崇徳院


#創作大賞2023 #西行法師 #小倉百人一首 #雨月物語 #怨霊説の真偽
#保元平治の乱

 日本の歴代天皇について今上天皇は神武(じんむ)天皇から数えて126代とされています。ただし、35代の皇極(こうぎょく)天皇は重祚して37代の斉明(さいめい)天皇に、また46代の孝謙(こうけん)天皇は同じく重祚して48代の称徳(しょうとく)天皇になっていますので、人数としては、124人となります。
このうち、初代の神武天皇から何代かの天皇は実在について議論があります。一方、神功(じんぐう)皇后即位説もありますが、この中には含まれておりませんし、また、南北朝時代に即位した北朝初代の光厳(こうごん)天皇から、同2代の光明(こうみょう)天皇、同3代の崇光(すこう)天皇、同4代の後光厳(ごこうごん)天皇、同5代の後円融(ごえんゆう)天皇までの5天皇も含まれておりません。ただ、北朝6代の後小松(ごこまつ)天皇は南北合一後の100代天皇とされていますので、124人の中に含まれております。
 このように歴代天皇の人数につきましては、不確定な要素があり概ね130人弱、最も多く数えても130人ということになろうかと思われます。
 130人ほどの中で、崇徳院くらい気の毒な境遇の天皇は他にないのではないか。そんな風に感じたのが、本稿執筆の動機です。

 最初にお断りしておきたいことがあります。というのは、天皇とか上皇や法皇に冠する名称は、在位中はすべて「今上」です。崩御ののちに諱(いみな)として贈られるのが、例えば明治天皇、大正天皇、昭和天皇です。もしも、上皇のように複数ある時は、「故院」とか「新院」と区別していました。地名を冠したケースもあるようです。
 従いまして、この度、お話する崇徳院の場合は、幼いときは顕仁(あきひと)親王、即位後は「今上天皇」、上皇となったのちは「新院」でした。後ほど詳しく紹介したいと思いますが、保元の乱で敗北し讃岐への配流以来、また崩御後も「讃岐院」と呼ばれていましたが、色々事情があって崩御約13年後にやっと追諱(ついし)で「崇徳」が贈られています。現在「崇徳院」と呼ばれる所以です。
 そのようなことですが、この度のお話のなかでは、すべて「崇徳」の名称でお話します。どうぞご了承のほどお願いいたします。

 先に拙著『平氏の起源と平家隆盛への道程を辿る』でも触れましたが、この崇徳院はその出生の秘密から始まって、鳥羽上皇のしっぺ返し、それに続く保元の乱での敗北と、最後は讃岐配流とそこでの生活、さらに怨霊伝説と、いずれをとっても誠に気の毒な境遇で、悲惨というほかはないと思います。
 それでは崇徳院の生涯を振返ってみましょう。

 出生の悲劇
 1119年、後の崇徳院・顕仁(あきひと)親王は鳥羽天皇の第一皇子として生まれました。母は権大納言・藤原公実(ふじわらのきんざね)の娘・璋子(しょうし たまこ)といいました。7歳で父を亡くした璋子は養女として白河法皇に引き取られました。養女とはいえ女性として愛され、後に白河法皇の孫・鳥羽天皇に入内したのちも、その関係が続き顕仁親王を身籠ったのでした。つまり顕仁親王は戸籍上の父は鳥羽天皇ながら、実の父は白河法皇でした。そのことは公然の秘密、周知の事実でした。鳥羽天皇からいえば、祖父の子ですから叔父にあたるため「叔父子(おじご)」と呼んで疎んじていたといわれます。白河法皇は顕仁皇子に皇位を継承させたくて鳥羽天皇に譲位を迫りました。その結果、顕仁皇子は1123年に即位して天皇となりましたが、白河法皇が1129年に崩御すると鳥羽上皇のしっぺ返しが始まります。

