百物語 第三十四夜

私には、年の離れた弟がひとりいる。トキオという。

トキオには、霊感がある。幽霊が見えるとか、そういうやつだ。触ったり、話したりすることは出来ないらしい。もちろん、除霊なんてもってのほかである。トキオは五歳だ。まだ小学校にも上がっていない。

家族は、父と母、私とトキオの四人だが、霊感があるのはトキオ一人である。私たちには、トキオの見ているものが見えない。

だからなのだろう。両親はトキオを忌避した。

可哀想なトキオ。父からも母からも疎まれているのに、ふたりのことが大好きなのだ。

そんな弟が、私はかわいくて仕方ない。



ところで、父の姿を見なくなってそろそろひと月になる。

「お父さんね、長期出張になったのよ…」

トントンと、野菜か何かを刻みながら母は言った。

通学カバンを下ろして、私は母の後姿を見た。

「うん。前にも聞いたよ」

「ええ、そうなのよ…」

母はいつも台所に立って、何かしらを刻んでいる。そして、それ以外のことは何もしない。ちょうどひと月前からだ。

「今からトキオの迎えに行くけど、何か買ってくるものある?」

「………」

「お母さん?」

「ええ、そうね。お父さん、長期出張になったからね…」

「行ってきます」

財布をポケットにねじ込んで、私はアパートを出た。



二年前に母が壊れてしまってから、父は頻繁に家を空けるようになった。

出張を理由にしているが、どうやら、寝起きする場所が他にあるらしい。そのくせ、義務か何かのように、週に一、二度、ふらりと帰ってくる。

家族で食卓を囲む機会は、そのときだけだった。

能面のように表情の乏しい顔で、苦痛な時間が過ぎるのを、ただ黙って耐えている。記憶に残っている父の姿は、そんなものばかりだ。

それでも、トキオだけは嬉しそうだった。

父の周りをうろちょろしたり、ちらちらと見てみたり、なんとか気を引こうと努力していたが、すべて徒労に終わっていた。

食事を終えると、父はいつも早々に自室に逃げ込んでしまう。

トキオは固く閉ざされた扉の前に立ち尽くして、悲しげにその小さな肩を落とすのだ。

父は、トキオを見えないものとして扱った。

そうして、トキオの存在をなかったことにしたいらしかった。



保育園に着くと、トキオが泣いていた。

迎えが来るのを待ちわびていたらしいパンダ組の担任が、トキオの小さい背中を私の方に押しやった。

「トキオくん、今日もお友達と喧嘩したんです。コウスケくんの肩にお化けが乗ってる、なんて言うんですよ」

「はあ、そうですか」

「そうですかじゃなくて。あの、不躾ですけど、トキオくんはおうちでもこんな感じですか? お父さんとお母さんは叱ったりしないんですか?」

「母は病気で、父は長期出張中です」

まだ年若い先生は、呆れた顔で私を見た。

「あなた、中学生よね? だったら、嘘を吐くのが悪いことだってわかるわよね? いくら家庭環境が特殊だからって、なんでも許されると思ったら大間違いよ」

「………」

私は腰を折って、俯いているトキオの顔を覗きこんだ。

「トキオ、どうしてそんなことを言ったの? 嘘を吐いたのなら、先生に謝らないと」

トキオはぐずぐずと半べそをかきながら首を振った。

そして、先生の肩を静かに指差した。

「………えっ?」

こちらを見下ろすその顔が、みるみる青褪めていく。

私はトキオの手を取って、くるりと踵を返した。

「先生、さようなら」

「ちょ、ちょっと…!」

背後で喚き声が聞こえたが、そのまま帰路に着いた。



商店街で、特売のコロッケを四つ買って帰った。

何かを買うときは、いつも四人分買うようにしている。そうしなければ、トキオが悲しむからだ。

「ただいま」

ドアを開けると、奥からひやりとした空気が流れてきた。

行儀悪く靴を脱ぎ捨てたトキオが、暗い部屋の中に駆け込んでいく。

「こら、トキオ。手洗いうがい」

慌しい足音が引き返してきて、洗面所に吸い込まれて消えた。

思わず苦笑が漏れた。

トントン、トントン。母が何かを刻んでいる。



冷凍していたごはんと朝食の残りの味噌汁、キャベツとコロッケをテーブルに並べ終え、顔を上げる。

トキオはにこにこしながら自分の席に着いていた。

「どうしたの? 機嫌が良いね」

つられて微笑みながら、私も自分の椅子に腰を下ろす。

このところ、食事のときのトキオはいつもこんなふうだ。終始笑顔を浮かべていて、ピーマンやにんじんも残さず食べるようになった。おかわりをすることもあるし、食器を自分で流しまで持っていく。ちょうどひと月前からだ。


「トキオ、もう寂しくない?」

笑顔のまま、うんと大きく頷く。

「じゃあ嬉しい?」

何度も何度も頷く。

「そっか。トキオが嬉しいと、お姉ちゃんも嬉しい」


テーブルには、四つの皿が並んでいる。

トキオがそのひとつひとつにコロッケを載せ、それぞれの席に、丁寧に配置する。

我が家の食卓の完成だ。

「しばらく置いたら、そっちのも食べていいからね」

自分の皿を受け取りながら、私は言った。

嬉しそうに笑って、トキオが頷く。


トントン、トントン。台所に立って、母が何かを刻んでいる。

「そうね。長期出張にいっているからね…」

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