百物語 第三十八夜

この保育園に勤めるようになって、今年で二年目になる。

まだまだ新人の私だが、職員不足の関係もあり、年長組の担任を任されることになった。

私が生まれるずっと前からある施設なので、お世辞にも綺麗とは言えないし、遊具や設備もちょっと時代遅れの感がある。それでも、保育士の先輩たちはみんな優しく、保護者の中にもクレーマーはいない。クラスの子どもたちは素直でかわいらしく、せんせいせんせいと慕ってくれて、反抗的な態度を取ることもほとんどない。

現在のところ、問題と呼ぶほどのものは見当たらなかった。

―――ただ、ちょっと面倒なタイプの園児が、一人だけいる。



「今日もここで遊んでるの?」

誰もいない砂場で、ひとり熱心に砂を掘り返している男の子に向かって、私は言った。

子どもの名前は、トキオという。私の受け持つパンダ組の園児だ。

「今日はなにをしてるのかな?」

「…………」

「ねえ、向こうでみんな鬼ごっこしてるよ。一緒にやらない?」

「…………」

「先生が仲間に入れてって言ってあげるから、ね?」

「…………」

これみよがしに、私は大きなため息を吐いた。


トキオは無口だ。担任である私も、まだ数えるほどしか口を利いたことがない。その上表情も乏しいから、感情も読めないし、何を考えているのかもよくわからないのだ。

悪さをするわけではないが、協調性がなく、いつも一人でいて、ある意味手を焼く子どもだった。

補佐についてもらっているベテランの先生は、「家庭環境に問題がある子どもだから」と複雑そうに言っていた。

それはそうなのだろう。連絡事項があってお宅に電話したときも、母親の様子はどことなくおかしかったし、迎えに来るのはいつも中学生の姉だ。父親があまり家に帰っていないという噂も聞く。

可哀想な子どもなのだとは思う。

それでも、かわいいとは思えなかった。


物思いから我に返ると、いつの間にか目の前からトキオの姿が消えていた。

慌てて振り返る。園舎の中に入っていく小さな後姿が見えた。

クソガキ、と口内だけで呟き、その後を追った。


私がパンダ組の教室に足を踏み入れたとき、トキオはちょうどお道具箱を引っ張り出しているところだった。

「今度はなにをするの?」

「…………」

「折り紙? ねんど?」

「…………」

「お絵かき?」

トキオがパッと顔を上げた。ああそう、お絵かきね。

仕方がないので、画用紙とクレヨンを準備してやる。お礼も言わず、トキオはせっせと絵を描き始めた。

その様子を、頬杖をついてぼんやりと眺める。


そういえば以前、お遊戯の時間に『好きなもの』というテーマでお絵かきをしたことがあった。

みんな子どもらしくヒーローやお姫様、ドレスやピアノ、好きな食べ物なんかを夢中になって描いていたが、トキオは違っていた。奇妙な絵だった。

真ん中にテーブルがあって、左側に、女の子と男の子が並んで座っている。

右側には、彼らよりも大きな、おそらくは大人の男の人が座っていた。ネクタイらしきものが見えるから、男なのだと思う。

そしてその後ろでは、一人の女の人が、こちらは席にもつかず、テーブルに背を向ける格好で立っていた。手には、何か…三角形をしたものを持っている。

「これ、なんの絵?」

「ぼくの家族」

珍しく、トキオから返事があった。

この子どもと意思の疎通が出来ることなど滅多にない。畳み掛けるように私は口を開いた。

「そうなんだ。じゃあ、こっちがトキオくんとお姉ちゃんだね。こっちはお母さん? ああ、お母さんがキッチンでご飯作ってるんだね」

「…………」

「これはお父さん? あれ、でもお父さんだけみんなとちょっと違うね。お洋服しかないじゃない」

「…………」

「トキオくん、これじゃあお父さん頭がないみたいだよ」

描き忘れているのだろうと思ってそう言うと、トキオは怪訝そうな顔で私を見た。

「そうだよ」


あの時と同じように、トキオは一心に画用紙に向かっている。

まず、紙いっぱいに灰色の大きな楕円を描き、その内側を囲むようにして、何か小さなものを次々に描き足していた。

トキオは、五歳にしてはなかなかに絵が上手い。次第にそれは形を成していった。

「トキオくん、もしかしてこれって砂場?」

「…………」

「この、砂場の中にいるのは、お友達のみんなかな?」

「…………」

返事はないが、おそらく当たりだろう。

大きな楕円は、さっきまでトキオが遊んでいた砂場。そして楕円の内側にぐるりと並んでいるのは、たくさんの子どもたちだ。

なんだかしんみりとした気持ちになった。

「トキオくん、本当はみんなと一緒に遊びたいんだね…」

「…………」

「恥ずかしがらなくていいんだよ。勇気を出して、仲間に入れてって言ってみようよ。ね、先生も手伝ってあげるから…」

「ちがうよ」

顔も上げずに、トキオは言った。

黒いクレヨンで、灰色の楕円の真ん中をぐりぐりと執拗に塗り潰している。

「……それ、なに?」

「あな」

「あな?」

「穴、掘ってるの。みんなで」



その日も、迎えに来たのは中学生の姉だった。

「こんにちは、先生」

「…こんにちは」

弟と同じで、愛想の欠片もない。表情らしい表情もなく、無口なところもそっくりだ。

挨拶が出来るだけ、姉の方がまだ少しはマシだろうか。

「あ、お姉さん。これ持って帰ってください」

トキオが描いた絵を、強引に手渡す。処理に困るものは、保護者に引き取ってもらうのが一番だ。

「…上手に描けたね。トキオ」

膝を折って弟に目線を合わせ、姉がそう呟いた。

この気味の悪い絵を見てそんな感想が出てくるのだから、大したものだと思う。

「じゃあトキオくん、また明日ね」

さっさと帰してしまおうと、作り笑顔を浮かべて手を振った。

トキオはその場に突っ立ったまま、じっと私を見上げている。

「どうしたの? なにか忘れ物?」

「…せんせい。それ、持って来ない方がいいよ」

すっと手を持ち上げて、私のエプロンの右ポケットを指差した。

「みんな、すごく怒ってる」


先日、ちょうどこんなふうに、トキオを見送っていたときのことだ。

他の園児と喧嘩をして、トキオはぐずぐずと泣いていた。どうも、お化けがいるだのなんだのと言って、みんなを怖がらせたらしい。

そのことで少し叱ったのを根に持っていたのだろう。泣きながら、今度は私を指差してきた。

別に信じたわけではない。

ただ、ちょっと気持ちが悪かったから、神社に行ってお守りをもらって来た。ほんの気休めだ。だいたい、お化けなんているわけない。

そんなもの、いるわけがないのに―――。


「先生、さようなら」

抑揚のない声で、姉が言う。

何も言わず、トキオは手を振っていた。

その目は、私を見てはいない。私を通り越して、ずっと向こう側を見ている。



姉弟の去った園庭に、私はひとり、立ち尽くしていた。

ふいに子どもの笑い声がして、私は振り返った。

遠く、誰もいない砂場がそこにあった。

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