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夏目漱石の謎

夏目漱石は夏目金之助だったのか?

 夏目漱石にはいくつもの謎があるが、まず何よりもその生い立ちが謎である。『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『三四郎』『彼岸過迄』『道草』などで仄めかされているように、夏目漱石自身はウイキペディアにある通りの夏目金之助であることを疑っていた気配がある。何を馬鹿なと言う前に『三四郎』では三四郎の生まれ年について二度問われ、いずれも生まれ年ではなく年齢で答えられたこと、『坊っちゃん』の「おれ」は物理学校を三年で卒業するのに、中学校への履歴書では二十三歳四か月と書かれることを確認して貰いたい。わざわざそう書かれていることの意味を突き詰めていくと、どうも夏目漱石の生い立ちが怪しくなる。しかしそのことは文学的にはもはや解決されないだろう。百余年間この問いにすら辿り着いていないのだ。誰一人。

 そして漱石自身にも漠然とした、しかし根深い疑惑だけがあり、その本当の答えはなかったのではなかろうか。保存された脳から、DNAが取り出され、多くの親族の協力があれば……それでは解決しないだろう。寧ろ漱石は捨て子の可能性が高い。親戚どころか、子孫を残さなかった百五十余年前の日本人のDNAを全部調べれば答えが出るだろうか。

夏目漱石は何故ヒントを出さなかったのか?

 太宰治の最初の自殺未遂は特高逃れの猿芝居だという説がある。三島由紀夫の帝国ホテルでの自殺未遂に関しては、殆どなかったことにされている。小学生から先生の名前を問われ、名前はあることを認めながらその名を教えなかった漱石は、やはり先生の自殺について説明しない。『明暗』のお延に案外裏がないことについては軽く説明している。しかし漱石は明確に種明かしをすることを徹底的に避けてきた。

 三島由紀夫もそうだが、自分が死んでから五十年か百年したら誰かが解ってくれると信じていたという可能性がなくはないが、結局百年経っても誰も解らなかったのだから、もう少しヒントを出しても良かったのではなかろうか。大抵の読者は門野の様なもので、そもそも話についてこられない。このことは『行人』のあらすじを誰一人つかめていないことからも明らかだろう。なんなら重箱や梅、一郎の死にさえ気が付いていない人が殆どなのだ。

 もしかすると『道草』で『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『三四郎』『彼岸過迄』に道筋が付けられたようなやり方で、『明暗』でもろもろの謎にヒントが出される予定だったのかも知れないが、結局『明暗』ではむしろ謎が増えた。漱石が「書きすぎてはいけない」というポリシーに拘ったことの意味は汲み取れないでもないが、その書きすぎていないところに百余年間誰も辿り着けないことに、漱石自身が気が付かなかったという辺りが何とも不思議である。

 漱石は教師経験もあり、門野の様な解らない者があり、その門野が案外気が付いていて「先生は旨いよ」と陰口を利くことを知っていた。要するに相手の反応・理解度に対する感度はあった。あった、などと書くと失礼か。ザ・アイとあだ名された漱石には相手の反応をじっと見る癖もあったようだ。それはハシビロコウに負けない川端康成の態度に少し似ているのではなかろうか。普通はお気楽な末っ子の天真爛漫さはない。漱石の観察眼は途轍もない。だからこそ「うーん、これでは百年経っても二百年経っても、自分の理解者は一人も現れないかもしれないな」と漱石が妥協しなかったことが不思議なのだ。

 勿論『道草』では明々白々なヒントを出した。しかしそのヒントにさえ、結果としてこれまで誰一人気が付かなかったのだから、ここは漱石が見誤ったのだと判断するしかない。

 漱石が見誤った?

 そんな馬鹿な事が本当にあり得るものだろうか?


夏目漱石は何故人気なのか?

 夏目漱石作品は日本一人気である。ずっと教科書にも載っていたらしい。しかし誰一人として理解していなかった。

 誰一人?

