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災害報道の原点 神戸新聞記者が読み継ぐ記事や詩3編

神戸新聞が力を注ぐ取り組みの一つに、災害報道があります。原点は1995年1月17日午前5時46分に発生し、6434人が死亡、3人が行方不明となった阪神・淡路大震災です。戦後初の都市直下型地震でした。

以降、震災の記憶や教訓を発信し続けながら、国内外の他の被災地にも記者が足を運び、被災の実情を伝えています。近年は各地で大規模災害が頻発する傾向にあり、南海トラフ巨大地震や首都直下地震も想定される中で、その取り組みに終わりはありません。

一方で震災から28年がたち、神戸新聞でも当時を直接知る記者は少なくなりました。私、ぶらっくま(1999年入社、神戸出身)も震災後の入社です。世代交代は世の常ですが、記憶の継承が社内でも重要になっています。

われわれの災害報道の原点を忘れないために、社内で読み継がれている記事や詩があります。今回はその3編をご紹介します。

社説「被災者になって分かったこと」

1995年1月20日付朝刊1面

 あの烈震で神戸市東灘区の家が倒壊し、階下の老いた父親が生き埋めになった。三日目に、やっと自衛隊が遺体を搬出してくれた。だめだという予感はあった。
 だが、埋まったままだった二日間の無力感、やりきれなさは例えようがない。
 被災者の恐怖や苦痛を、こんな形で体験しようとは、予想もしなかった。
 あの未明、ようやく二階の窓から戸外へ出てみて、傾斜した二階の下に階下が、ほぼ押し潰されているのが分かり、恐ろしさでよろめきそうになる。父親が寝ていた。いくら呼んでも返答がない。
 怯えた人々の群が、薄明の中に影のように増える。軒並み、かしぎ、潰れている。ガスのにおいがする。
 家の裏へ回る。醜悪な崩壊があるだけだ。すき間に向かって叫ぶ。
 何を、どうしたらよいのか分からない。電話が身近に無い。だれに救いを求めたらよいのか、途方に暮れる。公的な情報が何もない。
 何キロも離れた知り合いの大工さんの家へ、走っていく。彼の家もぺしゃんこだ。それでも駆けつけてくれる。
 裏から、のこぎりとバールを使って、掘り進んでくれる。彼の道具も失われ、限りがある。いつ上から崩れてくるか分からない。父の寝所とおぼしきところまで潜るが、姿がない。何度も呼ぶが返事はなかった。強烈なガスのにおいがした。大工さんでは、これ以上無理だった。
 地区の消防分団の十名ほどのグループが救出活動を始めた。瓦礫(がれき)の下から応答のある人々を、次々、救出していた。時間と努力のいる作業である。頼りにしたい。父のことを頼む。だが、反応のある人が優先である。日が暮れる。余震を恐れる人々が、学校の校庭や公園に、毛布をかぶってたむろする。寒くて、食べ物も水も乏しい。廃材でたき火をする。救援物資は、なかなか来ない。
 いつまで辛抱すれば、生存の不安は薄らぐのか、情報が欲しい。
 翌日が明ける。近所の一家五人の遺体が、分団の人たちによって搬出される。幼い三児に両親は覆いかぶさるようになって発見された。こみ上げてくる。父のことを頼む。検討してくれる。とても分団の手に負えないといわれる。市の消防局か自衛隊に頼んでくれといわれる。われわれは、消防局の命令系統で動いているわけではない、気の毒だけど、という。
 東灘消防署にある救助本部へいく。生きている可能性の高い人からやっている、お宅は何時になるか分からない、分かってほしいといわれる。十分理解できる。理解できるが、やりきれない。そんな二日間だった。
 これまで被災者の気持ちが本当に分かっていなかった自分に気づく。“災害元禄”などといわれた神戸に住む者の、一種の不遜(ふそん)さ、甘さを思い知る。
 この街が被災者の不安やつらさに、どれだけこたえ、ねぎらう用意があったかを、改めて思う。

