三島由紀夫・林房雄の「対話・日本人論」をどう読むか② 太宰の強さについて
これはなかなか鋭いところを突いた、現代にも通じる正論のようで、私の感覚とは大いに異なる。確かに読者の「共感」を求めて駄目な人間を描く作家はいる。読者は自分が肯定される条件を求めている。なにものでもなく、さして努力もせず、すべてを運の所為にして逃げている人たちを肯定すればそれなりに「共感」を得ることができるだろう。
ところで三島の言っている事そのものは、むしろこれは『金閣寺』の主人公の言い分のように私には見える。「自分は吃音で寺を継ぐ資格もないが、こんなに駄目な人間でも一言いわせてもらいたい」というのが彼の態度ではなかっただろうか。三島は自身が述べている通り『林房雄論』を書いても実質「三島由紀夫論」にしてしまう男なので、この指摘は言いがかりではない。
同じ意味で、三島由紀夫論を書くならば、まず「林房雄論」を読むべきだということも言える。あるいは「林房雄論」に言及していない「三島由紀夫論」には大きな陥穽がある。そのことはいずれ詳しく述べよう。(その日まで私の目や指が持ちこたえられたらの話だが。)
三島は太宰は弱さを売り物にしているが、美は人間の弱さに対する挑戦だという。
ところが太宰は、案外強い。
最初『天狗』を読んだ時には、芭蕉を論じるのにあらかじめタイトルで予防線を張っているのではないかと思っていた。ところが芥川がやはり『猿蓑』に触れているところとつけ合わして読んでみて「あっ!」と驚いた。何と憧れの人・芥川龍之介に堂々と喧嘩を売っているではないか。自分の解釈はこうであり、芥川さん、あなたは芭蕉が解っていないよと張り合っている。
太宰治にとっては文学上、芭蕉だろうが芥川龍之介であろうが関係ない。この態度は随分強い。(人間の弱さに挑戦している。)
またこれはどうだろう。
太宰においては文学上芭蕉、子規の権威はいかほどのものでもないのだ。だからこそ実朝の「面白さ」を描くことができたのだ。そして小林秀雄だの吉本隆明だの、こぞって芭蕉、子規に追随した者ども弾き飛ばしてしまう。実際『右大臣実朝』に描かれた実朝は、面白い。
芥川の師・漱石を俗中の俗と批判しただけではない。『川端康成へ』の「刺す」が強いのではない。確かに『如是我聞』で太宰は「弱さ、苦悩は罪なりや」と書いている。しかし書いていることは全然弱くない。
罵倒名人太宰に勝てる相手はいない。
林房雄の方は少し冷静で、太宰はレトリックで大衆の無知と弱点に阿ったと見ている。しかし「『できない』やつは、これは論外」とはまるでホリえもんのような割り切りではないか。全員吹き飛ばされている。少しも阿ってはいない。
いや、確かに大衆を笑わせようとはしている。
正直に言えば「くるりと振向いて」に気がつく前の『如是我聞』は「痛々しい話」という印象だった。気が付いて太宰に対する見方がすっかり変わった。そしてそもそも『天狗』の意味に辿り着けなければ太宰の強さは見えないのではなかろうか。つまり詳細に、丁寧に、書かれている中身を見ていかなければ太宰の強さは分からない。
こう言っては何だが、三島由紀夫という男はピュアすぎる。人間的には魅力的だがピュアだから何でも許されるというものではない。少しはレトリックを見ていかねばならない。「弱さ、苦悩は罪なりや」と書いているから弱いと読めば、三島由紀夫までが『できない』やつになってしまう。
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