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芥川龍之介の『開化の殺人』をどう読むか② 漱石と鴎外の間で

 例えば夏目漱石の文學は谷崎潤一郎には一切継承されなかったといって良いと思う。

 谷崎は観劇体験や巖谷漣の影響下で創作を始め、漱石とは一切交わることなく独自の文学作品を書き続けた。その作品には微かに泉鏡花的なものはあるが、永井荷風的なところは精々私生活に留まるように思える。谷崎文学は誰かの継承ではなく、日本文学のこの一筋に連なりて、なお孤立したものだ。敢えて言えば観劇体験や古典の素養も含めて考えた時、川端康成に無理やり師事した三島文学が近い。そのことは作品を読んでいて、「言葉」を拾う時にしみじみ感じる。谷崎と三島作品には膨大な量の「日本」が詰め込まれている。

 しかしそのことはまあどうでもいい。

 ではしかし夏目漱石作品が芥川龍之介に与えた影響はと考えてみると、これが本当に解らない。ない筈はないのに、確たるものが見いだせない。それでもこれまで私は保吉もののふわふわしたところや、「わんわん戦争」などに微かな関係を見てきた。

 あるいは乃木静子の偶像に疑問を抱いた漱石と細川ガラシャの偶像を破壊した芥川の対比を指摘した。

 さらに『開化の良人』では『明暗』に見られた「自己戯画化とメタフィクショナルな展開の組み合わせ」というレトリックがそっくりな形で使われていることを指摘した。

 それでもしつかり繋がった感じがしないのは、芥川が人としては漱石の弟子でありながら、作品としては森鴎外に影響されているという俗説を破壊し得る証拠をいまだに見出せないからである。

 雰囲気が似ているところがある。「わんわん」で遊んだ。偶像を破壊した。乃木将軍に関心を抱いた。レトリックを真似た……。それだけではやはり足りない。

 勿論内田百閒が『贋作 吾輩は猫である』を書くことは漱石文学の継承ではない。しかし内田百閒の最大の魅力である「味わい」のうちには、漱石に通ずる惚けたユーモアがある。小宮豊隆には漱石の学者らしい生真面目さを引き継いだようなところがある。

 芥川には漱石らしさと云うものがまるでない。『薤露行』を除けばほぼ現代小説に拘ってきた漱石に対して、芥川はむしろ「歴史小説」にこだわり続けた。森鴎外を尊敬していたことも間違いはない。
 さらに芥川が追ったのは「則天去私」ならぬ「歴史離れ」のように思えてならない。

 例えば、

 北庭筑波(きたにはつくば)が撮影した写真を見ると、北畠ドクトルは英吉利風の頬髯を蓄へた、容貌魁偉な紳士である。本多子爵によれば、体格も西洋人を凌ぐばかりで、少年時代から何をするのでも、精力抜群を以て知られてゐたと云ふ。さう云へば遺書の文字さへ、鄭板橋風の奔放な字で、その淋漓たる墨痕の中にも、彼の風貌が看取されない事もない。

(芥川龍之介『開化の殺人』)

 この北庭筑波は実在の人だ。


異種日本人名辞書

 鄭板橋も実在する。

 そこに本多子爵と北畠ドクトルという架空の人物を混ぜて來る。この嘘が芥川の得意である。『奉教人の死』の幻の種本を巡る大騒ぎこそは芥川が最も欲していたところのものなのだろう。『開化の殺人』は『奉教人の死』と同じスタイルの小説である。

 あるいはそれまで現代ものを書いていた森鴎外が「乃木夫妻殉死」の報を受けて最初に書いた初めての歴史小説が細川忠興(細川ガラシャの良人)の家臣、興津弥五右衛門をモデルにした『興津弥五右衛門の遺書』であり、そこにこんないいわけがあることを見てみれば、これはまあ給湯室で「『興津弥五右衛門の遺書』と『糸女覚え書き』って細川忠興でつながるわけでしょ。なんかあの二人怪しくない」と噂されてもしょうがない。

皆々様

 この擬書は翁草に拠って作ったのであるが、その外は手近にある徳川実記(紀)と野史とを参考したに過ぎない。皆活板本で実記(紀)は続国史大系本である。

(森鴎外『興津弥五右衛門の遺書』)

