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映画『ミッドサマー』は異世界転移のチヤホヤ系という話(ネタバレあり)

『ヘレディタリー 継承』の記事読んだ人が「ミッドサマーの記事も読みたい」というので書くことにした。私はちょろいので。

これはホラー映画ではない

 世の中を恐怖のどん底に叩き落した『ヘレディタリー 継承』からさして間を開けず、制作が発表されたのがこの『ミッドサマー』だが、アリ・アスター監督の性格というかキャラクターというか作品の雰囲気のせいで、過度に「ホラー映画」という期待をかけられすぎた作品と言う感じがする。

 実際、アリ・アスター監督はインタビューで「わかりやすさのためにホラー映画という事になっているけど、ジャンル分けが難しい映画だと思う」と語っているので、これは「私がホラー映画じゃないと思ってる」というだけの話ではない。

 この映画について監督がどう思っているかは、以下のリンク先を参照されたい。
https://ginzamag.com/interview/midsommar/

 じゃあこの映画は怖くないの? なんでホラー映画って言われてるの? と言われると、まあこの映画は普通に怖い尋常ならざる残酷さで人が死ぬ。
 しかも人が死ぬ以上に目を覆いたくなるような邪悪なシーンが無数にある。
 とはいえこの映画は「怖がらせることを」を第一命題としているわけではないので、今一つ奥歯にものが挟まったようなレビューになるかもしれない。

 このレビューを書くにあたって、一度私はこの映画を見直した。
 印象残るシーンは数あれど、ビックリするくらい、ストーリーの詳細を覚えてなかったのだ。
 根本的に、この映画はあまりにも「日常」だ。エッジのきいた洒落てる会話がでてくるわけではなくて、いかにも日常で展開されそうな会話が、どこかひやりとした緊張感の中で展開される。

 ちなみに学術的な考察に関してはすでに無数にレビュー記事が存在するので、作中に登場するルーン文字がどうたら的な話には特に触れずに行こうと思う。
 感情論で詳しく解説していこう。

監督が失恋したから作った映画

 これも軽くググればインタビュー記事が出てくるのだけれど、『ミッドサマー』はアリ・アスター監督の失恋をきっかけに作られた映画だ。

 監督の失恋がもとになっているのに、この映画の主人公はゴリゴリに病んでる女の子であることに、何やらすでに居心地の悪さを感じる。

 この映画の主人公はダニーという大学生の女の子だ。
 双極性障害の妹がおり、妹はなにかと鬱メールを送ってきてはダニーに心配をかけている。
 この日もまた、ダニーは妹から不穏なメールを受信し、心配で気が気じゃない。

「もう無理 なにもかも真っ暗 パパとママも一緒に行く グッバイ」

 ダニーは深夜に何度も両親に電話をかけるけど、出てくれない。
 妹からの返信はない。
 不安に押しつぶされそうになりながら、ダニーは恋人のクリスチャンに電話を掛ける。「今なにしてるの?」と平静を装って。
 ダニーが電話口で泣いていることに気が付いて、クリスチャンは「しょうがねぇな」とばかりに「妹の件どうなった?」と聞いてくる。
 通話履歴から察するに、ダニーは深夜にクリスチャンに相談の電話をしているようだ。

 しかし友達とピザを食っているクリスチャンは「妹はかまってほしがってるだけだ。君が甘やかしすぎてる」とダニーを責める。
 どこか支配的なクリスチャンの物言いだが、ダニーは「そうね。きっとあなたのいうとおり」とほほ笑む。

 直後。
 ダニーは友人に電話を掛ける。
「私クリスチャンを頼りすぎてるのかも! ウザすぎて嫌われてるのかも!」と早口にまくし立てる。
 友人は「そんなことない!」と言ってくれるが、ダニーの不安は収まらない。

 そして実際、クリスチャンは一年もダニーと別れたがっている。
 一緒にピザを食ってる友人たちは「はよ別れろ」とクリスチャンをせっつく。「あの女はどうかしてる」「別れればセックス好きの女と付き合える」と。
 間を置かずにダニーからかかってきた電話に対して「セラピストに電話させろよ!」とうんざりしきった様子。

