【小説】ミヤマ 6

  6



 美術館にはいつものようにひとがいなかった。例の絵画の前に辿り着くと、そこにはこの美術館のオーナーであるグレーのスーツを着た老人が立っていた。

「こんにちは。なんとなく、今日は会えると思っていましたよ」

 老人が話し出すと、彼の全身から甘い果物の香りが放出され、ミヤマの鼻に届いた。少年は老人の隣で立ち止まり、かつては夢だった、いまは色褪せた絵画を見上げた。

「ここしばらく、あなたのことを案じていました」老人は言った。「あなたが初めてこの美術館を訪れてから、ここであなたの姿を見ないという日はありませんでしたから」

 ミヤマはなにも言わず、冷めたコーンスープのように身動きしなかった。

「もしかしたら事故にでもあったのかもしれない。病気になったのかもしれないなどと不吉なことも考えましたが、そうではなく、あなたが自主的にここを永遠に去る決意をしたことを願っていました」

 館内は冷え切っていた。また冬が訪れる。少年は生きるために駆けださなければならなかった。ミヤマは静かに言葉を紡いだ。

「ぼくがしばらくここへこなかったのは、いまのぼくには彼女の前に姿を現す資格はないと思ったからです。ぼくはこのひとの瞳から目をそらしてしまった。けれどもそれは許されないことでした。究極なまでに純粋な水は、たった一滴の泥水が混じるだけで純粋ではなくなるんです。それはすべての状況を一変してしまうのと同義です。そしてぼくらはかつての関係を継続することができないなら、離れることを選ぶしかないんです」

「それがいいでしょう」老人は頷いて言った。「物事がそのように運ぶことを、わたしは常々願っていました。あなたの夢は、およそ健康的とは言い難い」

「どうしてです? どうしてそんなことが言える?」

「なぜならあなたの夢は、あなたを蝕んでいるからですよ」老人は悲しげに首を振った。「それはとても健全とは言えないものなのです。ある種の夢は——細分化されすぎた夢は肉体を糧として生き延びる。肉体は魂を生み、魂は錯覚を生み、錯覚は現実を生む。あまりにも遠すぎる夢は、あなたでさえ気づかぬうちに、あなたを破滅に追いやっていることでしょう。たったひとつの脳に抱えきれるものなどたかが知れている。そしてある一線を越えてしまえば、そこからは決してあと戻りすることはできないのです。別離には激しい痛みがともなうものですが、ぐずぐずしていればその痛みはますます大きくなります。あなたはまだ若い。あなたが考えているよりもずっとずっと若い。このわたしを見てみなさい」そう言って老人は染みの浮いた両手を翼のように広げた。「この肉体には若さの欠片も残ってはいません。夢がひとを老いさせるのです。夢がひとを病気にし、ひとを時代の箱庭から追放するのです。そうして完成したのがこの老いた肉体なのです。あなたはまだ若い。救われるに足るほど強靭で、汚れていない。引きかえすべきです。この街から。この深い迷いの森から」

 老人は静かに腕をおろした。積み重ねられた時のにおいがミヤマの鼻をくすぐった。少年と老人は見つめあった。お互いが相手の瞳に深い悲しみの色を見た。

 ミヤマは背中を向け、その場を歩み去った。


 昼に早稲田駅でユズと待ちあわせをした。到着したユズは、踝まで覆うすみれ色のニットのスカート、ベージュのセーターの上にチェックのカーディガンという服装だった。背中にくじらの顔の形をしたリュックを背負っている。ミヤマはいつもと同じ恰好。洗い立てのインナーを重ね着した上に作務衣を着て、錆びた自転車を引きずっている。

