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トイレ掃除と死生観

「武士道とは死ぬことと見つけたり」は、葉隠の有名な言葉である。現代のもののふを目指す者として、この言葉をどの様に日常で実践するか?常に死を意識出来るか?幸か不幸か、いや、幸いであろう今日の何だかんだ言っても平和な日本では、死生観と言っても日常で死を意識することは、あまりないかもしれない。その結果、起こり得るのは生が永遠に続くかの様な錯覚。堕落、弛緩した生である。
 私は今、一人暮らしをしているが、毎朝出掛ける前にトイレ掃除をすることを習慣にしている。家族で住んでいる時のトイレや職場のトイレは自分が掃除していなくても綺麗になっていることもあるが、当然自分以外の誰かが掃除をしてくれているのである。感謝である。これまた極めて当然のことなのだが、一人暮らしでトイレが汚れているのは、全て自分のせいだ。己の糞尿を一身に受け止めてくれているトイレにも感謝せよと言われているようだ。
 なぜ、私がわざわざ、朝の出掛ける前の忙しい時間帯に掃除をするのかと言うと、死生観の涵養の為である!と自分では思っている。そんな大袈裟なことでもないかもしれないが、意外と良い習慣ではないかと自分で思う。
 汚い話だが私は、粘り気のある大便が多く、便器にこびりついて流れない事がよくある。一人暮らしを始めた当初は、朝は忙しいし、どうせ自分一人だからと、そのまま放置して時間がある時に掃除をしていた。しかしある時、仕事で疲れて帰ってきてトイレに入り、便器にこびり付いた自分の大便を見つめ思った。「今日、もし何かあって自分が外で死んで家に帰って来れなかったら、一体誰がコイツを掃除するのか…。死してなおも、恥を晒す、人に嫌な思いをさせる、迷惑をかけるのは嫌だ。」
 以来、死生観の確立→日常的に死を意識する→今を懸命に生きる為、朝出かける前の自宅の神棚参拝と、トイレ掃除は日課となっている。

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