 こんな言い訳が話を尤もらしくすることを、芥川は確かに森鴎外から学び、その作法を引き継いだのだろう。

勿論予はこの遺書を公にするに当つて、幾多の改竄を施した。譬へば当時まだ授爵の制がなかつたにも関らず、後年の称に従つて本多子爵及夫人等の名を用ひた如きものである。唯、その文章の調子に至つては、殆ど原文の調子をそつくりその儘、ひき写したと云つても差支へない。

(芥川龍之介『開化の殺人』)

 勿論全部作りものである。しかし信じる人もいる。デレク・ハートフィールドは実在すると信じてしまった人もいるのだ。

 だから騙されないようにした方がいい。おそらく『開化の殺人』には「何か本当のこと」が混ぜられている。

 そもそもこの作品は切支丹ものには勘定されない。

 それは何故か。

予は今にして、予が数年来失却したる我が耶蘇基督に祈る。願くば予に力を与へ給へ。

(芥川龍之介『開化の殺人』)

 近代文学1.0の枠組みなど殆ど意味がないことをこの一行は証明していないだろうか。

 



[余談]

 鴎外は、

 丁度二条行幸の前寛永元年五月安南国から香木が渡った事があるので、それを使って、隈本を杵築に改めた。

(森鴎外『興津弥五右衛門の遺書』)

 としているが、

台湾ニ生育スベキ熱帯林木調査 薬木,香木類ノ2

 香木を手に入れたのは寛永五年であろうか。

 また『熊本市史』によれば、正保二年(1646年)十二月二日、細川忠興は八十三歳で没しており、興津弥五右衛門らはその年殉死しているようだ。


『熊本市史』


 鴎外は初稿で興津弥五右衛門は万治元年に殉死したように書いているけれど、それでは十二年後、1658年になるのでずいぶん遅い。これは御大喪で死ぬのはずいぶん遅いのではという、鴎外らしい皮肉なのだろうか?

 と思えばその後鴎外は稿を改めた『興津弥五右衛門の遺書』において、正保二年(1646年)十二月二日、細川忠興の死の記録を確認し、なおその二年後に興津弥五右衛門を殉死させている。

 ここがおかしい。興津弥五右衛門ばかりが殉死したわけではないのだ。殉死が五人なら「二年後にせーので死のうよ」とはならないのではないか。

 何故二年後なのか?

 誰か墓参りして没年をツイートしてくれないものか。

 また香木の件はやはり寛永元年に入手したことから変更がないので、史実との距離はまだまだあるようだ。それにしても改稿された『興津弥五右衛門の遺書』の異論は許さぬという厳めしさは何とも言えずおかしい。家系図迄張り付けておいて、介錯の場面は見てきたように語る。

 これはどこぞの警察署長の見てきたような記者会見のパロディではないか。

「二階八畳敷で夫人を左にして将軍は、まず上衣を脱ぎシャツのみとなって正座し、腹下左の横腹より軍刀を差込み、やや斜め右に八寸切り裂きグイと右へ廻し上げられた。‥‥これは切腹の法則に合い、実に見事なものだった。而して返しを咽喉笛にあて、軍刀の柄を畳につき身体を前方に被せ首筋を貫通、切先六寸が後の頭筋に出て、やや俯伏になっておられた。これに対し夫人は、紋付正装で七寸の懐剣をもち咽喉の気管をパッと払い、返しを胸部にあて柄を枕にあて、前ふせりになって心臓を貫き、懐剣の切尖が背部肋骨を切り、切先は背中の皮膚に現れんとしていた。しかるに膝を崩さず少しも取り乱したる姿もなく。鮮血淋漓たる中に見事なる最期で、見るものの襟を正させた」
と、まるで初めから立ち会っていたかのように、仔細な描写がなされている。

 

 こんなものは小説だ、と医者でもある鴎外は思い、『堺事件』や『高瀬舟』を書いたのただろう。

正保四年十二月二日、興津弥五右衛門景吉は高桐院の墓に詣でて、船岡山の麓に建てられた仮屋に入った。畳の上に進んで、手に短刀を取った。背後に立っている乃美市郎兵衛の方を振り向いて、「頼む」と声を掛けた。白無垢の上から腹を三文字に切った。乃美は項を一刀切ったが、少し切り足りなかった。弥五右衛門は「喉笛を刺されい」と云った。しかし乃美が再び手を下さぬ間に、弥五右衛門は絶息した。

(森鴎外『興津弥五右衛門の遺書』)

 これが小説だ。

 どちらにしても命日に死ねというメッセージには変更はない。

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