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第2回 神戸・新開地「薬局の近所の人たち」

歓楽街にも日常生活がある

前回は、子どもの頃の薬局から見た風景を中心に書いてみた。

1905年に旧湊川を埋め立てた跡地である新開地本通りが、映画館や演芸場、飲食店、パチンコ店がずらっと立ち並ぶ当時のもっとも賑やかな場所だった。

現在の新開地本通り。阪神・淡路大震災のあと整備されたが、同時に街の衰退が進んだ

その東側の南北に走る桜筋と、柳筋が色街である福原の中心である。薬局は柳筋の一本東の通りにあった。住所表示でいうと、兵庫区西上橘通である。「サウナKRC」があった通りといえばわかる人が多いかもしれない。

東側に一区画歩けば、有馬街道にぶつかる。この街道を境にして西側は兵庫区で、東側は生田区(現在の中央区)になる。当時はグリーン色の市電が走っていた。有馬温泉に行く時もこの道を車で上がっていった。
少し北にある神戸大学付属病院あたりが、平清盛が福原京の内裏を置こうとした場所だと言われている。またその北側の平野地区には、平清盛をはじめ平家一門の主要な邸宅があった地域もある。私が通った楠中学校の校区も重なっているが、貴族の末裔と思しきような人に出会ったことは一度もない。

大きな歓楽街は非日常を追求する場であっても、そこで働く人も、遊びに来る人にも日常の生活がある。それを支えるために近所には多様な商店が立ち並んでいた。酒屋、米屋、自転車屋、材木店、貸本屋、八百屋、喫茶店、寿司屋、クリーニング店などなどである。酒屋が3軒あったのは、酒類を提供する飲食店が新開地・福原に集まっていたからだろう。
通りには、先ほどの大きなサウナ施設もあれば、小さなスタンドと呼ばれていた飲み屋もあった。柳筋と背中合わせなので、色街の風情も混じっていた。

20歳を過ぎて、この街を離れた時に気がついたのは新開地や福原界隈には、理髪店や美容院が多かったことだ。同級生にもそれらの店の子どもが何人かいた。歓楽街の特徴なのかもしれない。

子どもたちで賑わう街でもあった

薬局と路地をはさんだ北隣の八百屋のおばちゃんは、私が散髪するたびに必ず「兄ちゃん、男前になったなぁ」と繰り返す。新しい運動靴を履き始めて、靴についた汚れが気になって指で拭っていると、「気にしなくてもいいよ。前を見て歩かないと危ないよ」などと声をかけてくれた。「なぜボクの気持ちがわかるのだろう」と思ったことがある。

八百屋のおばちゃんと息子のお兄ちゃんは店の二階に住んでいた。
ウチとは家族ぐるみのつきあいで、商売が忙しい時は私と3歳下の妹を預かってくれたり、幼稚園まで妹を迎えに行ってくれたりすることもあった。
当時、八百屋には、天井から小さなカゴをゴムで吊るして売り上げのお金を入れていた。その横には茶色の蝿取り紙がぶら下がっていた。豆電球の光が当たるとてらてらと光っていたのを覚えている。新聞紙にくるんでお客さんに野菜を渡していたので、私と妹は家にある新聞紙で八百屋さんごっこをよくしていた。

その隣には、漫画の単行本を安く貸し出す貸本屋と大きな材木店があった。
八百屋も貸本屋も小さな間口で、各々10坪もなかった。現在は、材木屋があった場所も含めて10階建てのマンションになっている。当時は材木店の店子だったのかもしれない。

近所の子どもたちは、材木店の前に積み上げられた角材に腰かけて紙芝居を楽しんだ。私が小学生に上がる前だから1950年代後半の頃である。
紙芝居が始まる前に水飴や木箱の中にあった駄菓子を売っていた。年上のお兄ちゃんたちは、私たち小さい子どもが見る場所を前方に確保してくれた。面白いもので、私よりも5年ほど下の年代になると、拍子木を鳴らしながら自転車でやってくる紙芝居をリアルに見た記憶はないという。