 ダニーの心配通り、クリスチャンはダニーを重荷に思っているし、周囲の友人たちもダニーをいかれ女だと思っているのだ。
 そして、ダニーの心配はもう一つ的中する。

 ダニーの妹と両親は、この時点で本当に死んでいるのである。

 お分かりいただけるだろうか。
 オープニングの時点で、映画はダニーを全肯定しているのだ。

 双極性障害の妹を心配するダニーの不安を「過剰だ」と切り捨て、その存在を重荷に感じ、別れたがっているクリスチャンと、ダニーをいかれ女としてか見ていない友人達は、この映画において「敵対者」として設定されている。

 だがオープニングの時点では、まだクリスチャンは味方になりえる可能性を残しているのだ。
 なぜなら、ダニーはクリスチャンを愛しているし、クリスチャンは「ダニーと別れて後悔することになったら?」とためらっている。
 家族をいっぺんに失って苦しんでいるダニーを抱きしめ、慰めているのもクリスチャンだ。

 この映画はダニーとクリスチャンの恋の行方を、かたずをのんで見守る恋愛映画という見方もできる。というか結構な部分がそう。小規模な世界系と言ってもいいかもしれない。二人の恋物語の結果によって結末が違ってくる

 ただしそのエッセンスとしてスプラッターが使われている

邦題と原題のはざまで

 この映画のタイトルは『ミッドサマー』。普通に考えるなら意味は「終わらない夏」だ。
 しかしこの映画は冬から始まる。
 どれくらい冬かというと、雪の積もり森林の映像が一分くらい続く程度に冬だ。

 そしてダニーが家族を失ったことに嘆き悲しみ、クリスチャンに縋って泣いているシーンでは、窓の外で大雪が降っている。
 カメラは窓の外の大雪にずずいずいとクローズアップしていく、非常にひっそりと「Midsommar」というタイトルが浮き上がってくる。

 なぁにこの演出???

 ところで、お気づきになっただろうか?
 私は調べるまで気づかなかった。

 もしタイトルが「終わらない夏」という意味の「ミッドサマー」なら、タイトルの綴りは「Midsummer」にならなければならない。
 しかしこの映画のタイトルは「Midsommar」。そう、綴りが違うのだ。

 スウェーデン語の解説などを調べてみると、「Midsommar」とはスウェーデン語で「夏至祭」を指し、スウェーデンではクリスマス並みに重要な祭日という事になっているらしい。
 この日、人々は「Glad Midsommar!(夏至祭おめでとう!)」などと言うんだとか。

 つまりこの映画のタイトルは「終わらない夏」ではなくて「夏至祭」ということになる。
 とすると、この大雪の中に浮かび上がるタイトルの演出意図は、「大雪の降る真冬から、晴れやかな夏至祭へと至る物語」ととれなくもない。
 

過剰なほどの明と暗

 この映画の特徴として「画面がめちゃくちゃ明るい」というのがあげられるのだけど、映画の滑り出しは全体的にひじょーに暗い
 とくにダニーを取り巻くシーンは大体が薄暗闇だ。
 これはダニーの精神世界の陰鬱さを示しているのではなかろうか。

 ところでタイトルの「夏至祭」が表す通り、この映画はスウェーデンの小さな村で行われる夏至祭が舞台となっている。
 しかし、映画開始25分時点まで舞台はアメリカから動かない。
 クリスチャンの同級生で、スウェーデンからの留学生であるペレが、同じくクリスチャンの同級生で文化人類学専攻のジョシュ君を、「ホルガ村で夏至祭があるからおいでよ」と招待したことがきっかけで、一行はスウェーデンを目指すことになるわけだ。

