百物語 第六十三夜

いまほど日本が貧しくなかった時代のことだから、せいぜい三十年前くらいの話だ。
僕は大学生だった。

今では考えられないことだけど、当時は東京ならば外国の映画を非合法ではあったけれど上映していた。
とはいえ僕が住んでいた田舎じゃ考えられないことだけれど。

高校生の頃、僕は校閲をすり抜けたフリーペーパーを読みふけって、活字でしかしらない外国の映画に思いを馳せていた。

それが東京に住み始めると、繁華街の深い場所で海外映画が上映されていた。
そうなれば当然のなり行きのように、僕は学校へ行かなくなり、昼間バイトをしては、映画を見るために金を貯めるようになった。


上映会で彼女を初めて目にしたのは『ザ・フライ5』の25時の回の時だった。

当時流行していたドメスティックブランドの真っ黒なブラウスを着ていた。ファッションに疎い僕にそれがわかったのは、襟の形が特徴的だったからだ。
化粧っ気のない彼女には、黒がとても似合っていた。
僕はどうしてかわからないけれど、映画をそっちのけで、映画を見ている彼女ばかり見ていた。



次に会った時は『ブレードランナー3』の、二回目のディレクターズカット版の四回目のファイナルカットの上映の時だった。

この日、彼女は同じ黒いブラウスを着ていた。
この間見かけた時にあった印象と変わらず、化粧っ気のない彼女には黒がとても似合っていた。


僕は僕にそんな勇気があるなんてしらなかったからとてもびっくりしたのだけれど、上映が終わり白む繁華街の路上で彼女を朝食に誘っていた。
ファストフード店で、彼女はノンベジタブルバーガーのパテ抜きと麹とラムのシェイクを、僕はシイラのパイ焼きとフキノトウのスムージーを注文した。


薄暗い店の中ではわからなかったが、太陽の光のしたでみる彼女はとても若いように見えた。
ただこれまでの経験か、あるいは日々の生活のせいか、きっともう消えることのない疲弊の痕がほんの少しだけ見て取れた。

彼女は僕のホテルの誘いにも感情が動いた様子もなく、おとなしく頷くだけだった。

彼女の裸はまるでおぼえていない。
部屋に入ると彼女は躊躇いなく裸になり、当たり前のように真っ赤な口紅をつけはじめた。

「どうして今から口紅をつけるの?」

裸だから口紅をつけていないと不安だと彼女は言った。

「化粧をしなくても僕はすごく可愛いとおもうけど」

嬉しいけどそういうことじゃないの。こっちの方が安心できるのと彼女は言った。

「……あんまり口を使うのは好きじゃない?」

たぶんあなたが思っている以上に色々と使う、そう彼女は言った。


セックスが終わり眠気でもうろうとする中、僕は彼女にもう二度と会えないと確信していた。
彼女はもう既に寝てしまっているようだ。
僕は起こしてしまうかもしれないとも思ったけれど、白いシーツで彼女の口紅を拭ってみた。
口紅は形を崩すことなく、唇を際立たせたままで、彼女も寝たままだった。
寝たら彼女と永遠に会えなくなる、そう思いながらいつの間にか僕は寝てしまっていた。




次の上映会。
彼女はいつものブラウスを着ていた。いつも通りとても似合っていた。
ただ気になったのは彼女が赤い口紅をつけていたことだ。

あの日ホテルで目覚めると、僕はひとりきりだった。
彼女がいた名残は口紅を落とすのに使ったコットンだけだった。

口紅をした彼女が映画を見ているところを見ていた僕。
ふと目眩がしたと思うと、心臓がとれてしまうんではないかと思うほど激しく鼓動を始めた。
呼吸は浅くなり、冷や汗が出てきた。手足の先はしびれてとても冷たかった。
僕はこのままでは死んでしまうと怖くなり、店の外へと飛び出した。


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