中学1年生と幼少期の筆者。生まれ育った薬局の前で撮った写真だが、右のものは古すぎて確信まではない

当時は近所に子どもが多くてにぎやかだった。今でいう団塊の世代が小中学生だった頃である。同学年の友達が近所には何人もいた。
氷屋、自転車屋、手芸店など商売をしている家が多く、「分団」と呼ばれたグループで毎朝小学校に通っていた。全員が集まるまでは、横の路地で馬乗りやゴム飛びをして遊んでいた。
 私が小学生に上がる前には、通りを行き交う車も少なくて、ミゼットと呼ばれた三輪車の車がよく走っていた。花屋の三輪車にぶつかって足をケガしたことがある。まだまだ通りを行き交う車も少なくて牧歌的な感じが残っていた。                                屋台でわらび餅を売りに来たり、荷台に乗せたパンを引いて回る本物のロバ(ポニー?)を使った「ロバのパン屋」が現れたりすることもあった。子どもたちは、「♬ロバのパン屋は、チンカラリン、チンカラリンとやってくる♪」と流れてくる定番の音楽とともに口ずさみながら集まってきた。
これらも自動車の普及による道路事情などによって、いつのまにか消えていった。

「人に点数つけて、それでなんかなるのんか」

小学生になった私は、二軒隣の貸本屋に入りびたりになった。
今でも『ロボット三等兵』(前谷惟光)や、トキワ荘のリーダー的存在だった寺田ヒロオの『背番号0物語』などを借りたことを覚えている。

この貸本屋のおじいさんが何ともとぼけた感じで、近所の子どもたちに人気があった。大学ノートに一行ずつ貸し出した本と名前を鉛筆で書き込む。漫画本を返却すると、「えーつと」と漫画の吹き出しのように話しながら鉛筆で線を引いて抹消する。たまに娘さんが手伝いに来ていたが、よく記載が間違っているとぼやいていた。

貸本を借りるたびにおじいさんとやり取りをした。
1964年に開催された東京オリンピックのムードが盛り上がっていた時に、「アメリカのボブ・ヘイズ選手が、人類で初めて100メートルを10秒切って走りそうやで」と小学4年生の私が言うと「人間が、100メートルを1秒早く走ると、それでなんかなるのんか?」と難しい宿題を出してくれる。
小学校のテストの話になると、「人に点数つけて、それでなんかなるのんか」といった調子だ。貸本の借り賃がいくらだったかはもう記憶にないが、紙芝居にしても貸本業にしても本当に小銭の商売だった。

この貸本屋にいる時に、突如便意がこみあげてくることがあった。何度か走って家のトイレに飛び込んだことがある。なぜ貸本屋で本を見ている時に便意をもよおすのか当時は不思議でならなかった。しかし友達にはそのことは言えなかった。

社会人になってから「青木まりこ現象」として、マスコミにも取り上げられるようになった。私には何をいまさらという感じだった。原因は貸本の古い紙やインキの匂い、棚の木の匂いなどの嗅覚が関係しているのではないかと睨んでいた。当時、元町商店街5丁目にあった大型書店の宝文館で長く本を探していても何も起こらなかったからである。

余談になるが、神戸新開地近くの水木荘というアパートを買い取った漫画家の水木しげるさん(1922~2015年)は、アパートの住民が紙芝居を書いていたことがきっかけで、1950年頃に紙芝居の元締めに作品を持ち込んだ(彼のペンネームはこの水木荘から来ている)。

彼の自伝(『水木さんの幸福論』(角川文庫))では、その後、紙芝居に見切りをつけて、1957年に単身上京して貸本漫画に取り組み始めたとある。その数年後が紙芝居から貸本への過渡期だったのだろう。私にとっては、材木屋の前で見た紙芝居から貸本屋へ移行した時期に符合していたのである。

