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芥川龍之介の『或恋愛小説――或は「恋愛は至上なり」――』をどう読むか?

善良なる読者のために

 妙子という名は『アグニの神』(大正十年)に出て來る日本領事館から誘拐された女の子の名前だ。肥ってしまう女は『早春』(大正十四年)にも現れる。『馬の脚』(大正十四年)にも肥った女はでてくるが、肥ってしまったのか元々肥っていたのか解らない。『或恋愛小説――或は「恋愛は至上なり」――』にでてくる妙子は『早春』の三重子のように肥ってしまう女だ。

ある婦人雑誌社の面会室。
 主筆 でっぷり肥った四十前後の紳士。
 堀川保吉 主筆の肥っているだけに痩せた上にも痩せて見える三十前後の、――ちょっと一口には形容出来ない。が、とにかく紳士と呼ぶのに躊躇することだけは事実である。

(芥川龍之介『或恋愛小説――或は「恋愛は至上なり」――』)

 こう始まる『或恋愛小説――或は「恋愛は至上なり」――』のライトモチーフは当然「肥満」であると読まねばなるまい。物語は主筆と保吉が雑誌に掲載する恋愛小説に関する打ち合わせをするていで進んで行く会話形式をとる。この作品も「保吉もの」らしく、巧みな諧謔を見せる。

主筆 すると恋愛の讃美ですね。それはいよいよ結構です。厨川博士の「近代恋愛論」以来、一般に青年男女の心は恋愛至上主義に傾いていますから。……勿論近代的恋愛でしょうね?
 保吉 さあ、それは疑問ですね。近代的懐疑とか、近代的盗賊とか、近代的白髪染とか――そう云うものは確かに存在するでしょう。しかしどうも恋愛だけはイザナギイザナミの昔以来余り変らないように思いますが。

(芥川龍之介『或恋愛小説――或は「恋愛は至上なり」――』)

 ここで使われているレトリックは反漸層法のようで実は反漸層法ですらない。頓降法でもないのだ。よくよく考えてもみればむしろ「近代的白髪染」こそが具体的で確かであり手に取れるものであるに対して、「近代的懐疑」とは如何にも深遠に見せかけた中身のない言葉だ。しかしこの言葉の配列は読者の予測をわずかに裏切ることでユーモアを意図しており、「近代的恋愛」という概念を否定し「近代的自我」を笑っている。このよくよく考えてもみればというところに持って行っているあたりがただの冗談とは一味違う。

  何しろ芥川はテーマを「近代的恋愛?」においている。

 女主人公妙子には外交官の夫がいる。しかし東北出身のゴリラのような顔の野蛮人達夫の弾くシュウベルトの「シルヴィアに寄する歌」に誘惑されてしまう。『お辞儀』が「匂い」をキーにした記憶の話だとしたら、『或恋愛小説――或は「恋愛は至上なり」――』はピアノ演奏、音楽、音がキーになる恋愛感情の話だとも言える。

 保吉 いや、容易に陥らないのです。しかしある二月の晩、達雄は急にシュウベルトの「シルヴィアに寄する歌」を弾きはじめるのです。あの流れる炎のように情熱の籠った歌ですね。妙子は大きい椰子の葉の下にじっと耳を傾けている。そのうちにだんだん達雄に対する彼女の愛を感じはじめる。同時にまた目の前へ浮かび上った金色の誘惑を感じはじめる。もう五分、――いや、もう一分たちさえすれば、妙子は達雄の腕の中へ体を投げていたかも知れません。そこへ――ちょうどその曲の終りかかったところへ幸い主人が帰って来るのです。
 主筆 それから?
 保吉 それから一週間ばかりたった後のち、妙子はとうとう苦しさに堪え兼ね、自殺をしようと決心するのです。が、ちょうど妊娠しているために、それを断行する勇気がありません。そこで達雄に愛されていることをすっかり夫に打ち明けるのです。もっとも夫を苦しめないように、彼女も達雄を愛していることだけは告白せずにしまうのですが。

(芥川龍之介『或恋愛小説――或は「恋愛は至上なり」――』)

 このようにして芥川はミスリードを仕掛ける。と云っても初めて芥川作品を読むのでなければ、『或恋愛小説――或は「恋愛は至上なり」――』というタイトルを見た瞬間にもう「逆」なんだろうと気がついてはいるはずだ。

