楠木新

1954年神戸・新開地生れ。兵庫県立神戸高校から京都大学法学部へ進む。大卒後は大手生命…

楠木新

1954年神戸・新開地生れ。兵庫県立神戸高校から京都大学法学部へ進む。大卒後は大手生命保険会社に就職。人事・労務・支店長と業務をこなすが47歳の時に「人生はこれでいいのか」と悩みうつ状態に。そこから働くことについて取材執筆を始める。2017年刊『定年後』が25万部超の大ヒットに。

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  • 【神戸新開地〜福原】シンカイチの人と思い出

    『定年後』(中公新書/2017)で25万部超えの大ベストセラーをかっとばし、『定年準備』『定年後のお金』『転身力』とヒット連打で、最新刊『75歳からの生き方ノート』(小学館)を出したビジネス評論家/文筆家の楠木新が、一番書きたかった「自分史」と「神戸の下町」のこと。

最近の記事

第21回 神戸・新開地「淀川長治を生んだ映画の街」

チャップリンとの出会い 新開地の映画館へ連日通い続けていたという淀川長治さん(1909年〜1998年。以下敬称略)の話は地元でもよく聞いていた。 当時、毎週日曜午後9時からの『日曜洋画劇場』で、「ハイ皆さん、こんばんは」から始まり、映画解説をするテレビ画面の淀川の姿は印象的だった。 ビデオテープやDVD、インターネットでの配信のない時代は、映画は映画館のスクリーンで観なければならなかった。数多くの映画館が立ち並ぶ新開地近くに住んでいた私たちは、比較的手軽に映画にアクセスで

    • 第20回 神戸・新開地「中内㓛さんと会ってきた」

      新開地を通り過ぎていった人々 今回から、神戸・新開地と縁があった人物を取り上げる。 なかでもダイエー創業者の中内㓛氏(以下敬称略)は、私が最も新開地を体現していると感じている人物である。 生まれ育った土地や若い頃に過ごした地域自体が人に対して大きな影響力を持つケースがある。今後も淀川長治、横山ノックなども取り上げながら、人を通じて神戸・新開地の地場の力というか、風土的なものを検討していきたい。 同じ新開地界隈の薬局 最近、ダイエー創業者で流通革命の旗手でもあった中内㓛

      • 【楠木新の番外編】ダイヤモンドオンラインの週間人気記事ランキング1位

        ダイヤモンドオンラインの2024年6月10日〜6月16日の人気記事ランキング1位は、『老後も「人に恵まれる人」と「孤立する人」、顔を見れば一発でわかる決定的な「差」とは?』となりました。 3位の『老後に“後悔する人”の共通点「このまま死ぬのは、やりきれない」』。4位は『「一人ぼっち」で過ごす定年退職者の哀愁、午前中の図書館、カフェ、ジム…』と続いていて、この期間は、よく読まれたようです。話を聞いてもらったジャーナリストの笹井恵里子さん、カメラマンの今井一詞さんに感謝です。

        • 第19回 神戸・新開地「大阪の天満天神繁昌亭から地元の喜楽館へ」

          繁昌亭の舞台に立つ 2023年9月25日に、戦後60年ぶりに復活を遂げた上方落語の寄席「天満天神繁昌亭」の舞台に立つことができた。 もちろん落語を披露したわけではなく、毎月25日にテーマを決めて開催されている「天神寄席」9月席で、3人で話す鼎談の場に参加したのである。この日のテーマは「極楽隠居と定年地獄」。 2017年に出版した拙著『定年後』(中公新書)がベストセラーになったので声がかかったのだろう。 子どもの頃に地元の新開地にあった神戸松竹座に通った身としては、ある種あ

        第21回 神戸・新開地「淀川長治を生んだ映画の街」

        • 第20回 神戸・新開地「中内㓛さんと会ってきた」

        • 【楠木新の番外編】ダイヤモンドオンラインの週間人気記事ランキング1位

        • 第19回 神戸・新開地「大阪の天満天神繁昌亭から地元の喜楽館へ」

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        • 【神戸新開地〜福原】シンカイチの人と思い出
          21本