 しかしここで一つ問題が起こる。
 主人公であるダニーが、ホルガ村出発の二週間前まで、クリスチャンがスウェーデンに旅立つことを知らされていなかったのである。

 家族が死んで以来、精神疾患とクリスチャンへの依存をさらに深めていたダニーは、パーティーの席で突如クリスチャンの友人たちから聞かされたスウェーデン行に、当然のごとく動揺する。
 それでも理性的に話そうとするが、クリスチャンはチケットすでに取ってるくせに「行くって決断したのは今日だから」とか「前から行きたいとは言ってただろ」とか「謝った方がいい?」とか、ダニーに謝るそぶりはない。

 ダニーは「話してくれなかった理由を理解したいだけ」と言うが、クリスチャンは「責められてるようにしか思えない」と言い捨て、ダニーを置いて帰ろうとする。
 ダニーは「帰らないで、ごめんなさい、私が悪かったの。謝るから。スウェーデン行きなんてほんと最高!」とクリスチャンに媚びに媚び、どうにか捨てられないように取りすがる。
 この会話の間中、映画の画面は非情に暗い。

 画面変わって、スウェーデン行の計画を立てるクリスチャンと友人一行。
 そこにダニーがやってくる。クリスチャンは友人たちに無断でダニーもスウェーデンに誘ってしまったことを打ち明ける。
「どうせこないよ」とか言ってるけど、ダニーは普通に来る気満々。全体的にクリスチャンの無責任で自分勝手でしかも責任逃れする性格が強調されるワンシーンだ。

 さてダニーがやってきたことで、男たち四人の空気がいささかワサっとする。
 クリスチャンは友人に呼ばれて席を外し、残ったのは真面目で勤勉なジョシュと留学生のペレ。
 窓から差し込む光がペレを照らしており、それ以外はいささか暗い。
 この助手がキッチンに立って画面アウトすると、ペレはダニーを隣に座らせ、夏至祭がどれほど素晴らしいかをダニーに語る。
 ペレはダニーに好意的であり、四人の中で唯一ダニーがスウェーデンに来てくれることを心から喜んでいるように見える。
 その場を離れたクリスチャンと友人、会話に加わることを拒否するように離席したジョシュと違い、ペレだけがダニーの隣に座り、寄り添っているという構図だ。

 恋愛映画的に見れば、「冷ややかな恋人とぎくしゃくしているときに、ふと現れた私に優しいスウェーデンからの留学生」だ。それがペレと言うキャラクターである。

 ところでさっきから「友人」とだけ描写して誤魔化しているが、男四人の中にマークというキャラがいる。
 セックスとドラックにしか興味がないいわゆる「ホラー映画で最初に死ぬタイプのバカ」なので、まぁあまりに気にしなくていいだろう。
 友人たちとミッサマを見ているとき「誰が一番最初に死ぬか充てるゲーム」をしたおりに、私がノータイムで「このドラッグ好きのセックスバカが死ぬ」と断言したくらいのテンプレ的存在だ。
 そして実際こいつが最初に死ぬ。
 
 このマークというキャラは、偽善者ぶって自分は悪くないように状況を持っていきたがるクリスチャンの本音部分を代弁させるために存在しているのではなかろうか?

 ここから舞台が「常時朝」という夏至のホルガ村に移っていくわけだが、「常時朝」だからこそ闇が映えるのかもしれない。

宗教儀式に飛び散る血しぶきを添えて

 さてホルガ村に到着する一行だが、草原の中に木造の建物と家畜と花が並ぶ景色は、中世の農村のような雰囲気だ。 
 村人たちはみな一様に白い衣装を着ており、女の子は頭に花冠。
 統一感があって、先述のドラック狂いのマークなどは「カルト教団みたい」と言ってはばからない。こいつ本当に空気を読まないし絶対に悲惨な死に方するわ

 村のそこかしこでは不思議なダンスが行われており、ダンスに誘われたダニーは「なんか怖い」と断っている。
 無理もない。この村の謎の一体感は明らかに「近づいたらヤバイなにか」という空気を醸し出し続けている。