 そう、誰一人理解していない。私自身には自明なことながら、私以外の他人には自明どころか理解不可能な提案として、今私の漱石論はある。もう少し厳密に言えば、この宇宙で唯一私にだけ自明なことながら、他人には自明どころか絶対に理解不可能な提案として、今私の漱石論はある。このいささか真面でもない枕はこれまでわずかに形式を変化させながら何十回か繰り返されてきた。私はその自明であるところの漱石論を公にしており、何十人かはそれを読んだと思われる。しかしやはり誰一人として私が示す事実に辿り着けない。「私」は懐かしみから先生に近づく。「私」は「実に」先生を見付け出す。Kは姓ではない…その程度の事実、青空文庫の検索機能を使えば一二分で答えの出る事実を誰も確認しようとしない。極控えめに言って『行人』のあらすじとうらすじが理解できている人はこの世に私一人しかいない。

 なのに漱石は大人気なのだ。

 皆誰かを見習って塵労に分裂を見出してしまう。これが夏目漱石論だけの問題ではなく『絶歌』論に関しても同じ現象が見られることも既に書いた。
「『絶歌』を整理しよう」は少なくとも百人以上が読んだはずだが、やはり理解者は一人として表れない。


 兎に角最初の一人が現れることを期待して、ここに夏目漱石の謎の一部を簡単に羅列しておこう。この謎に即座に答えが見つからなければ、あなたはまだ夏目漱石の謎にさえ気が付いていない状態なのだ。
 夏目漱石の謎には三つの区分がある。一つは漱石自身の謎、二つ目はその作品の中身の謎、三つめは漱石作品の受け止められ方の謎である。これをあえてごちゃ混ぜにして、以下に羅列する。

【『趣味の遺伝』の謎】
・父母未生以前の記憶という発想はどこまで本気か
・過激な戦争批判が取り締まられなかったのは何故か
・話者が戦場に臨場する描写の意味


【『坊っちゃん』の謎】
・親が無鉄砲ではない理由
・命より大事な栗の木という発想の理由
・「おれ」が二十三歳であるのは何故か
・延岡が山の奥にあるのは何故か
・松山が不浄の地であるのは何故か
・一言も言葉を交わしていない「おれ」とマドンナのペアの顔出しパネルや銅像があるのは何故か。


【『虞美人草』の謎】
・「虚栄の毒」を皆が読み誤るわけ
・藤尾がクレオパトラに擬せられる理由
・銀時計は確かか?
・かなり難読ながら藤尾が大人気な理由


【『二百十日』の謎】
・過激な華族批判がなされたわけ


【『野分』の謎】
・生徒を煽動した教師の存在が示される理由


【『三四郎』の謎】
・予告で摩訶不思議は書けないと言いながら作品が摩訶不思議である理由
・三四郎の里は福岡か熊本か
・三四郎が二十三歳である理由
・三四郎が入鹿じみた心持でいるのは何故か。
・三四郎の身長が伸び縮みする理由
・「知らん人」の役割。
・美禰子とよし子の嫁ぎ先が同じ理由


【『それから』の謎】
・天井を貫通する護謨毬の不思議
・代助の新聞を読む姿勢の不思議
・嫂と三代子を両天秤にかける代助の本音
・眼球から色を出す理由
・昔の金歯とは何か?
・金の延べ金とは何か? ↓

・代助のどこか旨いのか?
・緑色の汁を出す植物は何か?



【『門』の謎】
・「近」の字がわからなくなる理由
・安井との間でなにがあったか
・お米と小六の十日間には何があったか↓


【『行人』の謎】
・重箱の嘘の理由
・読者が一郎の死に気が付かない理由
・読者があらすじを読めない理由
・一郎はお貞に何をしたのか


【『彼岸過迄』の謎】
・探偵をさせるわけ


【『こころ』の謎】
・西洋人が消える理由
・何故皆「私」の立ち位置を見誤るのか
・何故皆「明治の精神」を好き勝手に解釈するのか
・何故教科書に妙な具合に切り取られているのか
・何故新潮文庫版が売れ続けるのか


【『道草』の謎】
・健三の生まれ年は?
・兄弟の勘定が合わないのは何故か
・島田を寛容に描いたわけ
・実父が冷たい理由
・母が描かれない理由


【『明暗』の謎】
・視座が浮遊する理由
・結核性でない痔瘻の原因
・男と男が結ばれる成仏のゆくえ
・小林が二人いる理由
・小林が小林医院に詳しいわけ
・津田と小林の過去には何があったか
・主人公が津田(装丁者と同じ苗字)である理由
・清子が反逆者と呼ばれるわけ
・清子は飛行機に乗ったのか?

