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23.趣味の話⑬ 御朱印集め(2)

はじめに

はい、こぼば野史です。

「ナインティナインのオールナイトニッポン」を聞きつつ、これを書いている。先日、テレビでやっていたフジテレビ系「ラフ&ミュージック」の話をされていて、面白い。

まったく別の話だが、ふと日本テレビ系「News ZERO」を見ていたら、野球の試合にてワクチンを接種した人が優遇される措置が適用されているニュースを見た。
ワクチン接種=正義」という国際的なリズムがいよいよ出てきた気がする。

このシリーズ、気づいたことがある。その寺社仏閣の縁起などを調べるので、日本史や仏教史、神道史を学ぶ良い契機になった。

そして、かねてから思いつつあるが、やはり旅行したくなった。

以上のほぼ形骸化しつつある「はじめに」は終わりにして、早速本編に入ろう。

1.紹介する寺社仏閣

今回紹介する寺社仏閣は、東京都にある葛飾区にある柴又帝釈天である。

柴又帝釈天の公式サイトには縁起が載る(ここでは「開山」のみ記載)。

開山
 当山は経栄山題経寺(日蓮宗)と言い、寛永年間(1629)に開基され、開山上人を下総中山法華経寺第十九世禅那院日忠(ぜんないんにっちゅう)上人とし、その弟子の第二代題経院日栄(だいきょういんにちえい)上人が実際の開基である。

「柴又」は地名、「帝釈天」は本尊を指す。帝釈天とは、

 帝釈天はインド最古の聖典である『リグ・ヴェーダ』の中で最も多くの賛歌を捧げられている軍神・武勇神インドラと呼ばれる重要な神さまです。漢字に音写して釈提桓因(シャクダイカンニン)」と呼ばれて梵天と共に護法の善神とされています。帝釈天は須弥山の頂上の喜見城に住んでいて、忉利天に住む神々の統率者です。しかも正法を護持し、仏の教えを聞いて、柔和にして慈悲に富み、真実を語り、正法に従う正しい神さまです。しかし仏陀の教えを聞くまでは、諸天を糾合して阿修羅と戦っていた荒々しい神でもありました。帝釈天は三十三天(忉利天)の主であると同時に四天王を統率し、人間界をも監視します。即ち衆生が殺生、盗み、妄語等を為さないか、父母に孝順であるか、師長を尊敬するか、貧しい人に施しをするかどうか、毎月八日、二三日には人間界に使者を遣わし、一四日、二九日には王子を遣わし、一五日、三〇日には四天王が自ら姿を変えて人間界を巡歴し、衆生の善悪の事を監察するといわれています。従って人々はこれらの日を六斎日といって行いをつつしむのです。

縁日は「庚申」の日である。引き続き、柴又帝釈天の公式サイトから引用しよう。

宵庚申
 こうして江戸を中心とした帝釈天信仰が高まり殊に江戸時代盛んであった「庚申待ち」の信仰と結びついて、「宵庚申」の参詣が盛んになった。
 明冶初期の風俗誌には『庚申の信仰に関連して信ぜらるるものに、南葛飾郡柴又の帝釈天がある。 帝釈天はインドの婆羅門教の神で、後、仏法守護の神となったが、支那の風俗より出た庚申とは何の関係もない、 此の御本尊は庚申の日に出現したもので,以来庚申の日を縁日として東京方面から小梅曳舟庚申を経て、 暗い田圃路を三々五々連立って参り,知る人も知らない人も途中で遇えば、必ずお互いにお早う, お早う、と挨拶していく有様は昔の質朴な風情を見るようである。』と書いてある。見渡す限りの葛飾田圃には提灯が続き、 これが小梅、曳舟から四ツ木、立石を経て曲金(高砂)の渡しから柴又への道を又千往、 新宿を通って柴又へ至る二筋の道に灯が揺れて非常に賑やかだったと言う事である。 茶屋の草だんご等は今に至っている。
人々は帝釈天の本堂で一夜を明かし、一番開帳を受け、庭先に溢れ出る御神水を戴いて家路についたのであった。
帝釈天まいりの道は、「宵庚申」に賑わう江戸の道、庚申まいりの道であった。民衆の大厄難を前に、再び現れた板本尊の霊験にあづかった江戸の市民たちであったから、板本尊再来の庚申の日は、その篤い信心の奥深くに刻まれた報恩の日であり、更新への誓いの日であった。

3.紹介する御朱印

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中央の朱印と左下の筆に「題経寺」とあるのはお分かりだろうか。この題経寺が柴又帝釈天の正式名称らしい。

平成24年のものなので、直書きである。このような状況下では直書きは少し珍しいのではないだろうか。特に柴又帝釈天は、現在は書置きの御朱印のようである。

おわりに

今回に関しては、有名な寺院にもかかわらず、あまり情報がなかった。というか、情報の調べ方があまりわからなかった。

しかし、公式サイトは見ていて興味深い歴史が伺えたので、また行きたいと思った。

参考サイト

コトバンク「柴又帝釈天」(閲覧日:2021年9月3日)
柴又帝釈天公式サイト(閲覧日:2021年9月3日)

短いが、今回はここまで。

頓首頓首。

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