「こんにちは」

「こんにちは」

 お互いに他人行儀な挨拶を交わし、ひよこのようにお辞儀した。

「わたし、この街でバイトをはじめてからけっこう長いけど、このあたりはきたことないな」ユズは周囲をきょろきょろと見まわした。「これからどこへ向かうの?」

「ぼくが昼ご飯をよく食べに行くとこへ案内するよ」ミヤマは自転車の向きを変え、歩みはじめた。ユズはおとなしくそのあとについていった。

 しばらく歩くと周囲の景色が住宅街に変わった。屋根はさまざまな色あいが混ざりあっているが質素。狭い空間に家屋がびっしりと詰まっている。ひと気は少なく、外を出歩いている人間はほとんどいなかった。錆びたチェーンの、こすれあう音が家々の間に響いた。

「このあたりに住んでるの?」ユズは忠実な犬のようにミヤマの背後をついていく。「そういった話をきみから聞いたことないけど」

「いや、このあたりで寝ることはないよ」平板な声でミヤマはこたえた。

「おうちはどの辺にあるの?」

「ここから自転車で一時間のところ。車なら二十分、新幹線なら三分、飛行機なら一分のところ」

「テレポートなら一秒のところだね」

 とある一軒家の前でミヤマは立ち止まった。自転車の金切り声が治まる。ユズはなんの変哲もないその家を見あげた。藍色の屋根に地味な窓枠。家の裏手のほうで子供たちの黄色い声が聞こえた。

「目的地はここ?」

 ユズの質問にミヤマは頷いた。彼は自転車を引きずって敷地に入り、いくつかの子供用自転車の横にそれを停めた。

 玄関をあがり、居間のほうへ行くと、大きめのテーブルにつく何人かの子供と、三人の忙しなく動く大人がいた。大人たちはキッチンで料理をつくり、子供たちはボードゲームやトランプで遊んでいる。エプロンをつけた女性がミヤマたちを出迎えた。くすんだ色あいの髪に口元のしわが際立つ。ミヤマが食料を代々木公園で確保するときに出会う、教会に所属するあの女性だ。彼女は布巾で濡れた手を拭きながら二人に歩み寄った。

「おかえりなさい。ここで会うのは久しぶりね」

 ミヤマは頷き、ポケットから取り出した百円玉二枚を女性に手渡した。

「二人分?」女性はいぶかしげに二人を見たが、すぐに表情を和らげた。「そう。それはきっと、いいことだわ」

 ユズはとまどいの表情を浮かべた。「おかえりなさい? ここはなんなの?」

「説明してないの?」ミヤマが頷くと女性はユズに向きなおった。「ここは子供食堂なの。貧困やさまざまな家庭の事情で、満足に食事をとれない子供たちのために教会が開いた食堂ね。おかえりなさいはこの場所流の挨拶。メイド喫茶に遊びにきたくらいの緊張感でいてくれればいいわ」

「はあ、なるほど」

「小学生以下は無料。中学生以上は百円もらっているの。子供食堂と言っても、大人だってきてもらってかまわないのよ。実際にお子さんの保護者も何人かきているし、限定はしていないわ」

「ふむふむ」

「よかったらテーブルについて待っていて。今日のメニューはチンジャオロース。空気清浄機もびっくりするくらいのはやさでできあがるから」

 二人は言われたとおりテーブルの端に向かいあって座った。子供は小さな子から中学生くらいの者までいた。騒ぐ子供もいれば、おとなしく床を見つめる子供もいる。ミヤマたちが席についても、そちらに注意を向ける者はいなかった。

「あの女性と話しててわたしがなにを思ったかわかる?」ユズがテーブル越しにささやいた。

「たぶんわかるよ」とミヤマはこたえた。

「ならきっと考えてることはいっしょだね。あのひと、まるでライくんみたいな物言いをする」

「あのひとは初めて出会ったときからあんな感じだよ。笑っていいかどうかわからなくて、けっこう困ってるんだ」

「あんなしゃべり方をするひとがほかにもいるなんて、東京は狭いね」

 まもなく大人たちができあがりを子供たちに知らせた。彼らは遊びを途中で切り上げ、従順にキッチンへ向かい、皿に盛られたおかずやご飯をお盆にのせて引きかえしてきた。ミヤマたちは列の最後尾に並んだ。

