芥川龍之介の『或恋愛小説――或は「恋愛は至上なり」――』をどう読むか?
善良なる読者のために
妙子という名は『アグニの神』(大正十年)に出て來る日本領事館から誘拐された女の子の名前だ。肥ってしまう女は『早春』(大正十四年)にも現れる。『馬の脚』(大正十四年)にも肥った女はでてくるが、肥ってしまったのか元々肥っていたのか解らない。『或恋愛小説――或は「恋愛は至上なり」――』にでてくる妙子は『早春』の三重子のように肥ってしまう女だ。
こう始まる『或恋愛小説――或は「恋愛は至上なり」――』のライトモチーフは当然「肥満」であると読まねばなるまい。物語は主筆と保吉が雑誌に掲載する恋愛小説に関する打ち合わせをするていで進んで行く会話形式をとる。この作品も「保吉もの」らしく、巧みな諧謔を見せる。
ここで使われているレトリックは反漸層法のようで実は反漸層法ですらない。頓降法でもないのだ。よくよく考えてもみればむしろ「近代的白髪染」こそが具体的で確かであり手に取れるものであるに対して、「近代的懐疑」とは如何にも深遠に見せかけた中身のない言葉だ。しかしこの言葉の配列は読者の予測をわずかに裏切ることでユーモアを意図しており、「近代的恋愛」という概念を否定し「近代的自我」を笑っている。このよくよく考えてもみればというところに持って行っているあたりがただの冗談とは一味違う。
何しろ芥川はテーマを「近代的恋愛?」においている。
女主人公妙子には外交官の夫がいる。しかし東北出身のゴリラのような顔の野蛮人達夫の弾くシュウベルトの「シルヴィアに寄する歌」に誘惑されてしまう。『お辞儀』が「匂い」をキーにした記憶の話だとしたら、『或恋愛小説――或は「恋愛は至上なり」――』はピアノ演奏、音楽、音がキーになる恋愛感情の話だとも言える。
このようにして芥川はミスリードを仕掛ける。と云っても初めて芥川作品を読むのでなければ、『或恋愛小説――或は「恋愛は至上なり」――』というタイトルを見た瞬間にもう「逆」なんだろうと気がついてはいるはずだ。
案の定達夫はピアノが弾きたかっただけで、妙子を愛していたわけではない。そうした案の定の賺しが用意されていた。
そしてここに小さく時代性と社会風刺が紛れ込む。巡査を袋叩きにする東京市民を善良と言ってみる。これで「恋愛はなかったのか」と思わせるところまでがふり。
豚のように肥った妙子はほんとうに彼女と愛し合ったものは達雄だけだったと思っている、と言われると確かに真面目なのかと尋ねたい主筆の気持ちも分からないではない。ここには読者が憧れを抱きそうな美しい要素がない。勘違いの一方的な思いがあり、すれ違いさえない。しかしよくよく考えてみれば、これほど幸福な恋愛はあるまい。豚のように肥った妙子は達夫と愛し合ったと信じている。ただピアノ演奏を聴かされただけで。これが「近代的恋愛?」だと芥川は「逆」を言い出す。これは最初から分かっていたことだ。
これを女癖の悪い芥川が書いているからおかしい。おかしいけれども「近代的恋愛?」の核心をついてはいまいか。昔「埼玉県の主婦の30パーセントは浮気をしている」という訳の分からないアンケート結果を見たことがある。妙に生々しいが、これはかなりリアルな数字に思える。
残りの七割が貞女というわけではなく、恐らく大半の人間には多かれ少なかれ浮気心があり、それが発揮されるタイミングがあるかないかの違いなのではないかということなのだろう。いや、これは私の意見ではなく、
と芥川が書いていることを読んでいるだけだ。ここで妙子が達雄の腕の中へ体を投げていたとして、達夫の方ではただ驚くだけで何も起きなかっただろうが、「かも知れません」として芥川は機会の問題として捉えていることを見なくてはなるまい。「近代的恋愛?」が幸福に留まるには思い込みの片思いであるしかないとは、芥川が拵えた「逆」恋愛小説であり、「逆」身辺雑記的私小説でもある。
身辺雑記的私小説なんてのはこんなのだ。↓
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