 案の定達夫はピアノが弾きたかっただけで、妙子を愛していたわけではない。そうした案の定の賺しが用意されていた。

 保吉 達雄はただ妙子の家へピアノを弾きたさに行ったのですよ。云わばピアノを愛しただけなのですよ。何しろ貧しい達雄にはピアノを買う金などはないはずですからね。
 主筆 ですがね、堀川さん。
 保吉 しかし活動写真館のピアノでも弾いていられた頃はまだしも達雄には幸福だったのです。達雄はこの間の震災以来、巡査になっているのですよ。護憲運動のあった時などは善良なる東京市民のために袋叩きにされているのですよ。ただ山の手の巡回中、稀れにピアノの音でもすると、その家の外に佇ずんだまま、はかない幸福を夢みているのですよ。
 主筆 それじゃ折角の小説は……

(芥川龍之介『或恋愛小説――或は「恋愛は至上なり」――』)

 そしてここに小さく時代性と社会風刺が紛れ込む。巡査を袋叩きにする東京市民を善良と言ってみる。これで「恋愛はなかったのか」と思わせるところまでがふり。

 保吉 まあ、お聞きなさい。妙子はその間も漢口の住いに不相変らず達雄を思っているのです。いや漢口ばかりじゃありません。外交官の夫の転任する度に、上海だの北京だの天津だのへ一時の住いを移しながら、不相変らず達雄を思っているのです。勿論もう震災の頃には大勢の子もちになっているのですよ。ええと、――年児に双児を生んだものですから、四人の子もちになっているのですよ。おまけにまた夫はいつのまにか大酒飲みになっているのですよ。それでも豚のように肥った妙子はほんとうに彼女と愛し合ったものは達雄だけだったと思っているのですね。恋愛は実際至上なりですね。さもなければとうてい妙子のように幸福になれるはずはありません。少くとも人生のぬかるみを憎まずにいることは出来ないでしょう。――どうです、こう云う小説は?
 主筆 堀川さん。あなたは一体真面目なのですか?

(芥川龍之介『或恋愛小説――或は「恋愛は至上なり」――』)

 豚のように肥った妙子はほんとうに彼女と愛し合ったものは達雄だけだったと思っている、と言われると確かに真面目なのかと尋ねたい主筆の気持ちも分からないではない。ここには読者が憧れを抱きそうな美しい要素がない。勘違いの一方的な思いがあり、すれ違いさえない。しかしよくよく考えてみれば、これほど幸福な恋愛はあるまい。豚のように肥った妙子は達夫と愛し合ったと信じている。ただピアノ演奏を聴かされただけで。これが「近代的恋愛?」だと芥川は「逆」を言い出す。これは最初から分かっていたことだ。

保吉 ええ、勿論真面目です。世間の恋愛小説を御覧なさい。女主人公はマリアでなければクレオパトラじゃありませんか? しかし人生の女主人公は必ずしも貞女じゃないと同時に、必ずしもまた婬婦でもないのです。

(芥川龍之介『或恋愛小説――或は「恋愛は至上なり」――』)

 これを女癖の悪い芥川が書いているからおかしい。おかしいけれども「近代的恋愛?」の核心をついてはいまいか。昔「埼玉県の主婦の30パーセントは浮気をしている」という訳の分からないアンケート結果を見たことがある。妙に生々しいが、これはかなりリアルな数字に思える。
 残りの七割が貞女というわけではなく、恐らく大半の人間には多かれ少なかれ浮気心があり、それが発揮されるタイミングがあるかないかの違いなのではないかということなのだろう。いや、これは私の意見ではなく、

もう五分、――いや、もう一分たちさえすれば、妙子は達雄の腕の中へ体を投げていたかも知れません。

(芥川龍之介『或恋愛小説――或は「恋愛は至上なり」――』)

 と芥川が書いていることを読んでいるだけだ。ここで妙子が達雄の腕の中へ体を投げていたとして、達夫の方ではただ驚くだけで何も起きなかっただろうが、「かも知れません」として芥川は機会の問題として捉えていることを見なくてはなるまい。「近代的恋愛?」が幸福に留まるには思い込みの片思いであるしかないとは、芥川が拵えた「逆」恋愛小説であり、「逆」身辺雑記的私小説でもある。

 身辺雑記的私小説なんてのはこんなのだ。↓

 





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