 例えば「父母未生以前の記憶という発想がどこまで本気か」という問いは漱石サーガを読み解くうえで(それは味わうために、と少しソフトに言い換えてもいいが、)かなり重要なファクターとなり得る。『坊ちゃん』には「前世の因縁」という概念が現れ、『こころ』では先生に懐かしみを感じる「私」が描かれ、『明暗』では「生きたままの生まれ変わり」という言葉が使われる。

「見ると、もう誰か来て先へぶら下がっている。たった一足違いでねえ君、残念な事をしたよ。考えると何でもその時は死神に取り着かれたんだね。ゼームスなどに云わせると副意識下の幽冥界と僕が存在している現実界が一種の因果法によって互に感応したんだろう。実に不思議な事があるものじゃないか」迷亭はすまし返っている。(『吾輩は猫である』夏目漱石)

  この仏教的世界観を無視・または排除してしまうことには殆ど意味がない。

   一方で『三四郎』『それから』『明暗』などがキリスト教的要素で飾られている理由をどこまで深堀りすべきかという問題には正解がなかろう。小説以外の資料を読めば、漱石はキリスト教的絶対神には批判的であり、また人間が神になることも認めていなかったことが明らかだ。
   敢えて異なる角度から現れる謎をごっちゃにしたのは、結局「謎」が読みの問題に収斂せざるを得ないからだ。健三の生まれ年を疑うのもまだこの宇宙に私一人しかいないが、正確に読めば辻褄が合わないことは明らかだろう。そして漱石がわざと次々に古い書付を取り出して勘定をさせようとしているのに、断じて勘定をしない私以外の読者は一体どういう了見なのだろうか。
  それは「先生は卑怯者」という程度のだらしない読み誤りである。
   繰り返す。それは自由な解釈ではなく、読み誤りなのだ。

 三四郎が長男かどうかは明確には解らない。ベーコンがロジャー・ベーコンではなく、フランシス・ベーコンであろうことは推論である。先生が卑怯者でないのはロジックから現れる解釈であり、ロジックを無視した解釈は読み誤りだ。『坊っちゃん』の「おれ」は正直でまっすぐな性格だが兎に角気が付かない。『野分』に生徒を煽動した教師の存在が現れることによって急に赤シャツと野だが別の意味で怪しくなる。そこでもう一度丁寧に『坊っちゃん』を読み直すことで「誤爆説」という解釈が生まれる。「おれ」が牢屋に入らなかった理由が出てくる。

 これらの謎に関して「ロジック的にこうだろう」という解釈ができているものについてはキンドル本でまとめた。特に『こころ』『行人』『道草』に関しては一般の人の解釈があまりにも酷いので、もしこれらの謎が即座に説明できないのなら是非「最初の一人」になる覚悟でお読みいただきたい。


 と言いながらお試しで一つやってみますか。

【『彼岸過迄』の謎】
・探偵をさせるわけ

「不用意の際に人の懐中を抜くのがスリで、不用意の際に人の胸中を釣るのが探偵だ。知らぬ間に雨戸をはずして人の所有品を偸むのが泥棒で、知らぬ間に口を滑らして人の心を読むのが探偵だ。ダンビラを畳の上へ刺して無理に人の金銭を着服するのが強盗で、おどし文句をいやに並べて人の意志を強うるのが探偵だ。だから探偵と云う奴はスリ、泥棒、強盗の一族でとうてい人の風上に置けるものではない。そんな奴の云う事を聞くと癖になる。決して負けるな。(夏目漱石『吾輩は猫である』)

   何故漱石がこのように探偵を嫌うのかは解らない。被害妄想の表れと簡単に決めつけるのはどうも違う気がする。これは漱石が簡単を単簡と書き、小刀細工を嫌うのと同じレベルの問題ではない。不用意の際に人の胸中を釣る、知らぬ間に口を滑らして人の心を読む、おどし文句をいやに並べて人の意志を強うる、これはみな漱石がやってきたことである。
 不用意の際に人の胸中を釣る、これは例えばこんなところか

