百物語 第五十四夜
三年前、地区社協に入っている友人から、ボランティアをしてみないかという誘いがありました。
週に一度、一人暮らしのお年寄りの家を訪問する、“見守り”活動。
長いこと趣味もなく、仕事と家事だけをやってきた私は、新しい世界を覗いてみたい気持ちもあり、二つ返事で引き受けました。
思い返してみれば、最初の頃は大変でした。
近年、お年寄りを狙った犯罪が増加していることもあってか、新顔の私は大いに警戒され、胡散臭がられました。怒鳴られたことも、玄関先で追い返されたこともあります。そういえば塩を撒かれたことさえありました。
しかし、根気強く訪問を続けているうちに、次第に顔を覚えていただき、少しずつ気を許してくれるようになっていきました。
「いつも大変だねえ」と労わられたり、「お茶でも飲んでいきなさい」と友人のように誘ってもらうこともあります。「あんたが来てくれるのが唯一の楽しみだよ」と言っていただいたときには、思わず泣いてしまったものでした。
ああ、これが私の求めていたものなのだ。
そのときは、そう思っておりました。
転機が訪れたのは、二年目の梅雨のことでした。
毎日毎日雨ばかりで、気が滅入る時期ではありますが、だからと言って休むことは出来ません。地域の安全のため、何より、私を待ってくれているおじいちゃんおばあちゃんのため、そう自分に言い聞かせて、レインコートを羽織ってうちを出ました。
強烈な違和感を覚えたのは、何軒かの家を回った後のことでした。
第六感、虫の知らせ。それに近いものだったのだと思います。
見慣れた道が、いつもとどこか違っている。雨のせいではなく、何か得体の知れない感覚がつきまとう。
その家に近づくにつれて、それはどんどん大きくなっていくのです。
門扉は閉まっておりました。
足の悪い方で、出不精でもありましたので、そう珍しいことではありません。
失礼しますと声を掛けて、私は敷地内に入りました。
ぶん、と、耳もとを蝿の羽音がかすめていきました。
このときにはもう、うっすらとそんな気はしていたのです。
「○○さん、こんにちは。○○さん、いらっしゃいませんか?」
返事はありません。
私は扉に手を掛けました。
鍵は掛かっていませんでした。
扉を開けた瞬間のあの衝撃は、とても言い表すことが出来ません。
あまりの臭気に息が出来なくて、だけど扉を閉めることも出来なくて、私はその場に崩れて嘔吐しました。
目を開けるのも痛いような臭いの中、必死に視線を上げると、すぐ傍にそれはありました。
ぶんぶんと蝿のたかる、黒ずんだご遺体。
私は再び嘔吐しました。
情けない話ですが、その後のことはあまり覚えていません。
通りかかった近所の人が警察に連絡してくださり、朦朧としているうちにだいたいの事は済んでおりました。
急性心筋梗塞を起こし、助けを呼ぼうと玄関まで這って、鍵を開けたところで事切れたらしい。そう、後で聞きました。
それから数日の間、私はショックで寝込みました。
助けられなかったという罪悪感もあり、一時は見守りをやめようかとも思いましたが、夫や、このボランティアを勧めてくれた友人、そして良くしてくださったお年寄りの方々からも引き止められ、なんとか立ち直ることが出来ました。
…いえ、本音を言えば、それだけではないのです。
あのとき感じた高揚感。胸の高鳴り。魂の震えるような感覚。
恐怖と不安の中、私はそれ以上に恍惚としておりました。
正直に言います。今まで生きてきて、私は、あれほどの興奮を得たことはありません。
ああ、これこそが、真に私の求めていたものなのだ。
趣味も生きがいもなく、ただ平坦に年を重ねてきた私の、心の底から欲していた、生きているのだという実感。その悦び。
どうやら私は、まだまだ見守りをやめることは出来ないようです。
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