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命のバトン

どうも、どうも。

何かとばたばた年末を過ごし、年始になって少し文章を書きたくなったので、新年早々こうしてnoteのエディタに向かっております。


今年の年末年始は、娘がまだ小さいので東京で過ごす予定でした。

12/28に無事に仕事も納めて、娘の夜のフェイント(起きるわけじゃないけど突然唸ったりする)で寝不足になりながら、ふとiPhoneを見ると、母親から連絡がありました。

「おばあちゃんが未明に亡くなりました」


施設に入って、ここ最近は食事もまともに取れず弱ってきているという連絡は事前にもらっていたので、覚悟はしていましたが、やっぱりびっくりしました。

こうして急遽、地元に帰ることになりました。





今回亡くなったのは父方のおばあちゃんで、母方も合わせて最後の祖父母でした。

年末年始くらいしか会うタイミングはなかったけど、会うといつもニコニコ嬉しそうに迎えてくれたのをよく覚えています。


クリスチャンだったので、教会で告別式が行われました。

そして、僕はここで今までの葬儀とは別の感情を抱くことになります。


僕は今まで祖父母の葬儀に2回参加しています。(母方の祖父は生まれる前に亡くなっている)

小学生の頃と、大学生の頃の2回で、こんなこと書くと誰かに怒られそうですが、何となく2回ともどこか他人事というか、「まあ、人はいつか死ぬんだし、年齢的にも仕方ないんだろうなぁ」という感覚を抱いていました。


今回も同じように感じるかと思ったのですが、祖母の生涯のエピソードや親交のあった方の話を聞いていると、やはり戦争を経験して、その後の高度経済成長期を過ごした世代なので、壮絶で、綱渡りのような一歩間違えればどこで死んでいたかわからないような人生を歩んでいたようでした。(ちゃんとこういう話を聞いたことがなかったのは少し後悔してます)

そんなおばあちゃんの生涯に触れていると、「ああ、僕がここにいるのも奇跡なんだなぁ」という感覚に陥りました。

そして、産まれてきた娘に会えて、成長を見守れているのも、おばあちゃんが綱渡りのような人生で、しっかりと綱から落ちることなく歩んできてくれたおかげなんだなぁとしみじみと感じて、このとき僕の中で明確におばあちゃんに対する感謝のような気持ちが沸々と湧いてきました。




2023年は育児の大変さ、当たり前の家庭を維持する大変さを実感して、両親には頭が上がらないなぁと実感していました。

でも、よく考えると、祖父母もさらに大変な時代に、子供を産み、育て、命のバトンを繋いできたからこそ、今自分がここに存在して、いろいろ大変なことは多いけど、自分の人生を生きることができているという、当たり前のことですが、普段あまり意識できないことに気付かされました。

僕が結婚して、娘が生まれたことで、こうして今まで感じなかったことを感じることができるのも、また人生の新しい発見ができたようで、それだけで良い年末年始だったなと感じています。

おばあちゃんが亡くなっておいて良い年末年始だなんて変な言い方ですが、自分の死を通して、こうやって孫が新たな発見をしているのをニコニコ嬉しそうにしてくれているような気もしています。


2024年も家族が平穏に過ごせるように、家庭のことや仕事も頑張っていきたいと思います。

そして、娘がすくすく成長できるように努めて、おばあちゃんが繋いでくれた命のバトンをしっかりと後世に繋いでいきたいと思います。


今年もよろしくお願いします。


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