 上り口に待っていた車夫の提灯には彼女の里方の定紋が付いていた。(夏目漱石『行人』)

 これはさりげないミスディレクションというレトリックである。

「姉さんはいくつでしたっけね」と自分はついに即かぬ事を聞き出した。
「これでもまだ若いのよ。あなたよりよっぽど下のつもりですわ」
 自分は始めから彼女の年と自分の年を比較する気はなかった。
「兄さんとこへ来てからもう何年になりますかね」と聞いた。
 嫂はただ澄まして「そうね」と云った。
「妾そんな事みんな忘れちまったわ。だいち自分の年さえ忘れるくらいですもの」
 嫂のこの恍け方はいかにも嫂らしく響いた。そうして自分にはかえって嬌態とも見えるこの不自然が、真面目な兄にはなはだしい不愉快を与えるのではなかろうかと考えた。(夏目漱石『行人』)

 こんな会話と心理描写の巧みを見せるのが漱石の小説である。脅しも凄い。「僕の存在にはあなたが必要だ」も脅しだが、やはりこれが凄い。

「あなたは本当に真面目なんですか」と先生が念を押した。「私は過去の因果で、人を疑りつけている。だから実はあなたも疑っている。しかしどうもあなただけは疑りたくない。あなたは疑るにはあまりに単純すぎるようだ。私は死ぬ前にたった一人で好いから、他を信用して死にたいと思っている。あなたはそのたった一人になれますか。なってくれますか。あなたははらの底から真面目ですか」
「もし私の命が真面目なものなら、私の今いった事も真面目です」
 私の声は顫えた。
「よろしい」と先生がいった。「話しましょう。私の過去を残らず、あなたに話して上げましょう。その代り……。いやそれは構わない。しかし私の過去はあなたに取ってそれほど有益でないかも知れませんよ。聞かない方が増かも知れませんよ。それから、——今は話せないんだから、そのつもりでいて下さい。適当の時機が来なくっちゃ話さないんだから」
 私は下宿へ帰ってからも一種の圧迫を感じた。(『こころ』)

     こうして見ていくと漱石こそが探偵ではないかと思えてくる。これで「私」がただの大学生なら可哀そうだ。実際先生は「私」の正体に気が付いていないので随分勝手に思える。この圧迫が全肯定に変わるからこそ面白いのだが、その面白さに辿り着くためには一語一語に注意して、抜かりなく筋を捉え、あれとこれとの対比を意識し、皆迄は言われないこと、書きすぎていないところ、仄めかされているものを見つけなくてはならない。つまり読者も少しは探偵にならなくてはならない。私には漱石があまりにもヒントを出さないことが不思議ではある。『彼岸過迄』で現れる探偵は読者の視点にも植え付けられる。そのうえで結びには「あらすじ」が書かれる。こうすれば解るだろうと書いている。従ってそれ以降の作品を探偵のように観察し、「あらすじ」をまとめて全体の構成を見ていくことはけして無茶な話ではない筈なのだが、どうも世間ではそうではないらしい。

【『坊っちゃん』の謎】
・一言も言葉を交わしていない「おれ」とマドンナのペアの顔出しパネルや銅像があるのは何故か。

   これもやっておこう。そんなに深い話ではない。実はかなりの割合で、人は本を読まないのだ。そういう人が顔出しパネルを企画する。饅頭を作る。寛一お宮の銅像と顔出しパネルがあることと一緒であろう。逆に言えば、この程度にまで文学は還元されてしまうものなのだ。小説が舞台になればもう囁き声などなくなる。「迷羊」も音になる。松山市の観光協会か何かが『坊っちゃん』から取り出したのが「おれ」とマドンナの「なかった恋」なのだ。つまり何でもありである。しかしこれくらいの改変がなくては饅頭が作れない。

 同じことを柄谷行人がやっている。北村透谷はKとは関係ないだろうと私は思う。思うけれど私の他に「北村透谷はKとは関係ないだろう」という者が一人もいない。多くの人にとって小説とはその程度のものなのだ。おそらく柄谷行人は、一郎が死んでいることにも、健三が捨て子であることにも気が付かないまま死んでしまう。

  本当にそのまま死にますか? 読まない。安いよ。




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