前漢武帝とその部下たち


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前漢の第七代皇帝・劉徹(紀元前一四一年―同八七年)は諱が「武」だけあって、闘争心のかなり強い性格であったようです。先帝・景帝の第十一子とも、第九子、第十子とも、諸説があるようですが、いずれにしても既に皇太子の地位にあった兄・劉栄を差し置いて、十六歳で皇帝の地位に就いたのは、後楯の竃氏がそれだけ強力であったからかと思われます。皇帝就任直後は、就任に至る経緯の関係で、竃太皇太后はじめ大長公など女性群の干渉に悩まされて、意のままにならなかったものの、やがて力を得てきます。

漢は、秦の始皇帝の頃もそうであったように、常に匈奴と対峙し北方領土を脅かされていました。武帝以前は匈奴の侵略に対して防衛を主眼にしていたのですが、この武帝は更に一歩踏み込んで、匈奴への攻略を目論んでいました。

 

張騫(?ー紀元前一一四年)を西域に遣わして、その地の大月氏と同盟を結んで匈奴を挟撃する計略を図るなど、その考え方には壮大なものがあり、張騫派遣はその一環です。匈奴の地を経なければ大月氏の地に到達できないため、張騫は、その往路でも帰路でも二度の捕虜生活を強いられ、一三年の星霜と並々ならぬ艱難辛苦を要しました。出発時一〇〇人を超えていた同行者が無事帰着した時には道案内人の匈奴人一人になっていました。砂漠あり山岳地帯ありで泉など水や食糧に苦心惨憺したにも拘らず、その同盟は大月氏が同意しなかったので、実現しませんでした。その後も再度、西域を訪れています。同盟が実現しなかったものの、張騫が得た情報から地理など西域の詳しい情報があったお蔭で、漢の版図は飛躍的に拡大しました。前漢の全盛時代を築く基となったと思われます。

張騫の開いたシルクロードは武帝にとっては単に副産物に過ぎないかもしれませんが、その後も中国と西方の交易に随分貢献しており、これは万人の認めるところです。張騫の名は、今日では武帝よりも有名かもしれません。

今回は、この武帝の大きな夢を実現させた部下たちの活躍と労苦について綴ってみたいと思います。

李広(?―紀元前一一九年)は、武帝の先々帝・文帝から、次の景帝、更に武帝まで、三代の帝に仕えました。もともと武門の家系に生まれ、文帝時代、関中䔥関に出陣して功名を挙げたのを皮切りに、生涯に七〇回以上も匈奴と闘ったとされています。騎射にも優れ数々の功績があって、匈奴から「飛将軍」と恐れられていました。母親を虎に喰われて失った経験から、弓矢で岩をも穿った故事でも有名です。歴戦の勇者であり、過去の戦いの経緯をよく知っていたからかと思われますが、李広の作戦は、あくまで保守的で防衛主眼でした。匈奴の侵略に対しては、匈奴の兵力の二倍が必要だと常々唱えていました。

それに対して、武帝の寵愛した愛妾・衛子夫の実弟・衛青は、その関係で衛士として採用されました。衛子夫を憎む陳皇后一派によって訳も判らず捕らわれの身となった時に、衛士仲間の公孫敖に救出され脱出しましたが、その際の手際の良さや機敏な行動、早業を聞いた武帝に見出されることとなりました。幼い頃、奴僕同然に北方の地で裸馬に鞍無しで乗馬して羊の放牧をさせられて育ったため、動作は機敏そのもの。まるで匈奴の戦い方に同じでした。今風に言うとゲリラ戦ということかもしれません。物怖じしない動きは目を見張るものがあったのでしょう。武帝の命で李広の部隊を相手に調練する機会に恵まれました。結果は互角という形で終わりましたが、麾下兵力の多い李広に対して、その背筋が凍るほどの思いをさせたようです。その新進気鋭の若者を武帝は、先ずは公孫敖と共に北方領土で匈奴を撃退させる実戦を経験させた後に、将軍に昇格させました。連戦連勝の実績から大将軍に抜擢し紀元前一一九年の匈奴との戦いに当たらせました。当初、馬齢を重ねた李広を除外する予定であったものの、李広の強い希望を容れて参戦させましたが、衛青あて密命を発して李広を別働隊の前線将軍とさせました。そのため、道に迷った李広は重要な戦に間に合いませんでした。それを武帝に報告するにあたって、衛青から聴取を受けることを恥じた李広は自刎しました。幾多の功績を挙げながら評価されなかった悲運の将軍として、人々から同情される所以です。

一方、衛青は、自分のせいで李広を自刎に追いやったことを相当気に掛けていたようで、李広の末子・李敢がそれに絡み酒席で自分を殴打しても内緒にしていたようです。しかし、それを知った衛青の甥・霍去病(紀元前一四〇年―同一一四年)が李敢を殺害したそうです。

この霍去病も武人として活躍し、叔父・衛青に比肩される存在でした。衛青が行動は果敢でも、その生い立ちからか比較的謙虚であったらしいのですが、霍去病は逆に傲慢であったようです。名前の由来は病に冒されないようにと願ったものでしたが、弱冠二四歳で病没しています。

ここで公孫敖のことに触れたいと思います。先に記しました通り、衛青を救出したことから重用され将軍となりましたが、戦績が芳しくなく度々処罰を受け一時は庶民にまで落とされました。後に将軍として、また校尉(将軍に次ぐ地位)として復帰し衛青や霍去病に従軍しましたが、不幸にも功績を残すどころか、多くの兵力を失って死罪の刑を受けました。雲隠れして執行を逃れましたが、後年発見され一家もろとも殲滅されたと伝わっています。

拙著『李陵と蘇武』にも認めましたが、李陵が誤解から一家殲滅の憂き目に遭った、その誤解のもとであった李広利一族もまた殺戮されています。

武帝は諡の通り、このように非常に激しい気性であったようです。従って、その処罰は非常に厳しく、前漢の全盛時代を築いたものの、部下の諫言を聴き入れる姿勢に乏しく「満ちれば欠ける」の古諺通り、その存命中に既に翳りが見えていたというのが、学者の一致した見解のようです。

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