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脱サラして、フリーの編集者になった話【前編】


前回お約束をしたとおり、私の”キャリア”の話をします。

プロフィールに記載しているとおり、社会人13年目の私のこれまでをザッと説明すると、

「大学卒業後上京し、約5年半、人材系企業に営業職として勤務。28歳で転身。現在はフリーランスのファッションエディターとして、小学館『Oggi』や講談社『mi-mollet』等で活動。アパレルブランドや百貨店との商品開発、コラム執筆も担当。」

です。

これまで何度か私なんぞの経歴について取材していただいたことがあります。そちらでなんとなくご存知の方もいるかもしれませんが、今回は初めて自ら書いてみます。当時の気持ちなんかも含めてできるだけ詳しく。やや恥ずかしいですが、えいやっ!で書いてみます。


少女時代の "好き"


キャリア・・・というと何だか堅苦しいですね。私の場合、要は「 "好き" を仕事にした(遠回りしたけれど)」という話なので、幼いころの「"好き"について話してみます。

1985年、小林家の次女として生まれました。5歳上の姉、2歳下の妹がいる、三姉妹の "真ん中っ子" 。姉妹仲は今も昔も良好ですが、子供のころは、真ん中っ子という、どっちつかずな立ち位置があまり好きではなくて。

ただ、小学生のころ再放送されていたアニメ『キャッツアイ』は、観るたび私に勇気をくれました。推しはもちろん、三姉妹の真ん中っ子、 "瞳" 。「瞳と同じ! 」と自分を重ねることで、「ま〜、真ん中っ子も悪くないか」と思えたんだから、アニメってすごい! カラッとした性格、華麗な仕事ぶり、使命と恋愛との狭間で葛藤しながらも懸命に生きる姿、ブルーのレオタード、ストレートのロングヘアが超絶似合うところ・・・すべてが真ん中っ子界の星でした(笑)。

・・・脱線したので、話を戻します。

実家はウェディングドレスなどに使うレースや手芸品を扱う卸売問屋。

休日は父について会社へ行き、レースの端切れをもらって頭に巻いたり、いろんな色のビーズを自分なりに工夫しながらテグスに通したり、ボタンの入った引き出しをひたすら開けまくってのぞいたり、台車に妹を乗せて走ったりして遊んでいました。

また、新潟に住む母方の祖母は洋裁の先生。幼いころからたくさん服を作ってもらいました。

「ワンピースが欲しい!」と私が言うと、デザイナーの仕事をしていた母がデザイン画を描き、生地屋さん(『大塚屋』といって名古屋の老舗のお店です)で適した素材を探しに行く。「この生地なら、あのデザイン画みたいなふんわりしたギャザーになるよ」「こっちの生地を使うなら、もっとすっきりしたスカートを作ってもらうときにしたほうがいい」「こんな細かいチェックの生地だと、おばあちゃん、目が潰れそうって嫌がるわ」「あ、これは全然ダメ! 安っぽい!」・・・あーだこーだ言う母と一緒に『大塚屋』をぐるぐるまわりました。

寸法を測って、デザイン画や生地と一緒に祖母へ送る。それから祖母と母は電話で細かい箇所を伝え合う(30年前から遠隔で打ち合わせしていたんだな〜)。

そして、一ヶ月もしないうちに新潟からダンボールが届く。畑で採れた枝豆や自家製の小ナスのお漬物と一緒に、サイズもイメージもぴったりの、世界にひとつだけのワンピースが届く。祖母が洋裁をしていた部屋のにおいも微かにして、ダンボールを開ける瞬間が毎回楽しみだったな。

今、大人になって思うと、父の会社で遊んだあの時間も、母や祖母との思い出も ”ファッションが好き” につながっていたのかもしれません。


雑誌が "好き"!


小学校高学年ごろになると、5つ上の姉の『mc Sister』を一緒に読ませてもらっていました。

見開きで4カットくらいあったとして、どの写真が好きか「せーの」で指をさす・・・という遊び?をふたりでよくしていまして。もちろん勝ち負けも正解もないのだけれど、選んだ理由はちゃんと発表する、というのがルール。「このスカートにローファーっていうのが、なんかいいから」「髪の毛のくるくるがかわいいから」「みんなで寝転んで空を見ているのがいい感じだから」・・・なんでも思ったとおりに。

姉が家にいないときは部屋に忍び込んで勝手に読んで、もとの置き場所・向きを再現し、なにごともなかったように戻したりして。何度開いてもワクワクする、大好きな雑誌でした。

”雑誌好き" はこのときスタートして、その後もずっと続くことになりました。


私の ”好き” と 誰かの ”好き” はどっちが大きい?


それなのに、です。

それなのに、ファッションに関する仕事にも、雑誌にかかわる仕事にも進もうとしませんでした。

「私の ”好き” なんてありきたり」「誰かの ”好き” と比べたら、なんてことはない」と思って、「ファッションが好き」な自分のことも、「雑誌が好き」な自分のことも、どこか冷めた目で見ていました

大学は、地元・名古屋の大学に進学。県外に出ることはムリでした。愛犬、いや、ラブラドールレトリバーの姿をした妹・サニー(私が6歳の頃やってきたので、そのころからうちは四姉妹になっていたわけです)と離れて暮らすなんて、何をどう天秤にかけても耐えられなかったから。結局私が19歳のころサニーの最期を看取り、それからはもう名古屋に思い残すことは1ミリもなくなりました。

「仕事は絶対に東京でしたい!」とだけ決めて(笑)、就職活動をスタート。 ”ファッションが好き” ”雑誌が好き” に真正面から向き合おうとせず、結局、就職サイトを運営する、人材企業の営業職の内定をもらい、上京しました。

・・・とまあ、生い立ち〜前職までのいきさつはこんな感じです。

人材業界の営業をしながら、なぜ自分の ”好き" ともう一度向き合うことになったのか、そこからどんな行動をおこして編集者を志したのか・・・【後編】で書きたいと思います。

棚卸ししながら書いてみたら、思いがけず長文になりました。【後編】はあまり間をあけず、2,3日中にはアップします。続きが気になる方は、お楽しみに。

ではまた。


小林 文

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