ただ、水木しげるさんの作品は、貸本屋では見た記憶はなくて、「週刊少年マガジン」に掲載された『ゲゲゲの鬼太郎』(1967年 - 1969年)が、最初だったと記憶している。

ヒモがヒモであるために

薬局と道路を隔てた目の前に喫茶店Sがあった。
ここも10坪程度の狭い喫茶店で、2階には家族5人が住んでいた。「レーコ」(アイスコーヒー)、「ミーコ」(ミルクコーヒー)と注文を受けて、取っ手のついた木の箱に入れて、おかみさんがよく近所に配達していた。なぜかいつもご機嫌さんだった。店内では、午前中から珈琲を飲みながら新聞を読んだり、人とだべっていたりするオジサンが多かった。

「車検の車が返ってきた時に、タイヤに傷さえつけておけば、うまくごねれば、車検代はただになるのや」
など詐欺まがいのことばっかり言っているオジサンがいた。
彼が私たち中学生に語ってくれた話で覚えているのは、「犯罪でもいろんな種類がある。傷害や暴行とかはアカンぞ。必ず警察に逮捕される。一番割が良いのは詐欺や。お金が入るし、被害者も自分が悪いと思うので届けないことが多い」などと語った。オレオレ詐欺やネット詐欺が横行している昨今であれば許されない発言だ。

ただ、彼は、近所に住む親がいなくなった兄弟に金銭的な支援をしていたという噂があって、私の母親を含めた周囲の人たちの評判は悪くなかった。
また彼が「ヤギさん」と呼ぶ人の話をしてくれて、私が意味を聞くと「借用書を食べるのが『ヤギさん』の仕事なんだ」と答えたので驚いた記憶がある。

そして、昼間からぶらぶらして「ヒモさん」と呼ばれていたおっちゃんは、喫茶店で、「女性たちが夜働いているのに、俺たちがなんで昼間からパチンコをやっていられるか分かるか?」と聞いてきたことがある。
「ヒモがヒモであるために何をしているか?」といった尾崎豊のような問いを中学生の私に投げかけてきたのである。

記憶に残っているのは、「俺たちは、不幸だと思っている女性の話を二日でも三日でも聞くことができるのだ」と語っていたことだ。偉大なるカウンセラーだと言いたかったのかもしれない。

先ほどの詐欺師のオジサンも、ヒモと呼ばれていたおっちゃんも、相当アウトな人たちだが、本当にひどいことをやっていたのかどうかはわからない。今から考えると、中学生の私を驚かせるためのリップサービスだったような気もするのである。
私の周りにいた人たちには、間違いなく「生きる力」があった。

「あのおじさんは、いい人か悪い人かわからんなぁ」と子供心に何度かつぶやいたことを今でも覚えている。一筋縄では理解できない人がたくさんいて、モノサシがいっぱいあったからだろう。

今でも「全く正しいこと」や「絶対に間違っていないこと」は実際にはあまり役に立たないという感覚が私にある。会社の中は、きちんとした建前の世界なので、自分の価値観との矛盾を抱えながら過ごしていた。

会社員になって初めて気がついた!

家の周りの近所の店の人たちが個性的だということに気づいたのは、私が会社員になってからのことである。
生命保険会社に入社して一番驚いたのは、多くの社員が上司の言うことには反論せずに黙って従い、命じられたことには唯々諾々と取り組むことだった。自分の仕事が終わっても支社長が帰るまでオフィスにとどまっていた。

私の周りのビジネスマンは、会社や上司が求める姿に自分を合わせにいこうとしていた。
一方で、当時の近所の人たちは、少し大げさに言うと、世界を自分に引き込み、自分の足で立っている強さがあった。私の周りにいた商店主のオッチャンたちは、例えば町内会の会長が何を言っても、自分が納得しなければ従わない人ばかりだった。わがままだと感じるときもあったが、それは当たり前だと思っていた。