 鳥羽上皇のしっぺ返し
 鳥羽上皇は、崇徳天皇の子孫が皇位につけないように策謀。寵愛する得子(とくし 藤原得子・美福門院)の生んだ3歳の体仁親王(なりひと)親王を養子にし、その体仁親王を天皇にして院政を行えばいいと崇徳天皇に持ち掛けたのです。崇徳天皇は鳥羽上皇の勧めに従って、1141年、体仁親王に譲位しました。近衛天皇です。しかし、近衛天皇即位の宣命には「皇太子」ではなく「皇太弟」となっていました。「子」ではなく「弟」への譲位では院政を行えませんから崇徳院は落胆しました。でも幸か不幸か、1155年、近衛天皇は17歳で早逝。しかも皇子はありませんでした。崇徳院は、これで我が子・重仁(しげひと)親王を即位させれば天皇の父として院政を行えると内心喜びました。
 ところが、養子として迎えた守仁(もりひと)親王を皇位につけて欲しいと美福門院から請われた鳥羽上皇は、当初難色を示しながらも、当時の流行歌・今様狂いの雅仁(まさひと)親王を一旦即位させた後、直ぐに、その子・守仁親王に譲位させるという手順を踏む心積もりで、29歳の雅仁親王を即位させました。後白河天皇です。
 しかし、あにはからんや、後白河天皇は実権を握って離しませんでした。先に白河法皇は、幼帝を即位させては若いうちに退位させ上皇とし、次々とそれを繰返す手法で、長く実権を掌握し続け「治天の君」と呼ばれました。後白河天皇も、その諡(おくりな)が白河法皇に肖って「後白河」とあるように、白河法皇と同様に老獪だったようです。

 失意の崇徳院 内部抗争に敗れた藤原頼長
 後白河天皇の即位によって崇徳院の院政への望みは完全に断ち切られ、崇徳院は失意のどん底でした。その崇徳院に、摂関家の内部抗争に敗れた藤原頼長が接触してきました。
 実は摂関家にも内部抗争が起こっていました。関白・藤原忠実(ふじわらのただざね)には長男・忠通(ただみち)と次男・頼長(よりなが)があり、忠実は温厚な忠通より学識豊かな頼長を愛していました。忠実が忠通を憎んだのは、自らが白河法皇に退けられた際、白河法皇に取り入って関白に就任したからだと言われているようですが、忠実と忠通を対立させて摂関家を分断しようとした白河法皇策謀説もあるようです。父・忠実の意向であったとは申せ、藤原氏の氏の長者を継ぐべき実子がないとして23歳年下の弟・頼長を一旦養子として迎えながら実子が誕生したとして、それを解消した兄・忠通に対して、頼長は不快であったに違いありません。氏の長者の権を巡って、摂関家の対立は次第に激化していきました。ただ、頼長は秀才ではありましたが、その政治は厳しく熾烈で融通性がなく「悪左府」とよばれるほど周囲から嫌悪されていました。
 そんなとき近衛天皇が17歳で崩御しました。忠実・頼長父子による呪詛との嫌疑がかかり、鳥羽上皇は忠実・頼長を遠ざけ忠通を寵愛しました。後白河天皇時代には忠通は関白に就任して後白河天皇と忠通の結びつきは一層強固になりました。
 一方、忠実・頼長は崇徳院と結びつき、源氏の棟梁・為義も与しました。

 鳥羽上皇の崩御 見舞いも弔問も許されず
 鳥羽上皇の危篤を知ったとき崇徳院は直ぐに鳥羽殿へ駆けつけましたが鳥羽上皇の意向として見舞うことは許されませんでしたし、また死後の弔問も同じく叶いませんでした。

 後白河天皇方からの仕掛け
 後白河天皇の近臣として重用されていた信西入道(藤原通憲 ふじわらのみちのり)は、崇徳方に内裏襲撃計画があるとして崇徳院の拠点・三条東殿の邸宅や家財を没収するだけでなく、没収した文書にクーデター計画の記載があったとして、頼長配流を決めました。崇徳院としては決起せざるを得なくなったわけです。

 保元の乱勃発 崇徳院方敗北
 このような経緯があって天皇家の家督争いと摂関家の内部抗争が結びつき、1156年、保元の乱が勃発し、源平の武士たちも肉親同士が分かれて与しました。
 崇徳院は鳥羽の田中御所から白河北殿に移り平忠正、源為義、源為朝父子らが集まって作戦会議が始まり、強弓の名手で鎮西八郎の名で有名な為朝が夜討ちを提案しましたが、頼長に退けられました。
 一方、後白河天皇方は高松殿に集結し、平清盛・源義朝らが高松殿で作戦会議。信西主導の下、源義朝が夜討ちによる先制攻撃を唱えてそれを衆議一決、決行したのです。600騎が3隊に分かれて崇徳院方が籠もる白河北殿へ。そこに火を放ったので一気に焼け落ち、崇徳院も藤原頼長も命からがら脱走、敗北しました。

