百物語 第三十一夜

もう五年前のことだが、一度だけエレベーターに閉じ込められたことがある。
当時住んでいたマンションのエレベーターで、台風による停電が原因だった。

人生に一度あるかないかの体験なので、正味五分も閉じ込められてはいなかったが鮮明に覚えている。

その時エレベーターに不運にも閉じ込められてしまったのは私だけではなかった。同じマンションに住んでいる50代と思われる男性も私と一緒に閉じ込められてしまった。


私も彼も閉じ込められた直後、動揺し呆然と立ち尽くしてしまった。それでも非常用のインターホンで閉じ込められた旨を伝えてから落ち着きを取り戻しはじめた。

「参りましたね。初めてですよ、エレベーターに閉じ込められたの」
薄暗い筐体の中で男の表情は見えにくかったが、その口調はある種の親密さがあり、仕事では営業をしているのかなと私は感じた。
「私もです。たぶんこの台風で停電でも起きたんでしょうね」
空調の止まった狭いエレベーターの中は、残暑がまだ厳しい時期だったのもあり、じわりじわりと汗が体にまとわりつきはじめた。満員電車で感じるような不快さだった。

「きっとそうでしょうね。大丈夫ですよ、もうしばらくすれば通電するでしょうから」
男の口調は余裕があり、妙なことだが私はすごく安心ができた。
「そういえば挨拶が遅れてしまいましたね。私、三階に住んでいる○○と申します。よく顔をあわせるもんですから、自己紹介をしている気になっていました」
私が自己紹介をすると、男もいやこちらこそ、と人懐っこい表情を浮かべながら、
「私は六階に住んでいる■■と言います。こんなご縁もそうそうないですから、近々一杯いかがですか?」
彼がそう言うと、私と彼は顔を見合わせて笑った。
「近いうちにぜひ。この中がじめじめしているせいか、ビールが飲みたくて仕方がありませんよ」
また私たちは笑った。

後から気づくなんてことはない。
彼の挨拶を聞いてすぐにこのマンションが五階までしかないことは頭にあった。

私と彼の笑い声が消え、ほんの一秒の間。

グワンッ

と、駆動音が聞こえ、エレベーター内は普段通りの明かりがともり、空調もついた。
エレベーターが動き始めるとすぐに私が降りる三階についてしまった。私が近いうちに飲みましょうと男に挨拶をしエレベーターを下りようとするときだった。
私が降りるよりも素早く身を寄せてきた。すると私の耳元で、

「私、幽霊なんですよ…」

呆然と立ち尽くす私の目の前で、エレベーターは閉まり上へ昇っていった。


次の日。
出勤するためにマンションを出ると、六階に住んでいて幽霊の■■さんを見つけた。
「■■さん!昨晩はどうも!」
私がそう声をかけると、彼もまた当たり前に挨拶を返して来た。
この日の夜、最寄りの駅の近くの居酒屋で■■さんと飲んだのだが、なぜあの時あんな冗談を言ったのか聞いても笑顔で覚えていない、と答えるばかりだった。

■■さんとはご家族とも親交があるほど、いまでも良くしてもらっている。
エレベーターに閉じ込められた出来事は、私にとって大切な思い出となっている。










中年男のお茶目なやり取りを見せられて毒気が抜かれた俺はふてくされて体育座りをしていた。
「私は結構見える方なんで、いつ驚かせるのかなと思っていたら結局なにもできないでいたね」
■■という男は俺の方を見て言った。
「25年ローンを組んで買った念願のマンションなんだ。これからも上手くやっていこう」
そう言うと、五階でエレベーターを降りていった。
念願のマンションか…。
生きている人間は死んでいる人間に驚くのは責務であるべきだ。
大抵の生きている人間はきちんとそれを果たしている。立派な生きている人間だ。
しかし稀に■■のようなやつもいる。
これだから生きている人間は油断ができない。

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