 村出身のペレは村の人間を「全員家族同然」と言っており、村人同士は全員が知り合いだ。
 朝には不可思議な太極拳のような動きを集団でやっている。
 食事の時間も「座る時間が来るまでずっと立ってる」といい、皿の前で全員ずらっと並んで立っている。しかも皿に乗ってる食事が花
 代表者が食事を始めるまで誰も食事に手を付けないし、一言もしゃべらない。

 そしてその怪しげな食事からスタートする村の儀式は、なんとなく儀式の主役っぽい空気を醸し出している、深刻ぶった(あるいは泣きそうな)老人二人を連れて、切り立った崖の上へと導かれる。

 そしてみんなが見ているまえで、老人が崖から飛び降りる。

 その瞬間、ダニーの意識には靄がかかったようになり、耳に入ってくる音声はぼんやりと濁って聞き取りにくい。
 儀式を見に来ていたダニー一行以外の旅行者が「飛び降りたぞ! 死んでる!」と大騒ぎするのを、村の人間が「儀式の一環だ、問題ない」となだめているのをぼんやりと聞きながら、視界だけはクリアに、砕け散った老人の頭部をアップで映すモザイクは一切なしだ。

 老人が一人飛び降りただけでもパニックなのに、追い打ちをかけるように二人目の老人も崖から飛び降りる。
 しかも足から落ちたせいで死にぞこない、痛みで苦しみ叫び出す
 そして登場する、死にぞこなった老人にとどめを刺す係三人組である。巨大な木製ハンマーで、老人の頭を一人一回ずつカチ割っていく
 繰り返して言うがもちろんモザイクは一切なしだ。

 この村の人々は、死体をショッキングなものとして扱わない。それに合わせるように、この映画も死体を儀式的に崇高な存在として扱っているのだ。
 だからモザイクもかけないし、崩壊した人間の顔面を白日の下にさらし続ける

 このとき、一人目の時は静かだった村人たちが、二人目の時は同時に声を上げて泣き叫び出す。
 痛みに共感して泣いているのだ。
 この村の人間たちは非常に強い絆で結ばれており、ほとんど「一心同体」といってもいいだろう。

 ところでこのシーンにおいて、ダニーたちは飛び降りた老人を見ても声一つ上げていないが、別グループの旅行者たちはめちゃくちゃ大騒ぎをしている。
 二人目の老人が飛び降りようとすると「やめてくれ! 戻って! 飛び降りるな!」と叫ぶし、死にぞこなった老人を見て「救急車を呼んでくれ!」と懇願する。
 まともな神経を持っていればそうなるだろう、という好例が横で展開されているおかげで、ショックは受けつつもこれと言ったリアクションをしない主人公チームの異質さが際立つシーンだ。

 このシーンを見る限り、共感性や倫理観という意味で、主人公チームは明らかに「社会的に異質」として表現されている。
 主人公チームは全員、死に対してショックは受けても、赤の他人である老人たちを「助けよう」とは決してしないのである。
 
 ちなみに「興味ないから」という理由でこの儀式を見に来ていなかったマークだが、のちのシーンで「なんで起こしてくれなかったんだよ、見逃した」と言っている。
  アリ・アスター監督のなかではアメリカ人には倫理観がないのかもしれない。

全肯定ペンギン化する村人たち

 さて連れてこられた村がとんでもねぇ老人自殺推奨村だったせいでパニックに陥ったダニーは、急いで荷物をまとめて村を出ていこうとする。
 しかし一行を村に連れてきたペレは、これを阻止すべく、必死にダニーをなだめすかす。

 ペレの両親は幼いころに死んでおり、だからダニーの気持ちがよくわかると、共感をくすぐりにくすぐる作戦だ。
 おまけに「でも自分にはこの村のみんながいたから辛くなかった。このむらのみんなに守られていた。君はクリスチャンに守られてると感じられる?」と、しれっとクリスチャンへの不信感をあおってくる

 この男はやるきだ。
 クリスチャンからダニーを略奪する気だ。
 そんな状況だというのに、クリスチャンはまったくダニーを顧みない。老人の自殺でテンションがぶちあがり、学友ジョシュの論文のテーマをパクって自分の論文いすべく画策するために必死だ。控えめに言ってクズである。

