見出し画像

三島由紀夫・林房雄の「対話・日本人論」をどう読むか② 太宰の強さについて

三島 太宰治の小説なんかの、いまもっている青年に対する意味というものね、僕は太宰治嫌いだから、偏見もあるかも知れないけれども、やはり今でもアピールしていることはたしかですよ。自己憐憫、それから、「生まれて、すみません」。それから、「自分はこんなに駄目な人間でも一言いわせてもらいたい」。あれが埋没された青年というものに訴えるのですね。青年というのは、いかに大きなことを言っていても、やはり自分が埋没している、埋もれている。そうして、それをなんとかして肯定する方法はないものかと思っている。非常な自己憐憫、そういうものじゃないと、結局わからないところがあるのですね。

(「対話・日本人論」『決定版三島由紀夫全集第三十九巻』新潮社2004年)

 これはなかなか鋭いところを突いた、現代にも通じる正論のようで、私の感覚とは大いに異なる。確かに読者の「共感」を求めて駄目な人間を描く作家はいる。読者は自分が肯定される条件を求めている。なにものでもなく、さして努力もせず、すべてを運の所為にして逃げている人たちを肯定すればそれなりに「共感」を得ることができるだろう。

 ところで三島の言っている事そのものは、むしろこれは『金閣寺』の主人公の言い分のように私には見える。「自分は吃音で寺を継ぐ資格もないが、こんなに駄目な人間でも一言いわせてもらいたい」というのが彼の態度ではなかっただろうか。三島は自身が述べている通り『林房雄論』を書いても実質「三島由紀夫論」にしてしまう男なので、この指摘は言いがかりではない。

 同じ意味で、三島由紀夫論を書くならば、まず「林房雄論」を読むべきだということも言える。あるいは「林房雄論」に言及していない「三島由紀夫論」には大きな陥穽がある。そのことはいずれ詳しく述べよう。(その日まで私の目や指が持ちこたえられたらの話だが。)

 三島は太宰は弱さを売り物にしているが、美は人間の弱さに対する挑戦だという。

 ところが太宰は、案外強い。

 最初『天狗』を読んだ時には、芭蕉を論じるのにあらかじめタイトルで予防線を張っているのではないかと思っていた。ところが芥川がやはり『猿蓑』に触れているところとつけ合わして読んでみて「あっ!」と驚いた。何と憧れの人・芥川龍之介に堂々と喧嘩を売っているではないか。自分の解釈はこうであり、芥川さん、あなたは芭蕉が解っていないよと張り合っている。

 太宰治にとっては文学上、芭蕉だろうが芥川龍之介であろうが関係ない。この態度は随分強い。(人間の弱さに挑戦している。)

 またこれはどうだろう。

 太宰においては文学上芭蕉、子規の権威はいかほどのものでもないのだ。だからこそ実朝の「面白さ」を描くことができたのだ。そして小林秀雄だの吉本隆明だの、こぞって芭蕉、子規に追随した者ども弾き飛ばしてしまう。実際『右大臣実朝』に描かれた実朝は、面白い。

 芥川の師・漱石を俗中の俗と批判しただけではない。『川端康成へ』の「刺す」が強いのではない。確かに『如是我聞』で太宰は「弱さ、苦悩は罪なりや」と書いている。しかし書いていることは全然弱くない。

(まったくそうだよ。太宰、大いにやれ。あの教授たちは、どだい生意気だよ。まだ手ぬるいくらいだ。おれもかねがね、癪しゃくにさわっていたのだ。)
 背後でそんな声がする。私は、くるりと振向いてその男に答える。
「なにを言ってやがる。おまえよりは、それは、何としたって、あの先生たちは、すぐれているよ。おまえたちは、どだい『できない』じゃないか。『できない』やつは、これは論外。でも、のぞみとあらば、来月あたり、君たちに向って何か言ってあげてもかまわないが、君たちは、キタナクテね。なにせ、まったくの無学なんだから、『文学』でない部分に於いてひとつ撃つ。例えば、剣道の試合のとき、撃つところは、お面、お胴、お小手、ときまっている筈なのに、おまえたちは、試合プレイも生活も一緒くたにして、道具はずれの二の腕や向う脛ずねを、力一杯にひっぱたく。それで勝ったと思っているのだから、キタナクテね。」

(太宰治『如是我聞』)

 罵倒名人太宰に勝てる相手はいない。


 ただ太宰というのはたいへんなレトリシャンで、うまいですよ、比喩や形容が。その意味の天才だ。たいへんな才能ですよ。

(「対話・日本人論」『決定版三島由紀夫全集第三十九巻』新潮社2004年)

 林房雄の方は少し冷静で、太宰はレトリックで大衆の無知と弱点に阿ったと見ている。しかし「『できない』やつは、これは論外」とはまるでホリえもんのような割り切りではないか。全員吹き飛ばされている。少しも阿ってはいない。

 いや、確かに大衆を笑わせようとはしている。

 正直に言えば「くるりと振向いて」に気がつく前の『如是我聞』は「痛々しい話」という印象だった。気が付いて太宰に対する見方がすっかり変わった。そしてそもそも『天狗』の意味に辿り着けなければ太宰の強さは見えないのではなかろうか。つまり詳細に、丁寧に、書かれている中身を見ていかなければ太宰の強さは分からない。

 こう言っては何だが、三島由紀夫という男はピュアすぎる。人間的には魅力的だがピュアだから何でも許されるというものではない。少しはレトリックを見ていかねばならない。「弱さ、苦悩は罪なりや」と書いているから弱いと読めば、三島由紀夫までが『できない』やつになってしまう。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?