見出し画像

22.趣味の話⑫ 御朱印集め(1)

はじめに

はい、こぼば野史です。

今回から新シリーズである。

正直、歴史をよく学んでいる人間なので、この趣味を投稿するべきか迷った。しかし、この投稿が誰かの目に留まり、何か感じ入るものがあれば、と思ったので投稿しようと思う。

御朱印は去年からぼちぼち集めることが趣味になり始め、今では2冊終わり、3冊目に入っている。

1冊目は浅草寺の御朱印帳、2冊目は明治神宮の御朱印帳、3冊目は司馬大神宮の御朱印帳である。ここで見たように、既に3か所、どこに行ったのか分かってしまうな。

1.御朱印とは

一応、知らない人もいると思うので、御朱印とは何か、神社本庁「御朱印」のサイトを引用すると、

御朱印
神社参拝した証として戴く「御朱印」。
その起源は、奈良・平安の昔。神社仏閣に書写した経典を奉納した際に戴いた「納経受取のうきょううけとりの書付」ではないかといわれています。
「神社へ経典を奉納したの?」
と思われる方もあるかも知れませんが、こうした例の代表に「平家納経」があります。これは時の天下人・平清盛が神仏習合思想の影響をうけ、
「厳島神社の御祭神は、十一面観音がお姿をお変えになったもの」
と解釈して奉納したものといわれています。
こうした納経は徐々に一般にも広がり、社寺から「納経受取の書付」を戴いていたことが、やがて納経をせず参拝のみをした場合にも証明を書いてもらうというように変化していったものと考えられています。
鉄道網が整備された明治以降には、巡拝旅行と集印が盛んに行われるようになりました。それに伴って、案内本や旅行記といった書物も出版されるようになり、昭和10年頃から「御朱印」という呼称が見られるようになります。
遠路をこえて叶った神社参拝。
敬神の思いの結晶ともいえる御朱印帳は、昔も今も、まるで参拝した時の感動を永久保存してくれるかのような掛替えのない存在といえましょう。

参考文献
『国史大辞典』吉川弘文館
『大百科事典』平凡社

となる。

要するに、現代では「神社や寺院に参拝しに行った証」である(何故かは確認できていないが、類似と思われる「スタンプラリー」の派生と解釈してはいけない、という不文律があるらしい)。

個人的に、しっかりと参拝しない者(ただ御朱印だけ頂く者)は御朱印を頂く資格はないと思う。「今から御朱印を書かせて頂きます。貴方の御心を少しばかり頂きます」という気持ちを持つべきだと考えて、頂くが個人的に正義であり、ルールではないだろうか。

2.本投稿で紹介する寺社仏閣

1つの投稿で、1つの寺社仏閣とその御朱印を投稿しようと思う。

今回は、東京は台東区にある聖観音宗総本山金龍山浅草寺のそれである。

浅草寺の公式サイトに載る縁起の最初にはこのように載る。

浅草寺は、1400年近い歴史をもつ観音霊場である。寺伝によると、ご本尊がお姿を現されたのは、飛鳥時代、推古天皇36年(628)3月18日の早朝であった。
宮戸川(今の隅田川)のほとりに住む檜前浜成・竹成兄弟が漁をしている最中、投網の中に一躰の像を発見した。仏像のことをよく知らなかった浜成・竹成兄弟は、像を水中に投じ、場所を変えて何度か網を打った。しかしそのたびに尊像が網にかかるばかりで、魚は捕れなかったので兄弟はこの尊像を持ち帰った。
土師中知(名前には諸説あり)という土地の長に見てもらうと、聖観世音菩薩の尊像であるとわかった。そして翌19日の朝、里の童子たちが草でつくったお堂に、この観音さまをお祀りした。「御名を称えて一心に願い事をすれば、必ず功徳をお授けくださる仏さまである」と、浜成・竹成兄弟や近隣の人びとに語り聞かせた中知は、やがて私宅を寺に改め、観音さまの礼拝供養に生涯を捧げた。
浅草寺に伝わる縁起には、観音さま示現の日、一夜にして辺りに千株ほどの松が生じ、3日を過ぎると天から金の鱗をもつ龍が松林の中にくだったと記されている。この瑞祥が、後につけられた山号「金龍山」の由来となった。また現在、浅草寺寺舞として奉演されている「金龍の舞」も、これに因む。