 クリスチャンにかまってもらえず、孤独になったダニーは、村の女の人たちにキッチンへ引き入れられ、おそろいのエプロンをつけ、一緒にパイを焼いたりする。
 村の女集はもはやダニーを村の一員に迎え入れる気まんまんと言う感じだ。

  ところでこの村には、ダニー&クリスチャンいがいに仲睦まじいカップルがやってきていたが、その二人は絆が強く、村の男になびきそうな空気がないのでしれっと退場させられる。
 ここでいう「退場」とはつまりそういう意味である。

 ところでクリスチャンは、村の女の子の一人にひっそり恋心を抱かれている。ひっそりと言うか積極的に恋心を抱かれている
 どれくらい積極的かというと、村に伝わる伝統的な方法で恋のおまじないをかけようとするくらいだ。

 ちなみにこのおまじないだが、陰毛をくわせ、経血を飲ませるという不快指数フルマックスのおまじないである。
 食卓でずらっとならんだグラスの中で、クリスチャンのグラスの中身だけやや赤い。超不快

 食事の席でマーク(セックス狂いのドラック好き)も別の女の子に連れて行かれて退場するし、まったくあっちでもこっちでも恋の予感芽生えまくりで心が休まる暇もない。

 クリスチャンに論文のあれこれで出し抜かれまいとし、夜中に村の禁忌を犯したジョシュも退場する。

 しかし裏で何が進行していようと、ダニー目線では特に何も起こっていない。お祭りで「村の女たちが最後の一人になるまで踊り続ける」というイベントがあり、ドラッグをキメてみんなでぐるぐる回って踊るのだが、ダニーはこれで一位になる。

 一位になるとメイクイーンとなり、みんなにさらにチヤホヤしてもらえるのである!

 特別な花冠はかぶせてもらえるし、村の人々に次々とハグしてもらえる。「あなたはもう私たちの家族よ!」なんて言われたりして。
 食卓でも一番いい席に座らせてもらえる。
 ところでこのとき、ドラッグがキマっているダニーはゴリゴリに幻覚を見ている。死んだ両親が祝福してくれる村人に紛れているし、背景の森林は排気ガスのチューブを加えて死んだ妹の形に見えてくるし、色とりどりの花々は生き物のようにパクパクと閉じ開きし続けるし葉っぱはワサワサする

 特にこのお花パクパク&葉っぱワサワサは非常に背筋がくすぐったくなる気持ち悪さがあるのだが、有識者によると「これぞマリファナという感じ」という景色らしい。
 
 そんなドラッグがキマりにキマっているダニーは、村の伝統として生のニシンを頭から食わされたりするのだが、食べられず吐き出してしまう。
 でも村人たちはそんなこと全然怒ったりしない。優しく受け入れてくれる。ビッグラブ。

 そんな中、一人場になじめず、不安に震え、「これ一体なんなんですか……?」とビビり倒している男がいる。
 気が付けば男友達も全員退場させられ、たった一人になってしまったクリスチャンだ。

 かつてダニーをないがしろにし、孤独感を味合わせ、仲間外れにしようとしたクリスチャンが、今はホルガ村の人々になじめず、疎外され、子度に腐らされている。
 まったくいい気味といったところだ。

 だがクリスチャンは完全に疎外されているわけではない。
 まだこの村で果たすべき仕事が残っている。
 この「全員親族」というような村に、新しい血を呼び込むという、種馬としての仕事が。

この世で最も邪悪な濡れ場シーントップ3入り

 このレビュー意外にも無数にこれについて言及しているレビューはあると思うが、この映画で一番おぞましいシーンは、カチワリ頭でも儀式的殺人(後述)でもなんでもなく、この濡れ場シーンではなかろうか。

 ドラッグで心の平安を失ったクリスチャンは、ダニーがメイクイーンとしてちやほやされている間に、少女から老婆まで、全裸の女たちがずらっと並んでいる小屋へと連れて行かれる。