 崇徳院 讃岐への流罪と決まる
 崇徳院は仁和寺などあちこち訪ねましたが庇う者なく、最後は捕縛されて後白河天皇方に引き渡され、後日、讃岐への配流と断罪されました。
 因みに頼長は後日、死去。鎮西八郎為朝は伊豆大島へ配流。戦後処理は極めて苛酷の一語。信西は肉親家族が分かれて戦った源平武士に対し同族に刑を執行させました。清盛には敵対した叔父・忠正を、また義朝には実父・為義と弟五人の斬首をそれぞれ命じました。
 なお、後白河天皇は即位の前は今様ばかりに耽っていたため政治に疎く、乱後の政治は信西に丸投げでした。それが後に平治の乱の因となりました。

 讃岐への配流までに
 国立国会図書館デジタルコレクションの「芳賀矢一校訂 保元物語」によりますと、崇徳院は讃岐配流が決まると、すぐさま仁和寺に赴いて次のような和歌を詠んだとあります。
   都には 今宵ばかりぞ 住之江の きし道おりぬ いかでつみ見し
 翌日の早朝、讃岐への出立を前に「鳥羽上皇の墓所を拝んで今を限りの暇を申したい」と望みましたが、それも護送・監視の者から許されなかったとあります。草津で牛車から船に乗換えたとありますから、多分琵琶湖までは牛車で、草津からは瀬田川を下って淀川、さらに淡路を経て、讃岐の松山(現在の坂出市)に到着したのでしょうか。屋形船の戸は外から鎖が差されており、これを見る者は、みな涙したとあります。心沈んで月日の光も見ることなく、激しい風と荒々しい波の音を聞くばかり。須磨の関近くに差し掛かった時には、かの在原行平が罪を得て須磨へ流された時に都を偲んで詠んだ歌
   わくらばに 問ふ人あらば 須磨の裏に 藻塩(もしほ)たれつつ
  わぶとこたえよ
を想い涙したとあります。
 船中では玄宗皇帝が蜀山へ逃れた異国の故事をはじめ、我が国の20代安康天皇がその継子に殺害された故事や、32代崇峻天皇が蘇我馬子の手下に殺害された故事などを思い起こして、前世の宿業は遁れ難いものと思われた由です。

 崇徳院の讃岐での生活
 さて、讃岐に流された崇徳院の生活はどのようだったのでしょうか。

 松山の津
 1156年7月に上皇は松山の津というところに着船したと伝わっていますが、石碑などの手がかりも残っておらず当時の松山郷の海岸付近ということ以外は何も分からないようです。この松山は古来、海岸から国府に至る重要な場所だったそうで、弥生時代の製塩土器などが多数発見されているようです。加古川も同じですが古代は海岸線が今よりも内陸まで入り込んでいたと推測されており、雄山の北東の麓を松山の津と推定し、現在この地に「松山津」の石碑が建立されています。坂出市のホームページにその写真が掲載されています。    
 上皇は
   浜千鳥 あとは都に かよへども 身は松山に 音をのみぞなく
と詠んで都を恋しく偲んだようです。

 雲井御所(くもいごしょ)
 御所が出来上がっていないため、一旦、讃岐国の豪族で国司(国府の庁官)であった綾高遠(あやのたかとお)の邸宅を仮の御所としました。この雲井で約3年を過ごしたようです。
 先述の「保元物語」には「突然のこととて御所は未だ造営されていなかったので、国司の高季という者の造った一宇の堂に住んだ」とあります。この高季とは、坂出市のホームページで紹介されている綾高遠(あやのたかとお)のことで、この綾高遠の配慮から次に紹介します長命寺へ移転したことを指すものと考えられます。
    
