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谷崎潤一郎の『卍』をどう読むか⑰ 選択肢というものは見せかけに過ぎない
まあ、そうなるわな
それ読んでみると、光子さんと綿貫とは永久に一心同体やとか、死を以て綿貫に従わないかんやとか、その約束に背いたらこないこないしられるやとか、何ぼでも虫のええこと書いたあって、「これでよかったら此処い名ア書いて判捺しなさい」いうのんですけど、「そんなことするのんイヤや」いうて断りなさって、「あんたみたいに何ぞいうたら証文書け証文書けいう人あれへん、そないしてはそれ種に使つこて人オドスつもりやねんやろ」いいなさったら、「あんたさい心変りせエへなんだら、恐がる道理ないやないか」いうて無理にもペン持たそとするのんで、「お金の借り貸しやあるまいし、証文で人の心括っとくこと出来る思てるのんやろか。何ぞ外に目的あるねんやろ。」「あんたこそ判つくのんイヤやなんて、心変りする気イやねんやろ。」「ふん、そら、なんぼ判ついたかて先のことは分れへん」いうてやんなさったら、「そない僕に楯ついたら今に難儀することあるで。あんたが証文書かんかて、オドスつもりやったら此処に何ぼでも材料あるねん」いいながら、紙入れの中から小さい写真出して見せるのんやそうです。それがビックリしたことには、私の夫が取り上げてしもたあの誓約書の写しやのんで、こないだ今橋い持って来る前に、ちゃんと写真に映しといた、柿内氏はもうあの書付返さんつもりかも知れんけど、そんな手エに乗るような僕やあれへん、この写真と、預り証と、この二つ新聞記者にでも見せたら、売ってくれいうて飛び着いて来るやろ、僕かて必要に迫られたら何するや分らん。
夏目漱石の『それから』では、新聞記者平岡が、何か腹いせをするのではないかと疑われている。ここで新聞記者と云われているのは、当時はまだ週刊誌というものがなかったからだろうか。しかしひどい男がいたものだ。そんなことは太宰治に任せておけばいいものを。
いや、これが綿貫栄次郎という男の愛し方なのだろう。兎に角徳光光子は綿貫栄次郎に証文は渡さなかったようだ。しかしここはいやな予感がするところ。何故ならここまで自分の計画通りに事が運び、次第次第に三人をコントロールし始めていたところ、その計画を進めるための魔法の杖である証文のわらしべ長者作戦がここでストップさせられたからだ。これでそうですかと諦めるようなタイプではなさそうだし、支配欲が強そうなことから、まさかというようなことをしてくるのではないかという気がして来る。
しかも柿内園子は誓約書に反して徳光光子と逃げようとする。柿内園子の誓約書自体は綿貫栄次郎の裏切りにより反故になったようなものだが、綿貫栄次郎には柿内園子の夫の預かり証がある。そこには「妻ガ妻タル者ノ行為ニ悖ルコトナキヨウ責任ヲ持ッテ監督ス」という誓約が書かれている。柿内園子が徳光光子と逃げれば、やはり夫の監督不行き届きにはなるだろう。
そもそも徳光光子だけどこかに隠れて、柿内園子はそこにこっそり会いに行けばいいのではないかと読者に思わせようと谷崎潤一郎は考えたのであろうか。
二人は浜寺に行く。
浜寺?
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ここなのか?
そして柿内園子は徳光光子と睡眠薬を飲み、心中未遂事件を起こすことにする。
「今お宅の奥様と家のとうちゃんと薬飲んで昏睡してはる。ちゃんと書き置きまで書いたあるのんで、覚悟の自殺にきまってます。今本宅とあんたさんとこい電話かけよとしてたところです。直きに来とくなはれ」いうたら、きっと慌てて飛んで来るやろ。――このお梅どんの口上も大役ですねんけど、それより昏睡して見せるちゅうこと、なんぼ狂言にしたかてやっぱりほんまにそんなもん飲まんなりませんのんで、お医者はんが見てもこれなら生命に別ッ条ない、二、三日安静にしといたらええいわれる程度にするのんには、どれぐらい飲んだもんやら分量分れしませんねん。けど常時使つこてるバイエルの薬やったら、そない恐いことあれしませんし「小ッちゃい方のタブレットやったら一ト箱飲んでも死ねへんいうし。そやさかいあれもうちょっと控え目エに飲んだら大丈夫やし。あて姉ちゃんと一緒やったら間違うて死んだかて構うことあれへん」いいなさるのんで、「ふん、そやとも、あてかてかめへん」いいましてん。
なんでそんなことすんねんな。そんなもん、太宰治に任せておけばいいのに、といまさら言っても遅い。何しろ『卍』は昭和五年の作品なのだ。
「これで何も彼もあんじょう行った。さあ、もうぐずぐずしてられへん」いうて、そいからもう一度別れ惜しんで、互にぶるぶる顫てる手エ振り合いながら薬飲みましてん。
そうか、飲んだか。なら仕方ない。いや、仕方がないではなくて、他にもやり方はいくらでもあっただろう……という考え方から最近私は私は離れて来た。そもそも選択肢というものは見せかけに過ぎず、未来は決定しているのではないかと考えるようになってきたのだ。現代ではむしろ非決定論の方が幅を利かせていて、決定論は分が悪い。しかしどうも近代文学に限って言えば、それはあまりにも私に都合よくできているのだ。
私に訂正されるためにこれまで百数十年間近代文学は読み誤られてきたのではないかと疑われるような現実が確かにある。現に今朝、私は岩波書店『定本 漱石全集第一巻』で「不思議薫不思議臭の喩の如く」に注がついていないことを指摘したばかりだ。
そもそも『三四郎』を誰も理解していないとはどういうことなのか。
いや、近代文学だけの問題ではない。
現実というものは選び取られるものではなく、取り返しのつかないものなのではなかろうか。であれば谷崎潤一郎という作家が、徳光光子と柿内園子に薬を飲ませないことはあり得なかったのではなかろうか。
しかし私はこの先二人がどうなるのか、まだ知らない。『定本 漱石全集』が書き換えられるかどうか、まだ知らない。書き換えざるを得ないのだろうが、なにごともざるを得ないで決まるわけではないのだ。明日私はこの続きを書かざるを得ないが、ここで終わりになるかもしれない。決まっていても未来はわからないものなのだ。
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