 その女たちの真ん中で、ずっとクリスチャンに恋のまじないをかけていた女の子が「ウェルカム!」とばかりに床で横たわっているのだが、もはや拒否権を失いし種馬と化したクリスチャンは、女たちに励まされながら女の子と愛のクライマックス(婉曲表現)を迎える。
 女の子が「あぁ」とあえぐと、それを取り囲んでる女たちの「あぁ」とあえぐ。さながら嬌声の輪唱である。さながらどころかそのものだ。

 しかも取り囲む女衆の中の、老婆が一人躍り出て、クリスチャンの尻をせっせと押し始める。「セックスってのはこうやるんだよ!」と言わんばかりにせっせと押す。なんだこの光景。

 そんな異常な状況でちゃっかり最後までできたくせに、クリスチャンはことが終わると「お前らみんなくるってる!」と叫びながら、全裸で小屋を飛び出す。
 ふりちんで。
 配信では普通にモザイクがかかっているのだけれど、何かどこかではモザイクがなしで躍動する股間が公開されたらしく、「全裸で走るとやっぱり揺れるんだなぁ」と当たり前のような感想がそこかしこで飛び交っていた。

 そんな邪悪な濡れ場シーンだが、実はダニーが目撃してしまっている。
 恋人がほかの女といちゃついている(ようにはとても見えないんだけれど)場面を目撃してしまったダニーは心傷つき泣きわめく。
 そのダニーを村の女たちが取りかこみ、ダニーに共感を示すように泣き叫び始める

 これは老人が自殺にしくじった時にも起きたことだ。
 ホルガ村の人々は一心同体であり、お前の苦しみも俺のもの、お前の喜びも俺のものという強力な共同体意識で成り立っている。
 ダニーはもう村人の一員なのだ。
 ふりちんで村を駆け回り、畑から生えているジョシュの足を見つけたり、背中をカチ割られて肺を引っ張り出された状態にもかかわらず、生きたまま天井から吊るされている旅行者Aと対面して恐れおののいているクリスチャンとは訳が違う。

 ところでこの「肺を引っ張り出した状態で生かしておく」という刑罰というか死刑方法というかは、実際に存在していたかもしれないらしいという事を、そこかしこのレビューブログで散見できるので、興味がある人はググってみるとよいと思う。

全部ダニーの思うまま

 さて種馬の役割を終えたクリスチャンは、もはや村的に用なしである。
 ダニーがメイクイーンに選ばれた翌日、花の怪物みたいなドレスを着せられたダニーは、突然「村人から四人、旅人から四人、最後に女王が選んだ九人目の命を、ホルガの神にささげる」という話を聞かされる。

 ホルガ村からは、最初に死んだ二人の老人ぷらす、志願者の二人が現れる。この志願者のうち一人は、仲良しカップルを連れてきた男なんだけど、何らかの罰則として犠牲者に志願させられてないか??と思わずにいられない。
 旅人からは、仲良しカップル+ジョシュ+マークで四人。

 最後の一人はビンゴで選び出された村人とクリスチャンの、どちらを殺すかダニーに選んでもらうという寸法だ。

 いやダニーがクリスチャン助けるわけないじゃんもうこんなの。
 詰みですわ。
 クリスチャンは身動きも取れず、しゃべれない状態にされてるし、その背後に立ってる女衆はずっとダニーに「わかってるわよね♡あなたは村人よ♡」みたいなウィンクをおくりまくっている。

 なんて愚かなクリスチャン。
 ダニーと別れたがったりしていなければ、ダニーの誕生日を忘れたりしていなければ、ドラッグでラリってホルガ村の女の子と浮気してるところをダニーに見られたりしていなければ、愛の力で助けてもらえた可能性もあるというのに!!