 長命寺(ちょうめいじ)
 長命寺は昔、450メートル四方の境内に堂宇が並ぶ寺院であったようですが兵火で焼失し今は全く何もありません。古文書に雲井御所はこの長命寺であったとの記録があり、仮御所として自邸では不敬と考えた綾高遠が傍の長命寺に移徙(わたまし)願ったと伝えています。上皇は長命寺境内で近隣の武士と射芸を楽しんだり和歌を詠んだりしたそうです。
 当時の上皇の歌に
   ここもまた あらぬ雲井と なりにけり 空行く月の 影にまかせて
があります。
 長命寺の柱に書かれたとも伝えられていて、長曽我部の兵火が及んだ際も、この宸筆の柱だけが一本立っていたと伝えられています。今は大正6年に建立された長命寺跡碑が田の中に建っているだけですが、かつての長命寺を偲ぶよすがとなっているようです。なお、坂出市のホームページに長命寺跡の写真が掲載されています。
    
 綾高遠は懇ろにもてなし、実娘の綾局(あやのつぼね)を侍女として奉公させています。
 1皇子と1皇女をもうけたけれど2人とも夭逝したとあります。この雲井での生活は穏やかだったようです。

 菊塚(きくづか)と姫塚(ひめづか)
 顕末(あきすえ)と命名された皇子の墓である菊塚は、府中町鼓岡の北にあり石を積み上げた塚で現在は民家の庭先に位置しています。
 一方、皇女の墓である姫塚は、長命寺の西方にある田んぼの中にあり、現在はコンクリート壁に囲まれた中に石碑が建てられているようです。
    

 木ノ丸殿(このまるでん)
 その後、国府のすぐ近くの鼓岡(つづみがおか)にある木ノ丸殿に移ったとあります。
 木ノ丸殿とは木の丸太で造った御所といった意味合いで、御所としては極めて粗末な造りではなかったかと考えられており、大正2年、崇徳院750年祭の際に鼓岡(つづみがおか)神社の石段を登った右手にその木ノ丸殿に擬して記念建造物が建設されました。その名は擬古堂です。
 なお、この鼓岡神社とは、木ノ丸殿の跡地とされる地に崩御の後に小さな祠を建てて祀られていたものだそうです。
    
 木ノ丸殿での上皇は、当初一日中部屋に籠もって書物を読んだりお経を唱えたりしていたそうですが、後には写経を始め、3年を掛けて多数の写経を終えました。仁和寺にいた同母弟・覚性法親王にあてて「後の世のためにと一心腐乱で写した五大大乗経。当方に置くのでなく、願わくは父・鳥羽院の眠る石清水八幡宮、あるいは奈良の長谷寺など、都の周辺に置いてほしい。せめて高野山に」という手紙を添えて完成した写経を同寺へ送りました。覚性法親王は兄の思いを汲んで関白に報告しましたが、信西の忠告もあり後白河上皇は都に置くことを拒否し、そのまま崇徳院の許に送り返しました。
 写経が返送されて以来、崇徳院は食事を余り摂らず髪もとかず爪は長く伸ばし放題。まるで夜叉のようだったといいます。後には鬼になったとも、天狗になったとも。いろいろの伝説が伝わっているようです。
 
 ほとぎす塚
 雲井御所から鼓岡の木ノ丸殿に移った後は訪れる人もない寂しい日々だったようです。ある日ホトトギスの声を聞いて都を深く思い出し
   なけば聞く 聞けば都の 恋しさに この里過ぎよ 山ほととぎす
と詠んだところ、ホトトギスは自らさえずるのをやめたという言い伝えがあるとの由。その後も鼓岡の周辺ではほととぎすが鳴かなくなったといわれ、昔はこの地を「なかずの里」と呼んだといわれているそうです。これも坂出市ホームページによりました。
 
 崇徳院 崩御
 1164年、崇徳院は鼓岡で崩御。配流されてから8年目のことでした。霊水の泉に遺体を保存しながら都の指示を待って20日後に白峰山で荼毘に付したそうです。遺体を運ぶ途中に棺を休めた時、俄かに風雨雷鳴が起こる一方、棺を置いた六角の石に何故か血がこぼれていたともいいますし、別の伝説では血が溢れたともいいます。
 この崩御については、二条天皇の命による暗殺説もあるようです。讃岐の武士・三木近安(みきちかやす)に襲われて崇徳院は柳の木陰に隠れたものの、水面に映った姿から発見され槍で突かれて殺害されたというものです。そのためでしょうか、地元では三木姓の人は白峰山に登ってはいけないという言い伝えがあるそうです。
 