 席に戻って箸を手にとると、大人たちが料理を手に持って居間に戻ってきた。先ほどの女性がユズの隣に腰かけると、子供たちは銘々にいただきますとつぶやいて食事をはじめた。女性は言った。

「いちいちあわせて号令をかけたりはしないのよ。ここは学校でもないんだし」

 ミヤマはまず味噌汁に口をつけ、熱い汁でのどを湿らせた。つぎに豚肉とピーマンとタケノコをバランスよく箸でつまみ、ご飯といっしょに口のなかに放りこんだ。

「とてもおいしいです」聞こえるか聞こえないかぐらいの声でミヤマは言った。

 向かいの女性は微笑んだ。「あなたはとても礼儀のしっかりした子ね。でもそのツチノコに向かってしゃべるみたいな言い方はどうかと思うわよ。もっと堂々と言ってくれればいいのに」

「すみません。でもぼくは自分の発言に自信を持てた試しがないので」

「自分に自信を持ってることと、自信を持ってるように振舞うことはまったくべつのことよ」と女性は言った。「そう、全然べつ。前者はブレーキもハンドルもついていない危険な車。ひとを轢き殺したって気づきやしない。でも後者はたとえ暴れ馬のような運転をしているように見えても、実際は道端に生えてる花とか乾いたうんちとかを華麗に避けてる、もしくは避けようとしているの」

 ユズはおとなしく食事をつづけていたが、やがて手を止め、顔を上げて尋ねた。

「二人はどうやって知りあったんです?」

「この子がある日、代々木公園の炊き出しにやってきたのよ」女性は口いっぱいに頬ばりながらしゃべった。「学校の制服を着ているから、こっちも声をかけないわけにはいかないじゃない? それでいろいろ尋ねてみたら、案の定、家庭で問題を抱えてるみたいだから、それ以来こまめに話しかけてるってわけ。この場所にも最初はなかば強引にきてもらったの。たまにはだれかのあたたかい手料理も食べないと、心が砂漠になっていくものね」

「家庭の問題」

 そうユズはつぶやいてミヤマを見た。少年は顔を上げることができなかった。その女性にはただのひとつも真実を話してはいなかったから。

 子供たちの話し声が卓上に響いていた。だがにぎやかなだけで騒ぐ者はいない。何人かのはやい子供はおかわりをよそいにキッチンへ駆けた。ミヤマの食事は半分も進んでいなかった。

「この食堂は教会が運営してるんですね?」ユズが女性にそう尋ねていた。

「そうよ。といっても、なにもかも教会が負担しているわけじゃないけどね」女性は言った。「行政もいくらか助成してくれているの。このための予算が毎年組まれているのね。おかげで金銭面についてはそれほど悩まされてないわ。なかにはわたしたちの活動を知って、寄付してくれる個人や団体もいる。炊き出しのほうもいっしょね。ひとむかし前と違って理解を示してくれるひとが増えてきたわ。どうせこの国じゃ食べ物が余りまくってるんだから、しかるべきひとたちに処理してもらえばいいのよ」

「ボランティアって大変そうですよね。普通の給料をもらえるお仕事よりよほど苦労が多そうな気がします」

「ほんとうになんでもないのよ。うちは代々キリスト教の家系で、母親のボランティアを子供の頃からお手伝いしてたの。介護施設でお年寄りたち相手に手品を見せてみたり、地域の祭りの後片付けをしてあげたりね。おかげで友達と遊ぶ余裕もなくあちこち飛びまわってたけど、まあ親には感謝してるわ。おかげで大人になってからなんの苦労もなくこの世界に入ってこれたものね。生まれた家庭環境はそのひとの人生を大きく左右するけれど、わたしは運がよかったわ」

「味噌汁のおかわりをもらいます」そう言ってミヤマは立ち上がり、お椀を持ってキッチンに向かった。戻ってきてもユズと女性は話しつづけていた。

「うちの母親もずっと福祉に興味は持ってきたんです」ユズは箸を動かしながら言った。「でも体があまり強くないものだから、そういう活動には参加できなかったんですよね。そんな話をむかしから聞かされてきたんで、わたしも興味があるんです」

