江戸前探訪その七 中区末吉町の牛鍋
小生の地元、横浜にやって参りました。
今回のお店、耳にしたことはありましたが学生時分には敷居が高く‥今回が初訪問です。
牛鍋も色々なスタイルがありますが、こちらのお店が分かりやすいと思いまして、今回は江戸前探訪の番外編です。
牛鍋の歴史
桜鍋の回で少し触れましたが、肉食禁止のお触れが出ていたものの、江戸の終わり頃になると隠れて食べていたそうです。「ももんじ屋」と呼ばれる肉料理屋もありましたし、馬肉を「さくら」、猪肉を「ぼたん」「山鯨(やまくじら)」、鹿肉を「紅葉(もみじ)」など、隠語を使っていました。
歌川広重の名所江戸百景に登場する山鯨屋
当時、牛肉はあまり好まれなかったようです。
屠場が無かったからですね。死んだ牛の肉は食味も悪いですし、病死した牛肉は下手をすると死ぬリスクさえあったようです。
それが明治になり、肉食が解禁されると東京に屠場ができます。これを作った中川屋嘉兵衛が「中川屋」という屋号で東京初となる牛鍋屋を開店したのです。
更に、近代化を目指す明治政府や文化人が肉食を推奨することによって肉料理が徐々に広まっていきました。
有名な仮名垣魯文の「安愚楽鍋」でも、『牛鍋食はねば開化不進奴(ひらけぬやつ)』と書いています。
こうして牛鍋は瞬く間に大人気となり、文明開花の象徴とさえなりました。
ところで日本初の牛鍋屋は、諸説ありますが文久2年(1862)横浜の「伊勢熊」とされています。
横浜の開港が1859年ですから、来日した外国人の要望なのでしょう。ただ、明治以前の牛肉は前述した通りですから、恐らく味は期待できなかったのではないでしょうか。
現存する最古の牛鍋屋
今回お邪魔したのが表題の牛鍋屋さんです。
創業が明治元年(1868年)ですから、2021年時点で153年続けてらっしゃいます。凄すぎる!
横浜の繁華街、伊勢佐木長のほど近くにあります。
ゆずの二人がデビュー前に歌っていた街です。
余談ですが、ハマっ子が遊ぶのは昔から伊勢佐木町と相場が決まっており、観光客が行くみなとみらいだとか桜木町は基本行かないです。関内や馬車道方面は少し大人になってからですね。どこも大して離れてないんですが、ざっくりそんな住み分けがあります。
さて、中に入ります。
基本、個室になっており
部屋からは中庭も望めます。
一組につき、中居さんがひとりついて、調理してくれます。
初代は牛の串焼きを売り、貯めた資金を元手に店を構えたそうです。そのうち、牡丹鍋をヒントに牛鍋を考案したようです。東京の牛鍋屋も同じような発想だったようですが、だいぶビジュアルが異なります。
参考までに、下はとある東京の老舗牛鍋屋です
薄切り肉です。味付けは醤油ベースですね。
横浜のこちらは、味噌ベースでぶつ切りですので見た目だけでなく食味もかなり違いがあります。
味噌と葱は臭み消し。酒豪の初代が酒の残った状態で調理場に入るんですが、切るのも面倒でぶつ切りになったようです。(店のHPより)
鉄の浅鍋にはすでに、薄く出汁が張ってあります。
肉を動かしたりして空いたスペースにザクを入れ、また味噌を溶いたりします。浅鍋ですので火の回りは早いんですが、味噌なので焦げ付きやすいですし、肉の厚さもあるので火は入れにくい。熱源が炭ですし、火のムラもある。
技術的には、かなり難しいですね。
他の店がやらないわけです。
完成したら、小鉢の溶き卵に乗せてくれます。
創業当初は無かったようです。一説によると溶き卵につけて食べるのは関西の風習だそうです。アツアツの具材で火傷しないように、一旦溶き卵に潜らせたそうな。
関東大震災のあと、職を失った料理人たちが関西に渡り、そこで交流したことで牛鍋やすき焼きの統一したモデルができたのではないかと小生は考えております。
料理業界において、関東大震災はひとつの分岐点です。
東の料理人が西に出稼ぎに行ったり、西の料理人が震災の復興の助けとなるべく東に渡ったり。東西の交流が盛んになった訳です。テレビやネットも無い時代、お互いの情報や技術を披露するには直に会うしかなかったわけですね。
さて、話を牛鍋に戻します。
取り分けてくださると、このようなビジュアルになります。一人前で、これの3杯分くらいありますから割と腹持ちは良いかと思います。味噌タレは焦げやすいぶん、食材との絡みも良いですね。あの厚みの肉だと、味噌がベストの食べ方かもしれません。味噌は見た目、八丁味噌のようですが、江戸甘味噌なので塩分は控えめです。
最後、残っている食材に全て火を入れまとめてくれまして、別でご飯を注文すると小丼も楽しめます。
添付の木ヘラで味噌を掬うスタイルです。
お酒と一緒に楽しむ場合は、溶き卵無しでも良いかもしれません。〆で卵液をご飯に流し込んでも乙です。
いやはや、明治元年創業の牛鍋、堪能しました。
ご馳走さまでした。
横浜というと、皆さんこんなイメージがあるのではないでしょうか?大きい街になると、必ず『表』と『裏』の顔があります。
横浜でいうと、表は山手、関内、馬車道、今はみなとみらいエリアでしょうか。
裏は黄金町、日の出町、特に‥寿町エリア。
今は整備されてだいぶ綺麗になりましたが、昔は俗にいう『ドヤ街』『赤線』の聖地で、地元の人でも滅多に近寄らなかったそうです。
けれど、二駅と離れていないエリアに表と裏が混在しているところが面白い、と小生は感じます。
寿司屋でもそうです。寿司を握る表舞台があれば、それをサポートする裏舞台がある。決して日の目を見ない裏舞台。しかし、それがあるから表舞台が生きる。
人と同じですね。
その人間臭さが好きで、この連載(?)を続けているのかもしれません。老舗ほど、その色が強くなりますからね。
ではまた次回!
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