        記事

          第18回 神戸・新開地「神戸拳闘会とジョー小泉」

          15歳の時に、雑誌『プロレス&ボクシング』に投稿 2022年11月に上京した時に、神田神保町近くの学士会館に宿泊した。 この辺りは古書店街で、特色のある古本屋も多い。とくにノスタルジーを大切にしたい私のような人間にとっては、店を見て回っているだけで時間が経つのを忘れてしまう。 学術的な書籍だけではなく、昔のレコードやCD、映画関係のパンフレットやポスターを置いている店舗があれば、『平凡』『明星』などのかつてのアイドル雑誌や野球や格闘技などのスポーツ関係の雑誌を扱っている書

          第18回 神戸・新開地「神戸拳闘会とジョー小泉」

          第17回 神戸・新開地「この街から離れる」

          さまざまな人を見て育つ 私が育った新開地・福原界隈は、当時は神戸でも有数の映画や興行を中心とした娯楽の街であり、かつての遊郭街を背景にした歓楽地でもあった。 繁華街や歓楽街は普通の人にとっては遊びに行くところ、楽しみを求めて訪れる場所だろうが、私にはそこがホームグランドだった。 歓楽街に住む人々にとっても日常生活があり、商店主、職人、飲食業・サービス業に従事する人たちや、街のアウトローも隣り合って暮らしていた。 地方出身の若い人たちも多く、何で稼いでいるのかよく分からな

          第17回 神戸・新開地「この街から離れる」

          第16回 神戸・新開地「喜楽館の漫談、R-1へエントリー」(下)

          喜楽館での初舞台 1月5日(金)18時から、上方落語の定席である神戸・新開地の喜楽館を借り切っての催しが始まった。 演芸関係の出し物が続いて、プロのシンガーが登場。その後に、数人が素人のど自慢に挑戦して優勝者を決めるというプログラムだった。 幕が開いて、主催者のあいさつの後、社会人の落語、漫才に続いて、私の登場となった。舞台袖で待つ時も、慣れない漫談ということもあって少しプレッシャーを感じていた。 客席は初め重く感じたが、徐々に「耳を傾けてくれているなぁ」という感触があ

          第16回 神戸・新開地「喜楽館の漫談、R-1へエントリー」(下)

          第15回 神戸・新開地「喜楽館の漫談とR-1へエントリー」(上)

          喜楽館の舞台に立ちたい 昨年の11月30日に、帰阪のために東京駅から新幹線に乗車して、スマホで音楽を聴いていると、学生時代の友人N君からSNSで「Y君が11月2日に亡くなった」と連絡が入った。 N君に喪中はがきが届いたそうだ。 「体調を崩していたのかな。ショック」 「4年前に会った時には元気だったのに」 「あんないい奴が早くに亡くなるなんて」 「彼の分も楽しく生きよう」 「偲ぶ会をやろう」 などとやり取りをしていると涙があふれて止まらなくなった。 イヤホンから聞こえてきた

          第15回 神戸・新開地「喜楽館の漫談とR-1へエントリー」(上)

          第14回 神戸・新開地「楠中学の校区と大倉山公園」

          歴史ある広大な大倉山公園 大倉山公園(中央区楠町4丁目)は、明治を代表する実業家の大倉喜八郎(1837~1928)が神戸市に寄贈した土地を整備したものだ。 主に湊川神社の北側に展開する面積は約7.9ha、1911年(明治44年)10月に開設された。大倉喜八郎は明治維新の動乱の中で御用商人として活躍し、一代で大倉財閥を築いた人物である。 この界隈は、私が通った楠中学の校区である。野球部に入部していた私は、この公園内にあったグラウンドで3年間練習した。 また楠中学には「大倉

          第14回 神戸・新開地「楠中学の校区と大倉山公園」

          第13回 神戸・新開地「湊川神社の啖呵売」

          湊川神社正門横の大楠公墓所 神戸市中央区にある湊川神社は、南北朝時代の名将、楠木正成を祀っている名社で、地元の人たちは「楠公《なんこう》さん」と呼んできた。 1336年に、正成はこの地で足利軍との湊川の戦いで自刃した。 神社は私が通っていた橘小学校とは道路を挟んで隣接していた。とくに思い入れのあるのは、神社正門の横にある大楠公墓所。正月3が日でも訪れる人はそれほど多くない。 明治5年(1872) に神社が創建される前から楠木正成の墓碑があった場所で、徳川光圀が1692年