「気軽な気持ちで関わってくれていいのよ」女性は言った。「単純な厳しいひとは『覚悟を持ってのぞめ』なんて言うけれど、そんなのがあったって大きな困難がやってきたときにはたいして役に立たないのよ。それよりはうまく力を抜いて、不測の事態に対応できるようにしてくれたほうがずっと役に立つわ」

「それを聞いて安心しました。わたしなんかが参加してもいいのかなって、ちょっと気おくれしちゃってたから」

「なんでもないのよ」女性は手を振ってなにかをはらう仕草をした。「大変なんじゃないかってみんなが言うけど、カップ麺の残り滓ほどの脳みそも持ってないアホな上司を相手にするほうがよっぽど大変なんだから。見てごらんなさいよ」女性は腕を広げて窓の外を指し示した。「この街のひとたちの疲れた顔ときたら! 新宿にはいろんなひとが集まるけれど、わたしにはどれもおんなじ顔に見える。血の気の失せた泥みたいな表情。メリーゴーラウンドみたいに落ち着きなくあちこちに視線が移動する目。ほんと、見てるだけで気が滅入ってくるわ。そんなふうに無茶な無理をしてる一般のひとたちよりも、社会的な弱者と区分されているようなひとたちと関わっているほうが、わたしはずっとずっと楽なの。彼らは傷つけられてきた側のひとたちだから、ひとの心の機微にも敏感だしね」

 食事を終えた子供たちはひとりずつ立ち上がり、食器を重ねてキッチンへ持っていった。その様子をミヤマは静かに見つめていた。子供たちはみなミヤマに関心を示さなかった。視線を向ける者すらいない。彼らがそれを自覚していたかはわからないが、子供たちにとってミヤマという存在は得体の知れないものだった。見慣れぬ服装に大きな体。そしてそのなかに詰まっているのは底なしの虚。大人には見通せないものを見る子供たちが、彼と関わろうとするはずもなかった。

 ミヤマとユズは食べ終えた食器を持ってキッチンに向かい、つかった分は自分たちで洗った。二人は言葉を交わすこともなく役割を分担した。ミヤマが皿を洗剤のついたスポンジでこすり、水でゆすいだ。敷かれた布巾の上に皿を置くと、それをユズが流れるようにタオルでふいた。

「いいですよ、置いていって」

 何人かの子供たちが困ったように後ろで立ち尽くすのを見てミヤマは言った。彼らは恐る恐るといった様子でシンクに食器を置き、走って居間に戻っていった。ミヤマは食器を水で濡らしてからスポンジでこすった。

「そういうのよくないと思うな」ユズは言った。「本人たちにやらせればいいのに」

「いいんだよ。いちいち気をつかうのもつかわれるのも面倒だし」ミヤマは言った。「きみは付きあわなくていい。居間に戻ればいいよ」

「きみが割を食うことはないのに」ユズはその場から去ることなく作業をつづけた。「ああいう連中のなかにはラッキーとしか思わないやつもいる。そういうやつは同じ状況が訪れたら図に乗って、また同じように楽しようとするんだ」

「それならそれで構わない。ぼくは暇だからね。それに大人ならまだしも、ここの子供たちにそういうのがいるとは思えないな」

「考えが甘いかな」なぜだかユズは落ちこんでいる様子だった。「きみが思ってるよりそういう輩はうようよいるんだよ。子供だろうが大人だろうが、そこに違いはないと思うな」

 食器を片付け終えて、二人は居間に戻った。そこでは大人たちのひとりが絵本を朗読しはじめ、子供たちがそれを半円状に囲んでいた。

「どかんっ。だいちをゆるがすおとが地下でなりひびき、おおきなおおきないわが空たかくにとびあがりました。そのいわはいくつもの国をこえてはるかかなたにちゃくちし、おおきなおおきな山になりました。いわがとびあがったところには、山でものみこめてしまえそうなほどのみずうみができました」

