悲運の惟喬(これたか)親王と在原業平

       一
 
「中将よ。今宵は侘しいのう」
「親王さま、月の出も遅いようですし、心なしか風もひんやりしています。一層、侘しい感じがいたします」
「今宵のような日には、今思い出しても、口惜しくて、口惜しくて、ならぬ」
「立太子のことでございましょう。親王さまは御尊父・文徳天皇(もんとくてんのう)さまの第4皇子。しかも、未だ8か月でございましたからねえ」
「この第1皇子・惟喬を差し置いてのこと。父天皇も良房殿とは陰で闘っておられたのだが。結局は、良房殿に遠慮して、妃の明子(あきらけいこ)殿のお産みになった惟仁を皇太子に据えられた。一時は、私めに一旦譲位して、その後に惟仁を即位させようと、お考えのこともあったようだけれど。今や飛ぶ鳥落とす勢いの藤原氏には勝てなかったのだなあ。父天皇は大内裏には一度もお住まいにならなかったのだ。きっと口惜しい思いであられたに違いない」
「御尊父天皇が薨御されたのが、うら若き31歳の時。発病されて僅か3日後でしたからねえ。世の人々は、良房殿の暗殺だとか、いろんな噂をしたものでござまいす」
「そうであったなあ。真偽のほどは、最後まで分からぬまんま」
「たった今、牛車の停まったような音がいたしました。名虎(なとら)さまが見えられたかと存じます」
「舅殿がみえたら、侘しいなどともう言ってはおれぬ。今宵は楽しくありたいものだ」
「はい、親王さま、それが、およろしいと存じます」
「親王さま、名虎めが只今、参上いたしました。急な来客がございました故、遅参いたしました。先ずもって、お詫び申し上げます。
本日はお招きに与り有難うございます。厚く御礼を申し上げます。お言葉に甘えまして、有常めも同道いたしております」
「有常でございます。お招きに与り、有難うございます」
「お二方、よくぞ参られた。今宵はゆるりと楽しんでくだされ」
「静子はまだか。御父上さまや御兄者がみえたのじゃ。早くここへ」
「お父上さま、お兄さま、よくぞお越しくださいました。お変わりなく」
「家族みな、元気だ。心配無用じゃ」
「お父上さま、お兄さま、今日はどうぞごゆっくりなさいませ」
 これは、第55代・文徳天皇の第1皇子惟喬親王の座所での会話の一齣。筆者が勝手に綴ったもので、勿論、フィクションです。
 
        二
 
 第55代文徳(もんとく)天皇の第1皇子・惟喬親王は、『大鏡』などによりますと、承和11年(844年)山城国での誕生です。文徳天皇は、この惟喬親王を寵愛し期待して皇位を継承させたい意向のようでしたが、摂政太政大臣・藤原良房やその娘で妃の明子(あきらけいこ)への遠慮もあってか、それを実現できておりませんでした。その陰には、惟喬親王の生母・静子(しずこ)は紀名虎(きのなとら)の娘で、当時としては政治力に劣る紀氏一族出身であったことが背景にあろうかと思われます。
 その後、明子に男子・惟仁(これひと)親王が誕生しますと、生後僅か8ヶ月の幼子、しかも第4皇子にも拘わらず、良房はその力で皇太子に立たせました。後の清和天皇です。文徳天皇と藤原良房との暗闘はその後も続き、文徳天皇は良房の圧力の前に大内裏の東部にある東宮雅院や嵯峨上皇の後院だった冷然院などに居住して、遂に一度も内裏正殿を居住の間として生活したことがなかったとされています。また、天皇自身も病弱で朝廷の会議や節会に出る事も少なかったとも言われています。
文徳天皇は天安2年(858年)、弱冠31歳の若さで亡くなりましたが、それも発病後たった3日での急死だったため、事件性があるのではないかと疑われるところで、良房による暗殺説もあるくらいです。
文徳天皇は、生前、一旦、惟喬親王が皇位を継承して惟仁親王の成人後に皇位を譲るというのも一案と考えたふしがないわけではないようですが、双方の子孫による両統迭立の可能性を生じ、奇しくも自らが立太子する契機となった承和の変(じょうわのへん)の再来を危惧したとも言われていますが、いずれにしても、文徳天皇の死後、9歳の惟仁親王が即位しました。清和天皇で、それに伴って良房は歴史上最初の人臣としての摂政となりました。天皇家血筋の摂政は聖徳太子などの例がありますが、人臣としての摂政は歴史上初です。
 さて、失意の惟喬親王は天安2年(858年)14歳で筑紫の大宰権帥に任ぜられ、その後、大宰帥・弾正尹・常陸太守・上野太守を歴任しましたが、怏々(おうおう)として楽しまず、遂に貞観14年(872年)28歳の時、病のため剃髪。出家して素覚と号し「小野の里」(伊勢物語83段には比叡山山麓とあります)に隠棲しました。その後、山崎・水無瀬にも閑居したと言われています。
 