          第13回 神戸・新開地「湊川神社の啖呵売」

          第12回 神戸・新開地「初の神戸新開地ツアー」

          喜楽館の体験バックツアー企画 毎月一回、京都を散策する会に参加しているが、「地球沸騰」とも言われた今年のあまりの暑さに、8月の例会は京都を歩き回るのではなく、上方落語の定席・喜楽館での落語鑑賞を中心とした神戸・新開地ツアーを実施することになった。 当然ながら地元出身の私が世話役を務めた。 8月22日(火)11時半、集まったのは60代、70代の男女メンバー10人。神戸市兵庫区の新開地本通りにある喜楽館前である。 客席に入ると、落語家の桂三ノ助さんから、喜楽館の舞台や落語で使

          第12回 神戸・新開地「初の神戸新開地ツアー」

          第11回 神戸・新開地「『御堂筋いくよ・くるよ』作戦」

          不思議な偶然のチカラ 前回に紹介した2本の連載を続けながら会社員から転身した人たちをテーマに書籍化を考えたが、編集者と出会える機会がなかった。 一番フィットするのは、日本経済新聞の読者層だと想定していた。日々ビジネス中心の仕事をしているものの、実際は自らの生活を充実させたい会社員に私の発信はより届くと考えたからだ。 ある日、紀伊国屋書店梅田本店で書籍を購入した際に、たまたまカウンターにあった「加藤廣先生サイン会」という小さなチラシに気がついた。サイン会の日時と場所の下段に

          第11回 神戸・新開地「『御堂筋いくよ・くるよ』作戦」

          第10回 神戸・新開地「著述家『楠木新の誕生」となった2本の連載」

          「こころの定年」の連載に没頭 2007年3月に朝日新聞で「こころの定年」の連載が始まり、土曜日ごとに自ら書いた文章を紙面で読むことはこの上ない喜びだった。同時に毎週一本ずつ貯めた原稿が減っていくのは、プレッシャーでもあった。 そのため原稿案をできるだけストックすることを心掛けた。余裕をもって執筆したかったことと、会社の仕事とバッティングするのを避けたかったのである。 また内心では、連載を長く続けることにつながるだろうという読みもあった。 書き溜めた原稿が一番積み上がった

          第10回 神戸・新開地「著述家『楠木新の誕生」となった2本の連載」

          第9回 神戸・新開地「『楠木新』が生まれるまで③」

          話す仕事も、放送作家への道も、地元のことを書ける場もすべてない 50歳を区切りに「うつ状態」からは回復して体調は戻った。 仕事も楽になって時間もできたので、自分の好きなことに取り組んでいこうと考え始めた。 ところが実際にすぐにできることはなく、逆に何をしてよいのかわからない状態に陥った。 いかに自分が会社にぶら下がっていたのかを思い知らされたのである。 最初に頭に浮かんだのは、「サラリーマン向けのラジオ番組ができないか」ということだった。 40代半ばの支社長当時に、社外の

          第9回 神戸・新開地「『楠木新』が生まれるまで③」

          第8回 神戸・新開地「『楠木新』が生まれるまで②」

          行き詰まりの中で休職 2000年のこと、45歳で大手保険会社の支社長だった私は、保険の内容確認や調査を行う関連会社の人事担当部長に出向になった 。 この会社の役員は主に本社で部長クラスだった人たちが常務や専務で転籍していた。みなさん気のいい人たちで、職場の雰囲気は悪くなかったが、自分の将来を考えた時には納得がいかなかった。 毎日毎日、受け身の仕事をして、新しいことにチャンレンジする雰囲気も感じられなかった。 「自分の10年先はこういう姿か」と違和感が膨らんだ。 一方で、

          第8回 神戸・新開地「『楠木新』が生まれるまで②」

          第7回 神戸・新開地「『楠木新』が生まれるまで①」

          50年前は憧れだけで終わっていた 私は2022年から自宅近くの関西学院大学に週に一度聴講生として通っている。 先日、授業を終えて教室から出ると、1回生の男子学生から「今の授業は、何のために受講しているのですか?」と声をかけられた。「カルチャー論に興味があるからです」と答えた。 その学生は面白いと思った人がいると、声をかけて話を聞いてみるそうだ。 たとえば、学内で個性的な服装をしている人がいれば呼び止める。私は若者しかいない大教室でただ一人の高齢者だったので目立ったのだろう

          第7回 神戸・新開地「『楠木新』が生まれるまで①」