 朝廷が「崇徳」と追謚
 上皇崩御の後、高倉天皇在位中に「讃岐院」と呼ばれていた上皇に対して「崇徳」と追謚(ついし)しました。1177年のことです。
 このころ、建春門院、高松院、六条院、九条院が相次いで死去しました。建春門院は後白河上皇の妃、高松院は近衛天皇の同母妹、六条院は後白河天皇の孫、九条院は近衛天皇の中宮です。後白河上皇に近い人々が相次いで死去したわけです。延暦寺の強訴、都の1/3が焼失したとされる安元の大火、鹿ケ谷の変などが立て続けに起こり社会不安が始まりました。こうした事件を背景に、精神的に追い詰められた後白河上皇は怨霊鎮魂のため「讃岐院」の院号を「崇徳院」に改めて名誉回復を図り、その怒りを鎮めたとされています。
 
 西行と崇徳院
 歌人として有名な西行は、俗名を佐藤義清(さとうのりきよ)といい、出家前は崇徳院を守る北面の武士でした。従って崇徳院とは主従の関係です。保元の乱で敗れた直後の上皇のもとへ自分への危険をも顧みず度々見舞状を届けたり歌を贈ったりしています。
 その一環でしょうか、崇徳院が白峰山に葬られてから3年後(4年後との説もあるようです)、西行が上皇の菩提を弔うため白峰山へ参詣しました。その頃、陵は既に荒廃していたといわれていますが、その御陵で怒れる上皇の霊と対面した西行は上皇の怒りを鎮めたといわれています。
 
 雨月物語 白峯
 江戸時代後期になって上田秋声は怪奇譚ばかりを集めた『雨月物語(うげつものがたり)』を著わしています。その第1話「白峰」で当時の模様を詳述していますので紹介しましょう。
 白峯山を訪れた西行はまず読経、歌を詠みました。
   松山の 浪のけしきは かはらじを かたなく君は なりまさりけり
 すると、崇徳院が現れて返歌したのです。
   松山の 浪にながれて こし船の やがてむなしく なりにけるかな
 さては崇徳院が成仏せずに怨霊となっているものと気づき、日本の仁徳天皇の故事や、唐土の兄弟鬩牆(けいていげきしょう)の故事を説き諌め始めました。
「我、日本国の大魔縁となり皇を取って民とし民を皇となさん」
と、上皇は積もり積もった朝廷への不満を次々と語りました。
 西行は「鳥羽上皇崩御の直後に天皇位を争ったのは骨肉の愛を忘れた不孝の罪。また、人望豊かな崇徳院の皇子・重仁親王の即位は叶わなかったけれど、それも道ならぬやり方で世を乱したのだから致し方のないこと。ひたすら昔の憎しみを忘れて浄土へ帰りなされ」と諫めました。
 崇徳院は長いため息のあと
「遠く讃岐の地に流され松山の高遠邸に閉じ込められて仕える者もない。空行く雁の声を聞けば都が懐かしいのに都には還れる時もない。ひたすら後世のためと五部の大乗経を書写し、せめては筆の跡だけでも都へ入れて欲しいと次の和歌を添えて送ったのだ。
   浜千鳥 跡はみやこに かよへども 身は松山に
  音(ね)をのみぞ鳴(な)く 
 それにも拘わらず大乗経はそのまま返されてきた。この恨み如何ともし難いのだ。
 魔王となろうと誓ったら、はたして平治の乱が起こった。父・為義をはじめ武士たちは朕のために命を捨てたのに義朝だけは朕に弓を引いた。だから、その報復で義朝を信頼の陰謀に加担させ清盛に追討させたのだ。信西についても、写経を送り返した罪を裁いたものだ。美福門院の命を縮めたのも然り。平氏もまた久しくはないぞ。後白河上皇が朕になしたことには必ず報いてやる」
と大声で喚きました。
 西行が黙っていると、峰も谷も揺れ、烈風が吹きすさんで、鬼火が崇徳院の下から現れて昼間のように明るくなりました。
 崇徳院の顔は真っ赤。ぼうぼうと乱れた髪が膝に届くほど。白眼が吊り上がり、苦しそうに吐息をついたそうです。その時、鳶(とび)のような怪鳥が飛んで来たので、怪鳥に向って
「重盛の命を早く奪え。雅仁・清盛らを苦しめろ」
と申し渡しました。
「あと12年程待てば、重盛の寿命はもう終わります。彼さえ死ねば平氏一族の運は一気に亡ぶはず」
と怪鳥が答えたとあります。そこで、
   よしや君  昔の玉の 床とても  かからんのちは  何にかはせん
 西行はこう詠んで、涙ながらに仏縁帰依を勧めました。
 その直後に上皇は顔も和らぎ、青い炎もうすく消え、ついに姿が見えなくなったそうです。
 西行は金剛経一巻を読誦、供養して下山しました。上皇の語った事柄は、平治の乱はじめ人々の消長、年譜はすべて事実どおりであったとあります。   その後、平重盛が病で死去したことをはじめ、清盛が後白河院を鳥羽離宮に幽閉したこと、源頼朝や義仲が挙兵して遂に平家が滅亡したことまで、まったく崇徳院の言葉どおりで異なる所が一切なかったのが何とも奇妙であったと記しています。
 その後、この話を西行は誰にも一切話すことはなかったと記載していますが、それにはやや疑問を感じます。作者不明の古文書に見えるとは言うものの、今日までそれが伝わっているからです。西行が白峰へ赴いたのは後白河上皇の依頼に基づいているという説もあるつらいですから。

