黄泉那美の甘露煮

 巷で囁かれている、都市伝説の一つだと聞いた。この世とあの世の境にある、怪しげな店で出されるという料理。美味いのか不味いのかは分からない。ただ、それを一口食べた者は、もう“戻れなくなる”らしい。

 どこかの目立たない場所にある、不気味な飲食店で出されるメニューの事だろ・・・と、友人は笑った。店の雰囲気に飲まれるから、たとえ味が不味くとも、また食べに行こうとリピーターになってしまう。“そこに行かない生活には戻れなくなる”、そういう意味だ、と。

 僕はその店を探した。都市伝説で語られる店なんて、存在するわけがないのに。誰かに言ったら、頭のおかしい奴扱いされるのは必至だろう。でも僕は、この店とその料理に、強烈に惹き付けられていた。今思い返すと、この時既に、僕はもう戻れなくなっていたのかもしれない。

 幾度となく空振りに終わっている、店探しの夜。その日の夜も、徒労に終わってアパートに帰るだけのはずであった。地図アプリを確認し、辿ってきた道のりや探した場所を記録する。ため息をついて、そろそろ行こう・・・と、一歩踏み出した瞬間だった。

 めまいがする。続いて、まともに立っていられない程の立ちくらみ。人生で初めて経験した。いつ転倒してもおかしくない中、僕はフラフラと歩き続けた。壁伝いでなければ絶対に歩けもしないだろうに、自分でも驚く程のバランス感覚で、歩みを進めていく。自分の意思ではない気がした。

 ついに、倒れる・・・。そう思ったが、僕は無事であった。崩れ落ちるように、椅子に座ったらしい。ここはどこだろう。どこをどう彷徨って、ここまで来たのか分からない。この椅子がある場所も、どこか知らない。先程までのめまいは、嘘のように消えていた。

 ここはどこかの・・・飲食店の中?

 「アンタ、これを食べに来たんでしょ」

 不意に声を掛けられた。僕の前には、男とも女とも思える、中性的な人物が立っていた。そして、目線を落とすと、カウンターテーブルには一品の料理が置かれていた。見たことのない、得体のしれない素材が使われている。その料理が煮物であるという事実だけは認識できた。

 僕は目の前の人物を再び見た。その人は何も言ってこない。料理が出されているので、やはりここは飲食店らしい。ただ、この料理は何なのか、値段はいくらなのか。そもそも、自分は本当にこれを注文したのか・・・。

 頭の中でぐるぐると思考が駆け巡る。しかし、すぐにそんな事はどうでもよくなってしまった。

 甘露煮。一口食べた感想がそれだった。僕は自然と、その料理に箸を伸ばしていた。味は・・・美味いとも不味いとも言えない。と言うか、そういった表現が出来るような味ではなかった気がする。僕は、目の前の人物に何かを言おうとした。

 視線を目の前の人物に移した時、先程まで無表情だったその人は、僕を見ながら不気味な笑みを浮かべていた。ゾクリと、背中に悪寒が走った。目の前の人物が、おもむろに服をまくって見せた。真新しい、新鮮な傷跡がそこに広がっていた。どうやらそれは、肉を切り取った結果と見て取れた。

 ヨモツヘグイ。趣味で読んでいた古事記に出てきたエピソードを思い出した。気持ち悪いとか、そういう気持ちには一切ならなかった。「しまった」とは、こういう時に使う言葉なのだろう。僕は、囚われてしまったのだと思った。

 「僕はもう、戻れないんですか?」

 少し眠たくなるような、ふわふわした感覚になってきた僕は、目の前の人物に尋ねてみた。その人は、僕に顔を近づけると、軽くこう答えた。

 「もどるひつようなんてあるの?」

 元いた世界が、遠く遠くに離れた気がした。水面(みなも)に浮かんでいたものが、あっという間に流されて、すぐに手の届かない場所へいってしまったかのように。

 もう絶対に、戻れないのだろう。

 だが、僕の考えはすぐに変わった。戻れない、それになんの不都合があると言うのだろうか。この結果は、僕が望んだものだったのではないのか。ここに来たがっていた僕が、誘(いざな)われただけの話なのではないか・・・。

 「そうか、もどるひつようなんて、ないんですね」

 「そうだよ」

 「もどらなければいけないと、ぼくがさっかくしていただけだったんだ」

 「いばしょってね、ひとつじゃないのよぉ」

 後で知ったが、その店は、黄泉那美というらしい。

                               おわり


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