浅草寺

上記写真:浅草寺の縁起絵巻のひとつ「寛文縁起」(部分)。檜前浜成・竹成兄弟がご本尊を感得。

浅草寺ほどの寺院になると、知らない人はいないと思われるほど有名な寺院だが、こうして見ると、意外と知らないのではないだろうか。

因みに、この浅草寺、「坂東三十三観音礼所」の第十三番に数えられる。公式サイトに載る定義を引用しよう。

昔、旅人の避難所、足柄山や箱根の坂の東一帯は坂東と呼ばれており、その坂東の武者たちは、源平の合戦に九州にまで歩みを進めました。
源平の戦いの後、敵味方を問わない供養や永い平和への祈願が盛んになり、源頼朝の篤い観音信仰と、多くの武者が西国で見聞した西国三十三観音霊場への想いなどが結びつき、鎌倉時代の初期に坂東三十三観音霊場が開設されました。
やがて、秩父三十四観音霊場を加えた日本百観音霊場へと発展し、今日に至っています。

浅草寺の公式サイトには、坂東三十三観音礼所の1つである浅草寺は次のように載る。

「浅草」という地名の確実な史料における初見は、鎌倉時代に編纂された歴史書『吾妻鏡』であるとされる。
鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』には、建久3年(1192)鎌倉で営まれた後白河法皇の四十九日忌「百僧供養」に、浅草寺の僧侶3名が出仕したことが記されている。そのほか、建長3年(1251)、浅草寺の食堂に暴れ牛が現れて怪我人を出したという記事もあり、当時の関東における大寺の1つであり、幕府とも関係を有していたことを示している。
少し前後するが、観音さまを篤く信仰する源頼朝は、治承4年(1180)、平家追討の戦陣を進めて下総(現在の千葉県北部と茨城県の南部)から武蔵国へ入ったときに、浅草寺で勝利を祈願している。また、その後の文治5年(1189)、奥州平泉(現在の岩手県平泉町)の藤原氏征討の際にも、頼朝は戦勝を願って浅草寺に田園36町(約35万7000m2)を寄進した。
やがて源平の戦いで西上した武者たちは、西国三十三観音札所を見聞して信心を深めた。それが契機となり、鎌倉時代初期、坂東にも三十三観音札所が整えられた。このとき、第十三番霊場となった浅草寺は、東京都内では唯一の札所で、今も多くの巡礼者を迎えている。
(太字は筆者)

浅草寺

上記写真:源頼朝が戦勝祈願のために浅草寺に参詣する場面(「寛文縁起」)。頼朝は浅草寺に土地を寄進するなど、篤く庇護した。

坂東三十三観音礼所公式サイトによると、浅草寺の御詠歌は、

ふかきとが 今よりのちは よもあらじ つみ浅草に まいる身なれば

である。

3.本投稿で紹介する御朱印

画像3

右は聖観音菩薩の御朱印である。なお、右上には「坂東拾三番」と書くのは、2節で紹介した坂東三十三観音礼所の数えであるのは、容易に想像できるだろう。

左は浅草名所七福神の大黒天の御朱印である。

他の浅草名所七福神は、公式サイトによると、

 浅草名所七福神は九社寺あります。「九は数のきわみ、一は変じて七、七変じて九と為す。九は鳩でありあつまる意味をもち、また、天地の至数、易では陽を表す」という古事に由来したことによります。

という。

なお、他の浅草七福神は、

浅草神社・・・恵比寿
待乳山聖天・・・毘沙門天
今戸神社・・・福禄寿
不動尊・・・布袋
石浜神社・・・寿老人
鷲神社・・・寿老人
吉原神社・・・弁財天
矢先稲荷神社・・・福禄寿

ここに浅草寺の大黒天が加わり、浅草七福神が成るわけである。
浅草七福神を祀る寺社以外の寺社も勿論であるが、複数の神仏を祀っているが、それはここでは割愛する。

おわりに

「はじめに」でも言ったように、新シリーズの幕開けである。

最初が浅草寺とは、景気がいいのではないだろうか。まあ、御朱印の最初にあったためにこのようになったのであるが。

また、「趣味の話 読書」に少し倦怠感が出てきた感は否めなかったので、こちらのシリーズも頑張りつつ、読書の方も引き続き図書を読了したら投稿しようと思う。

それでは今回はここまで。

頓首頓首。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?