 そういうわけで、二人の愛の結末は破局に終わり、犠牲者に選ばれてしまったクリスチャンはクマの毛皮に詰められて生きたまま燃やされるわけだが、自分が選んだくせにダニーは泣き叫び、花の怪物みたいなドレスを引きずってあちこちをうろつきまわる。

 だけど最後の瞬間すっきりして微笑むので、ダニーは無事に家族の死やダニーの死も受け入れられてハッピーエンドと言う筋書きだ。

 アメリカという辛く苦しい世界から、ホルガ村と言う異世界にやってきたダニーは、特に何の努力もしていないけど女王に選ばれ、自分をないがしろにした彼氏に仕返しもできている。
 大変都合のいい復讐物の筋書きだ。
 一番怖いのは、失恋した監督が、一体誰に感情移入してこの作品を作ってるのか私には見当もつかないって部分だよ。

コメディとしての側面もある


 これは監督も言っているのだけど、この映画は割とコメディアスに作られている。
 邪悪な濡れ場シーンもそうだし、直後のふりちんで駆け回りシーンも、そこだけ切り取れば普通にコメディだ。
 ラストシーンでは、声を上げられないクリスチャンのほかに二人の村人が生きたまま焼かれることになるのだが、その二人には「恐怖や痛みを失わせる」というふれこみで、いちいの実からとれたジャム的なものが与えられる。

 もちろんいちいの実にそんな効能はない。

 そうするとどうなるかと言うと、燃え上がった瞬間、村人二人は大声を上げて叫ぶのである。
 で、それに共感して村人全員がもがき苦しみ叫び出す

 もうなんなんだよ!?
 わかってただろそうなるって!!

 この祭りは「九十年に一度」という事になっているけど、村出身のペレの両親も「炎に包まれて死んだ」ということなので、生贄の儀式自体は九十年より短いスパンでやっているのは間違いないはずだ。

 すくなくともペレは両親が死ぬときに悲鳴をあげて叫んでいるのを聞いたはずだし、だったらペレと歳の近い村人たちは「いちいの実のジャムなんか舐めても痛いし怖いし苦しいわ!」と知っているはずだ。 
 待ちかまえてただろ村人たち。叫び声がくるの「今かな? 今かな?」って待ってただろこれ。

 それを想像するとちょっと笑ってしまう。
 でも伝統的に続く儀式なんて、みんな真面目に考えたら大体笑ってしまうものなのかもしれない。

ミッサマによるスウェーデンの風評被害大発生

 さてこのミッドサマー。
 ホラー映画というカテゴリーなのに、美しい花冠や白夜やスウェーデンの美しい村というシーンが多用されるため、例えば「フラワーフェステバル」のようなイベントで白いワンピースを着た女の子が花冠をかぶって立ってると、それだけで「祝祭が始まるのか!???」と人々を不安にさせる効果を生み出してしまった。

 日本ではさほど流行らなかったので私の周りでこれといった問題は起こらなかったが、北欧の「ホルガ村のモデルになったっぽい村とか祝祭」などは大変な迷惑をこうむっているらしい。
 スウェーデン大使館も「がんばって忘れて」とツイートしている。じゃあそんなに深刻な風評被害じゃないのかもね!?

 とにかくこの映画はジャンルを絞るのが難しい。
 監督は明らかに悪意を込めてグロシーンをぶっこんできているのだけど、それが恐怖につながっているかと言うと私的には「どうだろうか」という気持ちが強い。「不快」という感情は「恐怖」とは少々違う。

 そういうわけで、ホラー映画好き虎走としてはレビューのキレが少々悪くなっている。
 この映画は見た人によってジャンルが変わるのじゃないかと思う。
 グロいシーンは「あ、グロがきそう」と大体わかるので、グロが苦手な人にはその一瞬だけ目をつむっていただき、ぜひみんなに軽い気持ちで見てほしいのだけれども……。

 現時点でこの映画はネトフリなんかの定額配信サービスには登録されていないので、お金を払ってレンタルするしかないというのは、サブスクサービスになれた現代人にとっては一つのハードルかもしれない。

 全然関係ないけど、私の著作のアニメ化が決定されたので、映画レビューが面白かったらコミカライズだけでも買ってくれるととてもうれしい。
http://lanove.kodansha.co.jp/official/reimeiki/

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