百物語 第四十七夜

美代ちゃんが、一人きりで海岸沿いを歩いているところに出くわしたのは、ちょうど一週間前のことだった。

不思議に思って周囲を見回したが、家族の誰かが一緒についているわけでもない。本当に一人きりだ。

ああ、また勝手にうちを抜け出したんだな。呆れ混じりにそう思った。

「美代ちゃん、ダメじゃない、一人でうろうろしたら」

私が声を掛けると、美代ちゃんは「あーうー」と声を出した。

真っ直ぐに家に帰るつもりだった予定を崩され、多少苛立ちはしたが、遠回りをして美代ちゃんを送り届けることにした。

仕方がない。私は学級委員長で、先生からも美代ちゃんの両親からも、美代ちゃんのことをよくよく頼まれているのだ。

「ほら、早く帰るよ。こんなところにいたら危ないから」

しかし何か気になることでもあるのか、岸壁から沖の方を指差して、美代ちゃんは「あーうー」と唸るばかり。てんで動こうとしない。

苛立ちがどんどん募っていく。

「いい加減にしてよ!」

私は彼女の腕をつかんで、強く引っ張った。

驚いたらしい美代ちゃんが、私の腕にがぶりと噛み付いた。酷い痛みが走り、私は悲鳴を上げて美代ちゃんを振り払った。

ぎゃっと声がして、そのすぐ後に、何かが叩きつけられるような鈍い音が続いた。


顔を上げると、岸壁の上にはもう誰もいなかった。


ぎりぎりのところに立って、おそるおそる下を覗き込む。

荒々しく波の打ち寄せる岩場に、美代ちゃんがうつ伏せに落ちていた。

うつ伏せなのに、首だけは真上を向いていた。

私は脱兎の如くその場を逃げ出した。


私のせいじゃない。美代ちゃんが悪い。

頭の中で叫びながら、転がるように走っていると、ふいに生ぐさい風が後ろから吹いてきた。

立ち止まって、思わず振り返る。


だらりと弛緩した美代ちゃんの身体の上に、何か、どろりとした黒いものが覆いかぶさろうとしているのが見えた。

黒いものは、海の中から長々と伸びていた。

今度こそ、振り返ることもせず一目散に走った。



うちに帰っても、震えは止まらなかった。

食事も喉を通らず、布団の中にもぐってただひたすらに小さくなっていた。心配した家族が次々に部屋を訪れたが、「なんでもない」と言って追い返した。

そうだ。なんでもない。

私は何も知らない。何も見ていない。

美代ちゃんにも会っていない。


結局その夜は一睡も出来なかった。



翌日、仮病を使って休もうかとも思ったのだが、その方が不審がられるかもしれないと思って、普段通りに登校することにした。

何食わぬ顔でクラスメイトたちと挨拶を交わした後、朝の会の時間まで、私は静かに自分の席に座っていた。

時間ぴったりに、先生はやってきた。平然としたふうを装いつつも、背中は冷や汗でびっしょりと濡れていた。

先生の口から、どんな言葉が紡がれるのか。「結城さんは不幸な事故で亡くなりました」? 「昨日から、行方がわからなくなっています」? それとも、「誰かに突き落とされて、殺害されたようです」?

わずか数秒が、恐ろしく長い時間に感じられた。

先生は、おもむろに口を開いた。


「では、結城さん、席について。朝の会を始めます」

「はい、先生」


こつり、こつり。

上履きを軽やかに鳴らしながら、少女が入ってくる。

私はがたりと席を立った。

勢いあまって椅子が後ろに倒れたが、振り返るような余裕はなかった。

「美代ちゃん…?」

全員の注目を集める中、美代ちゃんは、驚きに目を剥き硬直している私を見た。

その口もとに、なまめかしい微笑をたたえながら。



みんなが、美代ちゃんを「別人のようだ」と言う。

「人が変わったみたい」だと言う。

そうじゃない。あれは美代ちゃんじゃない。本当の意味での別人なのだ。どうして誰もそれがわからないのか。ろくに会話も出来なかった美代ちゃんが、あんなにも流暢に教科書を朗読出来るものか。あんなにも上手に箸を扱えるものか。あんなにも速く走って、高く飛んで、ボールをパスしたり、シュートを決めたりなんて出来るものか。あんなにも美しく笑えるものか。私よりいい点を取ったりするものか。

あれは、美代ちゃんじゃない。

間違いない。怪物だ。

あのとき、やっぱり美代ちゃんは死んだのだ。死んで、あの黒いモノに身体を乗っ取られたのだ。

私には、それがはっきりとわかる。

その証拠に、すれ違うとき、彼女の身体からはあの臭いがするのだ。潮の匂いに慣れた浜辺の町にあってもなお、異質な臭い。赤潮の発生した海面から漂う腐臭によく似た、生ぐさい臭い。


私だけが、あの怪物の正体に気づいている。

そして向こうも、私が知っていることを知っている。


あれから、一週間が経った。もう耐えられない。

私は明日、一人で彼女に会いに行くつもりだ。

会って、その正体を白日の下に晒してやる。

私には、そうしなければならない責任がある。だって私は、学級委員長だから。先生にも、彼女の両親にも、美代ちゃんのことをよくよく頼まれているのだから。

それが、死んでしまった可哀想な美代ちゃんへの手向けになると私は信じる。

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