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超私的デザイン論③-デザインと再現性-

今回、デザイン論の第3回はデザインは理論で説明ができること、つまり、理論的に優れたデザインは読み解くだけの深さがあり、その背後には再現性が見えがくれしているというお話です。

ブロックと再現性
就学前の息子が自宅でよくブロック遊びをしていて、車やら家やら、そうしたものをつくっては私に見せにきます。ブロック遊びですから、組み立てたものを壊してまた別のものをつくるということが前提のもの。とはいえやはり本人なりによくできたと思っているものは壊したくないし、ましてや他者に壊されるのは悔しい。でも片付けはしなくてはならないという葛藤からか、その作品が壊れたり片付けられたりすることに対してしばしば大泣きをすることがあります。
おそらく多くの大人は「またつくればいいじゃないか」と説き伏せようと試みるのではないでしょうか。私も同じですし、そこには実はデザインの真実が含まれているように思っています。
またつくるために、写真を撮って記録しておくというのは一つの手ですし、親としてはそれが一番手っ取り早いのは間違いありません。再現できるという安心感を子どもに与えつつ、自分は自分のすべきことをしなくてはならない。そのためのツールとして写真は有効です。
私は写真も撮りますが、そのときに息子に「再現するためには?」と問いかけることにしています。今ではすっかり、ルールをつくることと言うようになっています。
ブロックを組み立てていく過程で共通する最もプリミティブなルールは凸凹をつなげていくというもの。それをどのように構成していくかが、子どもらが自分なりに設けたルールとなります。何を考え、どうしたかったのかを思い出し、そのために実際にどうしていったのかという問題解決のプロセスが彼らなりにはあります。この構成に筋の通った考え方があれば、再現することは(子どものブロックにおいては)そう難しいことではありません。
感覚的なところがありつつも、彼らなりにおもしろいと思った組み合わせ方に何かしらのルールを見出すことができれば再現もできるし、実際に分解して、組み立て方のルールを確認しながら手伝って再現をすると、すっと泣きやみます。いや、それ以上にこれまでと顔つきが変わってより元気になったりします。
写真で撮影するのは簡単ですし、ほとんど手間はかかりません。ルールを確認しながら一緒に再構築することはしばらくの間は相応の手間がかかりますが、そこはさすがに子どもです。一度ルールに沿って組み上げていくという考え方を身につけてしまえば、次からは自分でやれるようになります。
親としてはブロックをつくっているシーンを目にするたびに「このあと泣かれるのかぁ…」とか、「片付けのときにどう説得しよう…」というストレスを感じることも少なくなりますし、彼らが少し賢くなったような気もします。
そしてルールに沿ってつくっていくことで改善点も見えてきますから、子どもにとってはより良い作品となり満足感を与えることにも繋がります。
一定のルールを設けて構築していくというデザインの思考に切り替える手助けをするというのは一石三鳥といってもいいかもしれません。

909のすごいところ
909という数字だけ聞けば、なんだか中途半端だと多くの方は思うかも知れません。900の方がよっぽどキリが良いし、せめて910にしたくなる気持ちに駆られます。いっそのこと1000にしてしまえばよりシンプルで分かりやすい。
末尾が9というのでキリが悪いなぁ、という印象を持たせないのは渋谷にあるあの有名なファッションビルくらいでしょうか(10で「とう」、9は「きゅう」、109でとうきゅう)。
さてこの909は一体何なのかというと、私たちの住む日本に古来からゆかりのある数字で、とくに木造建築をつくるときに利用されている数値です。
現在では910というのが一般的ですが、あくまでも私個人としては、昔から伝わる日本独自の単位である尺(しゃく)や間(けん)との関係が深い909に強い意味があると考えています。
さて、日本の古くからの住まいは、「座って半畳、寝て一畳」というように、畳がひとつの行動様式の単位になっています。地方によっても寸法は異なるのですが、半畳は909mm×909mmの正方形で、一畳は幅が909mm、長さが1818mmです。この1818mmを一間(いっけん)と言います。
和室のあるお宅や、かつて和室に住んでいた方などはよく分かると思いますが、一間(1818mm)は布団をしまう両襖(りょうふすま)の幅の寸法です。ドラえもんの寝床がこの一間にあたります。襖の両サイドには木の柱が立っていることが多い。つまり、柱と柱のスパンがこの1818mmということになります。
在来の日本家屋の柱は、じつはこの909mmの正方形のグリッド(マス目)上に柱の中心が配置されるのが基本的なルールです。909mmのマス目の全てに柱を置いてしまうと窮屈で仕方ありませんし、梁(柱と柱を渡す横材)や上の階の床材を支えるには過剰ですから、909mmの倍数で適切に空間を確保しながら柱を配置していきます。
このいわゆる在来工法の場合は、ひとつとばしで1818mm(=一間)で配置していくのが主ですが、場合によっては909mmの3倍の2727mmのスパンを確保したり、広い空間が必要な場合には、その4倍の3636mmを確保するといった具合です。もちろん、長いスパンを確保しようとすれば、柱の太さを太くするなどの工夫が少し必要ですが。
在来の日本家屋ではこのように、909mmの倍数で柱を置いていくというルールがあります。
さてこの数値の倍数をみていきましょう。
0909
1818
2727
3636
4545
5454
6363
7272
8181
9090…

