(批評)スカイ・クロラと「戦争の平和」

(※本文に作品のネタバレが含まれます!)

 2008年公開の映画「スカイ・クロラ the sky crawlers」は森博嗣原作、押井守が監督を務めたアニメーション作品だ。完全な平和が訪れた未来、永遠に歳をとらない日本人の少年少女「キルドレ」が、ヨーロッパを舞台にして「ショーとしての戦争」を繰り広げるというストーリーである。
 主人公の函南優一(カンナミユウイチ)はキルドレであり、戦闘機パイロットとして戦死する以外、絶対に死亡することはない。派遣されたウリス基地で、親友のトキノや女性司令官の草薙水素(クサナギスイト)と極めて静謐な日常を過ごすさまが劇中で描かれている。
 彼らの軍事行動は企業がスポンサーとなり、メディアに大々的に宣伝されながら、しかも極めて計画的に実行に移される。対抗する組織とはあらかじめ一定の契約が結ばれたうえで戦闘を行うのだ。そして定期的に基地にはスポンサーとパイロットを支援する観光客が訪れ、また飲食店のテレビでは連日戦闘の様子が中継され、客はそれを楽しんでいる。
 まるでゲームかスポーツのような戦争である。実際、監督の押井守はゲーマーとして知られているし、ヨーロッパサッカーのファンでもあった。
 キルドレである優一は自身の職務に対してまるで他人事のような姿勢で臨む。行きつけの喫茶店で「気をつけてね」と声をかけられても、「何を?」と返事する。水素にこの戦争について訊ねられても、これは仕事だと答える。
 しかしこの優一の態度は正当なものなのだろうか。彼は戦闘機パイロットとして、当然戦場で戦わなければならない。そして、それはまるでゲームのような戦争だとしても、正真正銘の戦争であるかぎり、必ず死のリスクは付き纏うのである。なぜここまで冷静でいられるのだろうか。
 彼はキルドレである。キルドレは子供の姿のまま年を取らず、戦場以外で死ぬこともない。そして、派遣される以前に関する記憶も無い。価値での生活も充分だ。しかしそこには高揚がなければ退廃もない。ただ同じ毎日がほとんど永遠に繰り返されるだけなのだ。
 彼が充実した「生」を実感できるのはただ死を目前にした戦場だけである。しかしこの戦争もまた企業の都合と、絶対に勝てない「ティーチャー」という敵によって厳密にコントロールされている。
 つまり、ショーとしての戦争において死は一種のアクシデントとして処理される。双方の被害が甚大になれば戦闘は簡単に撤収されるし、そのうえで、犠牲者はある意味で「想定内の必要最低限な犠牲者」となるのだ。「生」も、そしてそれを実感させる死もルールありきなゲームのうえに回収されるこの状況で、例外的な生活などありえないと優一は考えている。だからかくも冷静なのだ。
 優一の友人がティーチャーによって撃墜されたとき、観衆のひとりが「可哀想に…」と言う。それを聞いた水素が「同情なんかで、あいつを侮辱するな!」と叫ぶのは、この戦争において死者がエンターテイメントのひとつとして、観客の目線に回収されることへの憤りなのである。
 退屈な日常の中で唯一「生」を実感できる瞬間があったとしても、それが計画的で回収可能なものだとしたら、彼は袋小路の中で彷徨っていることになる。
 であるならば、彼の生活もまた平和であると言えないだろうか。もちろん、戦場では生と死を賭けた争いがある。しかし上述のように、それもまたきわめて予定調和的でしかないのだ。「平和」を「平穏」と言い換えてもよい。「ショートしての戦争」はまた、「穏やかな戦争」でもあるのだ。
 ここでひとつの事態が浮上してくる。優一の生活を支配するこうした平和と、それを観る観客たちが生きる平和は、重なりながらも実質として異なるのだ。
 後者が生きる平和とは、自身が戦地から身を引き、観客としてキルドレの戦争を見守ることである。前者はこうして見守られながら、計画のうちで行われる戦争に参加することである。観客はときに興奮し、ときに憐憫をかけてみせる。それは彼らを「生かし」たいという意思の表れなのだ。一方、キルドレたちは反対に「生かされ」ている。
 「ショートしての戦争」は、こうした「生かす」と「生かされる」の平和が二重になることで実現されているのだ。
 しかし、ここで疑問がまた浮かび上がる。こうまでして当事者と非当事者が「生きる」ことを目指すのなら、ではなぜ、キルドレたちは死ななければならないのだろうか。
 そもそもキルドレたちにとって死とは、確認したとおり「想定内の必要最低限」な出来事である。「必要最低限」とは何であろうか。これは観客たちの「生かす」意思と合わせて考えたときに答えを得ることができる。
 「生かさ」なければならない、「生きな」ければならない人々が死んでしまったら、残された人々は何を考えるか。より安全な、より効率的な、より人道的な技術なり方法を生み出そうとするのだ。つまりキルドレの犠牲は、社会をより健康的に向上させる動機へと、貢献されなければならないのである。人は殺してはいけないから「最低限」であるが、社会を維持し発展させるためにはそれが「必要」なのだ。
 観客は別にキルドレたちへ殺し合いを命じているわけではない。あくまで彼らの死は不慮の事故なのだ。観客はそれを嘆き悲しむ。そして次はもっと生還する者が増えてほしいと望む。そのためにはこの戦争への支援と応援を惜しまないだろう。
 二十一世紀はいまだ二十世紀の記憶に生かされている。二十世紀前半に起こった二つの大戦で払われた多大な犠牲の上に培われた精神が、現代もなお活きている。「スカイ・クロラ the sky crawlers」の舞台がヨーロッパであり、かつ風景は二十世紀のそれと二十一世紀のそれが混在しているのは、偶然ではない。戦争とそれによる犠牲が戦中戦後ともに必要とされ、銃後に用いられるあらゆる技術に応用された歴史を、作品内で反復させることで虚構の物語にひとつの現実味を与えているのだ。
 優一にとって、戦死はあくまでも想定された事故死に過ぎなかった。例外の無い日常から彼を救ったのは、水素への愛である。二人の個人的な恋愛関係こそが、決定的な運命そのものから逃れられたのである。しかしその関係も二人がキルドレである限り、また永遠の日常へと回収されてしまうだろう。そのために、映画の終盤、優一は日常を束縛する根拠のひとつであるティーチャーへと挑んだである。
 水素は基地の司令官である。そういう意味では、ゲームのプレイヤーの立場に近い。しかし彼女もまたキルドレである以上、ゲームで操作されるキャラクターの側なのである。だからこそ、彼女は待ち続けるしかないのだ。この運命的な日常を壊してくれる誰かを。

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