浴びてぬらぬらときらめく粘液を残して。この絵を描いているときの彼の様子はどんな具合でした?」
ミヤマは数瞬の間考えてから言った。「楽しそうでしたね」
「なるほど」鞍無は頷いた。「であれば、これは悲しい絵ではないのでしょう。少なくとも抑圧されたものの発露にはなりえたわけだ」
少年は青白い血管の浮かぶ老人の手元に視線をそそいだ。
「つづいてこちらの絵」鞍無の顔に刻まれた陰影がかすかに揺らいだ。。「もはや課題とはまったく関係のない絵だと言われても否定はできないでしょうね。文字の形をした雲。その間を縫うように飛ぶ飛行機。あとから思い出してくっつけたかのような顔のパーツ群。いっけん穏やかな情景とも言えるけれども、そこには明らかな破滅が潜んでいると。ペシミスティックと言えばそれまでかもしれませんが、そんな単純な作品でもない気がします。これを描いているとき、楽しかったですか?」
「ええ」少年はゆっくりとこたえた。「それなりに」
「それはなぜでしょう?」教師は純粋な好奇心を宿した目で少年を見つめ、静かに尋ねた。
ミヤマは肩をすくめた。「ぼくにはこの授業しかありませんから」
「そうですか。来週以降は色を塗りますからね。お二人の絵がどんな色彩を奏でるのか、いまから楽しみにしておきます」
鞍無は傷だらけの机の上に画用紙を置き、手を組んで背もたれに寄りかかった。窓の隙間からそよ風が入りこんでくる。それは少年と老人を包み、周囲を軽く走り抜けて、教室の向こうへ消えた。教師がいっこうに話し出そうとしないので、ミヤマは口を開き、言葉をそよ風にのせた。
「今日はどうしてぼくを呼んだんですか?」
教師は類まれな人間しか持たない澄んだ目で少年を見る。ミヤマは床に視線を落とした。
「特別な用があったわけではないです」鞍無は言った。「様子はどうかなと気になっただけですよ。最近の生活はどうですか?」
「相変わらずです」少年は短くこたえた。
「栄養はしっかり取ってますか?」
「はい」
「心穏やかでいられていますか?」
「それなりに」
「少し前にあなたの担任と話をしました。三年生に進級するための単位は絶望的だそうです」
「そうですか」
「それをぼくのほうから伝えてくれと頼まれました。自分はあなたから避けられているからと」
「避けているわけではないです。名前も顔も知らない人間を避けることはできないです」
「あなたとお話しできないことを残念がっていました。彼はとても責任感の強い方ですから」
「では、ぼくも残念ですよ」
沈黙が降りた。ミヤマは窓の外を見やった。ガラスの向こうに陽光に満ちた青空が見える。遠くにそびえる建物は、きっとミヤマが日頃さまようあの街のもの。都会の汚れた空気のなかで、それらは厳かで清浄な輝きを放っていた。
鞍無の声が遠くから聞こえた。
「担任の教師があなたの自宅に電話したそうです」
まばゆい陽光の反射に目を細め、窓の外を見たままミヤマは頷いた。
「何度もかけなおしたみたいですが、だれも出ませんでした」
都会の鳩が翼をばたつかせ、空気の波に乗って窓の向こうを横切っていった。校舎のどこかで、少年少女の高い声が聞こえた。平和に、楽しげに笑いあっていた。ミヤマは重々しく瞼を閉じた。
「最近はどんなことを考えて過ごしていますか?」
少年が目を開くと、そこには変わらず、雲と、そこまで窮屈ではない教室と、絵の具の染みこんだ傷だらけの木材の香りがあった。
「過去のことを」ミヤマは口を開いた。「すなわち未来のことを。一粒の泡とこの宇宙のことを。泥のような欲望と絶対正義のことを。幸と不幸のことを。不変の魂と移ろいゆく肉体のことを。子をはらんだ血と血にまみれた歴史のことを。重力と鉄くずのことを。気づきの受胎と積極性のことを。今日の食事と公転する空想のことを。健やかな眠りと狂おしい目覚めのことを。愛する女と人類に対する憎悪のことを、考えます」
「多くのことを考えるのですね」
「ほかのひとと違って、それ以外のことをほとんどしていませんから」肩をすくめてミヤマはこたえた。
「相反する二つのものの境界を取り除き、新たな一へと押し上げる。あなたが目指しているのはそういう場所なのでしょうか」
「どうなんでしょう。ぼくにはわかりません。ぼくの思考はあまりにも散逸しすぎていて、そこには連続性も法則もない気がします。いっしょになりたくもないもの同士を無理に統合して、いったいなんの意味があります?」
鞍無は微笑んだ。
「人生の幸福を見つけることができるかもしれませんよ」
「でしたらそれはぼくの求めるものではないですね」ミヤマはそっけなく言った。
「幸せになりたくはないのですか?」
「ぼくは幸せになりたいと思ったことはないです。どんなふうにもなりたいと思ったことはないです」ミヤマは気づかなかったけれど、彼の言葉は彼が長い期間に渡って閉じこめていたなにかが牢獄から発した声だった。「ぼくは幼少の頃から、どんな憧憬も感傷も抱いてはいませんでした。この世界がそれに足るものであるのなら、どうしてぼくのような人間が生まれます? どうして物語などという無秩序なものが寒々しい曇天の空を彩ることができますか? この世界はいつだって醜悪で、底が浅くて、どぶみたいなにおいがします。八年前、ぼくの胸に人格が芽生えはじめたときから、ぼくはそれを骨の髄まで叩きこまれて育ってきました。幸福がどんな形をしていてどんな感触をしているか、ぼくにはわかりません。わからないものを求めることはできない。いまいる場所から抜け出したいとも思わない。ぼくはすでに完成されてしまったんだという考えが拭えないから。いま抱えているものがすべてで、出会いや運命などは幻想でしかない。こんな人生が、これから先も死ぬまでつづいていくんですよ。なにも変わりはしない。劇的な変化などない。踏みならされた大地への足跡など蛙にでも食わせておけばいいんだ。ぼくはそんなものを幸福だとは認めないし、それが幸福だというならそんなものはいらない。ぼくはいまのままでいい。それがこの世界の総意なんですから」
しばらく二人は無言で見つめあった。陽光のなか、眼前で踊るほこりの粒子に目を奪われることもなく。そしてすり減った様子の老人は口を開いた。
「それでも、ぼくのような憐れな男に、あなたの幸せを祈ることを許してはくれますか?」
「好きにすればいいですよ」
ミヤマは視線をそらし、窓の外の街を眺めながらそう言った。
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