1995年1月20日付朝刊1面より

震災3日後に掲載されたこの社説を執筆したのは、論説委員長だった三木康弘氏。倒壊した自宅の下に生き埋めとなった父の生死が分からない中、ワープロをたたき始め、途中で訃報に接しながら書き上げました。

以降も、神戸新聞の社説は長らく災害だけをテーマにし続けました。2001年10月には「第1回 石橋たんざん記念 早稲田ジャーナリズム大賞」の「公共奉仕部門」の大賞を、三木氏と、論説委員室による「阪神・淡路大震災からの復興に向けての論説、評論活動」が受賞しました。

当時の受賞理由には「(前略)新聞の論説として市民の視点を強く保持し続けて、市民にとっての『われわれの新聞』となっている(後略)」とあります。神戸新聞社は震災で本社が全壊し、新聞発行の危機に直面しました。震災は会社にとっても、社員一人一人にとっても「われわれの災害」でした。

この受賞の4カ月前に、三木氏は帰らぬ人となっていました。がんに侵され余命3カ月の宣告を受けながら、その後も1年半余、論説記者として書き続けました。生前、反響を呼んだ先述の社説については触れたがらなかったといいます。「まだ家族が見つからない人が大勢いた。配慮が足らなかったんじゃないだろうか」と。

三木氏の社説のエピソードについては、2010年1月にフジテレビ系列で放送(2016年1月に再放送)されたドキュメンタリードラマ「神戸新聞の7日間」(原作は神戸新聞社著、角川ソフィア文庫「神戸新聞の100日」)でも描かれました。

ちんしゅんしん氏寄稿「悲しみを超えて」

1995年1月25日朝刊1面

 我が愛する神戸のまちが、かいめつに瀕するのを、私は不幸にして三たび、この目で見た。水害、戦災、そしてこのたびの地震である。大地が揺らぐという、激しい地震が、三つの災厄のなかで最も衝撃的であった。
 私たちは、ほとんどぼうぜん自失のなかにいる。
 それでも、人びとは動いている。このまちを生き返らせるために、けんめいに動いている。ほろびかけたまちは、生き返れという呼びかけに、けんめいに答えようとしている。地の底から、声をふりしぼって、答えようとしている。水害でも戦災でも、私たちはその声をきいた。五十年以上も前の声だ。いまきこえるのは、いまのごうおんである。耳をおおうばかりの声だ。
 それに耳を傾けよう。そしてその声に和して、再建の誓いを胸から胸に伝えよう。
 地震の五日前に、私は五ケ月の入院生活を終えたばかりであった。だから、地底からの声が、はっきりきこえたのであろう。
 神戸市民の皆様、神戸はほろびない。新しい神戸は、一部の人が夢みた神戸ではないかもしれない。しかし、もっとかがやかしいまちであるはずだ。人間らしい、あたたかみのあるまち。自然があふれ、ゆっくり流れおりるうるわしの神戸よ。そんな神戸を、私たちは胸に抱きしめる。

1995年1月25日付朝刊1面より

へん戦争」「秘本三国志」「小説十八史略」などの中国歴史小説を著した直木賞作家で、神戸出身の作家・陳舜臣氏(1924―2015)が、震災から9日目の朝刊1面に寄稿した一文です。

「神戸市民の皆様、神戸はほろびない」と語りかけた文章は、避難所などで不安な日々を過ごす被災者を励ましました。自らも被災した陳氏は、前年に病に倒れた影響で利き腕が動かず、左手で原稿を書いたといいます。

私は入社後も長らく、この文のタイトルを「神戸よ」と記憶していました。それほど、このシンプルで力強い見出しは印象的でした。

そして最後の「新しい神戸は―」からのくだりは、何度呼んでも胸に迫ります。そこには「人間中心」の復興を願う陳氏の心情が反映されているように思います。新しい神戸は、人間を大切にする街になっているか―。陳氏からわれわれに託された永遠の宿題です。