いかがでしょう。なんだか中途半端な数字と思いきや、こうして並べてみるとなんとわかりやすい一定のルールがあることか。千の位と百の位の数値のみを足せば必ず「9」になりますし、十の位と一の位も全く同じ。
このルールであれば、建築を考える設計の側も、それをつくる大工さんの側も、細かな数値を毎回毎回足し算をすることなく、とても合理的に空間を組み立てていくことができるのです。当然ミスも減りますし、日本人の身体スケールにもピッタリです。
とても良くできたこうしたルールを「モデュール」といいます。

リノベーションする際に、私は初めに必ず実測調査をして精確な図面を描くことをします。それが築古の日本家屋であれば、イレギュラーな部分を除いて、このモデュールが採用されて建てられたことが確認できればわざわざ壁を壊したりしなくても柱の構造体がどこに配置されているのかがわかります。
昔の人が考案した知恵を継承しつつ、現代の社会に沿ったものにつくりかえる。先人はそのためのメッセージをシステムという形で現代に残してくれているのです。まさに先人が残してくれた考え方そのものが「デザイン」と言えるでしょう。

時間をデザインする
素晴らしい先人の知恵、すなわち継承されていくデザインというものは必ずしもカタチだけではありません。我が国には「式年遷宮(しきねんせんぐう)」という時間までをもデザインされた再現のシステムがあります。
この式年遷宮とは、伊勢神宮のお社を20年おきに建て替えることです。木でつくられたお社は、当然年月が経つと木そのものが傷み、朽ちてきます。ですから建て替えが必要になるのですが、現在建立されている敷地のすぐ隣に同じ大きさと形をした更地があり、20年が経つと現在のお社を解体し、隣の更地に新たに組み立て直すという仕組みになっています。
この20年という年月にも意味があります。生まれたばかりの赤ちゃんが20年経てば成人します。若手の職人として、親や祖父からその技術を学ぶ年です。そしてさらにその20年後、40歳となった彼は経験も豊富で、20歳になった子どもを若手職人として伴う若親方になります。そしてさらにその20年後の60歳では棟梁として全体を統率し、技術を後世へと継承していくことの重要性を説く立場となります。
こうして、もう1300年もこの式年遷宮は受け継がれているそうです。
まさに木の文化である日本という環境ならではの「再現性」が時間の経過も含めてデザインされている極めて良くできた驚愕のシステム、それが我が国の式年遷宮です。

数値化すること
さて今回は、再現性というテーマで話をしてきました。最後に、シドニーのオペラハウスに簡単に触れて終わりにしたいと思います。
建築家ヨーン・ウッツォンによるシドニーのオペラハウス(1973)は、今や世界的なランドマークです。尖塔アーチ状の断面をもつ複数の大きさの異なるシェルが幾重にも重なりあうヴォリューム構成は、50年経った現在でも斬新で、シドニー港から臨む光景には魅了されない人はいないほどです。
この案は、コンペで最終的に採用が決定したものですが、1970年代初頭ですから現在のようにコンピュータを駆使して構造や構成について至るところまで計算し尽くし、その結果からスタディを繰り返すということが容易ではない時代でもありました。
建築をつくるには、数値化しなくてはいけません。全体を組み立てるための詳細な寸法や構成(カタチ)に伴う構造強度の計算など、現在では3Dで簡単に計算できるようになっていますが、とくに当時まだ無名だった設計者のウッツォンにはこれらが大変困難な問題としてのしかかります。
最終的に、これらのシェル形状に一貫した形を作る上でのルールを見出し、数値化できるような構成のアイデアが生まれます。それによって施工が可能となり、現在のオペラハウスが完成します。
数値化できることは、再現ができます。感情や思いの強さを数値化するのはなかなか難しいのは皆さんもイメージができることでしょう。
その数値に則って組み立てていけば誰でもできること、それがデザインの一側面でもあります。だからこそ反対に、感情や思いみたいなものは、その人にしかできない個性だということになります。

組み立てたブロック(理性)に愛着をもつ(感情)わが子をみて、理性と感情とのバランスをとは何か、考えさせられる今日この頃です。その狭間で結局バランスを「理性的に」とろうとする、それがデザイナーの性なのかもしれませんね。

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