 崇徳院怨霊説の真偽
 世の中は上皇のことを、菅原道真、平将門とともに日本三大怨霊として恐れるようになりました。このことは事実であって決して誤りではありません。
 ただ、この怨霊説が真実であったかどうかは別問題です。
 定説ではありませんが、これには裏があって、後白河上皇の権威失墜を狙った陰謀によるものだという説があります。崇徳院自身、それほどまでは世を恨んでいたわけではないというのです。
 当初は呉越同舟ながら蜜月であった後白河上皇と平清盛の間に隙間風が吹き始め、特に後白河院最愛の女性で両者の調停役を務めていた建春門院滋子(けんしゅんもんいんしげこ)が35歳の若さで亡くなった後は、それが特に顕著になっていきました。
 一方、天台宗は最澄の死後、教義の違いから二分していました。本流は山門派といって総本山延暦寺を拠点としていましたが、分派勢力は寺門派といって近江大津の園城寺を拠点としていました。後白河上皇は大寺院勢力の中で、特に延暦寺の山門派を敵視し犬猿の仲の寺門派を厚遇。自分の出家に際しても寺門派の僧に導師役を依頼しています。山門派の強訴に際して清盛に大衆の撃退を命じましたが、延暦寺と関係の深かった清盛は上皇の命に容易に従いませんでした。
 山門派にしても、清盛にしても、後白河上皇の権威を失墜させるという点では、利害が一致していたわけです。
 そのほか、これは私個人の考えですが、陰陽師たちも自分たちの勢力拡大の上で、怨霊説は極めて有利であったと思っています。
 このように、崇徳院怨霊説が流布すると都合のいい輩が沢山いたため、それらの輩の陰謀によって瞬く間に世に広がったのではないか。怨霊説は故意に悪しざまに広められたのではないか、そんな風に私は考えています。
 この怨霊説が流布されたこともまた、冒頭に触れました、お気の毒な境遇のひとつと思っています。崇徳院の和歌には、そんなに世を恨むようなものは残されていないのが何よりの証左です。天上の崇徳院が苦笑いしているかもしれません。

 崇徳院の和歌
瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ
                    (『小倉百人一首』77番)
憂き世の あまりにや 御病ひも 年に添へて 重らせ給ひければ
                           (『今鏡』)
思ひやれ 都はるかに おきつ波 立ちへだてたる こころぼそさを
                       (『風雅和歌集』)
最上川 つなでひくとも いな舟の しばしがほどは いかりおろさむ
                          (『山家集』)

 崇徳院は優れた歌人です。枕詞や縁語、掛詞は申すに及ばず、その流暢な作風は素晴らしいと思います。四季折々の春夏秋冬を詠んだ歌、恋の歌、羇旅の歌、法の歌などほんとに沢山の秀歌があります。1150年の『久安百首』に収録されている歌だけでも、中国の故事や本邦先達の故事や和歌などを踏まえた歌が数多あり学識も豊か。1151年の『詞花和歌集』にも多くの秀歌が収録されているようです。
 崇徳院の歌については、別途『久安百首ほか』を執筆しています。よろしければ併せてお目通しいただければ幸いです。

拙い原稿に最後までお付き合いいただきありがとうございました。
心から厚く御礼申し上げます。

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