在りし日の陳舜臣氏=2005年、神戸市東灘区の自宅

本紙を励ました詩「おい神戸新聞が来たぞ」―

 おい神戸新聞がきたぞ
 だれかが言った
 地震のあった次の日からずっと届いていなかった新聞である
 やはり被害が酷く壊滅状態なのであろうか
 他の新聞はどれを見ても
 地震の凄さと被害の大きさを一様に報じていた

 
 やったぁ 頑張っているじゃねえか
 京都新聞との連携だそうだ
 新聞を綴じながらぼくは目頭が熱くなった
 交通機関のためか取次店の関係なのか 判らぬが
 十数日ぶりに束になって届いた新聞である
 毎日案じ続けてきた新聞である

 
 十八日の分もあるじゃないか
 十九日の分もあるぞ
 わずか四頁の時もあるが休むこともなく続いていたのだ
 災害にもめげず新聞は発刊されていたのだ
 なんだか被災地すべての人の
 夢が託されているようじゃないか

 
 東京都立中央図書館 逐次刊行物課
 朝の新聞綴じの一時である
 災害の中で立ち上がった神戸新聞に

震災で社屋を失いながら辛うじて、災害協定を結んでいた京都新聞の協力で発刊を続けていた神戸新聞社に贈られた詩です。贈り主は当時、東京都立中央図書館に勤務していた詩人の中原道夫さん。2022年、神戸新聞本社を訪問してくださった時の記事があります。

阪神・淡路大震災の被災地から新聞が届いた時の感動を振り返る中原道夫さん=2022年5月、神戸市中央区の神戸新聞本社

 阪神・淡路大震災で社屋を失い、新聞発行の危機に直面した神戸新聞社に激励の詩を贈った埼玉県所沢市の詩人中原道夫さん(90)が、本社を訪れた。「この詩を書いたことは人生で最も大きな出来事の一つ」と中原さん。「生きる」ことを問い、今も詩を詠み続ける。
 1995年、中原さんは東京都立中央図書館で勤務し、全国の新聞をじる作業を担当。しかし、被災地の神戸新聞が届かない。2月初めになってようやく届いた感動を詩に込めた。
 中原さんは、高ぶった思いを一気に詩に込めて書き上げたという。詩に共感した神戸市の書家、本多利雄さんが縦70センチ、横2メートルの書にし、96年に神戸新聞社に寄贈。現在は編集局の会議室に飾られている。
 中原さんは日本詩人クラブ関西大会に出席のため、夫婦で神戸を訪問。「作品を妻に見せたい」と思い、9年ぶりに来社した。中原さんは「新聞の束が届いた日の感動は今も鮮明。新聞の束に、神戸全体の頑張りを感じた」と話し、額に納まった詩を改めて見つめた。

2022年5月18日付朝刊記事より抜粋

額装された作品は今も、本社編集局フロアの会議室に飾ってあります。

丸いテーブル(楕円形ですが)があるこの会議室は通称「丸テ」と呼ばれ、夕刊と朝刊の紙面メニューを決める会議に使われています。「どんな新聞を作ろうか」と皆で考えながら毎日、壁にかかったこの詩を目にしています。

読者からも激励の手紙

震災後、神戸新聞本社や支社・総局には3千通を超える激励の手紙が届きました。兵庫県内だけでなく、北海道から沖縄県まで全国各地から寄せられた封書、はがき、ファクスの励ましが社員たちの大きな力となりました。

その一部は現在、神戸市中央区の本社ビル内の商業施設「カルメニ」2階の「ニュースポート 神戸新聞報道展示室」に展示しています。かつてJR三ノ宮駅前にあり、震災で全壊した神戸新聞本社(旧神戸新聞会館)編集局にあった柱時計などの品や、震災・防災報道の歩みなどもご覧いただけます。

ニュースポート 神戸新聞報道展示室
入館無料
開館時間は午前10時~午後5時
休館日は土日祝日、年末年始
(※見学対応により入館いただけない日があります。事前にお問い合わせください。10名以上の団体の場合は事前にご予約の上、お越しください)

問い合わせ・予約
神戸新聞読者本部 お客さまセンター
神戸市中央区東川崎町1-5-7
TEL:078-362-7056
FAX:078-360-0439