        三
 
 一方、『伊勢物語』のモデルとされ(とはいえ、全段のモデルではありません。無関係の段も少なからずあります)美男子として名高い在原業平は、父方では第50代桓武天皇の第1皇子で第51代平城天皇を祖父に持ち、母方からも同じ桓武天皇の孫にあたるという、非常に高貴な身分でしたが、父・阿保親王の意向で、異母兄の行平と共に皇籍を離脱、臣籍に降下しました。それには、祖父・平城天皇が上皇となった後も次の嵯峨天皇と対立して『ニ所朝廷』と呼ばれる二重政治を行ったこと、人妻・藤原薬子を寵愛する余り、薬子の変や平城京回帰など幾多の不都合な争いを起こしたこと、それがもとで皇統が嵯峨天皇の子孫に移ったことなどがあろうかと思われます。
在原業平は陽成朝のころ、右近衛権中将の地位にあり、また在原家の五男であったことから、『在五中将』と呼ばれました。冒頭の惟喬親王からの呼びかけは、このことによるものです。
 在原業平には高貴の生まれでありながら、こうような悲しい事情があって、惟喬親王の悲しい事情が似通っていたこともあり、互いに心が通じ合うところがあったのではないでしょうか。
 それにも増して、惟喬親王と在原業平とは親戚関係にありました。先に惟喬親王の生母は紀氏出身と記しましたが、生母・静子は紀名虎の娘です。一方、在原業平の妻は紀名虎の長子・有常の娘。従って、叔母姪の間柄です。そういう関係もあってか、在原業平は惟喬親王に仕えて側近中の側近でした。紀名虎は勿論、その子息で静子の兄でもある紀有常らも、しばしば親王の許を訪れたと言います
 
        四
 
 平安時代は、現在の枚方市一帯は交野ケ原と呼ばれ、皇族や貴族が花見や鷹狩に訪れる絶好の場所だったそうです。惟喬親王の別邸がこの交野ヶ原にあって『渚の院』と名付けられていました。ここで狩りをしたり、和歌を詠んだりして過ごしたそうです。六歌仙の1人・在原業平がここで桜を見て詠んだ有名な歌に
  世の中に 絶えて桜のなかりせば 春の心は のどけからまし
(桜は咲くまで気をもみ、咲いたら咲いたで、いつ散るか気をもむので、桜なんかいっそない方が春はのんびりできるのに)
他の人が詠んだ歌
  散ればこそ いとど桜はめでたけれ 浮世になにか 久しかるべき
(散るからこそ桜は一層愛でられるのです。この浮世になにか久しく姿の変わらないものがあるでしょうか)
 この在原業平が本当に詠みたかったのは、次のような歌ではなかったかと記した人がいます。まったく同感です。
 世の中に 絶えて藤原家のなかりせば 惟喬親王の心は のどけからまし
 
 
        五
 
 ここで、惟喬親王に纏わる伝説を幾つか紹介したいと思います。
前述のとおり、外孫の惟仁親王を即位させて清和天皇とした藤原良房は摂政の地位に就き、大きな権力を手にしました。そのため惟喬親王は身の危険を感じたからでしょうか、側近の藤原実秀、堀川中納言らの手引きで鈴鹿山系の麓へ逃避したという伝説があるようです。随筆家・白洲正子(吉田茂の懐刀としてGHQと堂々と交渉し大いに活躍した白洲次郎の妻)の作品『かくれ里』によりますと、君ヶ畑金龍寺がそこだというのです。近江八幡市の琵琶湖岸の長命寺港と堀切港との間に宮ヶ浜という地があるそうですが、それは、琵琶湖を船で渡ってきた惟喬親王がここに上陸したことに由来すると記載しています。御所内(ごしょうち)町は親王が宿泊の礼として御所内という名を授けたからだとも記しています。
 京都大原の惟喬親王伝説についても、白洲によれば、大原三千院に近い小野山の麓に、惟喬親王墓と小野御霊社があると言います。
 京都市鞍馬貴船町に『夜泣峠』がありますがこれは、幼少の惟喬親王が乳母に抱かれて二ノ瀬へ出る際に一夜を明かし、親王の夜泣きに困った乳母がお地蔵に願をかけたところ忽ち夜泣きがやんだことから、その名があるそうです。
 惟喬親王と、かの有名な美人・小野小町は若い頃から相思相愛であったという伝説があります。真偽のほどはわかりません。
 勅撰歌人としては『古今和歌集』に2首、『勅撰和歌集』に6首が採録されているようです。
 弟君・惟仁親王が清和天皇として即位した翌859年、親王は16歳で白馬に乗って都を去り、君ヶ畑に御所を定め、小椋谷に閑居。轆轤(ろくろ)の技術を地元の民に教えたとあります。867年に大原の地に宮居を遷して出家。さらに岩屋畑(現京都市北区雲ヶ畑町)に遷移後、この地で発病。897年、法華経を唱えつつ薨去。享年54歳だったということです。これも前述の『かくれ里』によりました。

#創作大賞2023


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