近所の人たちで建前を言う人はいなかった。「わが国経済は~」「本社の市場の状況は~」などの一般論を言うと、「アホか、お前は」とどつかれかねない。
「売上目標額を必ず達成させる」「売上を対前年〇%アップする」といった保険会社の営業では当たり前だった言葉を発する商店主はいなかった。いい気持ちで長く商売ができれば良いと考えていたのだろう。

近所の人たちは、当時、勤め人のことを「月給とり」とか「腰弁」とか呼んでいたが、少し揶揄するニュアンスがあったと思う。
私が40代後半になって、「出世のために会社の仕事を続けるか」、「自分なりの生き方を目指すか」で葛藤を抱えて休職した時に、何度か彼らが夢に現れた。
周囲のビジネスマンの顔つきと比べると、近所の人たちの方が圧倒的に良い顔をしていた。収入や財産は少なくて、将来の保障もなかったにもかかわらずだ。
どうやら人の表情が輝いたり、魅力的になるのは、相対的なスケ-ルを上昇させたり、合理的な思考を高めることから生まれるものではないのだろう。

入社した時から会社の仕事にのめり込むことに違和感があったのは、会社や組織への忠誠心は一種の甘えだという拭えない感覚があったからだろう。
それほど「こどもの頃の原体験」は強く私を規定していた。

当時の景色や賑わいは心の中にしか残っていない。

かつての街角を歩いても、八百屋も喫茶店も酒屋も材木店も今はすべてなくなった。子どもの声も全く聞こえてこない。50年以上経てば、変化するのは仕方がないのだろう。

私の子どもの頃から、神戸の中心は新開地から三宮・元町に徐々に移りつつあった。神戸で生まれ育った直木賞作家の陳舜臣は、開港当時の為政者は、湊川神社、神戸駅近辺に都心をつくるつもりだったらしいという(『神戸というまち』(至誠堂新書 1965年)。以前の市役所も裁判所も繁華街のすぐに近くにあった(神戸の中央郵便局も)。
しかし「いつのまにか、都心はずるずると東の方へひきずられて行った」と述べている。神戸の闇市(ブラックマーケット)は、大都市の中でも群を抜いて大きいと言われており、三宮から元町あたりが中心だった。野坂昭如の直木賞受賞作『火垂るの墓』の中では、三宮ガード下の闇市風景が活写されている。戦後の闇市あたりから大きく差がつき始めたのではないかと考えている。

1960年代後半以降になると、映画館への来客数に陰りが見えはじめ、街を支えてきた映画館や演芸場が次々と閉鎖されて 集客の勢いが失われた。
映画が娯楽の中心だった時には、映画館が密集した場所が盛り場といってよいのだろう。その意味では、かつての新開地は神戸一の盛り場であった。

1968年には神戸高速鉄道が開通して、阪神・阪急・山陽・神鉄の私鉄4社が相互に直通運転が可能になった。新開地・福原界隈は通過点になって、さらに三宮・元町に勢いが移った。

オイルショック以降は、新開地の南にあった川崎重工や三菱重工の造船業が振るわなくなり、一方で消費文化が広がり三宮に重心が移っていった。

1985年には、元町商店街の西側を代表する店だった三越神戸支店も閉店した。さらに1995年の阪神・淡路大震災が衰退に輪をかけて街の活気を奪った。

2005年から、会社の仕事でグループ保険の募集・普及活動のために兵庫県全域の学校を車で廻った。元町から西側の兵庫区、長田区に入るとあまりの車や人通りの少なさに愕然とした。神戸市北区、西区の住宅地の方が勢いがあると感じたのである。

もはや当時の景色や賑わいは、すでに私の心の中にしか残っていない。
流行歌の歌詞ではないが、子どもの頃が夢なんてあとからほのぼの想うものなのかもしれない。   

 




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