 先ほどの女性が食後のテーブルを布巾で拭いていた。彼女は手を止め、顔を上げて微笑んだ。

「片づけを手伝ってくれてありがとう。二人ともゆっくりしていって」

「いえ」ミヤマは首を振った。「ほかに手伝うことがなければこれで」

「ゆっくりしていけばいいのに」女性が残念そうに言う。「前にきたときも、そうやってそそくさと帰っていったわね。なにか理由でもあるの?」

「ぼくがいるとほかの子供たちが落ち着かないでしょう。いやですよ。空気も読まずに気まずい思いをさせるのは」

「あなたの言っている意味がよくわからないわ」女性はとまどいの表情を浮かべた。「もちろん帰るというなら止めないけど。今週も代々木公園で会える? 親御さんの調子はどう?」

 ミヤマは肩をすくめた。「炊き出しに行くかはわかりません。最近バイトをして給料が入ったので。親のほうは相変わらずです」

「バイトをはじめたの?」女性は驚き、少ししてから微笑んだ。「そう。それじゃあ大きな一歩を踏み出したってわけね? でもそれだとますますほかのことに割く時間が減りそう。無理はしちゃだめよ。体を壊したら元も子もないんだから」

「無理はします」ミヤマは言った。「人生にはきっとそんなときもあるので」

 それは拒絶の言葉に聞こえたかもしれない。女性の表情を見れば彼女がなにを感じたのかよくわかる。だがミヤマにそんなつもりはなかった。いつだって彼にはそんなつもりがないのだ。ユズが女性に声をかけ、連絡先を交換しているのを背中越しに聞きながら、少年は居間をあとにした。

 家の前で待っていると、まもなくユズがあとを追いかけてきた。彼女はミヤマの姿を見つけ、ほっとしたような表情を浮かべた。

「よかった。先に帰っちゃったのかと思った。きみってたまにそういうとこがあるから」

「そういうところ?」そう尋ねるのも億劫だった。

「どこか冷めてるっていうのかな。高速道路のサービスエリアで走りゆく車の群れを眺めてるみたいに、街ゆくひとを眺めてるときがあるじゃない、きみって。さっきもあの女性に冷たいように見えたし」

 ミヤマは自転車を引きずって歩きだした。「駅まで送るよ」

 ユズはおとなしくあとをついてきた。彼女は自転車の荷台にくくりつけられた寝袋や着替えの入ったナップザックを改めてジロジロと眺めた。彼女の歩幅はミヤマのそれと比べて小さく、自転車という荷物の差はあれど、時々駆けるように進まねばならなかった。

「このあとはどんなふうにすごすの?」とユズが尋ねた。

「ぼくは紀伊国屋で時間を潰すよ。探し物があるんだ」

「それじゃあ今日はもう解散なんだね」

「ああ」

 ユズは考えこむように黙った。ミヤマは前を見つづけ、ペースを落とすこともなく歩みを進めた。

「少し考えてみてるの」ユズがおもむろに言った。「今日わたしがあそこに連れていってもらえた意味はなんなんだろうって」

 ミヤマはなにも言わなかった。

「あの女性が、きみはたまにしかあそこにこないって言ってたから、今日見せてくれたものはきみにとってたいした部分ではないのかもしれない」

 学校が近くにあった。校庭で生徒たちがテニスボールを蹴っていた。

「それでもうれしかったな」ユズが言った。「少しは心を開いてくれたみたいで。全部とは言わないけど、ちょっとずつでもきみのことを知れたらいいなと思う」

「ぼくはぼくのことをだれかに知ってほしかったわけじゃない」ミヤマは静かに言った。「ぼくはただ、ぼくにとって一番面倒じゃなさそうな道を選んでるだけだよ。それ以上でもそれ以下でもない」

「きみの言うことは時々よくわからない。でもわたしはきみの面倒にはなりたくないよ」

 駅に辿り着き、二人は手を振って別れを告げた。ミヤマはユズの姿が見えなくなるまでその場に立ち尽くし、やがて自転車をこぎだして新宿の街に飲みこまれていった。

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